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「下根の至根」
学生の頃、仏教学の講義で釈迦が愚昧な弟子にほうきを与えて掃き修行させたところ、ついに悟りに至ったという話を聞いた覚えがあります。その際、その弟子の人物評価を「汝は下根の至根ゆえに」と言ったと思うのですが、ネットで検索してもこの言葉は出てきません。私の記憶違いだったでしょうか。「下根」は出てくるのですが、「至根」が出ません。下根の中でも「至って下の方」ぐらいの意味だと思うのですが・・・・。 ご存知の方はお教えください。
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「下根の至根」 ○お釈迦様は蓮の花に例えて説法することは多いのですね。蓮の花は泥水の中の根から芽がでて、茎になり水面を目指して伸び、水面にでた茎から葉になり花を咲かすわけですが、これを修行僧の努力と例えているわけです。 めでたく花を咲かせた根を修行僧がアラハンになると例えているのですね。 さて、「下根」とは泥水の底の蓮の根のことで、修行僧のことですね。「至根」とは「水面に至る根」という意味で、アラハンになれる修行僧であるという指摘ですね。 お釈迦様はチューダパンダカを一目見て、パンダカの過去現在未来を理解されたということです。 質問は「至根」の意味ですが、自分の名前さえ覚えられないパンダカが悟りに至る僧であることを見抜かれた本当のわけは、過去世をごらんになったからですね。過去世でパンダカは非常に優秀な人物だったのですね。優秀がゆえに多くの者を馬鹿にしたのです。その因果で自分の名前さえ覚えられない愚か者としての人生を選んだということを見抜かれたので、現在は「下根:愚か者」ではあるが三宝に帰依し修行を行えば必ず悟りに至る「至根:アラハンになれる者」であるとおっしゃられたのですね。まあ、人は見かけによらないという例えでもありますね。
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- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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krya1998です、 錚々たる方々が次々とご登場になられていますな。 思うことを一言追伸; シュリハンタカをどうして下根という表現で指示しているか。 それは修行というものは、馬鹿みたいに精進していくんだが。 それと同時に、なによりも自己の暖かい存在性とそれでの相互の関係がなければならない。 徹底的に導くグルとの、最終存在者との暖かい関係。 それはどうしても利口者には築けないし、継続ができない。 優秀な者が馬鹿にならなければ。 この解答投稿の後に、私がした質問をご参考にしてください。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11115359636 甘える馬鹿にならないと駄目ですからね。それをシュリハンタカで代表しているんでしょう。 優秀な馬鹿なんですね。馬鹿な優秀なんでしょう。
お礼
ありがとうございます。
- amaguappa
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2です。 機根という語をご存じないかもしれないと思い、仏教独特に用いる根について、五根、および六根の例を辞書から引用します。 【五根】 〔仏〕(1)感覚をつかさどる五つの器官。眼根・耳根・鼻根・舌根・身根。 (2)悟りを得る元となる五つの能力の総称。信根・精進根・念根・定根・慧根。 【六根】 〔仏〕(1)感覚や意識をつかさどる六つの器官とその能力。すなわち眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根の総称。 【六根罪障】 六根迷妄によって生じた成仏の障害となる罪業。 【六根自在】 心の欲するままに行っても、六根が罪障を生じることのない境地。六根が罪障から解き放たれて、自在であること。 【六根清浄】 (1)六根の執着を断ち、清浄な精神を所有し霊妙な術を習得すること。(2)山参りの修行者や登山者などの唱える言葉。 これらのように、いわゆる敏い・聡い・悟い人の、迷いやとらわれの無い清浄な知覚意識に比べ、程度の低い場合を下根というのですね。 至という言葉を合わせた場合、このうえなく迷いやとらわれの無い、このうえなく清浄な感覚器や意識の持ち主をほめたたえることになるでしょう。 箒で掃き清める逸話であるだけに、すでにあるその清浄さを保ちつづけよという教えの表れでもあると思います。
お礼
ありがとうございました。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
回答No.3 思うに;釈尊の直弟子ってそう誰でもなれるわけではないでしょう。 無論、生まれる時代もありましょうし、縁と契機。これは一つの因果律の結果でしょう。 素晴らしいkármaを持っているシュリハンタカですね。 東洋哲学で名高い都内のある大学の図書館学研究室の曹洞宗の教授がいっていました。 “多くの友人が私にに忠告する。純粋すぎ清浄すぎるのだ。もっと普通の人になれと。しかし私にとっては、そして人間にとっては清いということが一番大事だ”と。 凡そ、人間的な欲望や執着などを排し、澄み切った清浄さは我々の基本でしょう。それができればもう全てができた事になるのでしょう。だから下根であるだけでは掃き清める事はできない。自己を掃き清めるとは宇宙と万物を掃き清めることでしょう。 思うに;至根とは、至天の“至”だと思います。英語のcelestialではないですか。 デヴァナガリではどういうことばかは存じませんが。 到れることなんでしょうが、最高に恵まれた根という意味だと存じます。
お礼
やはり、良い意味でした。ご回答をありがとうございました。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
仏門の外の者でご参考までに。専攻は法学と図書館学ですので。 仰せの話は中学の時に啓蒙書で読みました。 シュリハンタカとかいう方は自分も人たちも馬鹿だと思っていた。 そして釈尊は箒をあたえ、一定のことばを唱えながら清めよと諭す。 そのことばが“清めるのだ”ということばであった。 シュリハンタカ(なんか羅漢の称号みたいですね)はそれを繰り返しながら、掃き清めたと。 そしてシュリハンタカは偉大な悟者となったということでした。 不器用な人が不器用にひたすら精進していく姿が浮かんできて、自分に重なります。 私の名は中の根っこで中くらいですが才も賢しさもなく不器用ですので下根ですね。 わたしも昔から同じ事を日々追求するだけですが、結構器用で優秀な人が頷いてくれた事が多々ありました。 偉い器用人たちにめぐまれたのでしょう。 「至根」っていうのも無論、類語的な翻訳代置の語でしょう。 多分ネットでもその他の場面でも一般化はしておりませんでしょう。 私はこの話に接した時、あぁ下根として生まれてきてシュリハンタカは至上の根を恵まれたのだなぁ、と理解しました。 到れることのできている根という意味ではないかと存じます。
お礼
[到れることのできている根]であれば、やはり良い意味ですね。 ご回答をありがとうございました。
- amaguappa
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わたしも1さん同様、「至って下の方」ではないと思います。 周利槃特という弟子のお話のようですが、 この者が自分は愚かだと思って嘆くので、 釈尊は、自分を愚かだと知っている者は愚かではない、という意味のことを答えたそうです。 下根の根は機根のこと、持って生まれた能力でしょうが、 下根であると知っているなら下根ではなく至根である、となるのではないでしょうか。 熟語として至根が存在するのかどうかは存じませんが、 頭から根に至るという文脈のとき、何事かが定着していること、本物であること、完成していること、を意味していると思われますから、 機根は下でも、力の深さとしては本物である、というほどの意味だと思います。 wikipediaを見ると、 ....迦葉仏(かしょうぶつ)という如来が出世された時、賢明な弟子であったが、迦葉仏の説法を暗誦できなかった他の比丘を嘲笑した業報により、釈迦如来の出世の時には、愚鈍に生れついたといわれる。.... とあります。 こうした事情からも、釈尊は二つの根を見抜いていたのかもしれませんね。
お礼
自覚のある者は症状が軽いのは病気でも同じですね。ありがとうございました。
- NemurinekoNya
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こんばんは。 ☆「至って下の方」 ◇という意味ではない、と思います。 仏の教えを理解する能力の低い者でも、修行によって、悟りに到達できる。 そのことを「下根の至根」と言っているのではないですか。 悟りは、先天的な機根によらない、ということを言っているのではないでしょうか。 ご紹介の話は聞いたことがあるのですけれども、 「下根の至根」という言葉をはじめて聞いたので、 わたしの勘違いかもしれませんけれども。 この「至根」は「最上・至上の機根」の意味だと思います。 間違っていたら、どうしよう。 オタオタ、おた。
お礼
逆に良い意味だったのですね。ありがとうございました。
お礼
ようやく意味が分かりました。 蓮の根のように下根ではあるが、ついには水面に達する茎のように至る根であるという意味ですね。皆さんがおっしゃっていたのも、ようやく理解できました。私も愚鈍ですが、みなさまのご親切で理解に至りました。 どうもありがとうございました。