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”やってこれた” は「ら抜き」言葉?

”やってこれた”、この言い回し、何の気なしに口にすること ありますよね 例えば ”資源は無くともこの国、日本 はその民族固有の美質、勤勉さにより 何とかかんとか やってこれた” とか この言い方 ひょっとしたら ら抜き言葉 なのではないか、とふと思ってしまったものですから この質問をいたします 急ぎませんので 広くご高察、ご高説をいただきたくお願い申し上げます

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  • mimazoku_2
  • ベストアンサー率20% (1905/9108)
回答No.2

やってこれた《ら抜き表現》やってこれた 上記、一太郎で変換したら、添付画像のように表示されました。

その他の回答 (1)

  • marisuka
  • ベストアンサー率38% (657/1685)
回答No.1

そのとおり、ら抜き言葉です。 可能の意味に限った話ですが。 五段活用の動詞は可能動詞という形で可能を表せます。 表す→表せる 泳ぐ→泳げる 歩く→歩ける それ以外は「られる」をつけて可能を表します。 見る→見られる 開ける→開けられる 来る→来られる で、この五段活用以外の動詞のときに「られる」でなく「れる」をつけてしまったのがら抜き言葉です。来る→来れる のような。 ちなみに、五段活用には「れる」をつけますが、それは可能以外の、受け身、自発、尊敬をあらわします。可能は可能動詞がありますから、そういう使い方をしないのです。 ら抜きがいいとか悪いとか、可能と尊敬を分けられるので便利だとかは別の観点です。上記は、これまではそういうふうに使われてきた、ということでしかありません。これでお答えになったでしょうか。