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釈迦の説法
釈迦の説法については、 いろいろ有名な言い伝えがあるようですが、 釈迦は何らかの自らの思想を、 弟子たちに分り易く伝えようとしていたのでしょうか? 仏教において悟りというは、 言葉や思考による理解によるものではなく、 何か態度や行為によるものという感じがするのですが、 釈迦がレトリックを使用して弟子たちに分り易く道を示そうとした、 ということがあるのでしょうか? レトリックという観点から、 何か良い例をご存知の場合はよろしくお願い致します。
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こんばんは。 まず、釈迦の生前の教えを最もよく伝えているといわれる経典に、「スッタニパータ」があります。全訳は、中村元訳『ブッダのことば』(岩波文庫)として出ています。 これの文体を見ると、ほとんどが、短いことばの集成です。仰るとおり、とても実践的です。また平易なことばで書かれています。 さらに、中村氏の解説によると、原文は、韻を踏んだ詩句の形式をとっているそうです。また、私がよんだところ、たたみ掛けるような、ちょうど歌のリフレインのような文体です。 中村氏によると、これは、釈迦のことばを聞いた弟子が、覚えやすいようにそうした文体にした、ということのようです。 ただ、なかには釈迦自身が作ったものもあるのではないか、とは中村氏の指摘です。 私が考えるに、弟子たちは、師の教えを韻文化する場合でも、師の行なったようにやったのではないかと思います。もっといえば、師の作った詩句に似せて作ったに違いない。 だから、釈迦の教えは、レトリック、という観点から見れば、短く、韻を踏んだ、リフレインの多い詩句のようだった、といってもいいと思います。 そして(レトリックとはやや離れますが)実践的で、理屈っぽくない。 よかったら、上記文献、ご一読を。平易ながら、非常に力強いことばの数々です。 個人的に好きなのは、「犀の角」の比喩かな。数々のしがらみや煩悩をひとつひとつ指摘し、そのあとに「○○にとらわれることなく、犀の角のようにひとり歩め」で終わる詩句の集まりです。密林を、大きな犀が超然と歩く姿が浮かんで、胸に響きました。 ご参考になれば。
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釈迦の弟子のうちのある者で、話すに適さない者が居ました。対話や議論のできない彼は、修行仲間からも仲間はずれにされていたりもしたのですが、あるとき釈迦が彼に言いました。 「塵を払い、垢を除け、と言いながら、毎日掃除をしなさい。」 愚直な彼は、その言われた通り続け、ひたすら続け、ある日、弟子のうちで誰よりも早く、悟りを得てしまいます。 こんにちは。前回のレトリックについての質問で、私が以上の話しを紹介させていただきました。それで、この話は、レトリックではなく、むしろ、釈迦に言われたままを、この弟子がやったことによって、悟りを得たのでは?というご意見を質問者様から頂きました。 確かに、レトリックなどは潜んでいないように見えます。ただ、私が無用な深読みをしただけかもしれません。 弟子は、言われたまま、ぶつぶつと毎日掃除をして過ごし、掃除をして過ごし、どういうわけか無心の境地に至り、悟りを得た。 それは何故か。ご質問者様は、継続は力なりで、悟りを得たのではないか?とおっしゃいます。この点でも、私は、ああ、そうだね、と、同意できます。じゃあ、レトリックなんぞはなかったんやね、このウソツキ、となるかもしれませんが、私の解釈を説明させていただきます。 弟子、チューダバンダカは、掃除を始める。「塵を払い、垢を除け」といいながら、掃除を続ける。 それを見た、周りの弟子で、あるものはこう言った。 「塵を払っても、また積もる、垢を除いても、また付着する。あいつはなんて切りのない事をしてるんだ。」 また、あるものはこう言った。 「あいつはただの馬鹿だと思っていたが、あんなに掃除ばかりを一所懸命するなんて、しっかりしてるじゃないか。」 チューダバンダカには、それらの噂は聴こえていたのか、聴こえていなかったのか、とにかく、師に言われたとおり、「塵を払い、垢を除け」といいながら、掃除をし続けた。あくる日になれば、掃除をした表の石畳には、また落ち葉が積もっていたので、またそれを掃いた。拭いたテーブルやドアには、また手垢がついていたので、それも拭いた。そうしてチューダバンダカは、毎日掃除をしたのだが、ある時、おかしな感覚が彼に宿った。 「あれ?なんか、いつもと違うなぁ。いや、違うんじゃないんだけど。。」 そう感じつつも、チューダバンダカは掃除を続けた。 何か、掃くのはいいのだが、空中を滑っているようなのだ。拭くのはいいのだが、空中を掻いているようなのだ。 それでも掃除をし続けていると、また、おかしな感覚がやってきた。「塵を払い、垢を除け」と言いながら掃除をしているけれど、何を払っているのか、何を除いているのか、何も払ったり、除いたり、していないように感じる。だが、私は、、 しかし更には、誰がやっているのか、何をしているのか、それらのことすら、朦朧とし、明瞭となり、消えていくのだ。チューダバンダカは、「塵を払い、垢を除け」と言いながら、掃除をしていたが、誰でもない者が、何でもない物を、何もしていない。ただただ、、彼は、「往生」した。 なので、チューダバンダカは、その掃除の際に起こった不思議な感覚を釈迦に伝えに行った。 「そんなわけでお師匠、私は、お師匠の言いつけを、全うすることができませんで。」 それを聞いた釈迦は、彼に言った。 「それでいいよ、チューダバンダカ。お前は三昧の境地を得たのだ。お前はこれから、多くの比丘達の助けとなるだろう。」 ご参考になりましたか? この話の解釈にも、レトリックは何もないと思われるのなら、それでいいと思います。 ただ、あえて指摘すれば、このシーンです。 チューダバンダカが、釈迦が言いつけたたった一つの事を、まっとうできなかったと言い、釈迦は、それでいいよ、と言ったところです。 チューダが、釈迦の言いつけを守り抜いたことで悟りを得たと言えばそれは真実ではないし、かといって、言いつけを放棄したことで悟りを得たかというと、そうでもない。ただ、言いつけをまっとうできなかったと言うのが正しい。 釈迦の引導は、往生の間際で、弟子と共に、消えてしまったのです。 掃除を薦めたこと自体が、レトリック的な行為だと思い、この話を紹介させていただきました。 弟子に掃除させることが目的ではなく、弟子が悟ることが、真の目的であったからです。そしてなにより、師も弟子も、それを心から望んでいた。 その心に、偽りは無かったので、弟子は悟りを得たのです。 哲学者ソクラテスの言葉にこうあります。 「真理を想い出す」 求める者は、持っている者です。
お礼
こんばんは >私の解釈を説明させていただきます。 この後に続く、「弟子、チューダバンダカは」から 「お前はこれから、多くの比丘達の助けとなるだろう。」 までの30行ほどが、 回答者様自身の「解釈」ということで、 このような話の続きがあった、ということではないですよね。 え~と、つまり、この30行ほどのお話は、 回答者様が創作されたのだと思いますが、 もし私が誤解している場合は仰ってくださいね。 ありがとうございました☆
- lightgrid
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再びNo.6です。 ご質問とは関係ありませんが、気になったので補足させていただきますと、 目の見えない人は、目の見えない原因がなくなれば、目が見えるようになる、ということを前提に、説明したつもりでした。目が見えるように手術するとか、目を移植するとかすれば、目が見えるようになるでしょう。 霊感やインスピレーションに対する感性のない人も、先に挙げた「雑阿含経の応説経」にあるとおり、修行すれば、誰でも(凡夫でも)必ずやそれが身について、霊的波動(インスピレーション)を受けるようになるでしょう。 (差別用語にならないように「目の見えない人」と書きました。)
お礼
失礼しました。 差別用語とは知りませんでした。 思想的な話で「目の見えない人」という言葉を見ますと、 まっさきに思い出すのがディドロの『盲人書簡』なので、 私はその用語を使用していますが、 もしそのような問題があるとすれば、 岩波文庫も『目の見えない人書簡』のように タイトルを変えなければなりませんね。 勉強になりました。 ありがとうございました。
- lightgrid
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再びNo.4.です。釈迦の悟りは、3次元の人間には見えない新しい霊的な境地であったので、「譬え(たとえ)」や「比喩的表現」(これもレトリックですか?)は、多く出てきます。 例えば、雑阿含経の応説経(下記http://item.rakuten.co.jp/book/1314/)では、比丘(びく、出家修行者)は、仏陀になるための七科三十七道品の修行を行わなければ、仏陀になりたいと思っても、因縁解脱する(仏陀になる)ことができないし、一方、仏陀になるための七科三十七道品の修行を一生懸命続ければ、仏陀になりたいと思わなくても、自然に因縁解脱して仏陀になることができる、ということを説いています。 お経では、それを「伏鶏の譬え」や「大船の譬え」で説明しています。 「伏鶏の譬え」:産んだ卵の数が多いために、母鶏は卵の面倒を十分にみることができない。ヒナ(比丘)は自分の力だけでは殻を破って生まれる(仏陀になる)ことができない。ヒナ(比丘)は母鶏(修行法)の手助けがなくては生まれることが(仏陀になることが)できない。 「大船の譬え」:大きな船は、強靭な藤蔓で結ばれて建造されている。めったたことではその藤蔓は切れない(煩悩、因縁はめったに消したり切ることができない)。しかし、台風の季節に、何日もの間、海で波にもまれると(修行を続けると)、最後にはいかに強靭な藤蔓でも最後にはばらばらに切断されてしまう(最後には解脱することができる)。 「霊的波動」とは、「インスピレーション」と言い換えれば、ご理解いただけるでしょうか? 何かの真理を探究している者は、高い次元の(霊的)存在からインスピレーションを得ることがあり、それによって一瞬にして求めていた概念を理解できることがあります。釈迦は、霊的に高い存在ですので、説法をしながらインスピレーション(霊的波動)を人々に与えていたと思います。 たとえていえば、同じ専門の勉強を先生に習う場合にも、それに熟達している著名な先生から、じかに講義で習うと、文字だけでは得られないその専門分野のスピリットを感得することができ、内容が容易に理解できるようになった、という経験はありませんか? そのような目に見えない情報の伝達がインスピレーションであるといえると思います。 「哲学」や「思想」というのは、インスピレーションで得られた概念が先にあって、それを正確に表現しようとするので、(文字だけで理解しようとすると)難しくなるのだと思います。既にインスピレーションを共有している者どうしは、言葉でも簡単に交流できますが、インスピレーションを得ていない人にはなかなかついて行けないのだと思います。 たとえば、目の見える者(インスピレーションを得た者)どうしは、「色」とは何かを厳密に言葉で表現できなくても、物の「色」について簡単に情報を交換することができます。しかし、目の見える者が、目の見えない人に、「色」とは何かを説明することが必要となったとき、言葉で説明を試みるでしょうが、目の見えない人に「色」を完全に理解させることは不可能でしょう。「インスピレーション」とは目の見えない人にとっての「色」の知覚のようなものです。
お礼
哲学がインスピレーションで得られものを正確に表現することに 努めていた、というご意見が正しいかどうかは微妙ですが、 霊的波動がインスピレーションだとすれば、 それは直観のような感性的知覚だと考えればよさそうですね。 >既にインスピレーションを共有している者どうしは、 >言葉でも簡単に交流できますが インスピレーションは共有できるのでしょうか。 共有できるのは、さしづめ表象では? その意味でも、 >インスピレーションとは目の見えない人にとっての >「色」の知覚のようなものです。 だという説は果たして正しいのでしょうか? 盲人は色の知覚が不可能なのですから、 それに喩えてしまうと、 インスピレーションを得るのも不可能だ、 ということになりますよね。 あるいは、 凡人はインスピレーションを得るのは不可能だ、 だから、「開眼」するためにも説法を聞きなさい というレトリックなのでしょうか・・・ ありがとうございました☆
- les-min
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こんばんは。。 「良い例」があるような、ないようなと思案しています。 釈尊は、悟った「思想」や「道」を真正面から説くことはなかった、と考えています。 「思想」「道」を最も直接的に説いたと思われるのが、いわゆる「初転法輪」と呼ばれる機会で、かつて共に修行していた5人の修行者に「十二縁起」や「四諦・八正道」の教えを説いたとされていますが、この場面の経典(雑阿含経)の描写は、巧みな修辞を用いたという印象を受けません。 最初期の経典「ダンマパダ」や#3の方が触れておられる「スッタニパータ」は、比喩表現を用いた簡潔な教説が見られますが、(#3の方もおっしゃるように)「実践的」です。 悟った者として釈尊が見た世の中が説かれはするのですが、「思想」や「道」は背景としてあるいは指し示す先にあるものとしておぼろげに像が浮かぶ程度で、はっきりと説かれているとは言えないと思います。 釈尊は、悟りを開いた直後、この悟りを人々に伝えるか否か躊躇し、一時は布教伝道を断念したものの、翻意したとされています。(どこまで事実かはわかりませんが、この点は、自分はおそらく事実だろうと考えています。梵天が拝み倒して説法を請う場面はフィクションでしょうけど・・・) 躊躇・いったん断念した理由は、ご質問文にも触れておられるように、「悟り」が「言葉や思考による理解によるものではない」からでしょう。 そこで釈尊は、どうやっても表現できない「悟り」そのものを無理やり説くよりも、人々各々に「悟った者から見た世界」を語り、「悟りへの方向性」を示し、それぞれに「最適な論法」で諭し、「最適な実践方法」を説いて導き、各々自身が悟りへ向かうよう仕向ける、という手段を選んだのだと思います。 釈尊の説法を完全にリアルタイムで記録した経典はありませんが、「スッタニパータ(経集)」「ダンマパダ(法句経)」といった、釈尊の教説を留めているとされる最初期の経典には、後世の極めて精緻に練り上げられた経典とは別の魅力があふれていると思います。(もし良ければご一読ください。) 結局「良い例」をご回答できませんでしたが、ご容赦ください。では。
お礼
>結局「良い例」をご回答できませんでしたが、ご容赦ください。 はっ、危うくだまされるところでした(笑 思わずご説明に引き込まれ、 「完璧な回答~!」と思ったまま最後に来たら、 この言葉で、本当に「はっ」としました。 だから「アドバイス」なんですね。 ありがとうございました。
- lightgrid
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釈迦は、悟った後の生涯をかけて、輪廻転生からの解脱(卒業)の方法、すなわち仏陀(六道輪廻から解脱した人)になるための修行方法を、人々に説きました。その説法の内容は、阿含経(あごんきょう、アーガマ)にのみ記されています。法華経などの大乗仏教の経典は、釈迦が説いたものではなく、後の人々が、あたかも釈迦が説いたかのように創作したものです。釈迦は、説法の内容を分かりやすく伝えるために、知識層の言葉(確かサンスクリット語)を避けて、当時の「民衆の言葉であるマガダ語」で分かりやすく説きました。 悟りによって得た知見の一部は、「縁起の法」、などとして伝えられています。しかし、その悟りは、机上の思考だけによる哲学ではなく、瞑想を中心とした実践的な修行により獲得できる高い霊性です。その仏陀の境地は、凡夫(一般の人間)の状態で言葉だけで完全に理解するのは、不可能であり、ひたすら瞑想を中心とした実践的修行によって得られるものといえます。従って、釈迦は、阿含経で、修行の方法(七科三十七道品)、仏陀へいたる4つの段階(人間の10の因縁と、これを切ることによって到達できる段階「須陀恒(シュダオン)、シダゴ ン(斯陀含)、アナゴン(阿那含)、アラカン(阿羅漢=仏陀)」の関係)を説いています。 現在の阿含経は、主に、パーリ語、翻訳版(原語不明)の中国語で残っています。 残されているパーリ語や中国語では、韻の使用が認められるようですが、いずれにしても、マガダ語による阿含経は残っていないようなので、特別なレトリックを用いたかどうかを確認することは難しいのではないでしょうか。しかし、仏陀の説法は、レトリックに依存するものではなく、あくまで内容によるものであったでしょう。 私見としては、釈迦は、説法においてその内容とともに仏陀の霊的波動を人々に伝え、人々を感化していたと思います。 釈迦の説法の内容は、学者やお坊さんによる阿含経典、根本仏教経典に関する多くの本が出版されています。 中村元・三枝充悳(http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4094600809.html) 桐山靖雄(http://item.rakuten.co.jp/book/1314/) また、南伝仏教(上座部仏教)の僧の本も出版されています。ウェブサイトではhttp://www.j-theravada.net/kogi/index.html
お礼
ご回答ありがとうございます。 釈迦は、民衆の言葉でわかり易く説法を伝えようとしていた。 しかし、すべてが言葉で伝わるものではないし、 思考で悟るものでもない。 人は瞑想という実践的な修行によって初めて 仏陀の境地に至る。 だから、レトリックではなく、 内容と霊的波動が問題であった、 ということですね。 ところで、霊的波動って何でしょう? まるで生協の白石さんに対する質問のようですが、 波動拳と関係ありますか? よく分らないのですが、 それは「気」のようなものでしょうか? いや、テレパシーかな? いや、サイコ○×とかいうもの?
- 2199
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拈華微笑の故事も参考になるでしょう。
お礼
結局、何を悟ったのでしょうか? でも、やはり言葉や教義を越えた理解 というものがわかるお話でした。 つまり、レトリックではないということですね? それに、八万分の一しか理解できないんですもんね~ (それとも、八万って、「大勢」とか他の意味があるのかな) ありがとうございました
- dulatour
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ご質問の内容に沿うかどうかわかりませんが、舎衛城のキーサ・ゴータミーの話があります。
お礼
なるほど、 気づかせる、という意味では、 こういう方法は有効ですよね。 鬼子母神のお話の場合も似たような考え方だと思いました。 ただ、これがレトリックなのかどうかがわかりませんが・・・
補足
ありがとうございました。 ↑ お礼にこの言葉が抜けていました・・・
お礼
はい、大変参考になりました(本当です)。 レトリックは、詩の言葉でもありますので、 釈迦の言葉が、詩句のような響きを持っていた ということであれば、 それはレトリック的である、といえるでしょう。 ありがとうございました。