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八日月
花の都に 身はうらぶれて 影もやつれた 八日月 『裏町セレナーデ』 作詞 野村俊夫 / 作曲 古賀政男 ----------- 上記のような歌の文句があります。長年漠然と聴いていたのですが、ある日ふと疑問が湧きました。 八日月って、やつれてないだろ!? 八日月と言えば、上弦の翌日でほんの少しふっくらした感じですし、満月に向かう途中ですから、痩せゆく状況でもありません。もしやつれる様子を月の満ち欠けに例えるならば、晦日(三十日)月辺りが適当じゃないかと思うのですが、では、野村さんは一体何故‥? 1. あまり深く考えずに語呂のよさで書いた。 2. 譜面作成時のミスプリ(結果、歌手もそのまま歌った)。 物資が不足していた昭和21年の新譜なので、2番の可能性(多少の間違いには目を瞑った)は十分考えられます。でも、ひょっとして古くから痩せ衰える様を八日月に例える慣用表現があるのかな‥との疑いも捨てきれません。 もしどなたかご存知でしたら、教えてください ( ^-^ )
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>1. あまり深く考えずに語呂のよさで書いた。 ・・・が、近いでしょう。 月の満ち欠け状態を人はどのように見るか・・・人によって違います。 ある人は質問者さんのように、これから先の状態に視点を置きます。 またある人は、現状をそのまま見ます。 「満月は健康体、欠けた月は不健康、半分くらい欠けているのは半健康状態?」という風にです。 私は八日月という言葉は知りませんでしたが、三日月や十五夜から類推して、半分くらいのお月様かなと想像しました。十五夜から先の「満つれば欠くる」までは思い至りません。 野村俊夫は流行歌の作詞家のようです。流行歌の作詞家のプロですね。 プロは歌が売れることを第一に考えます。 一般大衆は天文学の用語や難しい言葉は知りません。 博識のANo.2さんの「二十日月」は理屈の上からも妥当な線だと思います。しかし十六夜を過ぎた辺りから先の言葉は、一般には馴染みがないように思います。 一般大衆は月の満ち欠け状態について、どちら側が欠けているかまでは気にしません。激ヤセが三日月、まん丸が栄養満点の十五夜くらいなもので、そこから先はよく知りません。 野村俊夫が二十日月を使わなかったのは、過去に栄耀栄華の満月状態のときがあった、ということを想像されるのを嫌がったのかも知れません。 ま、しかし、単純に欠けた状態だけを見て「満月はパンパンで生きの良い健康体、欠けた月は不健康で三日月は病人、半分くらい欠けている八日月はかなりの不健康状態」ということで「八日月」を使ったのではないでしょうか。 一般大衆にわかりやすく売れる歌詞を作るのが、流行歌のプロの作詞家です。 売れなくて貧窮にあえいでいる立派な詩人もいれば、たくさん儲けている流行歌の作詞家もいます。
- azuki24
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これから満ちていく月に「やつれた」は変ですね。「やつれる」でもおかしい。 やつれ加減と語呂の両方を満たすには「二十日月」あたりが妥当でしょう。「晦日月」は月籠りですから影どころではない。 古賀政男といえば、名曲『影を慕いて』の「月に“やるせぬ”」も、変な日本語として有名です。これは昭和初期の歌。 戦後の歌謡曲では、和田弘とマヒナスターズ+松尾和子『お座敷小唄』の、「雪に変わりは“ないじゃなし”」という意味不明の歌詞が有名です。作詞者不詳。 あまり深く考えないほうが良いのかもしれません。
お礼
ご回答ありがとうございます。 誰か古文などから掘り出して来てくれないかな‥ と期待しましたが、どうも望みは薄そうですね。そいつは諦めることにして、今後はなぜ間違った(あるいは間違えた)かを考える方向に絞ろうと思います。 もちろんそうなると、最早国語上の質問ではなくなりますが ( ^^ 二十日月‥ それは私も考えましたが、「‥た 二十日月」ですと、あ行の音が続くのが詩作上問題になるかなという気がしました。三十日月ならば、その点を一応クリアした上、「見る影もない → いかにもうらぶれた風情」を上手く言い表していると考えたわけです。 『影を慕いて』は、確か曲を書いた古賀さん自身の作詞でしたね。azuki24さんのご回答を読むまで、その点には全く気付きませんでした。あれは、ある意味「造語」ですね。『お座敷小唄』‥ 私は、あれは特に問題ないと思うんですけどね。まあ、語尾だけ “文語っぽく” したのが誤解の原因でしょう (笑) 詩 ─ とりわけメロディに合わせる必要に迫られる歌詞というものを、文法のテキスト片手に味わおうと試みるのは賢明ではないと思います。私の疑問は、そういう類ではなくもう少し科学的?なものでして、似た例はこれです。 「波浮の港にゃ夕焼け小焼け」 『波浮の港』 作詞 野口雨情 / 作曲 中山晋平 もっともこれなんかは、 「これはあくまでイメージだ。波浮港から夕焼けが見えないことぐらい知っとるわい!」 と、作詞家が反論すればそれまでのことです(実際には野口氏は知らなかったらしく、苦笑して批判を聞き流したそうですが‥)。 本質問は、あくまで次の点を前提としています。 「野村俊夫氏が八日月というものを知らなかった筈はない」 その上で、「ではなぜ‥?」に迫りたかったわけです。
- Quattro99
- ベストアンサー率32% (1034/3212)
全くの想像ですが。 やつれているのは我が身の影なのではないでしょうか。 八日月に照らされた我が身の影もやつれているなあという意味なのでは。
お礼
ご回答ありがとうございます。 月がやつれているという意味ではないということですね。 う~ん・・・・ 一応「影もやつれた」が八日月を修飾する形になっているますからねえ。 また、そう解釈してしまうと文中で八日月が完全に浮いた存在になってしまいます。 まあ、月ってのは、大抵浮いてはいる(空に)のですが‥ ( ^^;
お礼
> 野村俊夫が二十日月を使わなかったのは、過去に栄耀栄華の満月状態 > のときがあった、ということを想像されるのを嫌がったのかも知れま > せん。 それはちょっと考え難いと思います。 月と言えば先ず満月を思い浮かべるからこそ、細って来た月が「うらぶれ」たことになるのですから。その意味においてあの部分は、本来ならば満ち欠けのピークである十五夜月よりも後の月でなければならない必然性が確実にあった筈です。例えば次の件‥ 欠けてゆく月も やがて満ちてくる 『防人の詩』 作詞・作曲 さだまさし ここは未来への望みを歌っている部分なので、『裏町セレナーデ』の1番とは逆の状況です(ちなみに『裏町セレナーデ』は、ハッピーエンドの歌です)。もしこの部分が「満ちてゆく月も やがて欠けてくる」と書かれていたならば‥ 「これって絶対逆じゃねぇ!?」と言って、教えて!goo などに質問を寄せる人があるに違いありません(まっさんはまだ生きているので、本人に問い質せばいいんですが‥)。 私の八日月への疑問も、それとまったく同じ理屈です。たとえ一般大衆がピンと来なかったとしても、野村俊夫ほどの作詞家がその辺のニュアンスを無視して響き優先の詩作をするとは考え難いわけです。それゆえ、「これには、何かワケがあるに違いない」と踏んだ次第です。