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夕鶴つうは夫の与ひょうを去った理由
- 夕鶴つうは夫の与ひょうを去った理由について、信頼の問題やお金に執着したこと、または夫に尽くすことと自身の生命を犠牲にすることの意味などが考えられる。
- 与ひょうの家に一人の女性つうが訪ねてきて、夫婦として暮らし始める。つうは素敵な織物を与ひょうに作り、売れると評判になるが、与ひょうがつうを織る姿を見てしまう。その姿は与ひょうが助けた鶴の姿をしており、つうは正体を見られたことで与ひょうの元を去っていく。
- 与ひょうを助けた鶴の姿を織り込んだ布「鶴の千羽織」が売れ、与ひょうにもお金が入ってくる。しかし、つうは与ひょうが織る姿を見られてしまい、傷ついたまま空に帰っていく。夕鶴つうは夫の与ひょうを去った理由は、信頼の問題やお金への執着、そして自身の生命を犠牲にすることの意味などから考えられる。
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こんにちはです。 ☆☆☆☆☆☆ ☆なぜって、恋愛は理性的に考えて始まるものじゃないんでしょうから、無自覚というべきなのでしょう。この無自覚が、惚れ薬とか、エロスの矢に象徴される宿命の罠である可能性もある。そうやって話を大袈裟にすると話を面白く演出できる。ただそれだけのことでは。(NO24) ◇という面はあると思います。エロスの矢、惚れ薬・愛の妙薬は、その不可思議な心の働きを、恋愛心理を象徴しているのかもしれません。 ハタから見ると、何で「○○は何であんな奴を好きになったのだろう」と見える恋愛、ありますよね。 その「何で?」の説明のために、「エロースの矢」が古代ギリシア人によって考案されたのかもしれませんね。 惚れちゃったら、どうしようもない。 無理に両者を引き剥がそうとすると、両者の絆はさらに強固になって、《ロミオとジュリエット》のようになってしまう。 《ロミオとジュリエット効果》!! http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%9F%E3%82%AA%E3%81%A8%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%82%A8%E3%83%83%E3%83%88%E5%8A%B9%E6%9E%9C これと似たようなもので、さらに不思議なココロのハタラキの一つに、《ストックホルム・シンドローム》なんてのもあります。 ───────── 1973年8月に発生したストックホルムでの銀行強盗人質立てこもり事件において、人質解放後の捜査で犯人が寝ている間に人質が警察に銃を向けるなど、人質が犯人に協力して警察に敵対する行動を取っていたことが判明。また、解放後も人質が犯人をかばい警察に非協力的な証言を行ったほか、1人の人質が犯人に愛の告白をし結婚する事態になったことなどから名付けられた。 ───────── http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%9B%E3%83%AB%E3%83%A0%E7%97%87%E5%80%99%E7%BE%A4 ☆☆☆☆☆☆ なのですが、 悲劇・メデイアに登場する夫のイアソンって奴が、超~最低の野郎なんです。 「わたしの手助けがなければ、あなたは死んでいた」とメデイアが言うと、 イアソンは 「俺はお前に恩なんてものはない。感謝すべきは、(エロースに弓を射させた)愛の神・アフロディーテだ。お前が俺を助けたのは、俺への愛ゆえにだ。だから、おめえに恩なんてものは、まったくない。野蛮で草深い田舎から、文明国のギリシアに連れてきたんだ。お前は、俺に感謝すべきなのだ。俺のおかげで、お前の賢明さはギリシア全土に知れ渡ったのだから」 と言って、自らの裏切りを正当化します。 さらにこんなことまで言い放つ。 「お前をもっと愛しておけばよかった。ベッドの中でたっぷり可愛がってやりゃ~、女は不満・不平を言ったりしないものだから!!」 男として、最低の野郎なんです、イアソンってヤツは。 ───イアソンに限らず、ギリシア神話に出てくる英雄はどれも似たような、超自己中な野郎ばかりです─── 世間・近所の女性たち(コロス・合唱隊)は 「持参金を持って嫁ぐ。なのに、家にはいれば、夫にこき使われる。女なんて。。。」 と嘆き、メデイアに同情を寄せます。 ここに、妻から夫への一方的献身という《搾取と被搾取》の構図がみてとれます。 事実、メデイアをこの図式、マルキシズム的に解釈した映画作品も存在するそうです。 おつうさんとヨヒョウをこの図式で考えることには反対なのですけれど、 なのですが、 夫にひどい仕打ちに耐える妻、にもかかわらず夫に尽くす妻を是とする、前近代的な価値観・夫婦観が夕鶴の背景にあることだけは、事実でしょうね。それを美徳としている。。。 ☆☆☆☆☆☆ なんか、救いのないことばかりを書いてしまいました。 なので、リヒャルト・デールケの《浄(められた)夜》という詩をご紹介します。 ──────────── 浄夜 (リヒャルト・デーメル/訳:新田 誠吾) 冬枯れの森を歩く二人がいる 月がついてきて、二人は顔を見合わせる 月は、高い樫の木の上にあり 月夜をさえぎる雲一つない 夜空に木々の黒い影が突き出ている 女の声がする お腹の子は、あなたの子ではないの あなたにも迷惑をかけようとしている 取り返しのつかない過ちを犯してしてしまった 幸せというものがあるとは思えなかった それでも生きがいを見つけ、母親の喜びや務めを 味わってみたかった 身の程知らずにも、知らない男に自分の性を抱いてもらった 今思うとぞっとする 私は身ごもり、人生の報いを受けた そうしてあなたに、あなたに出会った 女の足取りは重い 見上げると、月がついてくる 女の暗いまなざしは、月明かりに呑まれる 男の声がする できた子どもを 心の重荷にするな ほら、夜空がこんなに輝いている 何もかも包み込む輝きだ 冷たい海を僕とさまよっているが 君の温もりを僕は感じ 君も僕の温もりを感じている その気持ちがお腹の子を浄めてくれる どうか僕の子として産んでほしい 君は僕の心を照らしてくれた 君しか考えられなくなった 男は身重の腰に手を回す 二人の息が空中でキスを交わす 二人は澄みきった月明かりの夜を歩く (訳は、2011/05/16に改訂) http://blog.livedoor.jp/audimax1/archives/50705587.html ──────────── おつうさんは、自分の正体が鶴であることを打ち明けないまでも、 布を織ることを拒否する勇気を持つことが大切だったのではないですかね~。 嘘で塗り固められた、虚飾の幸福は、いずれ破綻するので。 ☆☆☆☆☆☆ ☆そして猫様のやっているのは、あれでしょう。前にぶらじゅろんぬさんのところでも書きましたが、理想的な恋愛というものを想定して、個々の恋愛の卑俗な点を冷笑する態度。これは夢を見過ぎだなあというのが私の感想で、 猫様、失敬な言い方かもしれませんが、恋したことないんじゃないかという疑惑を私は持っています(笑)。 ◇わたし、結構、鈍感です。女性が自分に好意を寄せていても、なかなか気づかない(笑)。 実は、わたし、つい最近まで、ちょっと不倫っぽい恋愛(なのだろうか?)をやっていまして(ポリポリ)。 一線は越していませんよ。 わたし、ネコなのに、《草食性》なので。
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- MOG777
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恩義と約束を破ること。 どちらの比重が重いのか? 現代的に言い換えれば、債務の不履行は損害賠償で償えるか? つまり「損害賠償すればいいんでしょ?金なら払うよ。また約束破るけどw」は許されるのか? 個人的意見を言えば、経済的利益などは信義が残っていれば回復可能だが 一方、「信なくば立たず」というように信義がなければ社会的関係にしろ男女にしろ 成り立たないということかと思う。 簡単に言えば、「損害賠償すればいいんでしょ?金なら払うよ。また約束破るけどw」 というような社会というのは成り立たない。 憲法論的にも、思想良心の自由の保証という不変の核が無くなれば 経済的自由の回復というチャンスもなくなる。 結論として、債務の不履行は損害賠償で完全には償えない。 この問いでいうならば、恩義は感じるが約束を破られたらもう無理なのである。
お礼
もぐ777さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 もう一件回答をもらっていますが まづこちらのご見解として受け取ってまいります。 次のふたつの理由が合わさっているというものでしょうか。 A. 見るなという約束を破ったので 信頼し得なくなった。 B. おカネに目がくらんでしまったから もとの与ひょうでなくなった。 すなわち ★ ~~~~ 結論として、債務の不履行は損害賠償で完全には償えない。 この問いでいうならば、恩義は感じるが約束を破られたらもう無理なのである。 ~~~~~~ しょうじきに申しますと これは意外な捉え方であるかと思いました。 《冷たいけれど それにはまっとうな理由があるのだ》といったところでしょうか? 率直に申して つうは・そして いかにおカネに目がくらんだとは言え与ひょうも 《権利・義務》なる概念が最終的にモノを言う世界には住んでいないのではないか。こうは思います。 たとえば ▼ (木下順二) ~~~~~~~~~~ ことばの点でいえば つうは私の造語でいうと 《純粋日本語》をしゃべり 他の男たちは私の造語でいうと 《普遍的地域語》をしゃべる。 ( 夕鶴・彦市ばなし 他二篇―木下順二戯曲選〈2〉 (岩波文庫) 〈あとがき〉) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ というごとく またさらにあるいは つうは おカネというものを知らなかったという設定になっています。 ぎゃくにそれだからこそ 約束ないし信義の問題で自分のことがないがしろにされたしまったなら 大きく憤慨したということなのでしょうか? ▲ (夕鶴) ~~~~~~~~~~ 【つう】:与ひょう あたしの大事な与ひょう あんたはどうしたの? あんたはだんだん変わって行く。 何だか分からないけれど あたしとは別な世界の人になって行ってしまう。 あのあたしには言葉の分からない人たち いつかあたしを矢で射たような あの恐ろしい人たちとおんなじになって行ってしまう。 どうしたの? あんたは。 どうすればいいの? あたしは。 あたしは一体どうすればいいの?・・・あんたはあたしの命を助けてくれた。何のむくいも望まないで ただあたしをかわいそうに思って矢を抜いてくれた。それがほんとに嬉しかったから あたしはあんたのところに来たのよ。 そしてあの布を織ってあげたら あんたは子供のように喜んでくれた。だからあたしは 苦しいのを我慢して何枚も何枚も織ってあげたのよ。それをあんたは そのたびに《おかね》っていうものと取りかえて来たのね。それでもいいの あたしは。あんたが《おかね》が好きなのなら。 だから その好きな《おかね》がもうたくさんあるのだから あとはあんたと二人きりで この小さなうちの中で 静かに楽しく暮らしたいのよ。 あんたはほかの人とは違う人。あたしの世界の人。 だからこの広い野原のまん中で そっと二人だけの世界を作って 畑を耕したり子供たちと遊んだりしながらいつまでも生きて行くつもりだったのに。・・・だのに何だか あんたはあたしから離れて行く。だんだん遠くなって行く。どうしたらいいの? ほんとにあたしはどうしたらいいの?・・・(pp.44-45) ~~~~~~~~~~~~~~ ここで次のご投稿のほうにまいります。
お礼をありがとうございます。正直、私はどうもマルクス主義と絡める理由がよくわかりませんでした。別にこれ、夕鶴が例でなくてもいいんでないかい。母が作ってくれた手作りのマフラーを売れるかどうか、とか、そういう話でいいのでないかい。平田さんって人はあまり感心しないなあ。ぶらじゅろんぬさんの抜粋以外、読んでないわけですがね。 男が搾取していたのか、ブラック企業かどうか。私は何ともそうは思わないですよ。男女の間だとよくある話に思えるんです。 >かえって異常な恩返しの仕方にすら映ります。 いやー、私もそういう風に尽くしてもらった経験がありますよ。別に搾取しているつもりはありませんが、あとあと思うと、私はまずかったなあ、何も考えずに彼女に甘えていたなあ、と反省したりします。まあだからこそ、喧嘩しないと行けないんだよな、喧嘩できるくらいに自由な雰囲気を作って行かないとならないんだよな、と自分の経験を顧みて思うわけです。ぶらじゅろんぬさんも、そういうところかなと思っていましたけれども、違いますか。 >○ なぜ 人間と鶴とは 一緒にいられないか? 猫様あたりがいろいろと掘り下げているようですので、それにお任せします。しかし私は単純だと思いますね。人間同士でも、一緒にいられないのを無理して一緒にいるケースは多いわけです。他の方が書いている部落問題に限りませんよ。学歴が違う、趣味関心が違う、セックスの相性が悪い、年が離れている、などなど。しかしそんなことを書いても、誰も喜びはしない。こういう男女の問題にある普遍的な落差を奇麗な形で比喩にしたら、人間と鶴というものになっただけじゃないか、と思います。もちろん日本の古代の神々を念頭においているでしょうが、神話を混ぜると、話は途端に抒情的になりますねえ。 >そう言われてみれば そういう問題もありましたね。 文学談義については、人に厳しく自分に甘くないですかい。Bさん、いいのか、それは(笑)。こういうことを言うと、ナントカ三世が大喜びで御馳走にしてしまうやも知れません。まあサービスなさっているんでしょうね。
お礼
ご回答をありがとうございます。 今回は いくつかの弁明が必要でしょうね。と考えて 順番を先にしてご返答します。 ★ 正直、私はどうもマルクス主義と絡める理由がよくわかりませんでした。別にこれ、夕鶴が例でなくてもいいんでないかい。母が作ってくれた手作りのマフラーを売れるかどうか、とか、そういう話でいいのでないかい。 ☆ と聞いて あぁそうだったかと一度はうなづいたあと やはりしっかりしなきゃあと思ったことは 夕鶴のばあいは《去って行った》ということが 違うと言えば違うでしょうね。 そしてこれは鳥だから 空へ向けて去って行ったわけですが 死力をつくしたということから言えば 死を賭したことになったとも読めるわけです。そのつうの織った布ということになりますから けっきょくクリスチアニズムの理想の国を求めるという意味で同じ軌道にあると考えられたマルクシズムと絡めることになるのだと思います。(そうするのがよいとは わたしは正直思いませんが)。 ★★(回答No.5) 鶴はギフトを残して行ったけれど、男がこれで幸福になるなんて思っていないでしょう。むしろ罪悪感でいっぱいになって、恥じ入るであろうことが分かっている。 ☆ 純情マルクシズムというのもあるのですよ。D さんが軌を一にしているとは考えませんが その雰囲気に通じるものがあるように見えたというところです。つまりは――おそらく平田清明もそうだったと思われるごとく―― やはりブラック企業から自由な社会を希求しておられる。といった共通項です。(その点で クリスチアニズムの天の国の希求とは微妙に違うはずですが)。 どうですか? 読み過ぎ・読み違えでしょうか? ★ ぶらじゅろんぬさんも、そういうところかなと思っていましたけれども、違いますか。 ☆ わたしの場合は けんかの一つや二つすらも出来なかった。そういう物語だった。で済む問題なのでした。 あっ まだ説明不足ですね。つまり 物語がまだ始まらなかった。永遠に始まらなかった。そういう意味でけんかをすることすら出来なかった。ですかね。(わかりにくいですか)。 ★ ~~~~~ 他の方が書いている部落問題に限りませんよ。学歴が違う、趣味関心が違う、セックスの相性が悪い、年が離れている、などなど。しかしそんなことを書いても、誰も喜びはしない。こういう男女の問題にある普遍的な落差を奇麗な形で比喩にしたら、人間と鶴というものになっただけじゃないか、と思います。もちろん日本の古代の神々を念頭においているでしょうが、神話を混ぜると、話は途端に抒情的になりますねえ。 ~~~~~~~ ☆ これは 或る意味(つまり 上のように言った反面で)重要であって 心しなければならない注意点ではないでしょうか。そうして もし問題点がそれだけのことであった場合には もうそれ以後の話は純粋な文学談義あるいは心理学講座ですから 哲学としては撤退するはずです。 ★ ~~~~~~~ ・・・まあだからこそ、喧嘩しないと行けないんだよな、喧嘩できるくらいに自由な雰囲気を作って行かないとならないんだよな、と自分の経験を顧みて思うわけです。 ~~~~~~~~~ ☆ D さんとのやり取りとしては このあたりですかね 落としどころは。 あっ 読み返して 次の一点は まさに哲学の問題ですね やはり。 ★ 人間同士でも、一緒にいられないのを無理して一緒にいるケースは多いわけです。他の方が書いている部落問題に限りませんよ。 ☆ 一緒にいられない理由がほかの場合はいざ知らず この人間の自己形成以前の問題によって その《人となり》が左右されるというのは 哲学が対処せずにはいられない問題ではないですか。 つまりどうしても一緒にいられない理由には 基本的にはならないと言わねばなりません。部落民差別は 無効です。 部落問題 ここでは正面から取り組むつもりはなかったので 触れておくだけにしたいとは思います。(すでにかなり扱って来てもいます)。 こんなところでしょうか。
- NemurinekoNya
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☆ うがやふきあえずのみこと の母親は何て名前でしたっけ。 ◇トヨタマヒメの命(みこと)ですね。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A8%E3%82%BF%E3%83%9E%E3%83%92%E3%83%A1 ここの「参考」には、 ───────── 『記紀』に明確な記載はないが、豊玉という名前から勾玉の一大産地であった出雲の姫であるとの指摘がある。 松村武雄(1884-1969)によれば、女が本国人の姿で出産し、これを見ることが禁忌であるのは女が夫の神と異なる部族の神を祀る物忌みの期間が夫にとって呪禁であり、これを犯せば社会的制裁を受けるという習俗の反映であり、ワニに化したのは海人族がワニをトーテムとして崇拝したことを示唆する。 産屋にウの羽根を用いるのは安産呪術であり(『釈日本紀』『日本紀纂疏』)、産屋が設けられたとき天忍人命がカニを掃ったのは生児の長寿息災をことほぐ類似呪術であり、産屋を完全に葺かずにおくことは生産習俗であり(沖縄)、産屋を海浜に設けるのは水の神秘的勢能による生児の霊力の証示と関連する。 ───────── などと書いてあります。 神話学・民俗学的には、 産褥のケガレを受けたと解する方が自然なのかな、と思います。 そして、 イザナギ・イザナミの場合は、 《死の穢れ・死穢》なのでしょうね。 イザナギは、地上に戻ると、「穢れたところに行ってしまった。ああイヤだ。水浴びしよう」みたいなことを言って、事実、水浴び・禊をしていますから。 この他に有名どころでは、《葛の葉》伝説なんてのもありますよね。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E3%81%AE%E8%91%89 恋しくば尋ね来て見よ 和泉なる信太の森のうらみ葛の葉 うらみ。。。 この「うらみ」の「うら」は、葛の葉の裏を見るということで、葉の縁語と解釈するのかな。 それとも、 「恨み」、「恨み言」の意味もかけているのかな。 歴史的には、葛の葉伝説の方が先行していますので、鶴の恩返しというお話はそのヴァージョンの一つと考えるべきなのでしょう。 と身も蓋もない話をしてしまいました。 中国ですと、 《白蛇伝》でしょうか。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E8%9B%87%E4%BC%9D 伝え聞くところによりますと、 白蛇伝のヒーロインは、 「私は蛇よ。それがどうしたのよ」 と開き直りを見せるそうです。 物語の中での女性、中国では強いです。 日本とは大違いです(笑)。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ◇ トヨタマヒメの命(みこと)ですね。 ☆ どうもこれは そのヰキぺの松村武雄説によれば 宗教・ナラワシの違いによる違和感なのでしょうか? 文字通りの《わに》の問題ではない。 それと同じように 《鶴》という文字どおりの理由が問題なのではない。かどうか? ◇ この他に有名どころでは、《葛の葉》伝説なんてのもありますよね。 ☆ これだとすると――これは 《狐》のようですが―― 被差別民の問題であることが色濃いように思われます。 部落問題は ここでそれとしては扱わない方針ですので ここらあたりまでですかね。意外と早かったみたいです。
- NemurinekoNya
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NO4に付け足し。 NO3の 「妖(あや)し・超自然の存在は、ヒトとともに住めないのだ。元いた場所に帰らないといけない」 を 「妖(あや)し・超自然の存在は、ヒトとともに住めないのだ。〔正体を知られたからには〕元いた場所に帰らないといけない」 としてください。 物語としては、 〔正体を知られたからには〕はとても重要な事柄なので。 正体を知られたからには、 もう、元鞘には戻れないんですよ、 双方がいくら努力をしても。 正体は鶴だし、蛇・ワニだし、雪女だし、死人だし。。。 この事実は、努力によって変えることもできなければ、これを克服することもできない。 「過去は変えられない。でも現在と未来は変えられる」どころの生易しい話ではないので。 おつうさんにはヒトではなく自分が鶴だという負い目が、与ヒョウには不信の念と薄気味悪さが常につきまとう。 二人は、この後、忍従の生活を送り続けなければならない。 なので、 別れて正解だと思いますよ。 これ以外の選択肢はなかったんじゃないですかね~。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ◇ ~~~~ 正体を知られたからには、 もう、元鞘には戻れないんですよ、 双方がいくら努力をしても。 ~~~~~ ☆ これが 禁忌という社会のナラワシではないでしょうか? これを打ち破るのが 哲学だと思うんですが。 ◇ ~~~~~ 正体は鶴だし、蛇・ワニだし、雪女だし、死人だし。。。 この事実は、努力によって変えることもできなければ、これを克服することもできない。 ~~~~~~~ ☆ 《死人》の場合は たしかに論外でしょう。一時のまぼろしにしか過ぎないと思われますから。 《雪女》の場合は ただ好きか嫌いかで分ければよいのではないでしょうか。問題は 好きでも一緒にいられない・引き裂かれるといった場合です。 《へび・わに》に場合は どう捉えればよいでしょう? 肌の色は関係ないとすれば 宗教の違いなのでしょうか? これは 哲学による宗教論があつかいますよね。 《鶴》は どうなんでしょう? 社会の禁忌・ナラワシといった問題なんでしょうか? ◇ おつうさんにはヒトではなく自分が鶴だという負い目が、与ヒョウには不信の念と薄気味悪さが常につきまとう。 ☆ 《鶴だという負い目》が ひとの勝手に不当に作り出したナラワシだとすれば たたかってもよいでしょう。それがいやなら 二人のうち一人でもいやなら 仕方がないでしょう。
Bさん、文学(=いや、学問というような高尚なものじゃなくて読書感想文)としては答えられるんだが、哲学として答えるにはどうしたらいいのか、わからないなあ。いや、Aさんのところでのやり取りを思い出すと、どうしてこっちは哲学なんだろうということがまだ私にはよくわからないんですよ。妙に緊張してしまう。 まあそれはさておいて、私の読書感想文を書きます。 ・二人は一緒にいられない存在だった。人間と鶴だからだ。 ・一緒にいてはならないのを無理していた。 ・だから別れが訪れる。 単にそれだけの話だと思うというのが、出発点。しかしその別れ方はどのようなものだったのかと考えてみる。 すると、鶴が死力を尽くしてお土産を置いて行った。本当は恨んでもいい場面だったはずだ。言い争いになってもいいはずだ。しかしむしろギフトを残して、去って行く。男の方は自らを恥じ入って、呆然としている。こういうコミュニケーションの在り方は、一体、どういうものなんだろう。 どっちのためにもならないよねえ。変な話だよねえ。鶴はギフトを残して行ったけれど、男がこれで幸福になるなんて思っていないでしょう。むしろ罪悪感でいっぱいになって、恥じ入るであろうことが分かっている。しかも自分は身を削ってしまい、喩えて言えば、貯金を全部はたいたようなものだ。男の方は悲しくてしょうがない。どっちのためにもならない。この意味で悲劇である。 単純に言えば、この二人は喧嘩すればよかったんですよ。なぜそれが出来なかったんでしょう? ああ、わかった、ぶらじゅろんぬさんはそういうコミュニケーションの在り方としての哲学を問いたいのではあるまいか。喧嘩できない二人の別れ方について、関心があるのではないか。その事例として夕鶴を取り上げたのではないか。私の思うのはこんなところです。
お礼
D さん こんばんは。あぁ 今朝未明のことでしたね A さんちでのやり取りは。まづは ご回答をありがとうございます。 ★ 単純に言えば、この二人は喧嘩すればよかったんですよ。 ☆ ええ。そのとおりにわたしも感じます。 ★ ~~~~~~ なぜそれが出来なかったんでしょう? ああ、わかった、ぶらじゅろんぬさんはそういうコミュニケーションの在り方としての哲学を問いたいのではあるまいか。喧嘩できない二人の別れ方について、関心があるのではないか。その事例として夕鶴を取り上げたのではないか。私の思うのはこんなところです。 ~~~~~~~ ☆ ええ。ですから そこからの展開をぜひお聞かせ願いたい。こうなります。 物語を組み替えてもかまいませんから 自由な思惟をおよぼしてみてください。 ★ いや、A さんのところでのやり取りを思い出すと、どうしてこっちは哲学なんだろうということがまだ私にはよくわからないんですよ。 ☆ そう言われてみれば そういう問題もありましたね。虚をつかれたかたちみたいになりましたが たしかに夕鶴や鶴の恩返しの話がそれとして固定されたかたちで その枠組みの中でのみ あれやこれやと文学談義をしてみても あまり面白くない。登場人物を作品や伝承の外にまで抜け出させてでも 自由に行動させてやってみて欲しい。そういうねらいの質問ですかね これは。 ★ ・二人は一緒にいられない存在だった。人間と鶴だからだ。 ☆ この前提が 曲者なわけです。 ○ なぜ 人間と鶴とは 一緒にいられないか? 異類婚姻譚というのだそうですが 一緒にはいられないのなら なぜわざわざ一緒にいようとしたのか? 異類が婚姻にまでこぎつけるところまではありうる。ならば なぜそれが 発覚したあとでは 理屈抜きの禁忌のように ご破算になり押さえつけられねばならないのか? あるいは ちょっと違う趣きになりますが ○ それにしても つうは何でそんなに身を犠牲にするまでにして恩人で夫である人に尽くさねばならないのか? かえって異常な恩返しの仕方にすら映ります。 かくして ★ 単純に言えば、この二人は喧嘩すればよかったんですよ。 ☆ わたしは ですから つうが おとなげないと見て いまからでも遅くはない。もういちど与ひょうのところに帰りなさいと言ってやりたい。なんで けんかすらし得なかったのか? ★ ~~~~~ ・・・変な話だよねえ。鶴はギフトを残して行ったけれど、男がこれで幸福になるなんて思っていないでしょう。むしろ罪悪感でいっぱいになって、恥じ入るであろうことが分かっている。しかも自分は身を削ってしまい、喩えて言えば、貯金を全部はたいたようなものだ。男の方は悲しくてしょうがない。どっちのためにもならない。この意味で悲劇である。 ~~~~~~~ ☆ こんな《夕鶴》評があります。 ▲ (平田清明:夕鶴とマルクス)~~~~~ 〔つうが去ってしまった後〕残された与ひょうはどうなるか。 むろん 残された布を 二枚とも売らないだろう。もはや一枚も 売る気にならないだろう。(現代っ子ならあっさり売るかもしれない。) 与ひょうは 布に残ったつうの肌身のあたたかみを抱きしめながら生きていくだろう。 と同時に かれはすでに(ヨーロッパ流にいえば)罪の毒杯をあおいだのであり 商品経済のなかに生きていくだろう。・・・ (『市民社会と社会主義』) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち与ひょうにとってこのように思い描かれた《つう》の像は どうなるか? 平田はここで 《与ひょうが罪を背負い 商品経済のなかに生きていくであろうときその出発の一過程に つうの残した布を抱きしめる事実》を 思い描いていると言っているようです。あたかもあのクロスした木の上に去って行ったひとをしのぶかのように。 D さんが この宗教の雰囲気につうじておられるとは 少し意外でした。偶然ですかね。いや 分かりませんが。 そう言えば 知らなかったとは言え 与ひょうは あんなにつうをはたらかせたのは まるでブラック企業のようだ。とはなりますか なりませんか? あるいは社会全体が そのようにして働かなければならない情況に人びとを置いていると言うべきでしょうか? ★ すると、鶴が死力を尽くしてお土産を置いて行った。 ☆ 日本では人びとは けなげ過ぎませんか? もっと けんかをしてもよろしいのでは? 和を乱そうと思ってなら スサノヲ市民たちは けんかなんかしないでしょう。 初めにまじめでおとなしい見解がつづきましたが どうやら暴れん坊の人たちがそろったみたいです。
- NemurinekoNya
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こんばんはです。 この物語は、やはり《見てはいけないの法則》で解釈するべきなのでしょう。 「この木の実を食べてはいけない。」 「この箱を開けてはいけない。」 「見てはいけない。」 「○○してはならない」の禁則を与えられると、人間は必ずそれを破ってしまう。 そこに、 《人間の自由意志》の発現を見るか、 《人間の弱さ》を見るか、 あるいは、《好奇心は身を滅ぼす》という教訓を読み取るか、 さらに通俗的に《掟を破ると、破局・カスタロフィーが待っている》とするか、 それは読み手側が判断すれば、いいのではないでしょうか。 その選択の裁量権は、読み手側に委ねられている、と思います。 古事記ですと、 イザナギとイザナミの「振り返ってはいけない」のお話と、 誰だか忘れてしまいましたが、 お産のところを見てはいけない、の話などがありますね。 そして、 「鶴の恩返し」は、新潟・佐渡のお話ですね。 小泉八雲の「雪女」も新潟のお話し、ですと、 胸を張る!! まっ、この他に 「妖(あや)し・超自然の存在は、ヒトとともに住めないのだ。元いた場所に帰らないといけない」 という話などもありますけれど、 ───超自然の存在が人間と同居するというのは、オキテ破り。これは自然の摂理を破り、調和を乱す行為。帰ることによって、元ある秩序ある世界に戻った、みたいな……─── 僕はこうした考え方は大嫌いです。
お礼
ねむりねこさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ◇ ~~~~~ まっ、この他に 「妖(あや)し・超自然の存在は、ヒトとともに住めないのだ。正体を知られたからには元いた場所に帰らないといけない」 という話などもありますけれど、 ───超自然の存在が人間と同居するというのは、オキテ破り。これは自然の摂理を破り、調和を乱す行為。帰ることによって、元ある秩序ある世界に戻った、みたいな……─── 僕はこうした考え方は大嫌いです。 ~~~~~~~ ☆ こうおっしゃる《大嫌い》の思いやお考えを大々的に展開していただきたい。これが ねらいです。 《異類婚姻譚》といった類型での話なんだそうです。そこに ◇ この物語は、やはり《見てはいけないの法則》で解釈するべきなのでしょう。 ☆ という世界の到るところに見られるというひとつの方程式が埋め込まれているようです。 No.3のへきゆさんの場合は さらに被差別民の話が組み込まれているといった見方のようです。 ◇ ~~~~~~ 「○○してはならない」の禁則を与えられると、人間は必ずそれを破ってしまう。 そこに、 《人間の自由意志》の発現を見るか、 《人間の弱さ》を見るか、 あるいは、《好奇心は身を滅ぼす》という教訓を読み取るか、 さらに通俗的に《掟を破ると、破局・カスタロフィーが待っている》とするか、 それは読み手側が判断すれば、いいのではないでしょうか。 その選択の裁量権は、読み手側に委ねられている、と思います。 ~~~~~~~~~ ☆ というわけで この基礎的な考察にのっとってわたしの場合は 《つうさんよ 約束を破ったからと言って あまりにもおとなげないんぢゃないですか》という答えを用意しています。また そんなに身を粉にしてまでつくさなくても じゅうぶん互いに二人でチカラを出し合ってよき市民として暮らして行けるのではないか。こう言いたいとなります。 物語の人物たちよ もういっぺん話をやり直してみてくれたまえといった観点から 何かありますか? ◇ ~~~~ そして、 「鶴の恩返し」は、新潟・佐渡のお話ですね。 小泉八雲の「雪女」も新潟のお話し、ですと、 胸を張る!! ~~~~~~ ☆ 佐渡だとかの話とは聞いていましたが 八雲の雪女が 新潟でしたか。 もう一件 回答をいただいています。そちらで。 うがやふきあえずのみこと の母親は何て名前でしたっけ。
- hekiyu
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これはね、差別の問題なのです。 具体的には部落問題です。 女性を鶴に例えたのは、人間扱いしない ということです。 男だったら猿です。 キレイな女性だったので鶴にしただけです。 身分が違うのです。 昔の人は、火が違う、と表現しました。 いつかは別れる運命だったのです。 約束を破ったとか、いうのは口実です。 どうせ別れるなら、約束を破ったからだ、と いうことにしよう、ということです。 つまり、愛し合っていた二人ですが、結局 世間に負けた、ということです。 そんな二人を哀れんだ人達が、こういうおとぎ話を 造ったのです。
お礼
へきゆさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~ 身分が違うのです。 昔の人は、火が違う、と表現しました。 ~~~~~~~~ ☆ 《火が違う》 これは知りませんでした。かまどが違う・食べ物が違う・ひょっとすると屍肉を食べているかも知れない・・・こういった解釈を持ちましたが 分かりません。検索では出て来ないですね。 でも このご見解は こう言っては心苦しいことになりますが 前回の質問にもいただきました。留意してみて来ています。 《鶴の恩返し》ないし《鶴女房》の民話に関連して 狐の話として《キツネ女房譚》や《葛の葉物語》といった伝説があるとおそわりました。 《異類婚姻譚》というのだそうです。そのすべてが 被差別民をあつかったものかどうかは 定かではないようですが。 ○ 茨城県竜ケ崎市の女化稲荷神社に伝わる狐女房譚といわれる伝説 http://www.ushikukankou.com/onabakeinari.htm ○ 大阪府和泉市の葛葉稲荷神社に伝わる、通称「葛の葉物語」ともいわれる伝説 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E3%81%AE%E8%91%89 ★ ~~~~~~~ いつかは別れる運命だったのです。 約束を破ったとか、いうのは口実です。 どうせ別れるなら、約束を破ったからだ、と いうことにしよう、ということです。 つまり、愛し合っていた二人ですが、結局 世間に負けた、ということです。 そんな二人を哀れんだ人達が、こういうおとぎ話を 造ったのです。 ~~~~~~~~ ☆ どこから見ても しっかりとした解釈だと見ます。それとして納得が行きます。 それにもかかわらず それがほかに別の解釈をすべて撥ね退けるかと言えば 必ずしもそうではないという見方をも 決してこれは反論ではありませんが 述べたいと思います。視野をひろく持ちたいという狙いです。 【Q:夕鶴つうは なぜ夫の与ひょうを去ったか】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6291643.html ☆☆(そのNo.51お礼欄) ~~~~~~~~~~~ まづはわたし(=質問者=ぶらじゅろんぬ)がこの〔鶴の恩返しの〕話を――特に木下順二の作品にかんして―― そういった被差別民の物語であるとは見て取ることが出来なかったのは何故か。これについて弁明します。 異類婚姻譚にかんして その異類を《よそ者》と捉えた場合 ☆☆(No.44お礼欄) 《よそ者》には異族ないし外国人から違う村の者やあるいは同じ村の中のたとえば被差別民という場合などを含むかと思われますが ☆ とさえ〔すでに〕書いているのに 作品《夕鶴》については 被差別民という解釈をなぜ当てはめなかったか? ☆☆(No.40お礼欄) ~~~~~~~~~~ 〔異類婚姻譚は〕 何らかの因縁があって仲の良くない村どうしのあいだで 交流や恋愛がふと起きてしまったというような事件とその後の経過を言おうとしていましょうか? もしそう解釈するなら 初めは出身の村を隠していたが ついに見つかってしまった。そのあとは それでも仲良くつづけてやっていく場合もあれば ただちに元の村へ帰らざるをを得なかった場合もある ということなのでしょうね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ という〔仮設した〕基本線でのみ解釈していたのはなぜか? 理由のひとつ目として:文学作品は――民話伝承がそうであり得たとしても 小説や戯曲は――判じ物ではない。つまり つうの悩みや苦労について 読者や観客に分かるように書くのがふつうだと思われる。 2. つうは おカネとは何であるかを知らないという設定である。あるいは それでも羽根を抜いて布を織るとき最後に飛べるだけの羽根は残すというはからいをみづからおこなっている。このような人物像は 読者をして全体として描きがたいという思いを持たせる。つまり 文学として破綻している感がある。 3. いくつかある鶴の恩返しもしくは鶴女房という民話には 正体が明かされたあとも二人仲良く暮らし続ける場合を伝えるものもある。その幸福な結末については もし被差別民の話であれば そうとう込み入った説明が必要だと思われるのにそれがないとなれば その物語として見てみようとは思わなかった。 4. 木下によれば つうは《純粋日本語をしゃべる》という人間類型であると言う。これは 被差別民のあり方もしくは人となりには あまりふさわしくないと思われる。たぶん《しゃべる》のではなく 純粋日本語が分かる・理解できるという設定になるのではないか。そうでないとおかしい。〔いじめや迫害を受けた人間は そういう感性および知性が発達すると思われる〕。 5. 言いかえると――(2)のおカネを知らないということとも関わるが―― そういうよそ者の類型としてのつうであるなら 立ち場(身分)の上から 社会生活に苦労がつきものであることが分かっている。お金の苦労も分かる。なおかつ 純粋日本語も分かるというような人物像ではありえたとしても ただただ独りだけ純粋日本語をしゃべるというような人となりに描かれては 何とも捉えようがない。 6. もう理由として述べる体裁から離れますが ◆ ~~~~~~~~~~~~~~~ 〔民話や伝説を構成する要素の中には 現われているものも隠れているものも含めて・・・〕驚くに値する真実であったりするかもしれません・・・〔そ〕の場合に於いて、そのような重い事実があったとするならば、事実をフィクションによって隠さねばならなかった理由や必然性があったと見るべきなのかもしれません。 そのような過程を経て成立した伝説や民話も少なからずあったのではないでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ つまりは そういう要素を見つけ引き出して来るという作業を木下は やったと思っているであろうけれど その成果には あまり大したものもない。つまりは 要素ごとに見るべきものがあったとしても 全体として・一人ひとりの人物像として まとまりに欠けていたのではないか。 なお これまでの被差別民の主題についての質問です。 【Q:《およそ穢多の身分は平民の七分の一に相当》】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6070243.html 【Q:えた・非人は 天皇の子どもが その地位に落とされ 制度としても成ったのではないか?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6023047.html ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 被差別民がそうでない人と結婚をした場合そしてそれが悲劇に終わる場合の話 これを扱う異類婚姻譚であるというご見解を寄せていただきました。解釈をめぐって 大きな位置を占めると思われます。
- Tefu_Tefu
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こんにちは。 結婚とは婚姻届という契約書にサインすることで 最初に取り決めた約束事を守ることにより家庭を存続出来るのだと思います。 同棲にしても お互いに約束により共同生活を始めると思います。これも 契約書が無かっただけで同じことだと思います。 このお話は 与ひょうがつうと生活する上で最初に交わした約束ごとを守れなかったから つうは元の鶴の共同体に帰ったのだと思います。 結論として 人間を始め生き物の中にも共同体を維持するには 約束事が必要であり 一方的な違反は共同体の崩壊に繋がると云うことだと思います。 この世界はあらゆるものが日々変化するので 契約の変更はお互いの同意が必要であり そこで 新たな共同体への移動もおこる。
お礼
てふ_てふさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ん? ★ 結婚とは・・・最初に取り決めた約束事を守ることにより家庭を存続出来るのだと思います。 ☆ ええ。ふたりの人生設計にもとづき 船出するという進水式でしょうね。 ただし ★ 結婚とは婚姻届という契約書にサインすることで ☆ いまさっき《進水式》だと言っておいてなのですが それは何も《儀式》の問題ではないですよね? 婚姻届に判を押して 社会のみなさんにも公認を得るといった手続き これも大事だと思います。でもこの《儀式》を大きく見なし過ぎていませんか? わたしの思い過ごしでしょうか? ★ 同棲にしても お互いに約束により共同生活を始めると思います。これも 契約書が無かっただけで同じことだと思います。 ☆ ええ。なるほど。心配することもなかったですね。 ★ このお話は 与ひょうがつうと生活する上で最初に交わした約束ごとを守れなかったから つうは元の鶴の共同体に帰ったのだと思います。 ☆ ん? また ん? なのですが まづ《織っている部屋を覗かないで》というその約束は 《ともに生活して行く上で互いに交わした最初の約束ごと》ではないですよ。結婚生活のあとの出来事です。 でも 《最初の約束ごと》がたしかにあって その内容を与ひょうが破ってしまったということなんでしょうか? そういうコトがあったという解釈でしょうか? ★ 結論として・・・一方的な違反は共同体の崩壊に繋がると云うことだと思います。 ☆ それは そうでしょうけれど。 ★ この世界はあらゆるものが日々変化するので 契約の変更はお互いの同意が必要であり そこで 新たな共同体への移動もおこる。 ☆ なるほど。与ひょうは 約束を破った上で つうにとどまってくれと懇願するのは 身勝手になるのでしょうね。 でもどうなのでしょう? No.1でのやり取りの中でも書いたのですが そういうつうにも 責任の一端はあるのではないでしょうか? こう書きました: ☆☆(No.1お礼欄) ~~~~~~~~~~~ ☆ 疑い深いわたしが思うにはですが つうにも ちいさな弱みはあるように思うのです。 それは 《「織っている間は部屋を覗かないでほしい」》と夫の与ひょうに言っていることです。 いやいや 約束をさせただけのどこが弱みだというのか? 《のぞかないで欲しい》と願ったことです。 《見るな》と言われたら 《見たい》という思いが出るのは 人情です。それに相手は与ひょうからすれば いまやわが女房です。どうして《禁じるのか》という思いがつのります。・・・という与ひょうの思いと行動は褒めたことではないでしょうが 現実に起こりうる・・・のではないでしょうか? そういう予測をつうが持ち得なかったか? 持ち得ても与ひょうを信頼して 約束は守ってくれると安心していたのか? というわけで 責任の一端――ほんの一寸ほど――は つうにもあるかも知れない。ないかも知れない。・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ どうでしょうね。《共同体を維持する》には 人びとのあいだの取り決めに対する違反 つまりあるいは 約束ごとを破るということ こういう出来事が起きても それを人びとの共生というひとつの目的のもとに 少しはどこかで大目に見てものごとを処理するということもあってよいのではないでしょうか? むしろその――誰も脱落させずに 共生を維持し発展させる――ことのほうが 人びとの知恵であるのではないでしょうか? ★ つうは元の鶴の共同体に帰ったのだと思います。 ☆ たしかに自分のふるさとに帰って 自由に暮らせるのなら そのことを祝ってやるべきかも知れません。そういう見方もあり得ましょうね。 はてさて 全体として どうなりましょうか? どういう見方に落ち着くでしょうか?
- SweetAce
- ベストアンサー率33% (26/77)
素晴らしい! 実に素晴らしい! …決してガリレオのマネではありませんよ。 この話は知っていましたがここまで掘り下げて考えたことはありませんでした。貴方の感性に感服いたしましたよ。 まぁそれはさておき…どうしてつぅが去ったかですよね? やはり覗かれたことが原因かと思います。 つぅはこれ見よがしじゃなくひっそりと恩返ししたかったんじゃないかな? だから覗かれたとか約束を破ったとか与ひょうに対する怒りではなく知られてしまったことの悲しみの方が大きかったのでしょう。 知られてしまった以上続けていくのはこれ見よがしに値すると…だから去ってしまったのでは? 恩返しと結婚を結びつけることに違和感があるにはある。 だけど結婚という形をとってでも恩返ししたいほどの感謝があったとすればどうでしょう? いつも側にいて恩返しし続けられる。 鶴という生き物として考えれば疑問だけど人の姿になり感謝→愛おしさ→愛情と人間的な感情が芽生えたのであればありえなくはないかもしれません。 …私キチンと質問の主旨を理解出来てますでしょうか? 間違っていたらすみません。
お礼
すゐーとえいすさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 何だかお褒めいただいたようで。恐れ入ります。 ★ やはり覗かれたことが原因かと思います。 ☆ やはり そうですか。 ★ つぅはこれ見よがしじゃなくひっそりと恩返ししたかったんじゃないかな? ☆ そうなのだと まづは わたしも思いますねぇ。つうや 人びとが素直であるなら そうなのだとまづ考えると思います。 ということは 意味ありげにお返ししたようになりましたが 重ねて確認することは ★ だから覗かれたとか約束を破ったとか与ひょうに対する怒りではなく知られてしまったことの悲しみの方が大きかったのでしょう。 ☆ つまり 《ひっそりと恩返ししたかった》という心のあり方 でしょうか。 ところで哲学は因果な仕事で 純真無垢の心をもうたがいにかかりますが 上の経過については受け容れたとして そのあとだと思います 問題があるとすれば。 ★ 知られてしまった以上続けていくのはこれ見よがしに値すると…だから去ってしまったのでは? ☆ 疑い深いわたしが思うにはですが つうにも ちいさな弱みはあるように思うのです。 それは 《「織っている間は部屋を覗かないでほしい」》と夫の与ひょうに言っていることです。 いやいや 約束をさせただけのどこが弱みだというのか? 《のぞかないで欲しい》と願ったことです。 《見るな》と言われたら 《見たい》という思いが出るのは 人情です。それに相手は与ひょうからすれば いまやわが女房です。どうして《禁じるのか》という思いがつのります。・・・という与ひょうの思いと行動は褒めたことではないでしょうが 現実に起こりうる・・・のではないでしょうか? そういう予測をつうが持ち得なかったか? 持ち得ても与ひょうを信頼して 約束は守ってくれると安心していたのか? というわけで 責任の一端――ほんの一寸ほど――は つうにもあるかも知れない。ないかも知れない。・・・ ★ 恩返しと結婚を結びつけることに違和感があるにはある。 ☆ なるほど。たぶん その点についても そう考える人が多いことでしょう。そして それでもと続くことも なおありうるようです。 ★ ~~~~~ だけど結婚という形をとってでも恩返ししたいほどの感謝があったとすればどうでしょう? いつも側にいて恩返しし続けられる。 ~~~~~~~ ☆ たしかに。ただただ羽根で織った布を 突然与ひょうの家に持って行って どうぞ!というのもおかしいでしょうから。長くいっしょにいてやることは考えられます。 ★ 鶴という生き物として考えれば疑問だけど人の姿になり感謝→ 愛おしさ→ 愛情と人間的な感情が芽生えたのであればありえなくはないかもしれません。 ☆ ここも 共感し得ると思います。そして ここの部分は その共感のあと さらに考えが思い浮かぶという人もいるかと思うのです。 どういうことか? すでに《ひとの姿》となっていて 《感謝→ 愛おしさ→ 愛情と人間的な感情が芽生えた》つまりは ほとんどまったく人間の夫婦同然にまでなっていた。のならば 《覗かないで》と言って同意を取りつけたその約束を破ったからと言って そこで《はい それまでよ》と言うのも なにか味気ない気もして来ます。のではないでしょうか? 質問者としてわたしの場合 ここで単純に もうその時点ではおとなげないと見てしまうのです。 ★ …私キチンと質問の主旨を理解出来てますでしょうか? ☆ いえいえ。何の問題もありません。よくご見解を示してくださいました。 そして 質問者からの応答も差し挟みました。 さらにみなさんのお考えをも聞いてまいりたいと思います。だからと言って すゐーとえいすさんのお考えを離れ去ってしまうということではありませんので ご一緒に見守っていただきたいと思います。そしてさらにお考えがありましたら どしどしお寄せくださるようお願いしておきたいと思います。 まづは このような滑り出しで船出しました。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ◇ 浄夜 (リヒャルト・デーメル/訳:新田 誠吾) ☆ これは へたな批評をゆるさないものがありますね。コメントなどというものをつつしませる。 かつての自分つまり前史から後史へという主題であるかも知れません。 そうだとすると 恋愛が 哲学の守備範囲に入って来ます。 ◇ ~~~~~ おつうさんは、自分の正体が鶴であることを打ち明けないまでも、 布を織ることを拒否する勇気を持つことが大切だったのではないですかね~。 嘘で塗り固められた、虚飾の幸福は、いずれ破綻するので。 ~~~~~~~ ☆ このご指摘は 適切であるように思います。 恩義を感じる人に愛情があると取り違えたのではないかというひとつの見方もありますが そのような問題を横ににらみながら でも適切であるように思います。 尽くし過ぎという問題は ふつうに起きる問題であるようにも思います。 つまり 見るなと言うのなら 自分のほうの隠し事もなくさなければならない。 要は 互いにしっかりと話し合うこと。意見があわなければ けんかをすること。 ・・・
補足
BA: 《浄夜 (リヒャルト・デーメル)》に一票。