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大乗仏教 悟りについて 如来と羅漢 

前から疑問に思っていたんですが、一番最近成仏された方が釈尊で、次は弥勒さんですよね。釈尊や阿弥陀さんとか如来となられた方の「悟り・解脱」とその他大勢の羅漢さん達の「悟り・解脱」は別モンなんですか? 釈尊のお弟子さんたちも「悟り」をえて「解脱」していますし、日本だけでも多くの方が悟って解脱しているとされています。彼らは羅漢であって、いわゆる如来ではないですね?この違いはなんなんでしょうか?羅漢さん達は解脱しているわけだから、未来永劫、「如来」にはなれない? また、俗に言う菩薩さんたちで(観音・勢至など)あえて成仏せずに菩薩位に留まっている方もいますが、もし成仏したら、羅漢ではなくて如来になるんでしょうか? 同じ「悟り」なのに一方は「如来」で一方は「羅漢」なのはどういうことですか? あくまで大乗仏教で、「解脱」「悟り」や「如来」や「羅漢」という存在があるという仮定でお答え下さい。乱文失礼しました

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  • les-min
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回答No.3

こんばんは。。  自分の個人的な考えなので、きちんと仏教教理を踏まえているかどうかは自信ないのですが・・・  大乗仏教までの「悟った人」が羅漢までなのは、釈尊を神聖化しすぎた結果、とても同じ境地まではたどり着けないと思い込んでしまい(=信じてしまい)、自身で自縛して留まってしまったことが大きいのではないかな、と思います。  大乗仏教で「菩薩」は、修行者の理想像として、また「如来」は仏教の考える理想的人格像として、たくさん想定され、経典に説かれるようになり、信仰を集めるようになりましたが、数々の如来・菩薩は、人々を仏教に引き入れるための「方便」だと思います。  (大乗仏教以降で説かれる菩薩は、悟りを開くと「如来」になるとされていると思いますが・・・)  仏教の信奉の対象は「法」(=真理)であって、如来や菩薩のご利益や救済、そしてその存在自体が「客寄せパンダ」であり、「お手ごろなバラ売り」でしょうね。(←けっして悪い意味で言っているのではありませんが・・・だいいち、仏教の「法」は極めてミもフタも取り付く島もないほど厳然としたものですから・・・「方便」というのは、実に素晴らしい発想だと思います。)  少し脱線してしまいました・・・要するに、弥勒菩薩の救済と、それまで仏が出ないという話しも、額面通りには受け取れないと思うわけです。  悟りは悟りであって、自ら得た境地に満足して自縛し立ち止まるか、魔境に陥るか、妙なカン違いをしていない限り、仏教の悟りは釈尊の悟りであり、「如来」の境地だと思いますけど。  即身成仏は釈尊の悟りと同じだと言えると思います。  大乗仏教の論師たちを「菩薩」と呼ぶこともあります。  ご質問文にも触れておられるように、悟りに至ることが十分にできるのに、他者救済の行を続ける修行者が「菩薩」ですから、そのあり方に、仏法を解き明かそうと努める論師たちをなぞらえているのだと思います。  論師たちや祖師様方を「如来」と言えるかどうかは、信仰している宗派の違いなどで、見解の分かれるところですし、経典に説かれる少々現実離れした理想像としての如来と単純に比べられないですけど、到達した境地は、「如来」と言って差支えないとは思います。(←個人的には。)  また、大乗仏教の経典の作者たちにも、釈尊の同じ境地に至った方がおられると思います。    他のご回答の方に対するコメントに割り込んでしまったかっこうになり、すみませんです。  自分の思ったところは、こういうところです。では。

その他の回答 (2)

  • sirowan777
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回答No.2

あくまで私個人の考えです。 釈迦が悟る前から如来は存在したと思います。 釈迦が悟るとその如来に合流したと思います。 いままで悟った人はすべて如来に合流したのです。 本来の如来はひとつだけで、阿弥陀、薬師などはあくまで如来の一側面を命名したものでしょう。 これは菩薩も同じです。 そういう意味では曼荼羅全体が如来ともいえます。 本来は同じだから相反することがないのです。 たぶん、こういう考えで大日如来の存在が発見されたと思います。

  • 6dou_rinne
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回答No.1

大乗仏教の立場から言うと羅漢の悟りは自分だけの悟りで他人を救う悟りではありません。 如来の悟りは自分の悟りはともかくとして、衆生を救う願を立てて悟っていますので、他人を救済しようとする悟りです。 菩薩も当然衆生を救うためにあえて悟っていないだけですから、悟れば羅漢ではなく如来になります。

noname#15161
質問者

補足

ご回答ありがとうございます。 羅漢の悟りは小乗的で、いわゆる「仏」ではないのはわかります。 ではなぜあの時代に、釈尊だけが如来となり、他は全員羅漢なんでしょうか? 「羅漢」という言い方が悪かったかもしれませんが、釈尊の弟子たちだけじゃなく大乗の祖師たちも、「悟った」とされていますよね?例えば日本の禅宗の祖師たち龍樹・世親などが小乗だったとは思えないんですが、彼らは「如来」ではないですよね?空海も即身成仏されたとなっていますが、この成仏と釈尊の成仏とは別物なんでしょうか・・ 釈迦如来~弥勒如来までは仏(如来)がいないって事で、如来の悟りとその他の悟りとでは、全く違うのでしょうか? すいません、頭の中かなり混乱しています・・

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