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内陸が地盤である武田が、強力な水軍を持つようにな
新聞連載の歴史小説を読んでいて、思いがけないこと(私にとって)に突き当たりました。 <清水湊沖の海戦で武田水軍が、船数で三倍の北条水軍を撃破したのち、・・・・・・> 浅学な私には、武田は、内陸である甲州や信州を地盤としているから、”強力な水軍がある”とは思ってもいませんでした。 どのような経緯で、武田はこのような水軍を持つことになったのですか?
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- PopoAmin
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ちょっと付け足しです。 武田水軍の件ですが、武田信玄が上洛へ向けて動いたのは 駿河の海賊衆を獲得して強力な武田水軍を編成できたからとの説があります。 当時東海道を西へ向かうとき尾張から伊勢の辺りまで 水軍の海上輸送による物資補給が可能になったことが、 信玄に上洛を決意させたとの説です。 3万の軍勢に一人一升の米を日々支給すると毎日300石の米が要ります。 これだと東海道の海岸近くを伊勢の辺りまで進軍する日数を 30日(戦闘しながらですから)としたときその間だけで9000石。 船が無ければ4斗俵2俵積んだ馬匹が延べ11250頭必要。 つまり大変な人数と馬匹を揃えた荷駄隊が不可欠なのですが 同じ量の米を船で運ぶと、500石積の輸送船を述べ18隻動かせば足ります。 足手まといな荷駄隊を縮小できますから信玄得意の機動戦術にも有効だったことでしょう。 信玄は1570年に駿河を手に入れ、2年かけて水軍を整備し、 1572年に上洛戦を開始しています。
お礼
回答ありがとうございます。 水軍を手に入れることは、直接の海軍武力を獲得するのみならず、海上補給の手段をも得ることができるのですね。 当事者である武将にとって、戦闘は当然大切ですが、(後世の我々は等閑にしがちな)補給のような後方業務もけして避けることのできないのことなのですね 3万の軍勢の補給について、荷駄隊と輸送船との比較計算、生々しい数値は興味深く味わいました。 蛇足です。 湾岸戦争を思い出しました。(正確な記憶でないかもしれませんが) イラクに侵入したアメリカ軍は、3日間快進撃をしましたが、4日目は(私にとって突然にみえましたが)進軍を休みました。 それは、補給が続かなかったそうです。何故そのようになったかというと、通信設備の能力が、大量になった補給業務の通信量をまかないきれなくなったそうでした。
- 108109
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#3です。 お礼ありがとうございました。 大河ドラマ「風林火山」では、信玄に駿河(海)を手に入れさせるため、 山本勘助が今川義元の駐屯地(桶狭間)を織田方に密告したとの設定になっていました。 義元が勘助の不自由な目を「気持ち悪い」的な事を言って侮辱したので、 その時の意趣返し+自分に全幅の信頼を寄せてくれた信玄への恩返しとの感情がベースに なっているような描き方でした(史実とは全く違うかもしれませんが)。 戦国史にご興味がお有りで、もし「風林火山」をまだご覧になっていなければ、 レンタル等で借りてみられても面白いと思います(特に前半部分)。 余談ですが、私は尾張地方に住んでいます。同じ町内に織田さん(子孫の方)がいらっしゃいます。 桶狭間(特になにもありませんが)や小牧・長久手、末盛(城趾)も行き放題です。 そしてなぜか自動車学校の教官が木曾先生(木曾義仲の子孫)でした。ちょっと得した気分(笑)
お礼
再度の回答ありがとうございました。 歴史は興味深いですね。勘助の個人的な恨みが、武田水軍の勝利にまで、影響を及ぼしている、ということも有り得るのですね。 また、歴史は、単なる偶然を、ではなく、108109様に何かを伝えたいという意図を、持っているのかも知れませんね。織田さんや木曽先生が身近にいらっしゃるとは。
- 108109
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#1.#2さんのお答えのとおりだと思います。 武田信玄の領地の甲斐と信濃は海に面していないため、食料の確保は農業に頼りきりでした。 また塩も海からしか取れないので、駿河は喉から手が出るほど欲しかったでしょうね。 越後には上杉謙信がいますから、義元を失った今川領は水軍以外の面でも棚ぼただったかも。
お礼
早急な回答ありがとうございました。 桶狭間で決死の戦いを制した信長を尻目に、信玄は <喉から手が出るほど欲しかった> 駿河を <棚ぼた> 式に獲得し、水軍も手に入れた、ということですね。
- jkpawapuro
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武田の駿河攻略後、今川氏真のもとで水軍奉行を務めていた伊丹 康直が武田に仕えています。 この武将はその後徳川家康にも仕えていることから、駿河の水軍衆の総元締めのような武将であったと思われます。 おそらく武田信玄はこの武将を傘下に加えることで今川水軍をごっそりそのまま手に入れたのでしょう。
お礼
早急な回答ありがとうございました。 キーマンというか、かけがいのない能力を持っていると、伊丹 康直のように転職が容易ですね。引く手数多だったのでしょうね。
お礼
早急な回答ありがとうございました。 引用によると <武田信玄は今川家が没落後、駿河を征服すると武田水軍を編成している。> それは、旧今川、伊勢、北条の海賊衆らから編成されているのですね。