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君達は無の悟りを自力では成しえない
- 無の悟りとは、信仰心を表し大乗はあやまりである。無の哲学は有無の明白な分別を養い、一切無と空を使い分ける処世術である。しかし、末法の世の僧はこのありに気付いていない。釈迦が「無根であり無い事柄である」と言っているが、彼の信仰すらも無根とし一切無を取り違えている。後世に出てきた言葉が「空」であり、無の悟りという重圧に耐えながらも信仰があり心が豊かであることを表している。
- 無の哲学は、有無の分別から発展して知恵を付けることであり、一切無の考えはできない。空を確かめ、実感したならば、一切無に拘らず生きていく必要はないということである。私は自称弥勒菩薩であり、君達は私に比べて未熟であると言っている。ただし、普段猿回し形式思索法で教えを乞うているが、今回はそれが必要ないと言っている。
- 君達が理解できないのは、慈悲を乞うことではなく、慈悲を発露することであり、救いを乞うことではなく、救うことであるという点である。君達の愚かさの内訳を吐露してほしい。
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ふふ^_^ いいんじゃないんですか? 墓守なんてしなくても。自身の考えで歩く方が責任があっていい。
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- kurinal
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flareon様、こんばんは。 >「自力では成しえない」 「釈迦が特許を取った」ということなら、ともかく。
お礼
ありがとう。 特許がないなら同じ事おして良いかと言うとそうでもないんだ。 自らの信仰を持つ事が大切で釈迦の信仰を待てても意味ないよ。 我は仏陀であるとでも言う様な信仰が大切だ。 コレは喜びを持って私は人間なのだなとかみしめる事だよ。 君は苦し紛れに所詮俺は人間なのだなとか何とか考えている事だろう。
補足
要らん事書くよ。 アマテラスさんと馴れ初めのころ、私は幸福の絶頂で、神と言うアマテラスさんにしろ仏と言う自分自身にしろ誰かに語るとしたら、語られた人物は理解できる前提だった。 どんな感じかと言うと、私が他者と向き合えばそこに他者は自らが神か仏そのものとして接しられたと思い、そして私の心が判った気になった。 しかしだ、その他者はどいつもこいつも私からむしり取ることに熱心で、そして私は改めて死を体験した。 君達に殺されたのだよ。 そして君達に対しても死を語るようになった。 お釈迦さまも割と露骨に無を悟れとしお薦めているし、私も単刀直入に死ねと言う。 ちょうどイエスさんがアマテラスさんと馴れ初めのころの私の行いに似ているが、彼は殺されているね。 君達の信仰心や神に求める心はそのようになるのだよ。 ところでイエスさんは磔獄門にされるまで君達に神を示す事をあきらめなかったのだろうか?非常に懐疑的だよ、それは長続きしないんだ。イエスさんは磔にされる頃には君達に愛想を尽かし、裏切っていたと思うよ。 そう考えると君達の場合さらに苦しくなるだろう。 そもそもイエスから神を奪おうとしていたのが君たちだ、そしてイエスさんがそれを拒むのは必然なのに、君達はそれお裏切りだと考える。 イエスさんの処刑は君達の招いた必然だよ 観念上の死の儀式とは絶望の事だ。 今年の仮面ライダーウイザードは絶望から転生するファントムと言う魔人が敵役だ。
- kurinal
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こんばんは。Ano.4の者です。 私は、「「「ナニモノ」かに」とらわれると、苦しい。」と考えています。 Ano.4で頂いた、お礼と補足の内容には、かなり苦しいことが含まれているように思います。
お礼
ありがとう。 何かに思いや考えがとらわれて、自分自身の思いに自由がなく苦しい。 そう言いたいんだね。 使い古された仏教に出てくる考え方だね。 そんなのなきゃいいのに。 こう考え、無を憧憬する。 こうなるとそんなもんありゃしねーの連鎖で死に向かうのだろう。 その死の未来と運命に立ちはだかり君を盲目にしているのは、君自身に取りついた悪意で、だからこそ将来の無い無明なのだろう。 未来の盲目で無い状態が縁起が理解できるという言い回しだが、この生の躍動は、死の超克と言う悪魔の仕事と表裏一体で、最も手っ取り早い理解と悟りの方法が、観念上で実際に死の儀式を執り行う事だ。死の喜びを持ち理解しきったと心が躍るまで死の想像を続けそれを完結させるのだ。 こんなお粗末なアドバイスしかできないので、君達はいっぺん死んでみる必要があるとか、君達の道のりは死の道のりだ、とか言っているのだが、私に不平不満をこぼさないでくれ。 そもそも現代も続くインドの荒行がこれだし、お釈迦様の道のりもそれだ。 実際私自身それ以外の方法を知らない。 哲学で死について真剣に話し合えば、そこで死の解釈が完結し、死と絶望の門が、高速道路みたいにあっさりと片付くかもしれないが、君達は死お望んでいると何度もこの話を持ちかけても誰も乗ってこないね。 あくまでも私には君達は死でようやく完結するようにしか見えなくてね。 高速道路を作る気になれないんだ。
補足
ところで、インドの修行、お釈迦様の悟りこれらは観念上で死んだ気持ちになって、屍をさらす醜い生き方から、真実の生へと転生するいわば復活だ。 復活するはずの御本尊が神を語るイエスさんとして君達は見ているだろうが、当の御本尊こそ観念上で死んだ気持ちが判るどころか、実際に処刑されるという一発芸で笑いをとった張本人だ。 死んだまま、屍をさらす生き様からの復活が、死を理解することで、私はそして死の悟りを通過したが、人間(仏)を自覚するのかと思ったら、自覚したのは神存在だったよ。そのようにしてアマテラスさんと仲良くしている。 君達が死を理解できないのは死んだ事がないからだよ。 死ねばもちろん理解できる。 ここで悪魔が跋扈するのだ。 死は言葉では言い表せない。 無の悟りの、内訳として語られる幸福は、全て死の悟りだ。 高速道路の料金所は、悪を愛する事にある。 悪を許すだけでは不完全だが、私に言わせれば、赦す許さないの話を持ちかけられたなら、もちろん私は赦している。 それどころか愛しているのだ。 このような私には、君達に許されざる神が、悪魔として辱められた姿で転がり込んでくる。 かわいいポケモンとしか言いようがない。 そう言う事で神や神への信仰のあり方が精霊として私には映るのだ。
- kurinal
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こんばんは >「自力では成しえない」 くみ取ってくだされ。
お礼
ありがとう。 そうさな、私は「我が信仰の大道を行け」と推奨しているがコレは本来語りつくされた事で、仏陀と言う言葉がそもそも、信仰に目覚め自らを自覚する人位の意味だろ。 どうしても自分でしなければいけない事を自力ではできないとあきらめちゃいかんよ。 ただな、無が判れば仏陀と言う訳でもないのだ、、何でもいいのだよ。 ただ空に喜びその一方で無を求めると言う事は、一切無を判らないでそんなもんありゃしねーの病に取りつかれるデッドリーな状態で、死を求める心が止む事はないのだよ。 このような助言だけで助けてやる事にはなっているぞ。 後はテメーで何とかしろ。 それから土下座はどうした。
補足
いい事を教えてやろう。 ブラフマン/アートマン コレをな、個人的には、 うるわしのジラーチちゃん/ときわたりセレビィの私 こういう関係にしていわゆる神(私の場合ポケモン)と交流している。 こののどかなやつが私のうちたてた信仰だ。 無は付録だよ。 そう言わけで何でもいいんだ。
以下、六祖壇経より 無念: 君たち、我々の法門は、昔からすべて、無念ということをおしたてて宗旨とし、無相を主体とし、無住を基本としてきている。 無相とはどういうことかというと、無相とは相の中にいてしかも相を出るのである。無念とは、念の中にいてしかも念じないのであり、無住とは、人間の本性のことである。一瞬一瞬の心の流れが止まらなければ、過去より現在、未来へと心は絶えず働いて、途切れることがない。もし一瞬でも切れたら、法身はすぐさま肉身を離れることとなる。・・・つづく 中央公論社 世界の名著18 禅語録より抜粋。一部字義のわかりやすいように漢文読み下しより参照。
お礼
ありがとう。 それが君達が語り継いだ先人の知恵と言う事だろう。 私は自分で考える方が好きだし、それしかしてない。 墓守の忠犬ハチ公はまっぴらだ。
無とは、余計なものが無い、という意味で捉えると良いのではないでしょうか。 六祖壇教を読まれると、無念や無相、無住について説明を読むことができます。 あるいは、無とは、新鮮な、くらいの意味で受け取ると良いかもしれません。
お礼
ありがとう。 ようやくあなたの意見が聞けたよ。 はりつけみたいなのだと判んないんでね。 簡潔だが十分だよ。 暴れるからよろしく。