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ポーツマス会議における樺太(サハリン)の取扱い
ポーツマス会議における樺太(サハリン)の取扱いですが、会議が始まった時には既に日本軍が占領していましたよね。ロシア帝国側は割譲に応じる気配が無く、会議における最初のつまづきとなった訳ですが、次の1.か2.のような解決策はあり得なかったのでしょうか? 1.取り敢えず日本軍による占領の事実は認めあった上で、ロシアへの返還方法は講和条約締結後に改めて話し合う 2.ロシアの領有権は認めた上で、施政権か土地や資源の利用権だけ期限付き(99年間など)で確保する 1.は国交回復を先行し、平和条約は領土問題解決後とした北方領土交渉に倣っています。2.は租界方式ですね。 どちらかで講和が成立していれば、ロシアにとってはいくらか領土割譲の屈辱感が軽減されるでしょうし、日本にとっては樺太北部の油田が開発でき、経済的メリットは相当なものだったと思うのですが、いかがでしょうか?
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- ithi
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hitiです。 おそらく、賠償金12億円の支払いの条項の復活でしょう。日本にとってこれをもらっても、まだ外債の利払いはあると思いますので、苦しいことには変わりはありませんが…
- ithi
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tegetege77さん、こんばんわ。 帝国主義の時代は自国の利益になれば、同盟国でも裏切ったりする弱肉強食の時代です。こういう時代ですから、条約も力関係では必ずしも履行されない場合があります。イギリスは比較的に信用できますが、油断はなりません。 だから、ポーツマス条約で樺太の南半分の割譲に関する条文という明文化が必要なのです。法的根拠という担保のためです。昨今も日本の周辺での領土がいさかいの元になっていますが、これは領土や領海というものに関することがデリケートな問題であるという証左です。 ロシアは今も日本企業が最近開発していた「サハリン2」のプロジェクトでも問題を起こしています。 さて、日本も欧米列強に続き、ささやかな軍拡競争を始めますが、実際に陸軍は平時25個師団、戦時50個師団体制、海軍は8隻の超弩級戦艦、8隻の超弩級巡洋戦艦を中心とした8・8艦隊ですが、いずれも財政問題で達成しませんでした。 確かに海軍力は問題にならないかもしれませんが、日本の勢力圏は樺太だけではないのです。大陸である満州や朝鮮防衛のためには陸軍の強化が必要ですが、やはり、ロシア軍のほうが兵力として逆転していると思われるので、防衛作戦しか取れないでしょう。
お礼
お返事が遅くなってすみません。 ロシアは確かに現代でも頻繁に裏切る低信頼社会ですよね。中国や韓国、北朝鮮ほどではないですが。 海という明確な国境線に守られた島嶼国家より国境線がころころ変わる大陸国家の方が信用し、信用されるという文化レベルが低いのでしょうか。 佐藤優氏が指摘していますが、ロシア人は真剣に国土を守ろうとしない国を侮る、もしくは信用しない傾向がある(うろ覚え)らしいです。 そうしたロシアの国民性(政治性?)を考えると、戦後も樺太に軍を送り続けて既成事実化、要塞化、同時に軍事力を背景に、同盟関係の強化と日露協商を進める他ないでしょう。 何か、史実のポーツマス条約より有利に講和が結べたとしたら、どんな条項ができたでしょうね。 ありがとうございました。
- ithi
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tegetege77さん、こんにちわ。 ええっと、日本側が交渉終盤で1.か2.に条件を譲歩した場合、ロシア側が呑んでいたか、という意味合いで質問をしています。勘違いさせてすみません。 戦後、ロシアは日本と自国の実力について分析を行い、その中でロシアの海軍力壊滅と極東に陸軍力を振り向ける余裕が少ないことを嘆いており、「極東での軍事力回復の為、10~15年は外交による平和を要する」(ロシア軍令部)、としております。一方、日本に対しては海軍力の競争相手がないにも関わらず海軍力拡張計画を実行することや陸軍の21師団への増強が分析され、3~5年で財政状況、軍備状況ともに安定化させてロシアに再挑戦してくるのではないか、と懸念しています。また、日清が秘密条約を結んで同時に攻めてくる可能性が高い、とまで指摘しています。 つまり、第2次日露戦争を恐れていたのはロシアも同様であり、主敵である3国同盟諸国への備えからも、極東でもう一悶着起こす余裕は戦後のロシアにはなく、対日、対清関係は友好関係を築きたかったと思われます。 (参考資料:日露戦争終焉後のロシアの日本観(シュラトフ・ヤロスラブ)) 10~15年は外交による平和を要する。つまり、15年くらいで日露の極東方面の満州地域での軍事バランスを対等、もしくは逆転を狙っているということですね。1、では15年間棚上げしておいて2はそれまで租借させておいて・・・ともに実利的にはこの方がロシアにとってはとても有利です。15年後にまた軍事的、経済的圧力をかけ、戦争を起こせば、領土を回復できます。 たぶん、飲む条件でしょう。日本はせっせと樺太開発をしていたところをロシアに奪われてしまうというシナリオが出来てしまいます。 しかし、その間日本は陸海軍を再編成しなければなりませんし、その資本となる財政がゆきずまっているので思い切ったロシアほど軍拡が出来ませんから・・・次の戦争ではもう勝てないかもしれません。(いくら増師、8・8艦隊といっても・・・) なぜなら、もう日本は思い切った軍拡に耐えられるような民力を失いかけていたからです。日露戦争前からかなりの重税を課せられていたのです。こんな苦しい事情を国民に課しておきながら、 1.は国交回復を先行し、平和条約は領土問題解決後とした北方領土交渉に倣っています。 2.は租界方式ですね。 というゆるいというか甘い意見が日本政府のほうからも出てくるとしたら、それこそ暴動が起きるでしょう。賠償金が取れないことでも日比谷焼き討ち事件が起きたのですから・・・
お礼
ithiさん、こんばんは。 まあ、甘いと言われればそうかもしれませんが、どうせ史実どおり日本の利権が南満州や南樺太に限定されても、ロシアが国力を回復させた後、それらが脅かされるのは変わりませんから。 だからこそ、侮られない程度の軍備は必要でしょうし、日英同盟を基軸とした外交関係の構築も重要になってきます。いくらなんでも、超弩級戦艦数隻を有し、アジア1の陸軍を常備する国に対し、イギリスを始めとする列強諸国の批判を受けてまで、そう簡単に再戦を挑もうとは思わないでしょう。 (史実ではロシア革命が起きて、ロシアの国力が回復することは叶いませんでしたが・・・) だから、そう悪くない選択肢だと思ったんですけどね。まあ、当時の事情を知らない者の後知恵ということで。 ありがとうございました。
- pri_tama
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>ロシア帝国側は割譲に応じる気配が無く、会議における最初のつまづきとなった まず、この解釈が間違っています。 外交って言うのは、先ず最初に双方が相手の呑めない条件を突きつけ、その後に恩着せがましく条件を緩和していき、双方が納得できるラインを見極めて条約を締結します。 つまり、もし仮に外交の一番最初に寛大な条件を提示したとしても、史実と同様にセルゲイ・ヴィッテは仰々しい態度でその条件を拒否し、日本へ更なる譲歩を要求したのは疑う余地が有りません。 そもそも、最初に強固な要求[賠償金などの12ヶ条の要求]をしたからこそ、日本側の譲歩が樺太の南半分で我慢するに収まったのであり、最初から緩い条件を出してそこから譲歩した状況なら、日本側には受け入れは困難であり、講和交渉自体が破綻します。 日本人は兎角、自分自身が誠意を見せれば相手も誠意を見せてくれると信じている人が多いようですが、国際政治はそんなに甘い物ではありません。 いい加減、誠意なんていう甘ちょろい態度を見せれば、相手に漬け込まれるという事を認識すべきです。 フランスの大政治家にして外交官たるシャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴールの様な方が日本に現れるのは何時になる事やら…。 (ナポレオン敗北後の不利な状況下で、列強の利害対立を利用しフランスの国益を守り、気づいて見れば、敗戦国が戦勝国に要求を飲ませるという逆転状態に成っていた。) >どちらかで講和が成立していれば、ロシアにとってはいくらか領土割譲の屈辱感が軽減されるでしょうし そもそも、ロシアはこの交渉で屈辱など感じていませんが? 日露戦争以後の日露関係は、両国の歴史上もとっとも良好な関係が築かれた時代なんですが…。 (日本がロシアの極東での権益を尊重する日露協約が結ばれ、ロシアは極東での兵力負担から逃れる事になる。) まあ、ロシア代表のウィッテ自身が外交随員に「日本は(に)全部譲歩した(させた)」と語り、後に帝政ロシアの初代首相に就任した事から、交渉結果のロシアでの評価は明確かと。 (交渉結果が不満や屈辱を感じる内容なら、左遷や処罰など相応の結果が起きるのが専制君主国の専制君主たるゆえんの筈ですが。) >日本にとっては樺太北部の油田が開発でき、経済的メリットは相当なものだったと思うのですが、いかがでしょうか? 樺太北部の油田(オハ油田)って史実でも、石油採掘権と試掘権を日本が持っていましたが…。 (日露戦争以後の両国の関係が良好だったからこそ出来た事ですが…。) なお、樺太の油田ってソ連時代に発展してきた物なんですが、時系列は押さえてますか? 出るか出ないか分かんない石油を当てにして領土割譲を取り下げるなんて正気の沙汰だとは思えませんが…。 (現代の技術を使ってさえも、石油の採掘に失敗する事が有るのに…。まして当時の日本の石油採掘技術なんて…。) そもそも、なんで史実でちゃんと成立した講和条約の条件をより譲歩しなければ成らないのか理解できませんが…。 まして、1の条件って要するに講和条約を結ばないって事なんですが、講和条約の意味分かってますか? (休戦条約と勘違いしてませんか?) 北方領土問題が解決していない事から、日本とソ連(ロシア)との間で第二次大戦の講和条約(平和条約)が成立していない事例が端的なものですね。 (行われたのは日ソ共同宣言のみ。) まあ、経済的つながりが欲しいだけなら、国交なんてそもそも必要無いですし…。 (北朝鮮の拉致事件が表面化するまで、日本と北朝鮮って結構経済的に関わりがあったですし…。) あと、賠償金も領土割譲も無いとすると諸外国から、日露戦争での勝利という結果を怪しまれる事になります。 日露戦争の戦費の多くは外国債券で行われましたけど、日本海海戦前に発行された物は利息等の条件が極めて悪く、その後の戦争勝利を掲げて発行された外債との借り換えで債務負担を軽減していました。 外国から日本が実質的に勝利出来ていないと認識されたら、借換債の販売が上手くいかずに国債がデフォルトするなんて事にもなりかねません…。 (日露戦争の戦費償還って1980年代まで続いていましたから、一歩間違えば第二次大戦後の高度経済成長にまで悪影響を出しかねません…。←イギリスが衰退したのは正にこの事が原因の一つですし…。)
補足
pri_tamaさん、回答ありがとうございます。 >、もし仮に外交の一番最初に寛大な条件を提示したとしても、 すみません、交渉の終盤で1.か2.のような提案をしたら、と考えてください。 >そもそも、ロシアはこの交渉で屈辱など感じていませんが? ロシア国内的にはどうか知りませんが、会議の席でウィッテは「領土を割譲するなどということは、ロシアの栄誉ある歴史を傷つけること」「確かに領土割譲の先例はあるが、それは戦争継続の余力も無くなる程、決定的敗北を喫した国に限られる。我がロシアは、そのような状態とは全く違う」と発言し、強硬に反対しています。(「ポーツマスの旗」より) まあ、外交交渉における戦術だ、と言われればそうなんでしょうが、ニコライも賠償金と領土割譲には絶対応じるな、と言っていたことから、樺太割譲談義がロシアの面子をかけたものだったと理解しても不自然ではないと思うのですが・・・ (ニコライが南樺太の割譲に応じたのは、ルーズベルト大統領からの2回目の親書を受けてからだと理解しています) >出るか出ないか分かんない石油を当てにして領土割譲を取り下げるなんて正気の沙汰だとは思えませんが…。 勿論、採掘が始まったのが終戦後4年も経ってからというのは知っています(油田がありそうだ、というのは1880年時点で分かっていたようですが)し、(株)北辰会が1924年から日本への輸入を開始したことも知っています。ですから、質問にも「当てにして」とは書いていませんが。(最後の2行は仮に交渉が成立してからのことを書いています) しかし、ポーツマス会議では賠償金と樺太割譲が会議のネックになっていたことから、会議決裂を避ける為に樺太について譲歩や棚上げがあっても良いと思います。日本にとっては継戦が最も痛い結果ですから、割譲要求放棄は「正気の沙汰」であることは間違いないと思います。 ただ、1.や2.の譲歩は譲歩でありながら北樺太の利権まで得られるという意味で、交渉が成立すれば実質的な割譲に当たると思います。 そもそも、外国から権利を買うのと、自国内で生産できるのでは、安定供給や国際関係に与えるメリットは雲泥の差がありますよね。 実際、ソ連が力をつけてくると外国利権に対する圧迫を強め、探鉱で日本側が見つけた油田でもソ連側だけに生産を許すなどの行為を行っています。日ソ不可侵条約も北樺太の利権返還が条件だったとも言われています。 結局、昭和18年に北樺太石油(株)の船が撃沈されたことを契機に、事実上の撤退をしています。 1.か2.でしっかりと将来の割譲に道を残しておき、最終的に割譲に成功していれば(何と言っても帝国主義の時代ですし)、上記の史実は起きなかったのではないでしょうか。(ロシア革命とシベリア出兵が最大のチャンスでしたが、残念ながら・・・) >1の条件って要するに講和条約を結ばないって事なんですが 樺太の領有権は後の交渉で確定する、という旨の条文で良いと思ったんですが・・・ (遼東半島の条文も、日清交渉の余地を残すなど、けっこうあやふやですよね) 棚上げ=講和条約を結ばないということについて、もう少し詳しく解説していただけませんか? >賠償金も領土割譲も無いとすると諸外国から、日露戦争での勝利という結果を怪しまれる事になります。 ロシアは既得権益を失い、逆に日本は何も失わずにロシアの満州における権益を継承できたのですから、どちらが勝利したかは明白では? 領土割譲要求放棄が日本の勝利を決定づけないとおっしゃっていては、では賠償金放棄は?とか、北樺太放棄は?とか、色々疑問が出てくるのですが・・・
- ithi
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tegetege77さん、こんばんわ。 確かに樺太は全島占領することは成功しました。しかし、それだけでは日本の国土にはなりません。条約とか取り決めを交渉という話し合いで決めねばなりません。たぶん、ポーツマスで交渉が決裂したら、もう1回か2回満州で決戦を行わなければなりません。 そのとき、日本にはもう1回戦分の戦力補充をしたら、もう何もないという状況であり、この心細い状況で次の交渉をおそらく半年か1年後に出来るかということは不可能に近いと日本政府首脳や元老達も思っていたでしょう。だから、交渉は最初何も要求しないで講和を結ぶことにしていました。けれど、最終交渉ギリギリで同盟国であった英国から「樺太はまだ国土になって30年程度だったので、南半分を割譲しても良い」というニコライ2世の言葉を聞いたため、危うく樺太南割譲を要求できたというエピソードがあります。 日本の国力は限界だったのです。もうこれ以上戦争は続けられなかったのです。 そして、1でも2でも日本の支配力は弱く、ロシアは自分の軍事力やほかの圧力で機会があれば、ひっくり返すかもしれません。そのためにもしっかりした法的な担保のある条約を結ばなければなりませんでした。この時代は帝国主義の時代で今のような時代ではなく、弱肉強食の時代なのです。 もう一つ付け加えると、樺太を占領したのは政略的な性格が強いのです。交渉のテーブルに着いたとき、日本はまだロシアの領土を占領していないから、ロシアはまだ負けてはいないといわれるのを恐れて、兵力の希薄な樺太を占領したのです。地下資源が多く、経済開発の余地があるからではないのです。 満州軍総参謀長を務めた児玉源太郎は満州に兵力を少しでも送って欲しいのにこんなことは兵力の無駄遣いだと思いましたが、前述の意見を聞いて結局受け入れざる終えませんでした。
補足
ithiさん、追加の回答ありがとうございます。 ええっと、日本側が交渉終盤で1.か2.に条件を譲歩した場合、ロシア側が呑んでいたか、という意味合いで質問をしています。勘違いさせてすみません。 戦後、ロシアは日本と自国の実力について分析を行い、その中でロシアの海軍力壊滅と極東に陸軍力を振り向ける余裕が少ないことを嘆いており、「極東での軍事力回復の為、10~15年は外交による平和を要する」(ロシア軍令部)、としております。一方、日本に対しては海軍力の競争相手がないにも関わらず海軍力拡張計画を実行することや陸軍の21師団への増強が分析され、3~5年で財政状況、軍備状況ともに安定化させてロシアに再挑戦してくるのではないか、と懸念しています。また、日清が秘密条約を結んで同時に攻めてくる可能性が高い、とまで指摘しています。 つまり、第2次日露戦争を恐れていたのはロシアも同様であり、主敵である3国同盟諸国への備えからも、極東でもう一悶着起こす余裕は戦後のロシアにはなく、対日、対清関係は友好関係を築きたかったと思われます。 (参考資料:日露戦争終焉後のロシアの日本観(シュラトフ・ヤロスラブ)) そうした戦後の状況下で日本は、満鉄経営などにも乗り出して満州への足掛かりを固めていきました。 仮にロシアの国力が予想以上に早く回復したとしても、上記のような理由から、満州は兎も角、樺太を奪還するような試みをなすとは思えないのです。 当時、樺太の経済的価値は十分に理解されておらず、日本が樺太割譲より講和締結を優先したのは理解できますし、史実でもそうしております。 しかし、質問の趣旨はあくまで「もし、1.か2.の提案をしていればロシアは呑んだか」ですので、そういった観点から再回答していただけるとありがたいです。
- ithi
- ベストアンサー率20% (1972/9602)
tegetege77 さん、こんにちわ。 この質問は今だから言える意見のように思います。 1.ではロシア皇帝ニコライ2世は全権のウィッテに「たとえ一インチの土地、1コペイカの賠償金も支払ってはならない」と言明していました。交渉は難航しますが、公平を期していたアメリカ大統領のルーズペルトが途中で変心し、賠償金は放棄しました。これは交渉において厳しい条件です。 ロシアへの返還方法は講和条約締結後に改めて話し合う ということはロシアに交渉によっては全面返還するかもしれないということです。この条件をのむのなら、イギリスからの「樺太割譲」情報がなければ、さっさと日本は樺太の放棄を決めていたのですから、あまり意味がありません。 2.はロシアの外交スタンスからすると、いつスタンスを翻すかわかりません。ロシアはとてもわがままで約束をひっくり返すことがその当時の外交の常識のようですから・・・ だから、ポーツマスで解決しなければ、日本の当時の国力では対等の交渉を行う機会はなく、再度の交渉は不可能でしょう。
補足
ithiさん、過去の質問も含め、毎度毎度回答ありがとうございます。 貴方の回答を受け、質問について補足させていただきます。 1.については、一応、会議当時は日本軍が全島を占領している訳ですし、極東における海軍力が壊滅したロシア軍が、実力で取り返せるとは思えないので、既成事実の積み重ねで有利な条件を引き出せるのでは、と思ったのですが・・・ 樺太放棄は、交渉決裂の危機が迫ったのちに元老間会議で決まったものだと解釈しているので、比較的早期に棚上げを決め込んでおけば、もしや・・・と思った次第です。 2.についても同様で、取り返す術を持たないロシアが領有権を保持したまま事実上の割譲をするには、これが最適かな、と思った次第です。 世界が注目したポーツマス会議において決定したことを簡単に反故にすることは、流石のロシアにも難しいのでは、と思うのですが・・・ 取り敢えず時間稼ぎが出来るので、その間に日本が国力増強と樺太防衛強化に努めることも出来るし、日露協商によってロシアとの経済関係を強化することも出来たのではないでしょうか? これについて何かあれば再度ご回答をお願いします。
お礼
ithiさん、ありがとうございます。 >賠償金12億円の支払いの条項の復活でしょう。 これは樺太以上に、ロシアが強硬に拒絶していた条項ではないでしょうか。 それとも、ニコライが賠償金についても譲歩する可能性があった、という史料があるのでしょうか。 よろしければご教授お願いします。