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夕鶴つうは夫の与ひょうを去った理由
- 夕鶴つうは夫の与ひょうを去った理由について、信頼の問題やお金に執着したこと、または夫に尽くすことと自身の生命を犠牲にすることの意味などが考えられる。
- 与ひょうの家に一人の女性つうが訪ねてきて、夫婦として暮らし始める。つうは素敵な織物を与ひょうに作り、売れると評判になるが、与ひょうがつうを織る姿を見てしまう。その姿は与ひょうが助けた鶴の姿をしており、つうは正体を見られたことで与ひょうの元を去っていく。
- 与ひょうを助けた鶴の姿を織り込んだ布「鶴の千羽織」が売れ、与ひょうにもお金が入ってくる。しかし、つうは与ひょうが織る姿を見られてしまい、傷ついたまま空に帰っていく。夕鶴つうは夫の与ひょうを去った理由は、信頼の問題やお金への執着、そして自身の生命を犠牲にすることの意味などから考えられる。
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こんにちはです。 ☆☆☆☆☆☆ ☆なぜって、恋愛は理性的に考えて始まるものじゃないんでしょうから、無自覚というべきなのでしょう。この無自覚が、惚れ薬とか、エロスの矢に象徴される宿命の罠である可能性もある。そうやって話を大袈裟にすると話を面白く演出できる。ただそれだけのことでは。(NO24) ◇という面はあると思います。エロスの矢、惚れ薬・愛の妙薬は、その不可思議な心の働きを、恋愛心理を象徴しているのかもしれません。 ハタから見ると、何で「○○は何であんな奴を好きになったのだろう」と見える恋愛、ありますよね。 その「何で?」の説明のために、「エロースの矢」が古代ギリシア人によって考案されたのかもしれませんね。 惚れちゃったら、どうしようもない。 無理に両者を引き剥がそうとすると、両者の絆はさらに強固になって、《ロミオとジュリエット》のようになってしまう。 《ロミオとジュリエット効果》!! http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%9F%E3%82%AA%E3%81%A8%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%82%A8%E3%83%83%E3%83%88%E5%8A%B9%E6%9E%9C これと似たようなもので、さらに不思議なココロのハタラキの一つに、《ストックホルム・シンドローム》なんてのもあります。 ───────── 1973年8月に発生したストックホルムでの銀行強盗人質立てこもり事件において、人質解放後の捜査で犯人が寝ている間に人質が警察に銃を向けるなど、人質が犯人に協力して警察に敵対する行動を取っていたことが判明。また、解放後も人質が犯人をかばい警察に非協力的な証言を行ったほか、1人の人質が犯人に愛の告白をし結婚する事態になったことなどから名付けられた。 ───────── http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%9B%E3%83%AB%E3%83%A0%E7%97%87%E5%80%99%E7%BE%A4 ☆☆☆☆☆☆ なのですが、 悲劇・メデイアに登場する夫のイアソンって奴が、超~最低の野郎なんです。 「わたしの手助けがなければ、あなたは死んでいた」とメデイアが言うと、 イアソンは 「俺はお前に恩なんてものはない。感謝すべきは、(エロースに弓を射させた)愛の神・アフロディーテだ。お前が俺を助けたのは、俺への愛ゆえにだ。だから、おめえに恩なんてものは、まったくない。野蛮で草深い田舎から、文明国のギリシアに連れてきたんだ。お前は、俺に感謝すべきなのだ。俺のおかげで、お前の賢明さはギリシア全土に知れ渡ったのだから」 と言って、自らの裏切りを正当化します。 さらにこんなことまで言い放つ。 「お前をもっと愛しておけばよかった。ベッドの中でたっぷり可愛がってやりゃ~、女は不満・不平を言ったりしないものだから!!」 男として、最低の野郎なんです、イアソンってヤツは。 ───イアソンに限らず、ギリシア神話に出てくる英雄はどれも似たような、超自己中な野郎ばかりです─── 世間・近所の女性たち(コロス・合唱隊)は 「持参金を持って嫁ぐ。なのに、家にはいれば、夫にこき使われる。女なんて。。。」 と嘆き、メデイアに同情を寄せます。 ここに、妻から夫への一方的献身という《搾取と被搾取》の構図がみてとれます。 事実、メデイアをこの図式、マルキシズム的に解釈した映画作品も存在するそうです。 おつうさんとヨヒョウをこの図式で考えることには反対なのですけれど、 なのですが、 夫にひどい仕打ちに耐える妻、にもかかわらず夫に尽くす妻を是とする、前近代的な価値観・夫婦観が夕鶴の背景にあることだけは、事実でしょうね。それを美徳としている。。。 ☆☆☆☆☆☆ なんか、救いのないことばかりを書いてしまいました。 なので、リヒャルト・デールケの《浄(められた)夜》という詩をご紹介します。 ──────────── 浄夜 (リヒャルト・デーメル/訳:新田 誠吾) 冬枯れの森を歩く二人がいる 月がついてきて、二人は顔を見合わせる 月は、高い樫の木の上にあり 月夜をさえぎる雲一つない 夜空に木々の黒い影が突き出ている 女の声がする お腹の子は、あなたの子ではないの あなたにも迷惑をかけようとしている 取り返しのつかない過ちを犯してしてしまった 幸せというものがあるとは思えなかった それでも生きがいを見つけ、母親の喜びや務めを 味わってみたかった 身の程知らずにも、知らない男に自分の性を抱いてもらった 今思うとぞっとする 私は身ごもり、人生の報いを受けた そうしてあなたに、あなたに出会った 女の足取りは重い 見上げると、月がついてくる 女の暗いまなざしは、月明かりに呑まれる 男の声がする できた子どもを 心の重荷にするな ほら、夜空がこんなに輝いている 何もかも包み込む輝きだ 冷たい海を僕とさまよっているが 君の温もりを僕は感じ 君も僕の温もりを感じている その気持ちがお腹の子を浄めてくれる どうか僕の子として産んでほしい 君は僕の心を照らしてくれた 君しか考えられなくなった 男は身重の腰に手を回す 二人の息が空中でキスを交わす 二人は澄みきった月明かりの夜を歩く (訳は、2011/05/16に改訂) http://blog.livedoor.jp/audimax1/archives/50705587.html ──────────── おつうさんは、自分の正体が鶴であることを打ち明けないまでも、 布を織ることを拒否する勇気を持つことが大切だったのではないですかね~。 嘘で塗り固められた、虚飾の幸福は、いずれ破綻するので。 ☆☆☆☆☆☆ ☆そして猫様のやっているのは、あれでしょう。前にぶらじゅろんぬさんのところでも書きましたが、理想的な恋愛というものを想定して、個々の恋愛の卑俗な点を冷笑する態度。これは夢を見過ぎだなあというのが私の感想で、 猫様、失敬な言い方かもしれませんが、恋したことないんじゃないかという疑惑を私は持っています(笑)。 ◇わたし、結構、鈍感です。女性が自分に好意を寄せていても、なかなか気づかない(笑)。 実は、わたし、つい最近まで、ちょっと不倫っぽい恋愛(なのだろうか?)をやっていまして(ポリポリ)。 一線は越していませんよ。 わたし、ネコなのに、《草食性》なので。
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前のアイコンは不評だったようでして、紳士的なアイコンに変えてみました。前は骸骨というか、食あたりした貧相な顔でしたので。できることならば毎週、変えるのが理想です。歌はお気に召したようですね。それはよかった。 >苦くても味わえるゆとりを持った総括ができるかどうか。 ディズニーの映画だと恋愛の完成を誇らしげに歌い上げるような歌がありますが(「美女と野獣」など)、ああした砂糖菓子のような幸福だけが抒情ではないと思います。悲しみに親しむのもまた文化というだと私は考えています。ちょっと失礼な物言いかもしれませんが、ぶらじゅろんぬさんは、今日の「恋愛=砂糖菓子」的なイメージの氾濫に飲み込まれてしまっているのではないかな、という気が致します。 そして今日的な見方からすれば、まあ単刀直入に言えば、ご自身の経験は誇らしいものに思えないでしょう。しかし私はそれもそれで一つの恋だと思いますよ。結局は、思い返す側の主観の問題ですから。たとえ、愛の言葉がなかったとしても、片方がそれで苦しんだり、それをきっかけに自我の一部を形成したのであれば、良い経験だったと考えるのを妨げる理由はどこにもないでしょう。それだけ好きになれる相手というのも、そうそういないと思います。 >対話の未成立という《ふつうの悲劇とは別の悲劇》 これをどうするか? そんなものは問題にならないのか? どうでしょうねえ。意思の疎通があって悲劇的な結果になったというものなら、「トリスタンとイゾルテ」などでしょうね。二人とも合意して心中したのでしたよね。しかし、これは例外的というべきで、大体の悲劇は、意思が疎通できなかったことから発生しているのではないですか。「オイディプス王」も最後に真実が明らかになって、悲劇になる。ということは、その前まで、誰もが己の主観の中に閉じこもり、それぞれの登場人物が考えを明かさず、抱え込んでいたということでしょう。対話が成立した悲劇と成立しない悲劇という分類は面白くはありますが、どうも文学の話になりそうですね。 >でぃくべくさんは これは あり得るとおっしゃっていますが。ただそのときは 《甘えていた》ともみとめておられます。甘える以前の段階では 《瞬間的な愛情の成立》は 確立とは見ないかも知れないからです 甘えの理論の議論に参加はしましたが、おっしゃる意味は、私にはよくわかりませんでした。それほど複雑に考えないでも良いのではないですか。私の場合は、最初から相手のことが好きだったんですよ。気だてもよく、大変な美女でしたので。甘えて、益々愛が深まったというだけのことに思いますが。 >講義に忠実な学生は あらたな質問にも満ち溢れているでしょう。 ボクシング、連歌と続いて、今度は教師と学生ですか。ぶらじゅろんぬさんは良い学生でいらっしゃって、それはありがたい。お礼申し上げます。とは言え、後は文学の領域でしょう。雑談としてならお付き合いできますが、厳密なことを言うためには、むしろ文学者の先生をお探しになることをお勧めしますよ。いや、私は哲学も知っているわけではないのですが。ともあれ、楽しめました。お礼申し上げます。 最後に参考までに、苦いけれども、抒情的な歌の例をもう一つ挙げておきましょう。「さくらんぼが実る頃」。有名な歌ですが、「ぱっくりと開いた傷を心に抱えている」にもかかわらず、恋の季節を愛しているのですから、人は面白いものですね。近年だと『紅の豚』のテーマソングになったのでした。私はそれで知っているだけですが。加藤登紀子の歌は、なかなかよいと思うのです。 http://www.youtube.com/watch?v=RwGrz6to1Rk
お礼
ご回答をありがとうございます。 いろいろ込み入った話になってしまいました。 ▲( Wikisource: Le temps des cerises )~~~~ http://fr.wikisource.org/wiki/Le_Temps_des_cerises LE TEMPS DES CERISES 1. Quand nous chanterons le temps des cerises, Et gai rossignol, et merle moqueur Seront tous en fête ! Les belles auront la folie en tête Et les amoureux, du soleil au cœur ! Quand nous chanterons le temps des cerises, Sifflera bien mieux le merle moqueur ! 2. Mais il est bien court, le temps des cerises Où l’on s’en va deux, cueillir en rêvant Des pendants d’oreilles… Cerises d’amour aux robes pareilles, Tombant sous la feuille en gouttes de sang… Mais il est bien court, le temps des cerises, Pendants de corail qu’on cueille en rêvant ! 3. Quand vous en serez au temps des cerises, Si vous avez peur des chagrins d’amour, Évitez les belles ! Moi qui ne crains pas les peines cruelles, Je ne vivrai point sans souffrir un jour… Quand vous en serez au temps des cerises, Vous aurez aussi des peines d’amour ! 4. J’aimerai toujours le temps des cerises : C’est de ce temps-là que je garde au cœur Une plaie ouverte ! Et dame Fortune, en m’étant offerte, Ne pourra jamais fermer ma douleur… J’aimerai toujours le temps des cerises Et le souvenir que je garde au cœur ! * 和訳:http://meta-metaphysica.net/lit/cerises.html ~~~~~~~~~~~~~~~ ▲ ~~~~ (2) Mais il est bien court le temps des cerises でもさくらんぼの実る頃は短いのです ~~~~~~~ ☆ けっきょく《恋の季節》ということでしょうが これに異をとなえたい。人生の全体にわたっていますと。 と反論の姿勢をしめして このうたを見ていきたいと思います。 ★ 「ぱっくりと開いた傷を心に抱えている」にもかかわらず、恋の季節を愛しているのですから、人は面白いものですね。 ☆ この傾向についてです。《抒情的な歌》ではありますが その《讃歌》になりますかねぇ。つまり《ゆとり》をもって 失敗に終わったものをも含めて いろんな愛の軌跡をたたえている。と言えますか? どこか変だなと思うところを抜き書きします。 ▲ ~~~~~ (2) Cerises d'amour aux robes pareilles Tombant sous la feuille en gouttes de sang. 同じ皮を着た恋のさくらんぼは 血のしずくとなって葉の下に垂れます ~~~~~~ ☆ 《血のしづくとなって落ちる》と言うまでに失恋があっても これを《情感の世界よ 万歳!》と言ってたたえる。または 愛するとうたう。 ▲ ~~~~ (3) Si vous avez peur des chagrins d'amour Evitez les belles ! もし恋の苦悩を恐れるなら 美しい女たちは避けなさい! ~~~~~ ☆ これは おかしい。避ける避けないで恋が芽生えたり恋を忘れることが出来たりするわけではないから。 ▲ ~~~~ Moi qui ne crains pas les peines cruelles Je ne vivrai point sans souffrir un jour 私は酷な苦しみを恐れません 一日を耐えることなしに私は生きられないでしょう または わたしはいかにひどい苦しみでも甘んじて受ける人間ゆえ 一日とて耐え忍ばない日はなくてもかまわない。 ~~~~~~~ ☆ マゾとは言いませんが 積極的に耐え忍ぶというのは 《抒情の世界に親しむ》ことになるのですかね。 ▲ ~~~~~ (4)のぜんぶ 私はずっとさくらんぼの実る頃を愛するでしょう その頃からなのです、私が心に 開いた傷口を持ちつづけているのは そして私にその傷口を与えた運命の女神は 私の痛みを閉ざすことができないでしょう 私はずっとさくらんぼの実る頃を愛するでしょう そして心に持ちつづけている思い出を ~~~~~~~ ☆ 《もし仮りにわたしのこの今の後遺症である恋の痛みをくれたのが 運命の女神だったとしても だからその女神が わたしをあわれんで もうその傷口はそっと塞いであげましょうと言って来たとしても わたしはおのが勲章のようなこの傷口の痛みを持ち続けるほうをえらぶのだ》と言うことですよね? いかなる苦しみやあるいは病いに落ち入ったとしても 情感に満たされた抒情の世界はすばらしいのであって これをたたえようという気持ちは分かります。また じっさいにそういった気概もあるのだと思われます。 われわれ《後悔派》は いえ《未完成》体験に立つわたしは すなおにその成就しなかったことについて残念と思う。けれどもこの悔いを残すという思いは 裏返せば情感の世界をとうとんでいる。大事にしている。 たたえるまでには行かない。そこまでの成就体験がないゆえ。けれども 離れてしまったのではなく またけなしたり蔑んだりしているわけではなく ただもう互いの心への思いやりが確認できたなら――つまりそれが たとえ別れへの相互理解だったのだとしても―― それで完成のかたちだと捉えて 万々歳をさけびます。 ★ ちょっと失礼な物言いかもしれませんが、ぶらじゅろんぬさんは、今日の「恋愛=砂糖菓子」的なイメージの氾濫に飲み込まれてしまっているのではないかな、という気が致します。 ☆ どうですか。上に述べたところが 《後悔》系の情感論なんですが? 《 I don't know. 》と言い続けたひとは わたしが《 No ! 》を期待していても それをも言わなかった。Yes とも No とも答えなかったのです。意志も心も脱ぎ捨てた状態で相い接していたのです。ですから Yes か No かの意志疎通だけでも完成させて欲しい。こういう総括なのです。 ★ たとえ、愛の言葉がなかったとしても、片方がそれで苦しんだり、それをきっかけに自我の一部を形成したのであれば、良い経験だったと考えるのを妨げる理由はどこにもないでしょう。それだけ好きになれる相手というのも、そうそういないと思います。 ☆ ですから《好き》の問題より以前に 互いに話し合いが出来るかどうかの問題だったのです。おかしいでしょ? でもそういうふうに説明するよりほかにありません。 というようにお応えするよりほかになかった そういう問題に入ってしまいました。この点だけは しるしておきます。わざとではないんです。・・・
ありがとうございます。そうですか。高校の頃からの。逆に羨ましいというべきでしょうか。純愛ですねえ。 >☆ ただですね ただ つうが 自分からお嫁にやって来たというのは その愛情は 恩人に対する恩義から来る感情として錯覚だという見方もあるようなのですが。・・・ あとから 愛情も生まれたという説と いや最後まで愛情ではなかった ただ愛と錯覚していたのみという説とが さらにあるようです。 こういうことくらいは 文学でもやりますかね。 えーと。心からの感謝=愛情ということはあると思いますよ。この=は瞬間的に結ばれる等号だと思います。恩があるので、セックスしてあげて、身の回りを世話してあげたと思うのは醒め過ぎでしょう。こうした批評的な態度は、結局、恋愛に高い理想を求めるが故の裏返しなのだと思います。というのも理想的な恋愛を想定した上で、卑俗な恋愛を冷笑しているのですから。こういう冷笑を浴びせかけるやり口は、誰が編み出したんですかねえ。あまりに残酷なと言うべきか、恋をしたことがない人の冷静さというべきか。私はそんな風に思うのですよ。 >うーん。ただわたしの感触では 多くの人はこれは悲劇だと見ていると思います。抒情に浸るまでは 行かないという人が多いのではないですかねぇ。 つまり、おまえは「抒情」という言葉をどのような意味で使っているのか、はっきりしろということですよね。最後が物悲しいからといって、抒情の定義に反するということはないと思いますよ。 悲劇と喜劇という区分は演劇のもので、抒情の逆は叙事ですよ。 抒情というのはもともと「恋愛をテーマとした歌謡」のことなのですから。歌に歌えることなら何でも含まれます。それにあらゆる恋愛に、完全な幸福はないと思いますよ。老いれば人は醜くなるでしょう。最後は死別するでしょう。結局、幸福と言ったにせよ束の間のものです。だから恋の始まりは必ず、終わりの始まりなのです。 それを分かっていながら楽しむのが人というのの面白いところです。例えば、Plaisir d’amourはどうですか。有名な歌ですよね。この歌が抒情的ではないという人はいないでしょう。しかし「愛の喜びは長く続かない、愛の苦しみが残りの一生だ」と歌っているわけです。フィリッパ・ジョルダーノの歌っているのが良かったんですが、見つからないです。ぶらじゅろんぬさんはクラシックを聞かれるようだから、おそらく知っているでしょう。 http://www.youtube.com/watch?v=-WvXpgLtTwY >これは おとななのですね。あぁ 《ビター&スイート》ってやつですか。 まあ、そういうことになりますね。それを「片手間」の気軽な恋愛と取るか、そこにも何かあると思うかは人それぞれでしょう。私は昔、分不相応な家柄の恋人がいました。単にお金持ちというだけですが、育ちが相手の方がいいので、いろいろと引け目に思いました。別れてしまいました。が、結局、それは仕方なかったのだなと思います。最初から無理なことは分かっていたものです。しかし少しでも一緒にいたのは、大切な思い出になりましたよ。まあ当時は喧嘩ばかりで、相手は楽しくなかったかもしれません。しかし最後にうまくまとめるのは、思い返す者の主観の力にかかっているというわけです(笑)。まあ、恋愛論はこれくらいで。 Aさんは大丈夫。楽しんでいたと思いますよ。少なくても、私は楽しかった。おや、ここでも主観の問題ですね。恋愛に限らず、人間関係全般について言えそうなことですね。
お礼
♪ 異邦人 を思わせるような――サマルカンドというような地名を思い起こさせるような(特にまつわる話があるわけではないのですが)――アイコンになったでぃくべくさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ★ おや、ここでも主観の問題ですね。恋愛に限らず、人間関係全般について言えそうなことですね。 ☆ つうは ただ単に去って行くというのは おとなげないというわたしの見方は まだ変わらないのですが その主観を保つにしても いろんな見方を採り入れたり並び立つものとして参考にしておくことは大事である。この問い求めが 一たん収束するかに思ったのですが つづいていると言えば つづいています。 《正体を知られたからには・・・》という見方もありますし――これは 根強いようにも見受けられます―― 法律の議論として捉える見方が出されました。あるいは ねこさんは 神話に類似性を見て 心的現象を広く捉えようとしておられるようですし。 さて 恋愛の問題だと見るとしたら どうなるか? ★ しかし最後にうまくまとめるのは、思い返す者の主観の力にかかっているというわけです(笑)。 ☆ 先ほどの《主観》の問題もからんで来て 総括するチカラ ですか。 ★ それを〔* つまり 未完成に終わらざるを得なかった恋愛についてみても それはわが実存のぜんぶを投入しなかったからではないかというその〕「片手間」の気軽な恋愛と取るか、そこにも何かあると思うかは人それぞれでしょう。 ☆ ここですよ。ここですね。焦点があたるのは。 つまり かく言うからには 自分の(わたしの)それは それこそ人格の全体をそのこと(つまり関係形成)に当てていたと思っているのでしょうね。 と言いますか どうも《完成・未完成》の線引きではっきりしていないかも知れません。 ★ ♪ Plaisir d’amour ☆ 《恋(愛)のよろこび》ですが むろん歌は 初めから悲観の極みを映していて 《あの不実なシルヰ》にわれはあざむかれたという嘆き節のようです。 みなさんにも知ってもらうために歌詞を見つけました。 ○ ♪ Plaisir d'amour http://saison-nouvelle.homeip.net/plaisir.htm ○ ~~~~~~~~ Plaisir d'amour ne dure qu'un moment Chagrin d'amour dure toute la vie J'ai tout quitté pour l'ingrate Silvie Elle me quitte et prend un autre amant Plaisir d'amour ne dure qu'un moment Chagrin d’amour dure toute la vie "Tant que cette eau coulera doucement Vers ce ruisseau qui borde la prairie Je t'aimerai", me répétait Silvie L'eau coule encor, elle a changé pourtant Plaisir d'amour ne dure qu’un moment Chagrin d'amour dure toute la vie (英訳) http://jp.lyricbus.com/uta/kashi/plaisir-damour/139787.aspx The pleasure of love lasts only a moment, The pain of love lasts a lifetime. I gave up everything for ungrateful Silvie, She is leaving me for another lover. The pleasure of love lasts only a moment, The pain of love lasts a lifetime. "As long as this water will run gently Towards this brook which borders the meadow, I will love you", Silvie told me repeatedly. The water still runs, but she has changed. The pleasure of love lasts only a moment, The pain of love lasts a lifetime. ~~~~~~~~~~~~~~~ 《♪ 数滴(?)の水が 小さな流れを成して 小川はやがて草原に到る。このことわりが続く限り あなたを愛します》と言っていたシルヰ。――というのですから これはわたしから言わせれば ひとつの《完成》形なのです。そのあとの悲劇です もちろん。 《♪ 愛ののぞみは たちまち消える。悔いは一生ものだ》と嘆くばかりのようです。 それでも《ビター&スイート》と総括出来るかも知れません。むしろそういう思いもあって 嘆き節を延々とつづけているのかも知れません。《片手間》の問題ではないようです。 ただし ここに世にもあわれむべきひとつの恋の物語もあるわけです。愛しているよ に対して 《 I don't know. 》と答えるコミュニケーションが延々とつづくという。・・・ まるで こんどはシルヰとは逆に 何も言葉では言うな 欲しければ腕づくで取ってみろと。 取ろうとしたら どうしたか? 人形みたいな存在――ゾンビ?――になってしまった。飼い犬か猫のようになってしまった。意志も心も脱ぎ捨てた。 《コミュニケーション不成立をもって コミュニケーションとせよ》と。人間の世の中なんて そういうものよと。 ・・・・ ★ ~~~~~ 最後が物悲しいからといって、抒情の定義に反するということはないと思いますよ。 悲劇と喜劇という区分は演劇のもので、抒情の逆は叙事ですよ。 抒情というのはもともと「恋愛をテーマとした歌謡」のことなのですから。歌に歌えることなら何でも含まれます。 ~~~~~~ ☆ あぁ なるほど。それは でしたら 分類の段階でのお話ですね。つまり あなたを除いた多くの《後悔派》の人びとは その抒情をこそ味わいたいと思っている。なのに それが出来ない。こういうことでの食い違いですね。 主観のチカラに行き着くようですが。 悲劇――ハッピーエンドではない――でも 苦くても味わえるゆとりを持った総括ができるかどうか。 それと 対話の未成立という《ふつうの悲劇とは別の悲劇》 これをどうするか? そんなものは問題にならないのか? あと ★ 心からの感謝=愛情ということはあると思いますよ。この=は瞬間的に結ばれる等号だと思います。 ☆ この問題もあると言えばありますね。 《瞬間的に結ばれる等号》すなわち《〔恩義としての〕心からの感謝=〔異性としての〕愛情》 これを 《愛情の成立・確立》と見るかどうか。 成立と見るなら つうのその気持ちをも受け取って 恋愛物語として捉えればよいとなります。そうでなければ 確かにシニカルに ★ 理想的な恋愛を想定した上で、卑俗な恋愛を冷笑している ☆ とも見られてしまいかねません。 まぁ 真理は中間にあると言いますか むしろ実情は どちらの要素をも含んでいると見るべきでしょう。つうの与ひょうに対する気持ちや態度は ぎこちなかったと見られ得ましょうし あるいはむしろいやに過度ではないかと思われるまでに献身的だったととらえられるでしょう。 (でぃくべくさんは これは あり得るとおっしゃっていますが。ただそのときは 《甘えていた》ともみとめておられます。甘える以前の段階では 《瞬間的な愛情の成立》は 確立とは見ないかも知れないからです)。 講義に忠実な学生は あらたな質問にも満ち溢れているでしょう。 プレジール・ダムールの歌は 中世かそこらの昔のものですよね。その詩の単純さが うたを長生きさせているのかも知れません。
Bさん、お礼ありがとう。しかし、やはり、これはどうも純然たる恋愛の話に思えますよ。物語の細部をあれこれ見当してみて社会問題の暗喩と見るのは自由ですが、あんまり、私は気分が乗らないというのが本音です。 社会問題なら社会問題そのものをテーマに上げて考えた方がいいわけですから。夕鶴でブラック企業やマルクス主義の話をしても、現実の悲惨さから目をそらすような格好になってしまうと思いますね。まあ文学だというなら、社会批評というのがあるそうですが、しかしどうも感心しないなあ。その場合は、夕鶴の時代にあった圧政を問題にしないとならないわけで、現代に引きつけるのは難しい。 キリスト教的マルクス主義。どっからそういう風になったんだと考えて、ああ、ヴェイユのことかと思い当たりました。うーん。名前を一度出しただけで、そこに帰着させられてしまうのか。恐るべし。まあさておき、ヴェイユの話をしますと、彼女はゼウスが雨に身を変えて女を犯しに行った話を、どう解釈したのか分かりませんが、神があまねく人の元に来る話だとか言っていましたねえ。同じ図式を適応すると、これは鶴=アマテラスが女に身を変えて、あまねく貧乏な男(スサノオ?)を救いにきてくれるという話なのかも知れませんねえ。これが期待されていたところでしょうか。うーん。私は、ちょっと気持ちがのりません。伝説にあまり多くを求める気にならないというだけのことなのですけれども。猫様あたりなら、ノリノリでやってくれそうだけれどもなあ。むしろ、そちらあたりに振ってみてもらえませんか。 しかしBさんは恋愛しなかったのかあ。だからなのかもなあ。経験があったら、いろいろ不思議だと言っている話は、一目瞭然なのに。最後に置き土産を置いて行くのは、報復のためもあるけれども、本人らは思い出のためだと思っていると思いますよ。ビター&スイートってやつでしょう。一緒にいられないという人間はいないと思います。しかし恋愛に関する限り、人は判断が狂うみたいですね。この狂った状態をまず哲学しないとなりませんが、私はそこまで哲学に期待は出来ません。きっと誰もが経験しうるが、客観的に解き明かすことは出来ない問題なのでしょう。お手上げです。だからこれは文学の領域に任せるのでしょう。 夕鶴、ほのぼのと抒情的でいいじゃありませんか。私もうまくいかなかった女性数人の顔が思い浮かびます。彼女らとうまくいかなかったのは、女性らが鶴=天上の人で、俺が足下にも及ばなかったからだと思えば、何となく、思い出が奇麗になります。喧嘩すればいいと書いたけれども、喧嘩しても、泥仕合で引き止めても、どうしようもない時ってあるもんです。私は案外、夕鶴の二人は喧嘩もしたのじゃないかと思いますね。しかし抒情的な話に仕上げるために、作者が書かなかっただけ。この話は書いてあることだけが全てではなく、空想力を交えて行間を読んでよいものだという気もします。それこそ文学談義になりそうですが、夕鶴なのでその方がいいんだと思います。 それにしてもAさん、お別れの言葉を書いて行きましたねえ。今のは問いを閉めただけかもしれませんが、何となく、ドキッとしてしまったりします。いずれ私などは、与ひょうの気持ちに類似したような心持ちで見送るのでしょう。そういえば雨語りさんも最近は見ないなあ。深夜アニメを卒業して、社会復帰したのかな。だとすれば、喜んであげないといけないのかな。いろいろですね。
お礼
D さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ しかしBさんは恋愛しなかったのかあ。 ☆ なぜか これをいちばん先に持って来て・・・《コミュニケーション不成立》ってやつです。高校から十年くらい。で だめで どういうわけか 〔決してそうではないけれど話を早くするなら〕腐れ縁が まだいまもつづいています。ただし向こうは修道院の中。会い得ない。・・・すでにこの質疑応答に これまたどういうわけか そのいきさつを議論してしまっています。 ★ キリスト教的マルクス主義。どっからそういう風になったんだと考えて・・・ ☆ いや 連想しはしましたが 単純なかたちでしたよ。 与ひょうが つうの残した布を手に取って恥ぢいる という姿を思い描くという心性。 あるいは これは触れませんでしたが つうがおカネの世界とは別の世界の人間として設定されているということ。 ここらあたりからでした。 で ブラック企業の問題や そのような資本主義企業の止揚といった方向が連想されたというわけです。 まぁ 確かに印象批評ですから 議論の本筋ではないでしょうね。 あとは 与ひょうとても 初めからおカネの世界にどっぷり浸かっていたわけではないので けっきょく商品と貨幣の世界が 農村へ浸透する過程を描いたと見る見方もたしかあったと思います。 この話は ここまでとしましょうか。 ★ 社会問題なら社会問題そのものをテーマに上げて考えた方がいいわけですから。 ☆ たぶん ふたつの方法があると思います。ふつうに社会問題をその正面からあつかうのと 別の場所から――たとえば 別の学問の分野からとか あるいは 別の時代という視点からとか――取り組むのとです。 まぁ あとの方法では せいぜい新奇な視点が提出されるくらいかとも思いますが。 ★ 最後に置き土産を置いて行くのは、報復のためもあるけれども、本人らは思い出のためだと思っていると思いますよ。ビター&スイートってやつでしょう。 ☆ ただですね ただ つうが 自分からお嫁にやって来たというのは その愛情は 恩人に対する恩義から来る感情として錯覚だという見方もあるようなのですが。・・・ あとから 愛情も生まれたという説と いや最後まで愛情ではなかった ただ愛と錯覚していたのみという説とが さらにあるようです。 こういうことくらいは 文学でもやりますかね。 ★ 夕鶴、ほのぼのと抒情的でいいじゃありませんか。 ☆ あっ。意外と言うと 失礼にあたりますが どちらかと言えば ここでも合理的に事態を見守っておられるのかと思っていました。《情感》の世界で いいんですね。もののあはれ でしょうか。 うーん。ただわたしの感触では 多くの人はこれは悲劇だと見ていると思います。抒情に浸るまでは 行かないという人が多いのではないですかねぇ。 あぁ ハッピーエンドでなくても 広く大きく抒情の世界 ですか。そういう見方ですか。 これは おとななのですね。あぁ 《ビター&スイート》ってやつですか。 これは 何だか大きな主題になりそうな。 つまり 恋愛について《未完成》でもよい。という見方ですよね? それは 《完成》形が ひとつあれば そういう見方が出来るのか? それとも ぜんぶ未完成でも その甘苦さのゆとりある感覚は そこに浸れる抒情の世界を成すのか? 未完成も むろん思い出ですが あまりおもしろくないですよね。甘苦くてもよい思い出だという場合は 片手間の恋愛なのではないですか? という話になれば ★ 私は案外、夕鶴の二人は喧嘩もしたのじゃないかと思いますね。しかし抒情的な話に仕上げるために、作者が書かなかっただけ。 ☆ というふうにも 伸びて行きますね。 何だか D 教授の臨時集中講義・恋愛学になりそうな。 A さんの しなやかなチカラをわたしがもぎ取ったかも知れない。けれど そこには 余分のチカラの部分もあったかも知れない。余分な贅肉(二重表現による強調形)が取れたのならよいのですが。
- NemurinekoNya
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んっ。 太陽神ヘルメス・・・・・ 太陽神はヘリオスだろうが。 というわけで、 すいません、間違えちゃいました。 名前が似ているもので。。。 ヘルメスの方が有名なもので、ついつい。。。 最近、ヘルメス文書を読んだもので。。。 と苦しい言い訳(ポリポリ)。 毎度のことながら、思い込みによる間違いが多いようです(笑)。 送信後に気づくんだから、嫌になっちゃうよ~、もう!!
お礼
つづきまして。 ◇ ヘリオス ☆ でしたか。アポローンかと思ってしまった。
- NemurinekoNya
- ベストアンサー率50% (540/1073)
夕鶴・おつうさんと王女・メデイアは、ナリソメは違いますけれども、構図は結構似ていると思いますよ。 おつうさん;罠から助けてもらう。 メデイア:イアソンに一目惚れ おつうさんは、鶴とはいえ、変身をするのですから、ただの鶴ではないでしょう。おつうさんも葛の葉同様に神の仲間・神の眷属ですよ。 一方、メデイアは、太陽神ヘルメスの血を引いています。 おつうさん、メデイアともに超自然の存在というわけです。 おつうさんは不思議な機織りで夫を助け、メデイアは魔術・薬草術で夫を一方的に援助します。不思議な業による、妻から夫への一方的献身の構図。 おつうさん、メデイアともに子供あり。 生死は別にして、最終的には我が子を残す ───メデイアは、死んだ子供をヘーラーのもとに預け、その子供を残して去ってゆく─── おつうさん、夫ヨヒョウより賢い。 メデイア、夫イアソンよりもはるかに賢く、そして、何よりズル賢い。 ヨヒョウもギリシア神話の英雄・イアソンも欲にともに目が眩んでしまいます。ヨヒョウは覗きで妻との約束を破り、イアソンは妻子を捨てるということでメディアとの約束を破ります。 話の結末は、メデイアの子殺しの点において大きく異なりますけれど、 《飛んで》夫の元を去ってゆく。。。 メデイアの方がはるかに理屈っぽいですけれど、 「最初はあんなにも優しかったのに、何で?」 という嘆きも同じ。 悲劇『メデイア』の話については、 http://www.lunalala.jp/PDFF10.pdf を是非是非ご覧になさってください。 詳しい《あらすじ》とメデイアについての詳しい解説・分析がのっております。 結局、 おつうさん、メデイアともに《愛情》を知らなかった、夫との間にそれを育めなかった、 ということになるのでしょうか。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ◇ ~~~~~ おつうさんも葛の葉同様に神の仲間・神の眷属ですよ。 一方、メデイアは、太陽神ヘリオス(アポローン?)の血を引いています。 ――おつうさん、メデイアともに超自然の存在というわけです。 おつうさんは不思議な機織りで夫を助け、 メデイアは魔術・薬草術で夫を一方的に援助します。 ――不思議な業による、妻から夫への一方的献身の構図。 ~~~~~~~ ☆ ここまで追って行きますか。 ◇ メデイア:イアソンに一目惚れ ☆ をも合わせて。 ◇ おつうさん、メデイアともに子供あり。 ☆ ん? つうには子どもはありましたか? なかったというように思っていましたが。あやふやで すみません。(近所の子供たちとは つうは よくあそんでいます。民話のほうは分かりません)。 ◇ おつうさん、夫ヨヒョウより賢い。 ☆ 木下戯曲では ただし《おカネ》を知らなかったのです。民話では どうでしょうか。 ◇ ~~~~ メデイアの方がはるかに理屈っぽいですけれど、 「最初はあんなにも優しかったのに、何で?」 という嘆きも同じ。 ~~~~~~ ☆ いえ。ここは ちょっと違うかも知れません。 ▲(木下:夕鶴) ~~~~~ 【与ひょう】:うん そら つうと二人でいるのは好きだ。おらほんにつうが好きだ。 【つう】:そうよ。そうよ。そうよ。(与ひょうを抱きしめる)・・・だから だからいつまでもこうしていて。離れないで。あたしから離れて行ってしまわないで。 【与ひょう】:ばか。誰がつうと別れるもんか。ばか。ばか。ばか。 【つう】:・・・こうして じっとあんたに抱かれていると・・・あの頃のことを思い出すわ。・・・無心で 何も考えずに あの広い空を・・・あの頃の気もちになってくるわ。・・・これでいいの。あんたといっしょにいさえすれば それであたしはいいの。・・・いつまでもいっしょにいてね。・・・遠いところへ行ってしまわないでね。(間――急に与ひょうを突き放す)あんたは あんたはまだ都のことを考えてる。《おかね》のことを考えてる。 【与ひょう】:そら そらおめえ・・・。 【つう】:そう・・・そうなのねえ やっぱり・・・(急に激しく)いや。いや。都へ行ってはいや。あんたはそれきり帰ってこない。それきりあたしのとこへは戻ってこない。 【与ひょう】:おら おら戻ってくるでよ。戻ってくるでよ。都さ行って たんと金をもうけて・・・うん おら つうといっしょに都さ行くだ。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ イアソンは 妻を乗り換えるのに対して 与ひょうは 妻のつうとおカネとの両手を満たしたい。 ◇ ~~~~~ 結局、 おつうさん、メデイアともに《愛情》を知らなかった、夫との間にそれを育めなかった、 ということになるのでしょうか。 ~~~~~~~ ☆ つうの場合 夫を去ると決めてから 大人になり愛を知るようになったという解釈もあり得るのでしょうね。 メディア論は 解説小編を読んでからとします。 つうは 果たして復讐をしたんですかねぇ。去ったこと・つまり与ひょうと一緒にいてやらないことが 恩返しのあとの仕返しですかね。
補足
メディアの解説を読みました。 王女メディア なのですね。王女もしくは 不死身の女王といったところでしょうか。 復讐は首尾よく果たすは そのための追手をかわすのもそつなくやり遂げた。 その後――ギリシャ王アイゲウスのもとでも 問題が起きたら―― 故郷のコルキスに帰って しかもわが子メドスを王位に就かせるまでにチカラあった。(メドスは むろんイアソンの子ではなく アイゲウスとのあいだの子)。 薬――薬草でしょうか――でひとの命をすくうことも出来れば 毒薬を盛ってころすことも見事なお手前。稀に見る風雲児のごとくですね。男を前面に出すので一歩引いたところにいると言えばそうなのですが。 そうですね。つうは どうか? 何のかんの言っても つうは 自分の流儀をつらぬいたのかも知れません。自分の思うように 結果的ににしろ 動いたし なすべきことは成した。 と見るならば 風雲児からはほど遠いのですが 筋をとおした人間であり女だったのかとも見られて来ます。 そうですね。これでいいかどうかも はっきりしないところがありますが ここからは ねこさんの探究に従いましょうか。どうすすめるか。
- slowcat9152
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こんにちは。 正体を知られた以上、これ以上幸せな生活は続かないであろう、という、「つう」の合理的判断によるものだと思います。やはり背景には、部落差別など、身分による人々の意識の違いがあるような気がします。 「恩返し」というタイトルですから、正体を知られた後も、夫のために骨身を削って働けば良いのではないか、という気もしますが、その場合、与ひょうがつうに依存して、ダメ人間のようになっていく恐れがありますし、つうの身も、おそらく長くは持たないでしょう。 経済的な利益よりも、生き方そのものの方がずっと重要である、という、「つう」のメッセージだったんじゃないでしょうか?
お礼
すろうきゃっと9152さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ やはり背景には、部落差別など、身分による人々の意識の違いがあるような気がします。 ☆ これを引き合いに出すなら もう昔の話としては 決まりだと思います。たとえ被差別民でないとしても 身分制はつよく作用したと考えられます。 そうだとしたら 鶴が人に成って よくがんばったとも言えそうです。恩返しの一念だったでしょうか。 ★ 正体を知られた以上、これ以上幸せな生活は続かないであろう、という、「つう」の合理的判断によるものだと思います。 ☆ 別に反をとなえるためではないのですが この《去る》という判断は むしろ不合理な内容であるとわたしは考えます。与ひょうと一緒に もう少しがんばってもよかったかなと思います。 ただ つうは 機織りに持てるチカラの大半をついやして ちょっとその点では がんばり過ぎたように見られます。もっと ひょいひょいと 毎日を暮らして来ていればよかったかなと。 つまり質問者が出しゃばって なんだかんだ言っていますが すなわち: ★ 「恩返し」というタイトルですから、正体を知られた後も、夫のために骨身を削って働けば良いのではないか、という気もしますが、その場合、与ひょうがつうに依存して、ダメ人間のようになっていく恐れがありますし、つうの身も、おそらく長くは持たないでしょう。 ☆ といった見方を 逆転させてのように 或る程度 機織りにせよ身分制の世の中での生活にせよすでにがんばって来ているのだから これからは ゆっくり行こうと ふたりのどちらからでも言い出せばよかった。相手が反対したとしても そこでしっかりとまともなけんかをして 《合理的な判断》を互いに得るようにして行けばよかった。 出しゃばるとしますと こんなかっこうです。ほとんど同じ趣旨で ただし途中の過程からは すろうきゃっと9152さんのご見解の裏を行くといったかたちです。 すなわち そのようにウラを見ようとすることは まったく同じく ★ 経済的な利益よりも、生き方そのものの方がずっと重要である、という、「つう」のメッセージだったんじゃないでしょうか? ☆ という趣旨にもとづきこれを実現させたいがためです。 どうでしょうね。
- NemurinekoNya
- ベストアンサー率50% (540/1073)
あっ、NO11の悲劇『メデイア』のリンク先を間違っている。 ただしくは、こちらです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2_%28%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%82%A2%E6%82%B2%E5%8A%87%29
お礼
そちらのやり取りで 《ヰキぺ:メディア》として 引き合いに用いました。
- NemurinekoNya
- ベストアンサー率50% (540/1073)
NO11の付け足しです。 夕鶴の話を思い出して、 ギリシア悲劇のメデイアを思い出しました。 http://okwave.jp/qa/q8146085.html メデイアは、夫イアソンの裏切りに対して、 苦悩の既に我が子を殺すということで復讐を遂げます。 逡巡しつつも、我が子を手にかけます。 身悶えしつつ、殺します。 この結末の違いは、異国の王女と鶴という境遇の差ゆえにでしょうか。 メデイアは、夫イアソンのために国を捨て、親兄弟、家族まで捨て、夫イアソンに尽くしました。。。 誇り高い異国の王女メデイアには、これ以外の選択肢はなかったのでしょうかね~。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ◇ ギリシア悲劇のメデイアを思い出しました。 ☆ ですか。 ▲ (ヰキぺ:メディア) コリントス王クレオンが自分の娘婿に〔* すでにメディアの夫である〕イアソンを望み、権力と財産に惹かれたイアソンは妻(* =メディア)と子どもたちを捨て、この縁組みを承諾する。 ☆ これが 話の実質的な発端ですよね。 つまり 与ひょうも約束を破った。したがって 妻にとって《夫の裏切り》が共通でしょうか。 つうにとっては 与ひょうが命の恩人であった。これは 共通ではないようです。 けれども ◇ 〔* コルキス国の王女であった〕メデイアは、夫イアソンのために国を捨て、親兄弟、家族まで捨て、夫イアソンに尽くしました。。。 ☆ その結果・・・ですね。 コリントス王クレオンと イアソンの妻になるはずの王女とを毒殺し そのあと 夫イアソンとのあいだの二人の息子 かれらをも殺した。 ◇ 誇り高い異国の王女メデイアには、これ以外の選択肢はなかったのでしょうかね~。 ☆ それでも 王女ではないつうの場合にしても 裏切られたという事態は それほどまでにきびしいものがあった。ということなのでしょうか。 《見るな》の禁止は・つまりそれとしての《約束》は 破られたとしても それほど大きな裏切りだとも思えないのですが どうでしょう? 言いかえると 破られることを織り込み済みとして 約束しているというのが ふつうではないかと つい思ってしまいます。
- NemurinekoNya
- ベストアンサー率50% (540/1073)
NO9とNO10のお礼欄を読んで混乱しています。 どうやら私の頭の中では佐渡の『鶴女房』or『鶴の恩返し』と『夕鶴』の話がごちゃ混ぜになっていたようです。 そういえば、 『夕鶴』のヨヒョウは、おつうさんの織った布が高値で売れるのを知ると、次第次第に性格が変わってゆくんでしたね。 おつうさんのヨヒョウに対する不信の構図は、ヨヒョウが機織りの部屋を覗き込む以前に成立していたわけで、「見られた」という事実が離婚の最終的な引き金になったわけだった。 しかし、おつうさんの ・・・その二枚のうち一枚だけは あんた 大切に取っておいてね。 そのつもりで 心を籠めて織ったんだから。 という言葉を見ると、 おつうさんの離婚の意志は既に固まっていたということになります。 それは、 ───────── 与ひょう あたしの大事な与ひょう あんたはどうしたの? あんたはだんだん変わって行く。 何だか分からないけれど あたしとは別な世界の人になって行ってしまう。 あのあたしには言葉の分からない人たち いつかあたしを矢で射たような あの恐ろしい人たちとおんなじになって行ってしまう。 どうしたの? あんたは。 ───────── という言葉が裏付けているようです。 「覗く」「覗かれた」という以前に、 おつうさん・ヨヒョウの間には、もはや埋めることのできない断絶があった。言葉とオモイが通じ合っていなかった。もはや事実上離婚状態であった、と断ぜざるをえないようです。 というか、そもそも、 ヨヒョウにおつうさんが織った布を与えつづけたという行動が問題なのかもしれません。 この不正常な関係の是正の機会は、決定的な破局以前に何度もあった。 しかし、 彼女にとって、命を削ってまで布を与えるという行為が愛情の表現だったのかもしれませんね。 これ以外の表現方法は彼女にはなかった。。。 であるとすれば、おつうさんとヨヒョウの間の関係は、最初の段階において、ボタンの大きな掛け違いがあったということになります。 二人の離婚は、一度目、もしくは、二度目に、布を折り、それを与えた時点でもはや避けられないものだったのかもしれませんね。 そんな気がします。
お礼
こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ◇ どうやら私の頭の中では佐渡の『鶴女房』or『鶴の恩返し』と『夕鶴』の話がごちゃ混ぜになっていたようです。 ☆ 質問者の頭の中としては 木下順二作『夕鶴』を基本として それに民話の話などを織り交ぜるかたちも有りだというふうにして ご見解を述べていただく。こうでした。 とは言っても いやいや 民話の話のほうが 議論にとって主要な対象となるのだという場合 それも同じく有りだという恰好です。 ◇ ~~~~ そういえば、 『夕鶴』のヨヒョウは、おつうさんの織った布が高値で売れるのを知ると、次第次第に性格が変わってゆくんでしたね。 ~~~~~~ ☆ もしこういった心理的な過程をきちんと取り上げて議論する場合には それも有りだと思っています。 前回の回答の中から 関連した次のような見解をここで紹介しておきます。 ◆(【Q夕鶴つうは なぜ夫・・・】No.26お礼欄) ~~~~ (1) 初めは 純然とした恩返しの気持ちである。 (2) この心づもりを恩人との間の異性どうしの愛および愛情と取り違える。 (3) 結婚という生活の形の中で恩返しを果たそうとする。 (3-1) 羽根を抜いて織物を織るというのは かなり無理をしているという要素もあるようだ。 (4) その生活を重ねるあいだにふつうに夫婦としての愛情をも持つに到る。 (5) つまりはこのように愛情もすでに芽生えているところで 初めの恩返しなる心づもりをつらぬこうとする。 (6) つうにしても やがて与ひょうにしても この別離はそれぞれにとって おとなげある決断であった。 (6-1) これを徹底させるなら (1)の初心にまったきかたちで還った(我れに還った)という見方が出来る。きっぱりとした意志に戻っているのだと。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち ここからは 次のような批評が得られるかと思われます。つまり ◇ であるとすれば(* この内容を省いて引用しますが)、おつうさんとヨヒョウの間の関係は、最初の段階において、ボタンの大きな掛け違いがあったということになります。 ☆ この見方に呼応するものだと思います: ☆☆(同上) ~~~~~~ (あ) 報恩と愛情との取り違えからことは始まる。つまり初めには愛情は錯覚でしかない。 (い) 報恩としておこなうことは いささか無理を強いる仕事である。それでもそれを みづからの思い(つまり勘違い)としても夫の与ひょうへの伝え方としても愛情の現われとしておこなっている。 (う) 幸か不幸か 夫への愛情が うそでなくなって来ている。 (え) それでも 恩返しのことはそれをしおおそうと努める。 (お) 恩返しを果たせたと思ったときには 初心に戻った。ウソであろうとホントであろうと与ひょうとの愛情のことはもはや返り見ない。はいさようならとなる。 (か) でもそこで つうは 一人前のおとなになることが出来た。 ~~~~~~~~~~~~~ 質問者としましては 到って単純です。最初のキッカケがどうであれ いま好きか嫌いかで決めればよい。です。 もう布は織らなくてよいでしょ? と聞いて ふつうに暮らせばよいではないか。もっと けんかして ともに暮らして行けばよいではないか。です。 初めに恩人への思いを愛情と勘違いしていて ずっとそのままであったとしたなら この見方は成り立ちません。成り立つのなら 簡単に去って行くのは おとなげない。こういう見方です。 ◇ そもそも、 / ヨヒョウにおつうさんが織った布を与えつづけたという行動が問題なのかもしれません。 ☆ ええ。そのとき いやだと つうが言えなかったのなら・そしてけんかを成し得なかったのなら 愛情ではなかったし 愛情はあまり芽生えなかったのであろう。こう考えます。
- MOG777
- ベストアンサー率14% (20/139)
少し分かりにくかったので補足させてください。 おつうは恩義に対して無限の感謝を示そうとし行動で示した。 ならば、約束違反なども恩義に免じて水に流せばいいのではないか? しかし、約束違反は恩義よりも重い。 なぜか、傷ついた信義は、命を助けてもらったとか、命を助けてやるとか 織物を織ってやるとか、かわりに織物を織ってやらないとか という取引では回復不能だから。
お礼
つづいてになります。 そうですね。 ★ 傷ついた信義 ☆ 信義が破られた。ぼろぼろになった信義。――ただし それは ひとの・つまりここでは つうの 心が傷ついたというわけではない。憤慨するか残念に思うであろうけれど 心に損傷が出来たわけではない。(心は 自分自身の犯す悪によってしか 傷つきません)。 心を傷つけたのは 自分の心をという意味で 与ひょうであった。むろんその修復を――相手のつうが みとめてくれたという状態になるよう――おこなわなければならない。心してつぐないの生き方をしていかねばならない。 与ひょうは ★ 約束違反なども恩義に免じて水に流せばいいのではないか? ☆ とは思っていないのではないか? つうも 同じくではないか? でも・それでも つうは 姿を見られたからには きっぱりとした態度を採っているようにも確かに見えます。 ▼ (木下順二:夕鶴) ~~~~~~~~~ 【与ひょう】:あん?・・・おお 布が織れたか? おお おお おお・・・ 【つう】:・・・(与ひょうの喜ぶさまをじっと見ている) 【与ひょう】:ううん こら立派だ。こら美しい。おお 二枚ある。二枚も あるでねえけ。 つう:そう。二枚。だから今までかかったの。 ・・・(* 与ひょうは都へ売りに行くことを言い そしてつうは 与ひょうが姿を覗いて見たことをなじる)・・・ 【与ひょう】:何だ? 何で泣くだ? 【つう】:あたしはいつまでもいつまでもあんたといっしょにいたかったのよ。 ・・・その二枚のうち一枚だけは あんた 大切に取っておいてね。 そのつもりで 心を籠めて織ったんだから。 【与ひょう】:ふうん ほんとにこら 立派に織れた。 【つう】:(与ひょうの肩をしっかりとつかんで)ね 大切に取っておくのよ。 大事に大事に持っていてよ。 ・・・ (pp.62-63) ~~~~~~~~~~~~~~~~ つうに対しても じつは 疑いを持つことをも披露しましょうか。 ▲ 【つう】:あたしは・・・こんなにやせてしまったわ。・・・使えるだけの羽根をみんな使ってしまったの。あとはようよう飛べるだけ・・・(p.63) ☆ つまり 《ようよう飛べるだけ》の羽根は残しておいてある。という計算高さです。当然だと言えばそうかも知れません。そしてただ 《見るな》の禁止は 見られるのを覚悟で 機を織ることをなお決心したということだったかも知れません。 わたしとしてはあまりやらない結論のぼかしで とりあえずご返答したかたちです。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ◇ 浄夜 (リヒャルト・デーメル/訳:新田 誠吾) ☆ これは へたな批評をゆるさないものがありますね。コメントなどというものをつつしませる。 かつての自分つまり前史から後史へという主題であるかも知れません。 そうだとすると 恋愛が 哲学の守備範囲に入って来ます。 ◇ ~~~~~ おつうさんは、自分の正体が鶴であることを打ち明けないまでも、 布を織ることを拒否する勇気を持つことが大切だったのではないですかね~。 嘘で塗り固められた、虚飾の幸福は、いずれ破綻するので。 ~~~~~~~ ☆ このご指摘は 適切であるように思います。 恩義を感じる人に愛情があると取り違えたのではないかというひとつの見方もありますが そのような問題を横ににらみながら でも適切であるように思います。 尽くし過ぎという問題は ふつうに起きる問題であるようにも思います。 つまり 見るなと言うのなら 自分のほうの隠し事もなくさなければならない。 要は 互いにしっかりと話し合うこと。意見があわなければ けんかをすること。 ・・・
補足
BA: 《浄夜 (リヒャルト・デーメル)》に一票。