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「ら」抜き言葉について。
よく話題になる「ら」抜き言葉なのですが。「~られる」→「~れる」(可能) 以前は眉をしかめてたのですが。 「れる・られる」に「受身・可能・自発・尊敬」の意味がある以上 最近は「可能」と「尊敬」を無意識かで区別してるのではないかと ふと思い始めました。言葉はやはり時代と供に変遷していくと思います。 個人的には「賛否両論問題」は一切抜きにして。 もしかしてこういう考えもあるのではないのかなと思いました。 その点どうでしょうか。何でもいいでので詳しい方お願い致します。
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- tiltilmitil
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わたしは「ら抜き」ではなく「ar抜き」だと思ってます。 たとえば、「見られる(mirareru)」の4文字目と5文字目のarを抜いて、「見れる(mireru)」という具合。 これは「聞かれる(kikareru)」が「聞ける(kikeru)」に変化する場合と比べて思いつきました。
- daitai126
- ベストアンサー率29% (59/201)
ちょっとずれているかも知れませんが‥ 私の住んでいる高知(土佐弁)では「ら」抜き言葉が普通にまかり通っています。 参考URLに山崎はるかさんと言う方の興味深い記事がありましたので抜粋してみました。 土佐弁では 助動詞「れる」は可能だけを表し、 助動詞「られる」は受身・尊敬にのみ用いられる。 日本語としては、土佐弁のように、アスペクトによって、言葉を変えるほうが 自然である。 むしろ両方に「られる」を使う標準語のほうが まちがっている。 そもそも、「られる」は、可能を表す言葉ではない。 明治時代以前は、「打ち消し」に伴う助動詞として使うのが本来の姿であり、 荷物を持ってこられない(こられず) といった用法だけが、正しかった。つまり 可能を表す言葉としては使われなかった。 ところが明治時代から、打ち消し「~ない」「~ず」を「~る」にかえて、「可能」を表す言葉に変えてしまった連中(新聞マスコミ)がいて、これが 現在の「~られる」になっている。
- NAIROBI
- ベストアンサー率20% (236/1168)
最初にお断りしますが、「詳しい方」ではありません(笑)。 実はおっしゃる内容は目新しい理論ではありません。 「ら抜き言葉」が俎上に上がり、マスコミなどで云々去れ始めた当初から、 それは単なる文法上の誤り、伝統的日本語と異なると言う以外に実害が見つからず、 一方実用上では極めて合理的という指摘が為されていました。 「カエルは食べられる。」とただ言えば「蛇に」なのか、 「唐揚げなどに調理すれば」なのか分かりません。 その点「蛙は食べれる」なら、可能の意味がはっきりします。 行く行くは国語の教科書に載るでしょうね。 そもそも文法は既に存在し、通用していた言語の体系付けに過ぎません。 実用され続ければ勝ち残ります。 個人的には「否」ですが。ただ好かないんです(笑)。
- iichiho
- ベストアンサー率37% (416/1114)
私の感覚では「可能・可能・自発」の場合のら抜き言葉はOKですが、尊敬の場合のら抜き言葉はNGだと思います。 一応文法の世界でもら抜き言葉は一定のルールのある語として処理されているようですので、それほど目くじらを立てることはないとは思います。 個人的な意見ですが、ある程度きちんと会話をしなくてはならない場では、ら抜き言葉より「~です」が「~っす」と体育会系語になる方が違和感大きいです。
- myume
- ベストアンサー率25% (621/2470)
私も自分より若い人の言葉のみだれが気になった時期がありました。 でも、私よりも年配の人は私達の年代の言葉を、その上の年代の人はまたその上の年代の・・・ とさかのぼって嘆いていると思います。 言葉の乱れ=変遷 なのかも知れませんね。 退化でなく、進化なのかも知れません。 大昔は遠くの人と連絡をとる場合、手紙を飛脚で届けたんですよね。 今では殆んどの人が携帯電話を持っていて、どんなに離れていても 国内ならすぐに連絡が取れる時代です。 そのスピードに比例して発音しやすいように、早く表現出来るように 言葉もどんどん変わって行くんだと思います。 若い子が元の原形をとどめないくらいに略すのがいい例ですよね。 批判ばかりしていても、嘆いていても始らないんでしょう。 私の年代は私の年代の言葉を話す。 これでしょう。 今の若い子も歳を取ったら、「まったく今の若い子の言葉は・・・。」 と嘆くのかしら・・・。
お礼
なるほどそういう考えもあるのですね。 皆さん色々有難うございました。 全ての皆さんにお礼申上げます。