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ポーツマス会議で鉄道の完全取得を目指さなかった訳は
- ポーツマス会議では、日本側の要求の一部を叶えることができず、賠償金と領土割譲の問題が中心となりました。
- 日本は賠償金にこだわり続け、その結果、会議決裂の一歩手前まで追い込まれました。
- 一方で、鉄道譲渡などの絶対的必要条件の完全取得を目指すことはなかったようです。
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tegetege77 さん、こんばんわ。 ithiです。2・外交ルールを無視したということはないでしょうが、再度交渉してハルピン-長春間の鉄道譲渡を考えようとしてもこれは相手のあることなので、とにもかくにもそんな保証はどこにもないと考えます。それを判断するにはそれこそいろんな方面からの情報ソースが必要でしょう。たとえばアメリカは賠償金問題で日本に対して圧力をかけてきました。もうこれだけでも賠償金は取れないでしょう。下手をすれば、領土も割譲されなかったと思います。南樺太割譲情報は当時同盟国だったイギリスの情報です。これだけを手に入れただけでも奇跡だと思います。この日露交渉も実はある意味対等な交渉ではありません。欧米列強の思惑の中にあるのです。一度妥結したことを蒸し返して決裂させるよりはここは妥結したことは動かさないのが上策です。もう日本にはロシアと戦争を継続するだけの国力がないのです。決裂させたらおしまいです。あちらにはまだ継戦能力があるのにこちらにはもうないのです。 だから、日本政府はもうこの戦争をどうにかして終わらせようとしたのです。 最初、ルーズベルト大統領は小村の交渉案を見て妥当で賠償金をとるのは当然だといっていました。しかし、最後には掌を返しました。この時代の交渉はまさに弱肉強食なのです。
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- mekuriya
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質問者さんには事実誤認があると思います。そもそも日本は樺太全域を支配下においたことはありません。 江戸時代、松前藩は樺太南部を主なテリトリーとする樺太アイヌを服属させていましたが、北部・中部をテリトリーとするニヴフ・ウイルタの北方少数民族は松前藩に服属していません。松前藩は久春古丹(大泊町)に陣屋を置いて樺太アイヌを統治していましたが、樺太全域を統治していた訳ではないのです。 樺太南部と北海道の渡島半島は地形がちょっと似ていて、松前藩庁が松前町にあったように、久春古丹もちょうど北海道の函館のような位置関係にあります。ポーツマス条約では明治8年の樺太千島交換条約で手放した南樺太を奪回しましたが、元々樺太アイヌにも松前藩にも国境という概念が無かったので、南樺太といっても北部・中部との境界が明白に定義されていた訳でもなかったのです。江戸時代、和人が樺太で越冬しようという時は、松前奉行に越冬届けを提出するのが習わしでした。それぐらい樺太は寒いんです。寒がりの和人が樺太で越冬するということは決死の覚悟が必要だったということです。そういう状況でしたから江戸時代は南樺太は松前藩の領地といっても和人は定住できませんでした。わずかな数の役人が比較的温暖な久春古丹に駐屯していただけだったのです。 どうも樺太に関しては誤解している人が多すぎる気がする。ポーツマス条約で奪回した南樺太をいかにも中途半端な妥協と認識している人が多いようだが、実際は違います。むしろ江戸時代の南樺太よりも広い領域をポーツマス条約では奪回したのです。 「北半分を手放す」も何も無い。そもそも北半分など日本領だった時期など存在しません。 次に満州ですが、ハルピン~大連・旅順間の南満州鉄道はロシア・清が共同経営した東清鉄道が敷設したものです。チタからウラジオストクを東西に結ぶ路線が本線で、シベリア鉄道をショートカットしてモスクワと軍港ウラジオストクを短絡する路線です。ハルピンは、その本線の中間に近い位置にあります。 ハルピン-長春間をロシアが日本に譲る道理がありません。有事の際にハルビンを日本軍に占拠されてしまったら、本線は東西に分断され、ウラジオストクは孤立してしまいます。日本にとって絶対的必要条件でもないのです。長春は南満州支線が敷設されてから発展が始まったような町です。当時の日本人に知られていた都市がハルビン・旅順・大連ぐらいしかなかったから、幼児が覚えたての単語だけを操るように、ポーツマス条約ではハルピンの地名を挙げたけれど、そもそも日本はハルビンに進出したかった訳じゃないんです。 日露戦争の最大の目的は、日清戦争・下関条約に便乗・利用して満州・朝鮮への南下政策を推進したロシアの野望を挫くことだったのです。無知蒙昧・単純無邪気な当時の日本人は領土獲得だ、賠償金だと馬鹿丸出しにはしゃいでいたけど、そんなことはそもそも戦争の目的じゃないんです。 そうはいっても、万一手ぶらで帰ってきたら、激昂した無知蒙昧・単純無邪気な当時の日本人にぶち殺されますから、交渉団はぎりぎりまで交渉を続けて具体的な成果を勝ち取ったというまでです。 ポーツマス条約で日本のロシアの野望を挫くことに成功したのですから、あれで当初の目的は達成できています。むしろ成功しすぎてロシアの復讐心をかきたててしまったというべきかも知れません。
- ithi
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tegetege77 さん、こんばんわ。 樺太の南半分が手に入ったのはニコライ二世が言った言葉が日本政府に奇跡的に日本に漏れたためだと聞いています。 「日本は賠償金と領土割譲で会議が暗礁に乗り上げた中盤以降、賠償金を諦めてハルピン-長春間の鉄道譲渡など、絶対的必要条件の完全取得を目指すことをしなかったのでしょうか」ということですが、すでに交渉が暗礁に乗り上げているうえ、これを決裂させて再度陸海軍による戦闘で必ず勝利を勝ち取る国力がもう日本にはありませんでした。軍部の最高首脳部の中にも賠償金が取れると考えている人はほとんどいませんでした。また、ポーツマス条約における「8.満州横貫鉄道(中東鉄道本線)は、その敷設にともなう特許条件にしたがい、また単に商工業上の目的にのみ使用することを条件としてロシアが保有運転すること」ということで同意を両国で得ているのにまたここで蒸し返してもロシア側の不満を掻き立てて、交渉を決裂させるようなものです。日本政府としてはもうここで講和をどうしても結び、戦争を終わらせなければならなかったのです。 ポーツマス条約のURLを記入しておきますので、ご参照ください。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%84%E3%83%9E%E3%82%B9%E6%9D%A1%E7%B4%84
補足
あくまで「ポーツマスの旗」を読んでの印象ですが・・・ ウィッテは賠償金の前にも、強硬な姿勢を取り続け、樺太割譲問題の討議では決裂を宣言しました。しかし、この時にはすぐに「交渉決裂は本意でない」として、先送りにとどめています。 その後、賠償金問題の討議では小村全権が賠償金にこだわり続け、ウィッテの個人的な提案(樺太北半分も割譲すれば賠償金を放棄するか?との提案)も一蹴しました。 それが元で本当に決裂の危機を迎えて、初めて賠償金放棄の方針が決まったみたいです。 要は金銭要求が最大の障壁だった訳で、それ以外の部分ではロシア側に譲歩の余地はあったものと推測しています。 また、交渉を決裂させる意思が日本になかったのは承知しています。 よって、交渉蒸し返し=決裂は少し違うのではないか、という気がします。 ウィッテも強硬な態度とは裏腹に、講和成立を心から希望していた節があります。 それなのに、日本が最大限譲歩(賠償金放棄)した上で、絶対的必要条件の完全取得を要求したところで、ただちに交渉決裂にはならないと思います。 ただ、交渉蒸し返しが特に大きな障壁でなかったのに、それをしなかったのが不思議で質問した次第です。
- rabbit_cat
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事実として、「再度交渉するのは外交ルールを逸脱する行為だった」というのは全くないです。 なんで、少なくとも理由2が正しくないことだけは確かです。 ですが、理由2でないからといって、理由1というのは、飛躍しすぎだと思います。(こちらは、私の推測です) なにしろ、相手のある交渉ですからね。 とりあえず、 ・「理由2」は間違い ・「考えられる理由が1と2のいずれかしかない」というのがそもそも間違い だと思います。
補足
何か他に考えられる理由はありますか?推測で結構ですので、補足お願いします。
補足
前段部分には、わたしとの認識の違いがあるようです。 「北半分を手放す」というのは、樺太は全島が日本軍の占領下にあるという既成事実が出来上がっている中で「手放した」という意味です。 また、質問にお答えいただいていないので、補足いただけたら、と思います。