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19世紀後半のビスマルク内政について御願いします

ビスマルクは外交においては有名ですが、反対に内政についてはどうでしたでしょうか?俗に鉄血宰相といわれていましたが、具体的なことはどのようなものだったのでしょうか?

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  • zep19
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回答No.2

統一前プロシアに導入された普通・不平等選挙法(三階級選挙法)により自由主義政党進歩党が台頭し 政府と予算審議権をめぐる憲法紛争が起きました その中で宰相として登用されたのがビスマルクで 彼は事後承諾案を通し、議会の意向をある程度無視して強引に統一政策を遂行 実はビスマルクも政府も保守政党、自由主義政党何れも 統一は拡大プロシア的合併・吸収では不可能で連邦制導入しかないと考えており 進歩党はビスマルク支持の国民協会派が分離し自由国民党を結党 ビスマルクはこの自由国民党と保守諸政党を支持基盤に統一を達成します 統一後のドイツは連邦制を採用し、政治決定は各邦政府間の交渉を重視し 直接税は各邦に 帝国政府の財源は間接税、関税、郵便電信からの歳入と各邦からの拠出金となりました 連邦制であるゆえに議院内閣制と相容れず、政府・議会の二元的政治体制となりました ビスマルクの経済政策は自由主義的観点からの法整備、経済的統一を図りました 刑法、度量衡法、貨幣法を制定し、統一的裁判所システムを導入する一方 既に政治統一以前にある程度の経済的統一を果たし、他国に例のない重工業を起点に産業革命を起こしていたドイツ関税同盟を下地に 帝国中央銀行を設立し、金本位制を導入しました しかし1873年アメリカからの安価な農産物流入で農産物価格が暴落、オーストリア発の世界的恐慌となり イギリスを除く欧米諸国は保護貿易体制に移行します(自由主義から帝国主義への転換期) これが元でドイツ国内の重工業界と農業界がライ麦と鉄の同盟をつくり保護貿易的政策を政府に要求 ここに来てビスマルクと自由主義的政策継続を求める自由国民党が決別 ビスマルクは文化闘争で厳しく糾弾していたカトリック勢力とその政党中央党と和解妥協 ビスマルクは7年間の予算一括承認するゼプラナート方式を導入 再び自由主義政党との対決色を強くする一方、台頭してきた社会民主党には社会主義弾圧法で応じました ビスマルクの特筆される社会政策である世界初の社会保険制度導入は 労働者を家父長的、道徳的義務による国家からの受益者とする一方 それをもって議会や政党を弱体化する意図がありました ビスマルクは保険料の全額国家負担にすべく新たな間接税タバコ税導入を図りますが、自由主義政党の激しい抵抗で頓挫 保険料は企業、労働者の折半となりました

ithi
質問者

お礼

とても詳細なご説明ありがとうございます。 ドイツ帝国はやはり君主国の連邦制を取らざる負えなかったのですね。そして、その中で統一国家としての基盤を整備していったのですね。

その他の回答 (1)

  • gootttt
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回答No.1

彼は近代最大の政治家であり、ドイツという国の創造者です。 彼の業績を大雑把に言うと、様々なイデオロギーと暴力が吹き荒れる近代欧州において、ドイツ語地方を束ねて一つの強固な国家を作ったということです。 まず単純に考えてみてください。 ビスマルクがプロイセンというドイツ語地方の小国の宰相になる前はドイツという国は存在しなかったわけです。 しかし、ビルマルクが欧州東部のドイツ語地方の小国を束ねて、鉄血政治を行った結果ドイツという国が生まれたわけです。 そして、そのドイツは2度の敗戦と国土の分断まで体験したのに、ドイツはドイツとして存在しているのです。 これがビスマルクが行った内政の結果です。 そのために、まず国民統一のシンボルとして皇帝を立て、憲法を作り、通貨・関税・司法を統一し、巧みな議会戦略により様々な勢力を収束させ、明らかに妥協・取り込みが不可能な社会主義者たちを弾圧し、社会保障制度を拡充させたわけです。 詳しくはウィキペディアをご参照ください。 http://bit.ly/15prK7k

ithi
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 外交だけでなく、内政でも彼は老獪な方法で掌握していたのですね。改めて彼のすごさを感じます。

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