• 締切済み

ら抜き言葉による日本語の改良

すばらしいことを考えました。日本語の欠点として、尊敬語と かのう表現が同一になります。 具体例: 彼はここで食事を食べられました。 可能性1:彼は急いでいたが、ここで食事を食べることができました。 可能性2:彼はここで食事を食べた、という表現を尊敬語で説明しています。 このように意味が重複するため判断できません。そこで、可能表現を「ら抜き」で表現します。 彼はここで食事を食べられました。→尊敬語 彼はここで食事を食べれました。→可能 こうすることで意味の重複がなくなり、無用な混乱を回避できます。これを広く普及させたいと考えています。この提案に関する賛否、および意見、問題点などがあれば指摘していただきたいと思い、質問させていただきます。よろしく お願い致します。 <よくある質問> 勝手に日本語を変更するのは間違っているのでは? →いいえ。言葉とは常に変化し改良されていきますので、その一環としての不具合の解決です。むしろ間違いや犯罪を放置するほうが不自然でしょう。 日本人全員の言葉を書き換えるなんて不可能なのでは? →そういう質問ではありません。たとえるならば「もしもボックスで変更できるなら賛成しますか?」という かていの話です。日本人全員の洗脳の話をしているわけではありません。それが間違いであることくらい知っています。

みんなの回答

  • 1311tobi
  • ベストアンサー率49% (84/169)
回答No.14

 No.12でコメントした者です。 「この回答への補足」に対して。 >私がそれに従う理由は ありません 「従え」などと主張したつもりはありません。  当方は、「どうして違和感があるのかを教えてほしい」と質問されたので、理由を回答しただけです。  当方にとっては「たったそれだけの理由」ではありません。 「れる/られる」の働きに関して補足しておきます。下記の文はたしかにいくつかの意味にとれます。   先生は食べられた。 ●受身   先生は(熊に)食べられた。 ●可能   (ほかの人はできなかったが)先生は(熊を)食べられた。 ●自発  やや特殊な用法なので、この文を「自発」にするのはむずかしいでしょう。No.11の辞書の例文をご参照ください。 ●(軽い)尊敬  ほかの形で表わすのほうが一般的でしょう。   先生は召し上がった。   ※「先生はお食べになった。」という形もありますが、あまりオススメできません。  ちなみに、「れる/られる」に「使役」の働きはないはずです。 (使役)   先生は(生徒に)食べさせた。 (受身の使役)    (生徒は)先生に食べさせられた。 「(教育委員会の指示で)先生は(生徒に)食べさせられた」という形もありえなくはないでしょうが、相当不自然です。

  • merciusako
  • ベストアンサー率37% (909/2438)
回答No.13

No.4です。 お礼ありがとうございました。 度々申し訳ありません。 >私は30年以上生きてきましたが、生まれて今まで一度も「召し上がりました」という単語を使ったことがない 幸運に恵まれましたね。 >会話では「会長、来る途中に昼食は食べれたんですね?」「社長、先ほど食堂で昼食を食べていましたよね。」という程度の言い方になります。それいじょうの丁寧な表現はビジネスで聞いたことがありません。 まさか・・・。 客先の会長さん、社長さんにはどう言うんですか? >もし使用すれば「なんでそんな『ばか丁寧』な言い方をしているんだよ」と(社長、会長、上司、同僚、などから)いわれるでしょう。 信じられません。 よほど狭い世界に生きているとしか思えません。 あまりにも現実を知らなすぎるのでは。 あなたの主張が「ら抜き言葉使用者に混乱があるので、ら抜き言葉の表現の解釈を限定しよう」というものなら、「お好きなように」なのですが、これが、ら抜き言葉不使用者に「このように解釈してくれ」も含むのであれば、いや、含んでしまうからこそ気になりました。 変な具体例だったので。 まあ、ら抜き言葉使用者だけの世界のことであればいいんですけどね。

  • 1311tobi
  • ベストアンサー率49% (84/169)
回答No.12

 No.11でコメントした者です。 「この回答へのお礼」に対して。 「ラ抜き言葉」に関しては、mixiのコミュなどでもいろいろ話し合ってきました。  数年前なら、「誤用だから」で片づけていたと思います。  いまはもう少し柔軟に「現在の標準語においては規範的でない」と考えるようになりました。  自分で管理しているコミュでは下記のような発言もしています。 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=51419670 ================引用開始  かつて五段活用の動詞が、受動、尊敬、可能がすべて「書かれる(kak-ar-er-u)」だったのに、しだいに可能だけがarが抜けて「書ける(kak-er-u)」になったのと同じことだと思います。  ただし、少し考え方をかえてもいいかもしれません。もう何十年も「ら抜き」は乱れだ、乱れではないと論争が続き、こういうのはだいたい「進化」していくはずなにのに、いまだに「乱れ」だといわれる。それだけ、「ら抜き言葉」には拒絶反応を呼ぶ何かがあるような気がします。  そう考えると、まだ当分の間は「乱れ」という主張が主流を占めるのでは。  個人的には、「ら抜き言葉」は使えません。他者が言っているのは「もうしかたがない」とあきらめますが(ただし、年配者には使ってほしくない)、書いているのにはかなり抵抗があります。 ※いかんなあ。受動、尊敬、可能のほかに「自発」がある。 ================引用終了 >どうして違和感があるのかを教えてほしいです    当方は文章を書くことを職業にしています。  いままでに「ラ抜き言葉」の使ったことはありません。そういう人間が「ラ抜き言葉」に「異和感」をもつことがそんなにおかしいですか?  現代の出版業界では、「ラ抜き言葉」は誤用とされています。しかるべき著者が、確固たる思想を持って使うなら別ですが。  ただ、小説のセリフなどだと、若い登場人物なら「ラ抜き言葉」を使うのはむしろ自然かなと思い、悩ましいところです。  多少ラフな言葉でもチェックする人がいないネット上では「ラ抜き言葉」もフツーなのでしょう。どちらかと言うと、書き言葉より話し言葉に近い気がします。別にそのことに口を挟む気はありませんし、「誤用だ」などとメクジラを立てる気もありません。  しかし、出版の現状は別です。  三大新聞でも大手出版社でも、「わが社はラ抜き言葉を基本にしている」という会社があるなら是非教えてください。

uuuuu8u8888uuu
質問者

補足

へんしんをありがとうございます。 出版ルールに準拠している、ということですね。それなら理解できます。 しかし、私は出版社とは何の関係もありません。出版社が女性差別をしようが、黒人差別をしようが、私がそれに従う理由は ありません。出版社が「それが歴史的な しゅうかんであるいじょう、従うべきである!」 といったところで、私が従う根拠には なりません。むしろ「たったそれだけの理由」しかないのなら、喜んで反抗させていただきます。 引き続き、「ら抜き言葉による日本語の改良」についての意見を募集しています。「歴史尊重者」「同意重複動詞使い分け使用者」以外の意見もあれば書き込んでください。

  • 1311tobi
  • ベストアンサー率49% (84/169)
回答No.11

 先行コメントに言葉足らずの点がある気がするので、辞書をひいてみました。全文は末尾に。 「れる/られる」には「受身」「可能」「自発」「(軽い)尊敬」の4つの働きがあります。このうち、「可能」だけが「ラ抜き言葉」になります。  正確には「ラ抜き言葉」ではなく、「ar抜き言葉」でしょう。  五段動詞が「会う」→「会われる」→「会える」となったのと同様のことが、   下一段動詞で「食べる」→「食べられる」→「食べれる」          taberu→taber-ar-eru→tabereru   上一段動詞で「見る」→「見られる」→「見れる」  起きていると考えるのがわかりやすいかと思います(諸説あります)。  下記の416)から抜粋します。 ================引用開始  詳しくは下記参照。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%AF%E8%83%BD%E5%8B%95%E8%A9%9E  この「可能表現の変化」の考え方は諸説あるらしいが、当方は「ar」が抜けたものと考えている。   au→aw-ar-eru→a(w)eru   iku→ik-ar-eru→ikeru   yasumu→yasum-ar-eru→yasumeru ================引用終了  こういう考え方をすると、将来的には「食べれる」が一般的になる気もしますが、現段階では「乱れ」と考える人が少なくないようです。  いつ頃「食べれる」が一般的になるのか?  専門家の間でも意見が分かれているようなので、どうなるのかは誰にもわからないと思います。  個人的には使いませんし、書き言葉だと異和感があります。  ちなみに、こういう話をするときに、「食べる」「見る」を使うのは避けたほうが無難です。尊敬の形は「召し上がる」「ご覧になる」が適切、という話が出てくるからです。  下記の24)の〈レル・ラレルの前が2音の動詞〉あたりから適切なものを選ぶほうがよいでしょう。「降りる」あたりがよいかもしれません。 ================引用開始  開けラレル/上げラレル/生きラレル/起きラレル/降りラレル/避けラレル/   立てラレル/(食べラレル)/つけラレル/詰めラレル/分けラレル ================引用終了     詳しくは下記をご参照ください。 24)【「ラ抜き言葉」を防ぐ方法】(2008年12月23日) http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-96.html 135)【「ラ抜き言葉」に関するメモ】 http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-1094.html 416)【休まれない 休めない 休める 休まる】Yahoo!知恵袋 http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-1801.html http://dic.yahoo.co.jp/detail?p=%E3%82%8C%E3%82%8B&stype=0&dtype=0 ================引用開始 れる [助動][れ|れ|れる|れる|れれ|れろ(れよ)]五段動詞の未然形・サ変動詞の未然形「さ」に付く。 1 受け身の意を表す。「満員電車で足を踏まれた」「彼はみんなに好かれている」 2 可能の意を表す。…することができる。「わかりやすい道だから子供でも行かれるだろう」 3 自発の意を表す。自然と…られる。つい…られてくる。「故郷に残した両親のことが思い出される」 4 軽い尊敬の意を表す。「先生も山に行かれたそうですね」→られる →らる →る ◆234の用法には命令形はない。1のうち、「犬にほえられて困った」のように、他からの動作により不本意とか迷惑の感情が加わるものを「迷惑の受け身」、無生物が受け身の主語となるものを「非情の受け身」とよぶことがある。後者は明治以降、翻訳文の影響などによって急速に増加した。また、現代語では、可能動詞や「することができる」という表現などがあるため、2の表現はあまり用いられない。 ================引用終了 http://dic.yahoo.co.jp/detail?p=%E3%82%89%E3%82%8C%E3%82%8B&stype=0&dtype=0 ================引用開始 られる [助動][られ|られ|られる|られる|られれ|られろ(られよ)]上一段・下一段・カ変動詞の未然形、サ変動詞の未然形「せ」、使役の助動詞「せる」「させる」の未然形に付く。 1 受け身の意を表す。「乗客が次々と助けられた」「花壇の中にごみを捨てられて困った」 2 可能の意を表す。「僕でも組み立てられる模型」「彼が落第するとは、とても考えられなかった」 3 自発の意を表す。自然に…となる。「性格が性格だから将来が案じられる」 4 軽い尊敬の意を表す。「先生が入って来られた」→らる →る →れる ◆サ変動詞には、未然形「さ」に「れる」が付き、「される」と用いることが多い。234の用法には命令形はない。1のうち、他からの動作により不本意・不満足な感情が加わるものを「迷惑の受け身」、無生物が受け身の主語となるものを「非情の受け身」とよぶことがある。後者の表現は明治以後、翻訳文の影響などによって急速に増加した。 ================引用終了

uuuuu8u8888uuu
質問者

お礼

ありがとうございます。全部読みました。参考にします。 > 個人的には使いませんし、書き言葉だと異和感があります。 どうして違和感があるのかを教えてほしいです。私は質問サイトの回答にも、「賞味期限を過ぎても普通に食べれますよ」などと書き込んでいますので、理解できません。

  • nobu1717
  • ベストアンサー率17% (218/1217)
回答No.10

#1です。ちょっと面白かったので覗いていました。 回答を見ると、スレ主様のいう「ら抜き」で可能の意味を分離させるのが良いというかたと、「られる」のもつ軽い尊敬を表す意味を無くそうという方の二つですかね。 現時点ではどちらも互角な気がしますが、実は文脈で判断する今のままの方が便利なのかも(笑)

uuuuu8u8888uuu
質問者

補足

二度目の回答、ありがとうございます。 ほかの人の回答に「文脈判断の問題点」を記述していますので、よければ参考にしてください。

  • nishikasai
  • ベストアンサー率24% (1545/6342)
回答No.9

ら抜き言葉は進歩です。間違いありません。 頭の固い連中が「とにかく変えることは嫌」と言っているだけです。 言語は時代とともに変わります。 食べれると言えば可能の意味しかありません。尊敬、受身、可能があって混乱していたものを「可能」だけを別にしてわかりやすくしたんですから進歩で間違いありません。

uuuuu8u8888uuu
質問者

お礼

ありがとうございます。進歩かもしれませんが、もう少ししんちょうに進めていきたいと思います。

  • octopoda8
  • ベストアンサー率37% (346/925)
回答No.8

別にら抜き言葉が悪いとは思わないし、もう既に通用し始めているのではないかと思いますよ。 しかし、そもそも語尾変化だけで全てに対応しようというのは、怠慢でしょう。 「食べる」の尊敬語は、「召し上がる」にすれば良いだけの事です。 それに質問者さんの方式では、尊敬+可能が表現できません。 尊敬の「食べられる」に可能の「・・れる」をつなぐ事ができますか。 「召し上がる」なら「召し上がれる・召し上がれます」という風に使えます。

uuuuu8u8888uuu
質問者

補足

> 「食べる」の尊敬語は、「召し上がる」にすれば良いだけの事です。 それは「動詞を無尽蔵に増加させていけば、あらゆる意味や状況に対応できる夢の言語が完成する」という主張に過ぎません。そちらのほうがはるかに怠慢です。日本語を複雑怪奇にしているだけであり、問題の解決になっていません。 私が言語を選択できる立場なら、絶対に日本語だけは選択しません。英語を日常語として使用している言語圏で永住させていただきます。 なお、質問の具体例「食べられる」は適正ではなかったということがほかの回答者の指摘ですでに明らかになっているので、「食べられる」の話は排除します。話が無関係の方向に進むだけなので。 私の質問は「ら抜きよりも理想的な問題解決策が存在しますか?」です。仮に「全部の動詞を尊敬・謙譲・丁寧・通常で、それぞれ別々に作れば簡単に解決するじゃないか」という解決策であれば、ら抜きのほうが何倍もましである、と判断せざるを得ません。

  • merciusako
  • ベストアンサー率37% (909/2438)
回答No.7

No.4です。 補足ありがとうございました。 「彼はここで食事を食べられました」と敬語として言う人はいるのでしょうか。 敬語としていうのであれば、普通は「召し上がりました」でしょう。 「先生はここで食事を食べられました」って言いますか? 「先生はここで食事を召し上がりました」 「先生はここで食事をお召し上がりになりました」 ではないんですか? 「彼はここで食事を食べられました」というのであれば、「食べることができた」としか解釈しないです。 意味が重複するため判断できない、ということはないです。 ら抜き言葉使用者は判断できないのかな・・・。 言語感覚の違いなのかな・・・。 まあ、この具体例がひっかかったので・・・。

uuuuu8u8888uuu
質問者

お礼

ありがとうございます。まだ理解できていないのですが、要するに「質問の具体例が適正でないものの、主張自体には大筋で合意している」という判断でよろしいのですよね。それなら特に問題ありません。 私は30年以上生きてきましたが、生まれて今まで一度も「召し上がりました」という単語を使ったことがないので、意味が理解できませんでした。なぜあなたがその単語を使いたがるのかも理解できていません。会話では「会長、来る途中に昼食は食べれたんですね?」「社長、先ほど食堂で昼食を食べていましたよね。」という程度の言い方になります。それいじょうの丁寧な表現はビジネスで聞いたことがありません。もし使用すれば「なんでそんな『ばか丁寧』な言い方をしているんだよ」と(社長、会長、上司、同僚、などから)いわれるでしょう。つまり、「ら抜き言葉使用者」には「同意重複動詞使い分け使用者」の主張は理解できませんし、「同意重複動詞使い分け使用者」も「ら抜き言葉使用者」の主張を理解できていません。ただし、質問のしゅしとは異なるので、この話は また別のきかいに。

回答No.6

いい案ですね 「お経を唱えられる」ってだけでは可能か尊敬かわからないですもんね はっきり区別できれば解釈に困ることはなくなります 関係ないかもしれませんが、「~をされる」と言う部分だけでは受身か尊敬かと言う問題もありますね と言いつつも、文脈判断でいいんじゃ? って思う気もします 無の状態で突然「彼はここで食事を食べられました」って誰かが発言することは少ないはずで、 話し手は 彼が何者なのか こことはどこなのか ってな情報は聞き手には伝わってる前提で代名詞をつかってるからです まあ状況とかで受身or可能or尊敬はだいぶしぼれるのでは? 「拳銃をむけられた」って文だったら僕なんかは自分勝手に受身だって思っちゃいますし 英語なんかさらに文脈判断多いですし、むしろ日本語は多義語だの多義構文だのってすくないほうなんじゃ? 敬語も「られる」ってよくつけますが、実は 食べられる→召し上がる だったりってなことがよくありますし 言語だけにいえることではないのですが今の世界を見てると物事は勝手に便利な方向に進んでいくように思います なんで、ら抜き言葉が浸透してないのもそんなに不便ではないからじゃないかなと思ったりもします まあもしかしたらこれから浸透していくかもしれませんが ってことで僕は日本の流れに身を任せて、今を生きようと思います

uuuuu8u8888uuu
質問者

補足

返答をありがとうございます。 「文脈判断でいいんじゃ?」といい始めたら、世の中のほとんどは文脈判断でいいことになってしまいます。化学とかいて「ばけがく」とよびますが、「べつにかがくでいいでしょ、文脈判断!」「いわゆるかいしゅん(買春)」「 べつにばいしゅんでいいでしょ、文脈判断!」「あの、先日の件で……」「いちいち聞くな! 文脈判断!」 実は、「あらゆる状況下において、完全に文脈判断が適用できる言語」は、現代までに構築されていません。仮に、そのような言語を開発できたら、ノーベル賞が100個くらいもらえるでしょう。言語学は、それを前提に議論しなければ始まらないのです。 ところで、あなたの文章が「ら抜き」どころか「句点抜き」になっているのがきになりました。

noname#194289
noname#194289
回答No.5

ら抜き言葉が出現した理由がそもそも貴方の提案そのものだったのではないでしょうか。行けるとか書けるなどもら抜き言葉と同じ理由でできているのではないでしょうか。素人ですから外れているかもしれませんが、書かれるのr音が抜けると書けるになるように思います。走られると走れるなどはどうなのでしょうか。これはら抜き言葉なのでしょうか。

uuuuu8u8888uuu
質問者

お礼

なるほど、そういう考え方もありますね。

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