- 締切済み
電磁力(権力)が 重力(意志)を凌駕するか?
0. まづこの問いにかんするかぎり 自然科学の用語はすべて たとえでのお話ですとおことわりします。 1. 資本の論理に屈服するのは 電磁力にひとの意志としての重力が負けることと同じようなものか? 2. 資本の論理というチカラに屈服するというときには ふたつの要素がある。そのチカラを 政治経済的な圧力と捉えるなら これを ふたつの要因に分けられるであろうか。 ( a ) 政治的な要因: 権威・権力また権限が 絶対的に圧し掛かる場合のそのチカラ ( b ) 経済的な要因: 政治的な(つまりいわゆる経済外的な)電磁力を振り払うに足る経済的な資力も自活力もない場合 やはり重くのしかかるそのチカラ 3. これらを内容とする資本の論理が しばしばそうであるように血も涙もないつめたい論理そのものであったとき これをこばむというおのが意志は かなしいかな ついえてしまう。ということは それでも この意志なるよわき重力は 堂々と存在すると言えるか? 4. 言えるはずである。しからば このいとしき・うるわしきわが重力は どこへ向かっているのか? 何を欲しているのか? 資本の論理に屈服しているとき 何を思っているのだろうか? 5. 重力なる意志は 消えてしまっているわけではないと言わねばなるまい。では 人間とは何なのか? 社会とは何なんだ? どういう成り立ちをしているのか? どこへ向かうのか? ☆ 上手に受け留めてお応えしうるかどうかそれは ぶっつけ本番になり はなはだ心許ないことですが 思いっきり自由にご見解をお寄せください。
- みんなの回答 (6)
- 専門家の回答
みんなの回答
- hokekyou333
- ベストアンサー率27% (3/11)
No8の回答についての、そちらのお礼文について再び回答しますが、 これは見解の相違というより、根の深い形での視点の相違による齟齬だったということですね。 私は、主観内面を物語っているわけではないわけです。 No、8に事実として、他の人との無意識領域にわたる繋がりの体験を書いてみたわけですが、その延長線上に私の宗教哲学は得られてきたわけですよ。 想定上の考えを練ることも、それなりに価値はあると思いますが、そしてその価値のコミュニケーションを求めるならば、その時には想定上の考えとして仏を語っているという説明の工夫がそのコミュニケーションの必須条件となるということは、当然のこととして解るつもりですが、 私の考えも、同じ基盤の想像力の世界の論理として規定されて、そう決めつけてコミュニケーションを求めても、齟齬が発生するのもあたりまえのことです。 ここまで根の深い齟齬…。 どうしようかと考えてしまいましたが、 もう一度だけ回答してみることにしました。 神についても、やはり30歳代の頃、悩みました。 でも、これ、実際に血を吐くほどのこれも無視識の奥からの悩みだったのです。 その苦悩の中身は、今ここにこの流れで書く気持ちは無くなっていますが、 結論は「何も、何も、わからない」という結果に。 完璧なまでにお手上げとなってしまったということです。 そのまま長い年月が過ぎましたが、その結論自体は変わりません。 しかし、そんな諦観こそが、存在の不思議さを私に気づかせてくれたのも事実です。 徐々にですが、その中から仏法への気づきも生まれています。 おっと、この血を吐くほどの悩みやその延長の世界も、そちらの視点からは主観内面の世界ということになってしまうのでしたよね。 するとそれは「想定上の問題」としておかないと哲学とは言えないという感覚の問題であり、 したがって、「想定上の問題」であるところの「即身成仏」や「即得往生」を想定上の問題として否定しておくのでなければ、私のその主観内面の世界は「一方的な演説」になってしまうという御説であるわけですよね。 「一方的な演説」とは、これは普通に考えていいのですよね。 つまりコミュニケーションはなりたたないですよ。というご意見だということと解釈していいということですよね。 これは、どういうことなんでしょうね。 同じ想像力でも、仮説の世界であるならば、これも仮説は仮説として最初から語っておくのが常識でしょうが、現実の抜苦与楽の苦闘からの仮説は、失敗しても失敗しても、それでも価値を求めて、仮設を次々と実践しゆけば、たとえぼろぼろになっても、いつしか事実としての真実に行きつく可能性は大きく、それは論議の対象としても、すでに体験している人から教わったり等、かなり効率的なコミュニケーションとなりえましょう。 しかし、想定上の問題の論議となってしまえば、これは、それは「想定上の問題」ですよと、最初から語っておいたにしても、コミュニケーションを成り立たせるのは困難ですし、仮に抜苦与楽を生み出す新たな答えが見つかったとしても、その複雑なコミュニケーションをどのように現実に生かすことができるのか、できるのでしょけれど、かなり不効率だと思えてしまいます。 そのやり方で、もともと神話とか寓話の多い宗教の世界の真実をひも解き、語りかたりあわんとしても、それこそどんどん難しい言葉のあやを想定上の問題だとして練り込み続けるだけのコミュニケーションとなって、手垢のついた食べられないうどん粉がどんどんおおきくなってゆくだけのように思えるのです。 宗教って、そんなものにすぎないですよ。というふうにあらゆる宗教は同じ穴のムジナとして正直に告白すべきだ、ということなのでしょうか。 それによって宗教同士の対立を止めさせようという意図なのですか? それですと「哲学による宗教の整理整頓」ではなくて「哲学による宗教の低レベル性のあばき」ということになるだけではないですか? もし低レベルのままでしたら、ましていくらでも想定できる想像力における喧嘩なのですから、むしろ、対立や喧嘩も永遠につづくと思えてしまいます。 仏教ってほんとうにそんなレベルの哲学なのでしょうか? 30歳代の頃のわたしよりも低いレベルの感性の世界なのでしょうか? かの「阿頼耶識論」において、7識、8識の自我の世界を越えて9識の仏界にたどりつくという教えも、「想定上の問題」として語られた、またそのように語られるべきだった仏説なのでしょうか? 人が実際に血を吐いてまで苦悩して求め続けた実際の世界の抜苦与楽の闘いや、そのための多くの人のその闘いの理解にはどうすればいいのかとうことの答えの世界、その答えは仏教ではどうなっているのかを求めて得られた心の光りの世界、 それを語るのが、どうして「一方的な演説」となると、決めつけられてしまうのでしょうか? 「同じことを話している」のではなくて、そちらのお礼文での解釈に気になる点があったために、もう少し深く考えてみて欲しいという想いから「さらに詳しく内容を説明している」のを、「同じ話し」と決めきってしまう立場に立たれ続けるのなら、 この今回の回答にしても、同じ話の繰り返しと受け取られてそれ以上は理解しようとされないのでしょうから、 ここでコミュニケーション不成立となるかと思うのですが、 ほんとうにそうなのでしょうか? 即身成仏が、哲学的にどういうものであれ、それが実際の切実な抜苦与楽の闘いに何ら光をもたらさないなら、思索は自由ですし、そこに遊ぶのも自由ですが、それは抜苦与楽の闘いにおいては御釈迦な話しですし、同じ自由を楽しみたい人たちをその世界に引き込むのも表現の自由ですけれども、 私はそれに引き込まれたくなどないですしね。 どうやら、私は、そちらの思考実験の世界には、価値はあり光りはあるのでしょうけど、とてもついてゆけなくなってしまったようです。 お互いの能力のちがいと役割の違いによるものでしょうか。 私の立場は、このような上記の観点からの忙しい立場となってしまっていますので、 おそらくですが、ここで対話、コミュニケーションはストップしてしまうことになるのだろうと思います。 一応最後に、そちらの気付きの世界を問うてみました。 以上です。
- hokekyou333
- ベストアンサー率27% (3/11)
私のNo6の回答に対して、そちらのお礼文に 》回答ではなく 自説を延々とならべる曲芸であると見なします。 互いに主題を共有し論点を出し合って 互いの見解を突き合わせつつ 問い求めて行くという姿勢にはないと見ました。 これまでにお答えしたことによって すべて応答しえていると考えます。 《 と書いてありましたが、 そちらが書かれていますところの ≫《因果応報説をからめた輪廻転生論》は わたしにはお呼びではありません。無視します。≪ のところと、 ≫このブッダターを言っておけば いちいち十界互具だとか一念三千だとかとまで言う必要はないと考えます。 実践していることが 肝心ですから。また 十界論を知らずにでも 実践はし得ますから。≪ のところと、 じつはあと一つ ≫★ その仏とつながったら直ちにすべての悪が許せるようになるというわけではないだろう。 しかし心は明らかにその方向に向かう。 ☆ いえ。一発です。自然法爾です。ハカラヒなきを自然という。義無きを以って義とす。一発で癒されます。≪ に対応して その3点に対して、わたしなりに、ここはまず、十界互具のところからその深さを、さらに考えてみてほしいという気持ちになり、それだけでもとても書き切れない内容を少しでも詰め込んで書こうとしたことにより、長くなってしまった回答のつもりです。 そこを 》回答ではなく 自説を延々とならべる曲芸であると見なします。《 と書かれてしまうと、 自説でないものを回答するなんて、そんな回答は困難ですし、 どうしても長くなってしまったところをそのように言われても、どうしたらいいかわからなくなってしまいます。 このNo5の方の私の回答が、実は、長くなってしまったのでとても書ききれない、中途半端に何か書けるような内容でもないというところから「パス」させていただいた、 ≫一発です。≪ をめぐるそちらのお礼文の部分が、No6の回答の引き金となった部分であることからも、 むしろ本当は、パスなどしたくない箇所でもあったわけですので、 ここは、書き方を変えまして、 出来るだけ簡潔性にも注意を払いつつ(その努力はしますので、なかなかそうはいかなくても、そのへんどうかご理解ご了承いただきたいです) その ↓ ≫★ その仏とつながったら直ちにすべての悪が許せるようになるというわけではないだろう。 しかし心は明らかにその方向に向かう。 ☆ いえ。一発です。自然法爾です。ハカラヒなきを自然という。義無きを以って義とす。一発で癒されます。≪ ↓↓↓ の部分への回答をこちらに書いてみます。 (1) 「自然法爾」「ハカラヒなき自然」「義無きを以って義とす」というのは、浄土宗の教えでしょうか? わたしの考えではなのですが、この思想は《「何も考えなくても、仏に身を任せた気持ちになれば、自然に人間的に生きられる」 自ら世の中をよくしようとあがかなくても、その「安心立命」に立てばそれだけで、例え計画を立てるにせよ、自然に一番最良の計画もできあがる》といった 私達の心が仏と出会えば、後は任せるだけでよくなるというふうに、自分の考えを進化させる努力を放棄せよという教えに聞こえてしまうのです。 まず、今回の再回答では、 そのへんの質問者様のお考えをお聞きしておきたいです。 (2) そちらの言われている 》一発で癒されます《 の内容なのですが、 仮に(仮にという点を強調しておきます)そちらのお考えが基本的に 「仏にお任せしていれば、そして南無阿弥陀仏、あるいは南無「神の霊」と念じ、あとは何も考えなくても、自然に脳が働くままにまかせているだけで、正しく行動する道がおのずと開かれ、一発で人間として安心立命が得られる」 といったお考えであられるならば、 ≫☆ いえ。一発です。≫からの文は、 ≫ ★ その仏とつながったら直ちにすべての悪が許せるようになるというわけではないだろう。しかし心は明らかにその方向に向かう。≪ という私の書いたことと対応されて反論されているわけですから、 その「安心立命」さへ得られれば、一発で「直ちにすべての悪が許せるようになる」と考ていると考えられるのですが、 ほんとうにそのようにお考えなのでしょうか? 「もし」上に書いたことに相違なければ、では、その証明はできますでしょうか? 私の場合の実例を書いてみます。 私は、ヤクザからも見放されたような「札付きの悪人」と呼ばれている人たちと、何人も友達になったことがあるのですが(当時は30歳代の頃なのですが)これは、一応に向こうから私と友達になりくなったのです。 それはおそらく私がただ単に色目ガメネをかけないで、ただ当たり前に同じ人間として接する心を、無意識の底から自然に持っていたからだと思います。 これって偉いとかご立派だとかいうことではないですよ。 そんな邪心を少しでも持ってたら、彼らはどんなに孤独であっても、そこに「「「友達になれるやつが、いた!」」」という気持ちにはなれないでしょう。 相手の私という人間は、悪についての話題にも共感してくれないし、同じ仲間の印としての朱にも交わってくれない、ふつうなら煙たい人間の一人のはずでしょ。 でも、そのいわゆる「極悪人」の人たちが、一応に私と一緒にいたがり、自分に前科も何もかも話したがり、一緒に歩きたがり、いっしょに山に川に出かけたくなり、私が何もしないのにお礼したがったりするのです。 どれだけ、どれだけ孤独だったのか ということと、ほんとうは全く同じ人間として「友」がほしかったのだということ、のその中に いよいよ「どんな人間にしろ、同じ人間は同じ人間なんだ」という感と感動を深めた体験でした。 ただ単に、自分をほんとうに偉いと思っていない人間だっただけで!! でもそれだけでは、彼らの抱えているあらゆる問題を一つも解決できたわけではないわけです。 そちらの言われる通り、それだけでその全員が改心したわけでもないのです。 当時のわたしの至らなさがそこにありました。 更生教育の力がもっともっともっと必要だったということです。 しかし、その更生教育には、前提として、そいつら前科者の脳が「そこに友だちがいる」と発見してくれるような無心に人間的に生きる人物であることが、その技術うんぬん以前に必須だと思います。 まだ「ホケキョウ」の「ホ」の字も知らなかった頃のことですけどね。 この実例をもとに、再質問します。 当時のあの程度の人間性の私ですら、極悪人が 向こうからそこに「友」を見つけてくれたのですから、 仏や神の霊に、すべてをお任せする心境になれば一発で、そこに「友以上」「恋人以上」の気持ちで慕ってくれるようになるのでしょうか。 まだ、そちらの言われる「神の霊」という言葉を理解しているとは思えないので「仏」にしぼりますが、まるで仏のように本当に一発でなれるということなのでしょうか? (3) 今回の回答では、最後に、最初の質問に再び戻させていただきます。 私自身は、「南無妙法蓮華経」とほんとうに謙虚に唱ることができれば、もちろん組織、教団とはかかわりなく、仏とつながることは出来ると思っているわけです。(このことこそ、詳しく書きたくなってしまうのですけどね) でも、その必然である仏国土の実現は、その信心にまかせて何も考えないでも実現できるのではなくて、その実現は私達信徒の努力にその責任があるとも思っているのです。 といった私の自説(自分の考え)を書いては どうして回答にはならず「曲芸」(この例えもわかりずらいですが)になってしまうのでしょうか? それとも、 くどくどした説明は、そちらに入らないという意味合いを語られたのでしょうか? もしそうならば、 ここには見解の相違という名の齟齬が発生してしまったのだろうと思うのですが、…。 以上です。
お礼
ご投稿をありがとうございます。 (1) 《即身成仏 / 即得往生》という思想について これらをしりぞける説明を明らかにしなければやり取りは そちらの一方的な演説になります。 (2) ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ 一発で「直ちにすべての悪が許せるようになる」と考えていると考えられるのですが、 ほんとうにそのようにお考えなのでしょうか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ (あ) 《悪》は その行為を人間が赦す・赦さないというその対象にはならないと考えています。 (い) 存在については 誰についても受け留め その行為については わるいところがあればこれを批判する。こういう全体としての姿勢でのぞむものと思っています。 (う) その本人が ブッダターの――信仰の庭における――起動を得れば 過去の悪の行為からもいま現在の悪の心理的なウゴキからも自由になれる。――これが 即身成仏です。 (え) 悪の行為をこうむった被害者は 赦す・赦さないの次元においてではなく 悪の行為者がみづからの心において われに還り悪の心から自由な自然本性の状態になったなら その姿を見て 〔被害者は〕みづからの心にもそのブッダターのハタラキの起こるのを覚えて 自然にその加害者を自分と同じふつうの人間として受け留めまじわることが出来ます。 (お) これらのことは ブッダターなる神の霊が想定であるかぎりで 想定上のお話です。哲学としては そのまま《想定》の問題として受け留めることになると考えます。 ★ 仏や神の霊に、すべてをお任せする心境になれば一発で、そこに「友以上」「恋人以上」の気持ちで慕ってくれるようになるのでしょうか。 ☆ 《ハカラヒ無きを 自然といふ》です。《すべてをお任せする》というのは ハカラヒです。 (3) ★ 私自身は、「南無妙法蓮華経」とほんとうに謙虚に唱ることができれば、もちろん組織、教団とはかかわりなく、仏とつながることは出来ると思っているわけです。 ☆ 主観の内におけることとしては すべて自由です。 問題は その主観内容の共同化です。ほかの人とその内容を共有できるかです。 《即身成仏》が 信仰の・つまり主観内面における動きないし感覚の問題であるところを 哲学としては(つまり 主観の共同化をめざすかたちとしては) その主観内容を《想定じょうの問題》であるとして提出しています。そういった工夫がないと 勝手に言っていてくれ(と言いますか 同じことをくどくどと投稿して来ないでくれたまえ)という恰好になります。 あっちの水は 苦いぞ こっちの水は うまいぞ ほ ほ ほたる来い といつまでも同じことを言いつづけることになるからです。つまり 反対派も そのように《ほたる来い》の同じうたをうたっているという結果になります。
- hokekyou333
- ベストアンサー率27% (3/11)
No5でも回答させていただいたホケキョウ333です。 お礼文を読ませていただき、いくつか気になるところがありましたので再回答させていただきます。 まず、 ≫ 《因果応報説をからめた輪廻転生論》は わたしにはお呼びではありません。無視します。 なぜなら ≪ に続く段についてなのですが、 私の質問が舌足らずであったこともあるのですが、私自身、法華経のほとんどを寓話ととらえいることは過去のいくつかの出合いですでにご存知かと思ってました^^。 輪廻転生を事実というふうに私自身は全く思っていないのです。 そのへんは(私自身のその考えについて)理解されて いましたか? 当然、不軽菩薩も実在の人物ではないし、脚色としても実在の人物を語ったものでは無く、全部創作としてとらえているわけです。 ともあれ、回答文自体がそのへん舌足らずであったことはお詫びいたします。 私自身が書きましたところの ≪しかも那由多劫も昔からの因果論という例えになっていて、さながら因果論の一大叙事詩…≫ の那由多劫という数字は、10の60乗、 一億が8乗ですから、 気の遠くなる数字であり、架空の物語以外の何物でもないという点を、そこに強調しているつもりになっていました。 私は、あくまで人類は80万年前頃にタンガニーカ湖畔のチンパンジーの脳が変化して生まれたという考古学上の有力説を支持している人間ですし、多くの人が「ほぼそうに違いない」という常識として受け取っているという感覚になっています。 その上で、その架空のたとえ話しの世界を、それ自体すぐれた叙事詩であり、そこから「妙法蓮華経」という五文字が、現代文明人の最高の心の宝塔、心の薬、元本の無明を切り裂く宝刀として、取り出された以上、その寓話の意味はさらに奥深い解釈をすべきだという意味合いを語りたかったわけです。 まず、十界ですが、 1地獄、2餓鬼、3畜生、4修羅、5人、6天、 7、声聞、8縁覚、9、菩薩、 10、仏 となっている人の心や境涯の分類、 現代心理学などから考えれば一見なんともおそまつ幼稚な分類に見えてしまうのではないでしょうか? でも、これ自体、 今の特に日本の生活からは想像を絶する厳しい生活の体験や見分の中からしか生まれえない言葉で綴られた、一つ一つの界であり、その言葉による分類なのだ、と これはただ普通に素直に考えただけでも、昔には昔しの知恵があり、その古の知恵の深さの一つがこの十界の分類を生んだのだと解釈すべきことが浮かび上がってくるものと私は考えます。 その地点からの解説文はまだ読んだことがなく、そのへんの私の読んだ解説は、一応に確かにそのまま「幼稚園生の物語」のようだったのですが、事実はその逆の現実の実生活の切実そのものの汗と血と、体感のにじんだ言葉と分類の世界なのだと解釈すべきだと考えているということなのです。 そう考えると十界すべて、その一つ一つが、それだけでも、重みのある何かがその裏にはあると気が付いてきませんか。 さて、 私達の五感や体感の感受性の深まり、あるいは一言で「感性」の深まりの世界といってもいいのですが、その世界こそ無限だと私は思っています。 その世界こそ、どこまでもどこまでも深いのです。 その世界こそ、どこまでもどこまでも価値があるのです。 無限にです。 ですが、同時に 仏とは、その世界、その命の中の現実の世界の中のその輝きの世界、のことを言うのであって、論理脳はむしろ現代人に劣っているところもあったと考えるのは自然だと思うし、むしろそう想像推理すべきですらあると、私は思っているのです。 感性の無限の道への最大の快復の道、最大のはずみを生む道、それこそが仏法の道なのだと私は考えているわけです。 飛行機の飛ぶ原理の計算も出来ない人が、何故宇宙のすべてを知っておられたりするのでしょうか? そんなことを信じるのが、仏への謙虚さなどでは無いわけです。 ≪……精一杯、考えに考えて、心の安らかな、穏やかな状態を自分なりにゆるぎないものに仕上げて来たし磨いてきた。その道筋に感性がいかに一大事かということをも深く理解してきた。、自我を越えるには、その感性を磨くこと、五感を深め、いきいきとさせること、その道により、自我を突き抜ける慈力線をそこから増やしてゆくしかない自我の構造にも通底してきた。 とくと、人生の辛苦をなめつつ、時に血を吐く思いで、その探求の道を歩き続けてきた。…、…、で、仏の前に、それは孫悟空の仏の手のひらにまでは到達したことを意味するのだろうか? 入口においてはそうだろうが、しかし感性のその道においては、「手のひらに到達した」どころかはるかかなたに自分などちっぽけで、低級でどうしようもない存在にすぎない……≫ と謙虚に気づくことが信仰なのではないのでしょうか? 地獄界のその仏界、餓鬼界のその仏界、畜生界のその仏界、修羅界のその仏界、人界のその仏界、天界野その仏界、… 仏界の仏界以外、すべてをこの地点から考察しなおしてみてください。 禅の「見性成仏」で、その一つ一つの、実際の生活の奥の奥にですよ、その界の、仏の奥深さ、その境涯の深さ豊かさを瞑想できるのでしょうか? 仏への謙虚さは、仏法信心の決め手です。 そうでないと「見性成仏」成った!とのクンダリーニの歓喜の歌は、天界の最高菩薩であり、最高偽善者でもあり、4聖をも惑わさんとする第六天の魔王の命が時としてひきだす歓喜の世界、あるいは歓喜で人と惹きつけて悪に導く世界、そんな命に陥ってしまいますよという警告が「禅天魔の所為」の意味だと思う。 * つぎに、(そちらの思考実験の意味合いも、思考実験としての文の流れや組み立ての意味とかも解りにくいので、すべえあえてわざと虚構を交えて書いているようにも思えよくわからないですし、まるで操られているかのような気もしてしまうのですが、考えすぎでしょうか。ともかく、あやつられるままに、よくわからないままに筆を進めていきますが) ≫ひと言で言えば ブディズムは もうふるい。でしょう。≪ この文は、法華経や日蓮上人への信心も、もうふるい。と言っているのでしょうか? その「古い」と語られるところのブディズムとは、仏教の歴史の中の何をそのように物語りたいのでしょう? 同じ道徳という実は何らかの上の立場からの強制、や集団催眠であるところの内的規制でありつつ、六波羅蜜は少し別格なのですが、八正道などは道徳という軸がはっきりしていますので、ふるいと言えるでしょうね。 ここの意味合い解りますでしょうか?、道徳だけでは本当に「元本に無明」にしろ自我問題(「阿頼耶識論」などで無意識領域としてそれを越えることの困難さが説かれたのも自我の構造論でしたよね)にしろ、とてもとても、解決なんてできないのです。 権力欲とか、名誉欲とか、いわゆる五感とは関わりない無意識領域と関わってしまう、人から絶賛されたい欲に引っ張られて、自我の殻を突破できないわけです。 道徳を説く仏典もそうなのですが、「空」を説く仏説もたしかに過去のものと私は思っています(これは、書き出すと長くなりますので略しますが) そうそう、「禅天魔」の他にあと3つ、日蓮上人は「律国賊」「真言亡国」「念仏無間地獄」とずばりと諫言されてますよね。 その辺はどう思われていますか? おっと話しが飛躍してしまいましたでしょうか。 でも「私がここに言いたい事の例」として少し書いておきますが、この中の「無間地獄」というのも「おとぎ話的たとえ話し」にすぎません。 それよりも、簡単に言えば、念仏に「人間」の「間」があるのでしょうか?、まさに「無間」でしょ!ということなのです。(これ、念仏宗の信徒や僧侶が「間」を持ってないなどという論議ではないのです。教えの内容のことを言っているのです。その肝の部分誤解されないように要注意!^^) 自我の内の想像力をいくらいじっても自我の内ということです。言ってることわかりますでしょうか。 末法では通用しないそれらの教えと「妙法蓮華経」とを区別できるところまで考えられてみることをお勧めします。 ★神の霊とか「=ブッダター」とかの下りは、そのようにも言えるという図式を見ているだけの気がして、それを「言って」(?)少しでも自我を乗り越えられるのか、突き抜ける力を得られるのか? まさか南無ブッダターとか南無神の霊とか唱えているわけではないですよね^^?、≫実践していることが、肝心ですから≪の? ≫実践≪って何を意味されているのですか? ここは、こちらとしては回答の能力が無さそうなのでパスしておきます^^。 ★確かに≫あたたかく接する≪だけで、教育力がなければ、苦しんでいる心(孤独な無意識の世界)は助けられませんよね。でも、少しも上下意識無しの状態で接するのでなければ、極悪人に好かれたり話しを聞いてくれるということもないと思います。 ☆★☆≫一発です≪これもパス!^^ ☆「暴対法関連」URLご紹介くださりありがとうございます。ゆっくり読ませていただきます。みなさんより私の方がその実態について詳しいと思いますが^^。 ★最後の下りについてですが、ブッダターが何を言ったかにかかわらず、仏法の賢人政治を実現できるような賢人たちは、反感を持つものをゼロにする教育力(洗脳の力ではなく理解させる力)を持っていると、私は思っています。 以上を再回答とさせていただきます。
お礼
回答ではなく 自説を延々とならべる曲芸であると見なします。 互いに主題を共有し論点を出し合って 互いの見解を突き合わせつつ 問い求めて行くという姿勢にはないと見ました。 これまでにお答えしたことによって すべて応答しえていると考えます。
- hokekyou333
- ベストアンサー率27% (3/11)
なにも、「権力」を「電磁力」、「意志」を「重力」に例えなくても、そのまま書けば意味が通じる文を、なぜ、例えを入れて問われているのでしょう? たぶん、電磁力で重力のある物体を浮かして隙間をつくり、権力の敷いたレールの上を逆らい難く少しの動力で効率的に一方の方向に走らせる力を「権力」に例えているといったことなのでしょうけれど、かえってこの人ほんとうに本気なのか^^と思ってしまいます。 ですが、これはおそらく、そういう文体での表現のくせと考えられるものとも思います。(たしかご自分でも、その辺のところだと思うのですが「くせ」と書かれていましたよね) 内容自体は深いことを問いかけようとしているようにも思えるからです。 例えの部分はほとんど無視させていただく形で回答させていただきます。(そのへんは あまり気にしないで書かせていただくということです。 資本の論理は、確かにその悪い面を浮かび上がらせるならば、弱肉強食のその面はさらに投機によって加速させられていて、そのパワーが政治に悪徳のレールを敷いてしまう、という面がありますよね。 ですが、可能性としては、例えば 仏国を実現出来た暁には、資本主義社会自体のままでも、投機自体が賭けや駆け引きを越えて仏の国を応援する形で働きますので、質がまるで違ってくるはずです。 すると、 資本の論理の本質自体を「=権力」とは、必ずしも言えない面があると思えます。 ですが、ここも そちらの質問の中での「資本の論理」という言葉を「=悪徳権力のレール」として解釈してみましょう。 過去にては大勢ほとんど変わっていないわけですからね。 私の場合その質問に対して浮かび上がる想いは、《暴対法との闘い》ということが、「経済の二重構造化」以前に切実な課題として考えられてきます。 この具体例を掲げさせていただいたのは、 もし、そのような具体例を考えてのことでないと、権力といっても意志といっても、あまりにも雲の上からさまざまな色と変化自在な二種類の雲の動向を回答せよと言うように、文字通り雲をつかむのような質問にも感じられてしまうからでもあるのです 仏法の方からの「罪と罰」の概念は、壮大なスケールのいわゆる3世に渡る因果論、輪廻転生を前提とした、しかも那由多劫も昔からの因果論という例えになっていて、さながら因果論の一大叙事詩の様相を持っているその中にて語られているものです。 そのへんが少し一神教の教えでの「罪と罰」の概念とは異なってくるとおもいます。 少しというのは、おそらく本質は同じなのですが、罰を因果の流の中にとらえんとする気迫のあたりが仏法のほうがレベルが高いと思われるのです。 十界互具論の境涯論はそれ自体奥が深いですよ。 十界がそれぞれ十界を互具しているという組み合わせで「百界」となっているわけですが、その意味合いが奥深いのです。 その境涯の因縁を解くには「妙法蓮華経」の五字を正しく法華経という叙事詩から拾い出さなければならない、という形にもなっていて、その全体の整合性も巨大なスケールです。 罰論自体、寓話の中のおはなしでありつつ、それは、たんなる「仏のお叱り」という物語を越えているわけです。 この寓話、この例えは、決して仏は、厳しい慈父であるとか、だから許すべきでない事には厳しいとか、そんな仏を馬鹿にすれば最大の罰が当たるのは当然とかの、子供のイメージの世界のような卑近で幼稚なイメージでとらえられる世界ではなくて、 仏自体は、完全に「人の深い因果」を悪の流の底にいたるまで理解されていて、まずどんな悪人にも、そのレッテルをいっさいはるはずがないと理解され解釈されるべきことと考えます。 これ、ほんとは当たり前のことですけどね。 一念3千(「百界」×十如是でそれを百回千如として、一念の中に一瞬一瞬おさめての、想いの世界、あるいは人間としての祈りの世界といった意味合いのものだと思ってます)の法門は、すべて、仏のその心あるいは想いの深さ大きさのたとえ話だと思う。 法華経には、常不軽菩薩という仏しか出ていないようなものです。どんな仏かというとそれは、、どんなに悪態をつかれようと、ひどいことをされようとどんな人間をも仏の可能性を宿した尊い命として礼拝しつづけた菩薩が仏ということになります。 それが「妙法蓮華経」の奥理なのですよ、どうして悪人に対して仏法上の罰なんてありえましょうか? 反省させて、未来の幸せへの道を歩ませることは必須と言っても、すこしも非難する心や上から目線の心は そこには存在していないということです。 私達凡夫がなかなかそんな心になれないのは解ってます^^。 でも、本来人間どうしは、友と友という存在どうしなのであり、その過去の「あやまち」に関してはすべて許し、その未来に関してはその「あやまち人」の地獄をではなく天国を魂の底から願い祈り、実際に正しい教育を行って更生させ、心身共に幸せになれる道を切り開く、そいういう努力は精一杯はということですが、しあうのがその道だと思う。 精一杯は、そのように闘いつづけてみるということです。 暴対法は、確かに「悪の因果の急流に生きるような荒くれ者」と関わる因果それ自体を押さえこんでしまおうという社会的権威、権力によって作られた法律ではあるわけです。 社会の存続のためには、過去の《「あやまち」を償って出直す形》を必須とした法律の世界です。 その意味では絶対的な権限と、正しさという概念に守られた法の世界といえそうです。 そちらの言われる(a)ですよね。 しかし、暴対法は、日本のヤクザ集団のように、そのような荒くれ者たちに規律をもたらす組織、ときには人間的に更生させんとする組織にたいしても、その流れへの恐怖から、その人たちのまともな生活を奪ってしまっています。 まさに》血も涙もないような《「社会法の論理」によってです。 更生施設は予測される歪の対策としても、少しは増えたのかというと相変わらずおざなりな形上の施設がほんの少しそんざいしつづけているだけ。 国家、マスコミ、大衆が恐怖にころりと負け、悪の流を、もはや教育する価値も無し、お手上げとサジを投げ、人間の良心の闘いを放棄してしまった姿のはてにこの暴対法は、その因果の流のまま、こうして生まれきたってしまったわけです。 そんな暴対法の闘いにおいて(これはもちろん一例ではあるのですが) 我々宗教者、あるいは宗教哲学者たち、またヤクザの中の人間教育を志向されている方々の無念さを、諦めるべきではないのに「経済的にも政治的にももはやどうしようにもない」ともがく そのへんの心情と対応策を問われているのが、そちらの質問の内容ととらえました。 ↓ 》では 人間とは何なのか? 社会とは何なんだ? どういう成り立ちをしているのか? どこへ向かうのか?《 ↓ 私達文明人の自我の殻の固さから考えても、仏法の人類史観「元本の無明」の深さから考えても、社会法だけではとうてい、この資本の理論、罰則を冷たく罰してしまうその正当化の論理を克服するのは、おそらくどこまで考えてもどこまで語ろうとも無理があると思います。 しかし、私達一人一人の命には仏の可能性が宿っている、そういう尊い命が人間なのである。、 その仏とつながったら直ちにすべての悪が許せるようになるというわけではないだろう。しかし心は明らかにその方向に向かう。 ならば、仏法を哲学でしっかりと把握して、それによる賢人政治を、社会法による民主主義を越えた形で実現させることが出来れば、悪のレールに「その意志」は いつか必ず勝てると信じてます^^。 資本主義も、その形上はほとんど変えずにも、変質が起こり、その時はままにてその質が仏国土になるでしょう。 おそらく、人類はそこに向かって今歩き出している。 (かどうかはともかく)私は今 そこにむかって命をかけて歩き始めている^^。 以上です。
お礼
ほけきょう333さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 自然科学の知識をタトエとして用いる。このことは ほとんどずるいハカラヒによって成り立っています。 おっしゃるように心的現象を扱うなら それとして理論形成すればよい。 自然科学を活用するのなら それとしてやはり理論形成しておかねばいけない。 なのに タトエとして用いようとする。 それは 自然科学の示す世界観――事実と言うべきでしょうか――を 一たん離れているにもかかわらず どうにかして心的現象の方面に活用したい。そんなことをしたら もう自然科学の事実ではなくなるのに その事実をなお――重力なら重力のあり方として――利用してみたい。 こんな感じだと思います。 ★ 内容自体は深いことを問いかけようとしているようにも思えるからです。 ☆ ええ。手前味噌になりますが そのように目指します。 つまり もっとざっくばらんに言えば 心の問題にかんして捉えたいし深く考えてみたい。そしてそのためには むしろデタラメなものごとを出して来て その世界に一たん自己をまた心を置いて じっさいの心の動きについて――ほんとうのところを――探ってみたい。これです。 自然科学の知識は けっきょく虚構として受け留めてみようと言っています。そのように自分の前に置かれた虚構の世界にわが身を置き心もそこで活動するという場をこしらえてみる。 そうすると あんがい現実の世界とのつながりがあると感じる。あるいは 現実の世界のことが むしろ見えて来る。 そういった思考実験であるかも知れません。 * ★ 仏法の方からの「罪と罰」の概念は、壮大なスケールのいわゆる3世に渡る因果論、輪廻転生を前提とした・・・ ☆ 別途設けられたご質問にもかかわりますが 《因果応報説をからめた輪廻転生論》は わたしにはお呼びではありません。無視します。 なぜなら 同じ DNA を持った人は自分のほかにはいないからです。生まれ変わりは 絶対に認められません。そのように過去世から現世にわたる悪因悪果・善因善果の議論は 成り立ち得ません。 たとえば かの拉致被害者たちは どんな前世の悪因によって その被害に遭ったのでしょう? あるいは もし因果応報としての輪廻転生を認めるなら けっきょくそのつどの今における行為はすべて自業自得として成り立っているというのが その理論的な帰結です。 なるほどそれは そうかも知れません。けれども そんなことは言う必要がさらさらありません。すべてのその都度の行為が そうなのですから。 というよりも そのつどの行為の一つひとつが 悪因悪果としてもそして同時に善因善果としてもまた無記因無記果としても成り立っていることでしょう。こんなことを言っても 意味がありません。一度に全部の要素があつまっていると言っているのですから。 * ★ 仏自体は、完全に「人の深い因果」を悪の流の底にいたるまで理解されていて、まずどんな悪人にも、そのレッテルをいっさいはるはずがないと理解され解釈されるべきことと考えます。 ☆ これは そういう物語です。言いかえると 冒頭で触れたような《タトエを用いた心的現象論》です。 自然科学の成果としての世界観を持ち出すか 神学のような話を引き合いに出すかの違いです。 ひと言で言えば ブディズムは もうふるい。でしょう。 ブッダター(仏性)は 神の霊である。これで おしまいです。 ブラフマニズムにおける梵我一如の焼き直しです。ブラフマン(梵)もアートマン(我)も 霊です。 ゴータマにあっては 無梵無我一如 です。有神論と無神論とが互いに同等であるように 無梵という無神は 梵という神と 同等です。 後世においては どうもこの無梵無我一如は しっくり来ないということで けっきょく 元の梵我一如に戻りました。ただし 名前は変えています。すなわち 仏仏一如です。 二つ目の仏は ブッダター(仏性)=タターガタ・ガルバ(如来蔵)のことです。 一つ目の仏は たとえば アミターバ・ブッダ(阿弥陀仏)であったり マハーワイロ―チャナ・タターガタ(大日如来)であったりします。 どちらの仏も 神の霊のことです。ブラフマンやアートマンと 名前が違うだけで 神の霊として同じものです。 このブッダターを言っておけば いちいち十界互具だとか一念三千だとかとまで言う必要はないと考えます。実践していることが 肝心ですから。また 十界論を知らずにでも 実践はし得ますから。 * ★ でも、本来人間どうしは、友と友という存在どうしなのであり、その過去の「あやまち」に関してはすべて許し、その未来に関してはその「あやまち人」の地獄をではなく天国を魂の底から願い祈り、実際に正しい教育を行って更生させ、心身共に幸せになれる道を切り開く、そいういう努力は精一杯はということですが、しあうのがその道だと思う。 ☆ たとえばの話ですが たとえばこのような説法のひとくだりは 何のために言い出されているのか? こう問うたとき それは 資本の論理が貫かれている政治経済の体制に対して 批判の目を向けないためではないかと言われたら どう答えますか? 批判の目は向けるのだけれど わるいことをやっている人がいても けっきょく常不軽菩薩の精神とおこないとによって あたたかく接して行きましょうと言っているとしたら どうなるでしょうか。 心をあらためるでしょうか。――どうなるか 分かりませんが。 ★ しかし、私達一人一人の命には仏の可能性が宿っている、そういう尊い命が人間なのである。、 ☆ これは 一発です。即身成仏。即得往生。 ★ その仏とつながったら直ちにすべての悪が許せるようになるというわけではないだろう。しかし心は明らかにその方向に向かう。 ☆ いえ。一発です。自然法爾です。ハカラヒなきを自然という。義無きを以って義とす。一発で癒されます。 * ★ 私の場合その質問に対して浮かび上がる想いは、《暴対法との闘い》ということが、「経済の二重構造化」以前に切実な課題として考えられてきます。 ★ 〔暴対法は〕社会の存続のためには、過去の《「あやまち」を償って出直す形》を必須とした法律の世界です。 ☆ この課題についてのひとつの問い求めとして 次を問いました。 【Q:部落民・在日朝鮮韓国人・暴力団についてのもんだい】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5995036.html たとえばもし賭博や見かじめ料などが社会にとって必要なことであれば いまの暴力団員を公務員として雇えという案が出ています。 * ★ 資本主義も、その形上はほとんど変えずにも、変質が起こり、その時はままにてその質が仏国土になるでしょう。 ☆ 舎衛の三億で行きましょう。ブッダターがともかくはたらく者が 三分の一。それに浮動層としてでも共感する者が 三分の一。反感を持つ者が あとの三分の一。
- kurinal
- ベストアンサー率10% (128/1195)
>「このいとしき・うるわしきわが重力は どこへ向かっているのか? 何を欲しているのか? 資本の論理に屈服しているとき 何を思っているのだろうか?」 何を欲するも何も、重力だからね。 >「どこへ向かっているのか?」・・・「重力」だからね? >「屈服しているとき」・・・重力を屈服、ということだから、なにか?アインシュタイン以上の、ということなんでしょうか。
お礼
お早うございます くりなるさん。ご回答をありがとうございます。 ☆☆(趣旨説明欄) 0. まづこの問いにかんするかぎり 自然科学の用語はすべて たとえでのお話ですとおことわりします。 ☆ というように 《たとえ》として捉えてください。 電磁作用のほうが 重力よりもつよい。ということのタトエとして捉えてください。どうでしょう。 そのときこの重力を ひとの意志だとして当てはめるなら その意志は 何を思っているのだろうか。こういう問いです。
上手く言えますかどうか 重力の場の中心即ち星やブラックホールの中心を欲と呼ぶ。 資本の論理に屈服するのは資本が生み出すエネルギー(利益)を欲が必要とするからである。 エネルギー(利益)を生み出す、政治的な要因: 権威・権力また権限も、欲にとっては貴重なエネルギー源である。 エネルギー(利益)をもたらさない資本や政治的権威権力に対しては、欲はなんの反応(興味)も示さない。 こんなところで、如何でしょうか。
お礼
いちかわせいじさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ 重力の場の中心即ち星やブラックホールの中心を欲と呼ぶ。 ☆ 質問の趣旨説明としては ○ 重力: 意志 と見たのですが この意志のハタラキにはいろいろな内容がある。したがって 一般に《資本の論理》のほうは みづからの目的に合わせた誘い方をするのでしょうね。すなわち ○ 重力: 《欲》としての意志 を誘導するというかたち。すなわち ★ 資本の論理に屈服するのは資本が生み出すエネルギー(利益)を欲が必要とするからである。 ☆ と。 ★ エネルギー(利益)を生み出す、政治的な要因: 権威・権力また権限も、欲にとっては貴重なエネルギー源である。 ☆ これは 《政治的な権威・権力また権限》の側が 資本の論理を駆使するというよりは その政治のチカラを 市民一般が おのれの欲を満たすために手段として利用するということでしょうか。 ★ エネルギー(利益)をもたらさない資本や政治的権威権力に対しては、欲はなんの反応(興味)も示さない。 ☆ ということは 一般市民が この資本や政治のチカラの側を それほど利活用できる立ち場にはいないからには 一般に企業などの資本家的活動としてそれぞれが 政治経済的権力の活用を競い合うというところでしょうか。 それは そうなんでしょうね。 そういったマネー&権益・ゲームが繰り広げられているのでしょうね。 いちおう 市民一般が資本の論理に屈服する場合というのは 次のように捉えました。確認のためです。 ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 2. 資本の論理というチカラに屈服するというときには ふたつの要素がある。そのチカラを 政治経済的な圧力と捉えるなら これを ふたつの要因に分けられるであろうか。 ( a ) 政治的な要因: 権威・権力また権限が 絶対的に圧し掛かる場合のそのチカラ ( b ) 経済的な要因: 政治的な(つまりいわゆる経済外的な)電磁力を振り払うに足る経済的な資力も自活力もない場合 やはり重くのしかかるそのチカラ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは 《欲》から自由な人間のばあいです。
お礼
《血を吐くまでに何かをしたこと》であるなら 相手にその話が通ると思っているところが 哲学以前です。 迫真の演技をすれば 相手を説得することができると思い込んでいるところです。 ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~~~~ 4. ・・・ このいとしき・うるわしきわが重力は どこへ向かっているのか? 何を欲しているのか? 資本の論理に屈服しているとき 何を思っているのだろうか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この問いに対して 《南無妙法蓮華経》を推し出して来るのは その資本の論理のもとにあえいでいるその喘ぎを そのまじないで忘れなさいと言っていることにひとしい。もし即身成仏でないならば。――こういう説明をして それ以上同じ演説をつづけることはやめてくださいと言いました。