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ひとは他人に甘えることができるのか?
- ひとは他人に甘えることができるか
- 親子関係における甘えとは?
- 他人との関係での甘えは愛なのか?
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《無分別》な甘えという言葉に少し引っかかりをおぼえます。仏教をすこしかじっているので、《無分別》という言葉を聞くと、つい過剰反応をしてしまう(ポリポリ)。 自我が未発達なために、自己と他者を同じであると考える。考えないまでも、そう思う、推測する。その区別・差別をしないという意味でならば、無分別。 また、世間一般でいう分別、良識、常識がないという意味においても、無分別。 打算、損得計算が働いていない、働いていたとしても、わずかであるという意味においても、無分別。 無分別でもいいか、とは思うのですが、 《無邪気》という言葉の方が言い得ているのかな、という気がします。 ではありますが、bragelonneさんの提案にしたがって、《無分別》という言葉を使うことにします。 ☆☆☆☆☆☆ ~~~~~~~ (う) したがって上のオキシトシンが分泌されるかどうかにかかわらず(一般にはその分泌の以前において) どちらか一方の側がアマエをおこなうという場合です。 ~~~~~~ 生まれたての赤ちゃんの様にですね。 ~~~~~~ (お) あるいはつまり あたかも幼児が甘えるときのようにひとが相手に キッカケとして甘えるとき それは むろん小賢しい分別も遠慮もなく理屈抜きにそうしているのであり あるいはまた完全に無防備です。あたかも底なしの信頼感覚において 振る舞っています。 ~~~~~~ 幼児は、他者に自分を害しようとするような悪意の存在を認めない。無知ゆえに、絶対的な信頼が成立している。 ~~~~~~ (く) でも《互いの存在を自立させずに同一視する》ことにならないか? 子どもの側としては そこまでは考えていないであろう。計算はないのではないか。――つまり打算によるアマエは ここではアマエから除外することにした。 ~~~~~~ 本当のことをいうと、 《同一視》という言葉がいいのか、《自己の〔他者への〕延長》のどっちがいいのか、 少し悩んだのですよ。 で、自己愛の延長として、愛をすべて引っ括めちゃおうかな、なんて。。。 真っ先に浮かんだのが、子供のケースだったので。 小さな子供は、自分以外の人間も自分と同じ存在である、と素朴に信じているでしょう。 すこしフロイト的な話をしますけれど、 小さな男の子は、女の子にも当然自分と同じようにペニスがあると思っている。 ないと驚く。 で、あったものが何らかの理由でなくなった──去勢された──と思ったり、そのうちに、生えてくると思ったりする。 自己の過大適用なんですけれども、こんな心性があるじゃないですか。 でも、親が我が子を見るときは、たぶん、異なる心性が働いている。 自己の姿を子供に投影させている。子供に自分の姿を見ている、と思うのですよ。 で、少し悩んで、《同一視》という言葉を使いました。 ~~~~~~ (け) 親はどうか。計算によって子のアマエを受け留めるのだろうか。あるいはぎゃくに そのような打算を振り払おうとしてかどうか 子とのあいだに溝をつくらないようにと思ってかどうか かえってその相手として向き合っている子に自分を投影して互いの同一視をすることにならないか?――たぶん これは・これをも アマエから除外しうるのではないか。 ~~~~~~ 初期の段階では、親に打算は全くないと思いますよ。子供は宝物ですよ。 ですが、この宝物、自我が徐々に徐々に確立し、親のいうことを聞かなくなる。親の思ったように育ってくれない。 で、「昔はかわいかったのに」と言ったりする。 自己を完全に子供に投影できなくなっているからではないでしょうか。 ~~~~~~ (iv) そこには 子からのアマエにある関係性(それとしての愛)から逃避するかの振る舞いが見られる。 ~~~~~~ おもちゃ売り場で、床に仰向けに寝そべり、「買って買って」と駄々をこねる子供。 この時、親のとる行動は、大きく二つにわかれる。泣こうが喚こうが、無視を続け、子供に諦めさせる。あるいは、人目を気にして、仕方なく、子供におもちゃを買ってあげる。 どちらが、いいんでしょう(笑い)? でも、どちらも愛ゆえにということに、ひとまず、しておきます。 ~~~~~~ (し) すなわち むしろアマエがキッカケとして与えられたとき これを回避しているなら: ◇ ~~~~~ また、この同一視から、親は子供に対して、ときに情け容赦のない行動にも出たりもする。子供は、自分(親)、あるいは自己の一部、自分の所有物だから、親の意に反したことをしたとき、遠慮なく《ビシバシ》いける、のではと。 ~~~~~~~ ☆ といった事態になりかねません。無分別に対して無分別では応じることが出来ない・いやだという場合に起こる事例であるように考えられます。 (す) すなわち・つまり・とりもなおさず ◇ ~~~~ これが、甘えの基本的な構図ではなかろうか。 もっとえげつない言い方をすれば、 《自分大好き・自分勝手な遺伝子》のなせるワザではないか。 ~~~~~~~ ☆ と規定された事例は むしろぎゃくに〔特に子どものときに〕アマエを親や周りからキッカケだけとしてでも注がれる経験の薄かったひとの場合に起こる親業の一端なのではないか? ~~~~~~ だと思います。 そして、ネグレクトは違うと思いますけれども、 これが幼児虐待に繋がったりする。 愛しているのだけれども、親としての行動のトリ方がわからず、思わず手を挙げたりしてしまう。 ~~~~~~ (せ) 無分別なるアマエは 《自分勝手・自分大好き》そのものであるように見えますが その無遠慮は 無防備なる底なしの信頼関係を土台としている。ものと思われ やはりそれなら 愛情・しあわせホルモンなるオキシトシンのハタラキに通じるところがあると言ってもよいのではないでしょうか。 ~~~~~~ オキシトシンの話は置いておいて、 無分別なるアマエは、他者への絶対的な信頼関係を土台としていると思います。 親からひどい虐待を受けた子供ですら、それでも懸命に親を愛しようとするそうです。ネグレクトされても、なお、かならず自分のところに帰ってくる、と信じているそうです。 いろいろな話を聞くと、 理屈じゃないんですよね~、親に対する子供の絶対的な信頼というのは。 いや、それも《自分勝手な遺伝子》のなせるワザって話もあるんですが。。。 何か、書いてて、涙が出てきちゃった───眠り猫は涙もろいのでした(ポリポリ)───。 であるのと同時に、 他者に対して絶対的な信頼関係を築ける能力を、 誰もが有しているということの証明になるのではなかろうかと。 潜在的に持っているはずだ!! ~~~~~~ ☆ (そ) アマエがふたつの種類に割れました。 キッカケとしての・無分別にして底なしの信頼関係に根づく振る舞い。つまり無分別なアマエが ひとつ(これが基本)。 そして じつはこの基本のアマエを避けるときの自己愛かつ相手との同一視から来る打算アマエ。 ~~~~~~ 先に少し触れましたけれども、自己〔愛〕の延長をもって、すべての愛を引っ括めちゃおうと思っているので、 《自己愛かつ相手との同一視》は除外して欲しいですね。 《歪んだ自己愛に基づく打算的アマエ》とか。。。 自己愛は、他者愛へ転換できるものだと思っているので。 ☆☆☆☆☆☆ う~ん、 大切なのは《無邪気なアマエ》、《聖なるアマエ》なんじゃないですか。 人間関係においては、他者、あるいは、他者への絶対的信頼という意味でです。 「人を見たら、泥棒と思え」じゃ~、世の中、世知辛くていけないと思います。
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- 阿加井 凛悟(@neutral)
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ぶらじゅろんぬさん・でぃーくべくさん・ねこさん。 ん~。(^_^;) 分かり合えない部分もあるようですが、 話し合いができてよかったです。 どうもありがとうございました。 それから、質問の核心から 勝手に話を勝手にズラしちゃって澄みません。 他の方の良質な回答に期待して、 今度こそおいらはおいとまします。 PS. きっかけとしてのアマエをするときは そのアマエを発する人は カラッポなんだと思います。 さっきふと、老子の話を思い出しました。 器(入れ物)の役割?は何かっていう。 水もジュースもスープも味噌汁も 何も入っていない入れ物こそ 入れ物の役割を果たすんぢゃないかなっていう。 あ、またズレまくりかも。 ほぢゃ、今度こそ消えるわ。 しゃべりたい放題あまえたい放題でした。 みなさまありがとうございました。<m(__)m>
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~ きっかけとしてのアマエをするときは そのアマエを発する人は カラッポなんだと思います。 ~~~~~~ ☆ そうですよ。と言いますか そういう趣旨で質問者は やり取りして来ています。 あるいは 能天気と言いますか 《カラッポ》の状態においてアマエが――つまり相手との交通関係における中立であってかつそのあと好意的な志向性が 相互の好意的な志向性になりうると感じているそのアマエが―― キッカケとして起こる。 ★ ~~~~~ 器(入れ物)の役割?は何かっていう。 水もジュースもスープも味噌汁も 何も入っていない入れ物こそ 入れ物の役割を果たすんぢゃないかなっていう。 ~~~~~~~ ☆ ええ。空っぽのうつわ なのでしょうね。そのキッカケのときにおいて。 まだ いろんな角度から見てみる余地はあるかも知れません。 何度でもどうぞ。 まだ閉めるときを決めていません。
補足
資料です。やっと見つかりました。 ▲ ( dependency ) ~~~~ ・・・一般に西洋社会 特に合衆国の文化は 依存しないことの意義を誇張し過大に評価していると一般に考えられている。反対に 依存することは望ましくない 不都合なこと 場合によっては恥ずかしいことだと思われている。 この先入観に注目して ネキ(*1)は 欧米社会において 《依存》が非常に侮蔑的な意味を持つようになったのには 言語学的・社会史的な由来があると考えた。 言語学的には この言葉は ラテン語から派生したもので その辞書的意味は 《つるされている( being suspended ) あるいは ぶら下がっている( hanging down )》 のことで どちらも他者に対し邪魔あるいは迷惑になっている状態を示している。――レイコフとジョンソン(*2)は 《下( down )》という語が否定的な意味を持つことも強調している。 対照的に 《依存》に相当するヒンドゥー・サンスクリット語の語源には悪い意味はなく 《もたれて休む・避難する・安全感を求める》という意味である( Neki 1976 )。 ネキはさらに次のような興味深いことを述べている。すなわち 《 dependency 》と《 independency 》とは 政治の主権に関して言えば 《属国》と《独立国》という正反対の言葉であるが これまでの用法や解釈によらず 人間の発達という観点から見ると 必ずしも《論理的に》反意語となるものではないと言うのである。 *1 Neki, J.S.: An Examination of the Cultural Relativism of Dependence as a Dynamic of Social and Therapeutic Relationships 1976 I Basic Considerations ( British Journal of Medical Psychology 49 ) II Therapeutic Implications ( ibid. ) *2 Lakoff, George, and Johnson, Mark: Metaphors We Live by 1980 ( Frank A. Johnson : Dependency and Japanese Socialization――Psychoanalytic and Anthropological Investigation into AMAE―― 1993 江口重幸・五木田紳共訳:「甘え」と依存――精神分析学的・人類学的研究―― 1997 p.17 ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ▲ (依存から相互依存へ) ~~~~~~ 《依存》という言葉はさまざまな研究者や理論家の影響の下で 修正され 明確化され 再定義されてきた。特に それと競合する《愛着( attachment )》という用語が使われるようになってからはそうであった。最近では 依存の相互行為的な互恵的な そして社会象徴的な性質を表わすのに 《 interdependency (相互依存)》という語が用いられるようになっている。 対人関係の臨床的な特徴を論じる中で スティーリン(*3)は生物学の用語である《共生( symbiosis )》に類似したものとして《相互依存》という言葉を使った。 そのようにして《相互依存》は 《片利共生( commensalism )》と 《共利共生( mutualism )》と 《寄生( parasitism )》と に分けることが可能となった。このうちの《共利共生》が 親密で相互依存的な人間関係に適合するものと考えられた。 *3 Stierlin, H. : The Adaptation to the Stronger Person's Reality in Psychiatry 21 1958 (同上書 第一章 pp28-29 ) ~~~~~~~~~~~~~ ☆ この《相互依存》あるいは《共生》の概念で アマエを広くとらえるのは 日本語では――あまり好ましいと思われはしないかも知れませんが―― ありうると考えられます。 そのアマエをめぐって 《相互依存》は 《片利共生( commensalism )》と 《共利共生( mutualism )》と 《寄生( parasitism )》とに分かれる というのも 受け容れられそうです。
蛇足としての感想 ナントカ三世と、ぶらじゅろんぬさんの関係って、「甘えー愛」の好例かもしれませんねえ。何かを教えてほしいと、聞く事が、ぶらじゅろんぬさんの、甘えであり、愛情表現なのだそうですから。私は精神障害者だと思い、これ以上いじってもかわいそうだなあと思いました。私こそ、レクター博士より最悪な人物だそうです(トマス・ハリスの三部作を参照してください)。しかし、発狂させてもかわいそうだ(爆)。 ラテン語ができるって、翻訳ソフトはないはずですから、おそらく院生なんでしょうねえ。しかしドロップアウトしたのかなあ。博士に進学できなかったのか、国家研究員になれなかったのか。何にせよ、うまくいかなかったんだろうな。けれどもラテン語ができるなら、早慶以上の大学だろうと思います。プライド、傷ついただろうなあ。話を真に受けると、どっかの企業に就職し、チンピラが来るような安い酒屋で飲んでいるらしいけれども、つまり、準ブラック企業に就職したんだろうなあ。仮に私の職場なら、そんな安い店に行くはずがない(十万円以上のワインを開けるし、どこかの政治家が隣の席に座っているような店。いや、私は付き合いを拒否しているけれども。私自身はお金を別で使わないとならないので)。。。 ともあれ、ナントカ三世は、ここで「哲学」とか呼んでいるものが、児戯に思え、自分がうまくいかなかったのに、何でコイツらは楽しそうなのかと、憎たらしくて仕方がない。そんな感じに思えますねえ。しかし文体を見る限り、既に発狂しています。私、もっと、いやーな事をしてあげても良いんですが、それはやめておきましょう。ぶらじゅろんぬさんも、猫様も、手加減してあげてください。彼か、彼女か知りませんが、一生懸命、自分の場所を模索しているんです(女だと思うなあ)。 それにしても、世の中むずかしいもので、私は恋人とは喧嘩続きです。彼女が甘えてきたとき、「クレーム」とか「迷惑行為」と思うからなんでしょうねえ。昔なら、さっさと次の女に乗り換えたところです。私、常に取り巻きの女性陣がいますので。が、良くないなあと思って、迷惑ー愛だと思うことにしました。 それにしても、お腹が減りました。今は反動で、豪遊中です。赤ワインを飲んで、テリーヌを食べて。安物ばかり揃えたし、家で飲んでいるので、お金は千円もかかっていないけれども、それでも、年収百万円だったら、一食が千円近いなんて、経済学の基本的な知識があるのなら、絶対にできない事です。わかっているけれども、どうしても食べずにはいられない。人間、罪深いなあと思います。この罪深さも、「甘え」なのかもしれません。 いや、迷惑だと思ったら削除を依頼してください。では。
お礼
つづいてです。 ○○三世は 一世のときからの《ツキアイ》ですが そして今回は久しぶりなのですが ★ 一生懸命、自分の場所を模索しているんです ☆ というかぎりで・また相手がこちらにやってくる限りで お相手すると思います。 ★ 恋人とは喧嘩続きです。 ☆ わたしなんぞは 遠い遠いむかしの話ですが けんかのひとつも出来なかったのですから けんかと聞くと あぁ 仲がいいんだなぁとつい思ってしまいます。 ★ 今は反動で、豪遊中です。 ☆ それでも精進するようなかたちだとのこと。 わたしも 太る体質のようで――デブデブまでは行かないのですが―― いいところまで(つまり腰や腹の肉つきが細くなったところまで)行ったと思うと 食べてしまいますね。反動が大きい。 いまでは 反動のチカラのほうがまさってしまいました。とほほ。
皆様、いろいろありがとうございます。大体、話が出そろってきましたかね。まず、にゅーとらるさんへ。 >甘・え・て・も・ら・え・る ことに甘えさせてもらってると思います。 うーん。流してもいいんだけれども、真面目に応答すると、そういうの、さっぱりわからないです(笑)。矛盾するような言い回しも、こじつけに思えるんです。ボランティア、長話。うーん。それが甘えというのなら、根本的に、「甘え」という語の使い方が、私とは違うみたいですねえ。 次に料理の話ですが、 >これは、「でぃーくべくさんの 恋人に対する甘え」と捉えることはできませんですかねえ。たぶん恋人の料理に「言いたいこと」が無ければうまいともまずいとも言わずに、機械的に、車にガソリンを入れるように食すんぢゃないかしら。 そういう話じゃないんですよねえ。機械的に食べるということは、私の場合、無いみたいです。普通ならどうするか。 ・食べない ・帰る そんな感じです。これに比べたら、作り直すという行為は愛があるのかもしれません。しかしそれは、やくざの理屈というべきでしょう。俺様が文句言ってやってるんだ、本当なら文句も言わねーよ?、だから、ありがたいと思えよ、みたいな感じですので。そんな恐れ多いことは、思いませんねえ。私が我が儘なだけですよ。 猫様、私は語義の話は、正直、よくわからないです。すいません。だって日本人なのに、外国語の辞書を引いて切り分けても、参考にはなりますが、ちょっとなあという気がします。「甘え」って日本語が、まず知りたい。そんな気がしますね。 ただし、上のにゅーとらるさんの話に触れて書きましたが、「甘え」という同じ単語を使いながら、全然、別のことを想定していたとすれば、いろいろな語義を探るのもありなのかもしれません。ぶらじゅろんぬさんとは、最初にこの話をしたので、コンセンサスが成立しているように思いました。が、ボランティアや長話も含めると、容易に定義は破綻してしまいます。外延がおかしくなってしまうんですよねえ。うーん。そろそろ魔境に入ってしまったかなという気がします。 さて、ぶらじゅろんぬさん。私とは考えが違うとしても、煮詰まってきましたね。 >言いかえると アマエの発動のときの特にその人の心のあり方に限っては――初めからの計算づくなどでないならば―― 《クレームや改善要求》とあとで受け取られるその事態と見方とは切り離すようにして 捉えられるのではないかとまで思っています。 確かに、これは的確な表現ですね。例えば料理について何か言われたにせよ、その言葉の中身はさておき、無関心ではないということが嬉しい。そういうことですね。にゅーとらるさんのいっていることと、基本的には重なっていますね。 ただそうすると、「甘え」の前に主観的な「愛」があったということになりますよねえ。すると「甘え」は「きっかけ」ではない、ということになりませんか。甘えがあっても無くても、最初から愛があったということになりますので。 料理の話を持ち出すと、「料理がまずい」とクレームをつけたそこから、愛が始まると言わないと、「甘えはきっかけ」とは言えないと思うんですよねえ。しかし実際は、最初から相手のことが好きで、 別に料理の出来不出来はどうでもいい。マズいとか何かいわれても、それで愛がさめるということはない。そういう話に思えるんですよね。 あるいは鳥がつついてきた時、痛いなあと思いながらも、この迷惑行為によって鳥を愛してしまった。そう言えないと、話は一貫しません。しかし実際のところは、最初から鳥が好きで、鳥を買ってきた時点で鳥のことが大好きで、何をされても大好きな気持ちに変わりがないということなのじゃないかなと思います。すると、愛のきっかけは、甘えではない、別の何かということになります。 どうなんでしょうか。 ただこれは、私の読みが甘いのかもしれません。とはいえ、実のところ、実体験が無いので、さっぱりわからないのですよ。議論を精査する役割は、猫様など、他の方にお譲りした方がいいのかもしれません。バトンを人に渡しつつ、私は見守ることにしようかな、と思いますが、どうでしょうか。
お礼
お早うございます。ご回答をありがとうございます。 話はつづきますねぇ。 ★ ・・・ただそうすると、「甘え」の前に主観的な「愛」があったということになりますよねえ。すると「甘え」は「きっかけ」ではない、ということになりませんか。甘えがあっても無くても、最初から愛があったということになりますので。 ☆ この言わば《こころの哲学》をめぐって きわめて微妙なことを思っています。述べます。 1. アマエは もはや土井健郎の説からも離れてのごとく 《心理》という心の〔一般に表面での と思うのですが 心の〕ウゴキではない。 2. 思考を停止したようなかたち(エポケー状態)において 心理や知覚や思惟からも自由に起こる心の伸び(また 明け)であり しかも基本としてすでに具体的なおこないにかかわると思われるからには 心としての踏み出しである。 3. 相手とのかかわりとしては 一たんそのキッカケなるアマエにあって 心は言わば中立の状態になる。(これが エポケー)。と同時に ふと相手のほうへ向けて 何らかの心のウゴキを持つ。これが 踏み出しだ。 4. そのあとでは 考え(分別)がはたらくようになる。その踏み出しとしての心の内容を表現しようとする。 5. 順縁と言いますかその順縁にあっては あるいはそして仲がわるい逆縁であっても プラスの前向きのフミダシであるなら そのまま波風を立てないかたちのおだやかなヱクトル関係として自己表現する。 6. 逆縁にあっては そしてあるいは順縁であってもわざと順縁ではないフミダシをおこなおうと思えば マイナスの・後ろ向きの・過去のいきさつにこだわる・恨み節となるようなヱクトルが動き出す。 7. ★ 「甘え」の前に主観的な「愛」があったということになりますよねえ ☆ そのように捉えられる事実とは アマエは 別個の契機であると思われる。アマエの存在(そのような事実にとっての前後の過程への キッカケとしての介入)は 言うなれば半ば独立していて ほかの事態からは屹立しているというかのように 次の一手としての心の形成およびそこからのフミダシを あらたに――あらたに です――みちびく。こう考えられます。 8. つまり アマエがキッカケとして起こることと その前後の過程において好意や愛情やあるいはぎゃくに仲たがいや確執があることとは いちおう切り離して捉えることができる。その意味では アマエは 天与のヒラメキのごときモーメント(瞬間・きっかけ)である。 9. ★ 甘えがあっても無くても、最初から愛があったということになりますので。 ☆ ぎゃくに《相手とのかかわりにおいて愛(愛情でしょうか)があっても無くても どこかの時点でアマエが起こりその相手とのマジワリ過程に介入することがある》 というふうにアマエは捉えられるのではないか。 10. ならばアマエは 因縁の縁起や因果関係からは自由なデキゴトだと考えられ 或る種の仕方で 特異点だとさえ考えられる。 11. そのときの心のあり方を――つまり心理のウゴキ・片向きなどとして――微分するかのように捉えようとしても 出来ない。塔の尖端のごとき起こり方としての存在であって・また介入であって ほかの心理や周りの出来事や情況やからひとり屹立しているのだと見たほうがよいと思われる。 ★ ~~~~ 料理の話を持ち出すと、「料理がまずい」とクレームをつけたそこから、愛が始まると言わないと、「甘えはきっかけ」とは言えないと思うんですよねえ。しかし実際は、最初から相手のことが好きで、 別に料理の出来不出来はどうでもいい。マズいとか何かいわれても、それで愛がさめるということはない。そういう話に思えるんですよね。 ~~~~~~ ☆ この事例を応用問題として考えるならば: 12. 《「料理がまずい」とクレームをつけ》るというフミダシが アマエを契機として現われたものか? これが 鍵をにぎります。 13. 愛は はじめからあったという場合も そのフミダシから始まったという場合も 前後過程をつうじてなかったという場合も いづれも考えられます。 14. そうしてむろん《「料理がまずい」とクレームをつける》おこないは アマエが契機とならなくても あり得ます。 15. すなわち ★ しかし実際は、最初から相手のことが好きで、 別に料理の出来不出来はどうでもいい。マズいとか何かいわれても、それで愛がさめるということはない。そういう話に思えるんですよね。 ☆ というふうに アマエの介在と関係なく繰り広げられるドラマのひと幕も 現実にあり得ます。 おかげさまでこのように考えが煮詰まって来たようです。
- 阿加井 凛悟(@neutral)
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おいとましますとか言っといて ちょっくら場所を借ります。 でぃーくべくさん。 たぶんおいらもねこさんも (ねこさん、ちがったらごめんなさい)、 甘・え・て・も・ら・え・る ことに 甘えさせてもらってると思います。 ___________ 自分からは甘えないのかというと そういうわけでもないんですよ。 「お言葉に甘えて」、 ボランティアを休ませてもらうこともありますし、 無自覚にいろんな人に甘えてると思います。 スーパーで会った知り合いと つい長話、 別に何か連絡することがあるわけでもないけど ついでに気持ちを排泄(?)しちゃった、つい。 他にもいろいろ充分甘えてると思います。 それにおいらのキャパシティを超えた要求には、 「できません」と言います。 ___________ ところで、 >恋人が料理しても、箸もつけずに見た瞬間、「これもっとおいしくなるから、俺が作り直すわ」と言って、食卓に並んだものを一旦鍋に全部開けて、調理し直したなあ。 :これは、「でぃーくべくさんの 恋人に対する甘え」 と捉えることはできませんですかねえ。 甘えることができるから そのようなことができるんぢゃないかなあ、 とおいらは思ってしまうんですよ。 たぶん恋人の料理に「言いたいこと」が無ければ うまいともまずいとも言わずに、機械的に、 車にガソリンを入れるように食すんぢゃないかしら。 おいらは意見を言ってもらえるほうがいいなあ、 その方が愛を感じるなあ、無関心でいられるより。 あ、料理をもっとおいしくしてくれるんなら もちろんおいらの意見も聞いてほしいけど。(^_^;) 「オレもっとおいしく作り直したいんだけど、 おまえそれでOK?」とか。 でぃーくべくさん、 例によって思ったことそのまんましゃべりました。 気分を害したら澄みません。 ぶらじゅろんぬさん、こんばんわ、 どうもおじゃましました。
お礼
にゅうとらるさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 なるほど。つまり なるほどというのは 具体的な事例を取り上げていて それについていろんな角度からながめ 理論としての見方をも提出することができる。ということのようです。 こうなると 人数が多いほうがよいかも知れません。むろん決して多数決ということではなく そうではなく さまざまな見方が出されて来れば 文殊の知恵も身につくかも知れないから。 わたしは この事例については 意見をひかえます。 ◆ 箸もつけずに見た瞬間、 ☆ というのが すごいなぁとただただ思いました。料理ったって できないもんね。
- 阿加井 凛悟(@neutral)
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ねこさんありがとうございます。 参考になりました。\(^o^)/ rely on がしっくりくるなー。 信頼してるよーという感じがして。 母⇔子 だけぢゃなくて 大人⇔大人 でも成立するんぢゃないかしら。 それから、はじめに、一瞬、 believe in なのかなーとも思いました。 ぶらじゅろんぬさん・でぃーくべくさん・ねこさん・ おいらはこれでおいとまします。 ありがとうございました。
お礼
ご回答をありがとうございます。 No.22でのやり取りで だいたい言っているでしょうか。 このご回答内容に呼応するかたちにおいて。 ディペンドの pendere というのは例えば振り子がぶら下がっているような感じですよね。 よって アマエとしても タテの関係になるのかなぁ。 ★ ~~~ rely on がしっくりくるなー。 信頼してるよーという感じがして。 母⇔子 だけぢゃなくて 大人⇔大人 でも成立するんぢゃないかしら。 ~~~~~ ☆ これにはわたしも いま 見方を同じくしています。 ありがとうございました。
- NemurinekoNya
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NO22にちょっと付け足し。 類型的には お母さん⇔子供 reliance 横軸 お父さん⇔子供 dependance 縦軸 の構図が成立するのかな。。。 神さままでを引っ張り出すと、この構図は狂ってきますけれども。
お礼
ありがとうございます。 No.22のほうに 参考にいたしたかたちを採りました。
- NemurinekoNya
- ベストアンサー率50% (540/1073)
おはようございます。 「A depend (up)on B(AはBに依存する、甘える)」とほぼ同じ意味になる 「A rely (up)on B」というのがあります。 で、この二つの意味の違いを調べるために、語源について調べてみました。 ──────────── ~~~~~~~ rely (v.) early 14c., "to gather, assemble," from Old French relier "fasten, attach, rally, oblige," from Latin religare "fasten, bind fast," from re-, intensive prefix, + ligare "to bind" (see ligament). Sense of "depend, trust" is from 1570s, perhaps via notion of "rally to, fall back on." Related: Relied; relying. ~~~~~~~~ http://www.etymonline.com/index.php?allowed_in_frame=0&search=rely&searchmode=none ~~~~~~~~ dependant (adj.) also dependent, late 14c.; of persons, from 1580s, from French dépendant (adjective and noun), properly present participle of dépendre "to hang down," also "to depend," from Latin dependentem (see depend). As a noun, from early 15c., originally "action growing out of another action." As with its relative dependence, the Latin-influenced variant (in this case dependent) co-existed through 18c., but with this word the French spelling has proven more durable in English, possibly because it has been found convenient to keep both, one (dependant) for the noun, the other (dependent) for the adjective. ~~~~~~~~ http://www.etymonline.com/index.php?allowed_in_frame=0&search=depend&searchmode=none ──────────── このオンライン辞書、便利なんだけれど、修飾関係が分かり辛いんだよな~。 ───────── ~~~~~ rely verb (used without object), re·lied, re·ly·ing. to depend confidently; put trust in (usually followed by on or upon ): You can rely on her work. Origin: 1300–50; Middle English relien < Middle French relier < Latin religāre to bind fast, hold firmly. See re-, ligament ~~~~~~ http://dictionary.reference.com/browse/rely ~~~~~~ depend — vb (foll by on or upon ) (usually foll by on or upon; often with it as subject ) (foll by on or upon ) 1. to put trust (in); rely (on); be sure (of) 2. to be influenced or determined (by); be resultant (from): whether you come or not depends on what father says ; it all depends on you 3. to rely (on) for income, support, etc 4. rare ( foll by from ) to hang down; be suspended 5. to be undecided or pending [C15: from Old French dependre, from Latin dēpendēre to hang from, from de- + pendēre to hang] ~~~~~~ http://dictionary.reference.com/browse/depend?s=t ───────── なので、現代においては、意味の面では「depend」と「rely」はほとんど、同じ意味なのですが、 relyはtrust,confidece、「信頼」の面の色彩がdependよりも強いといったところでしょうか。 relyの語源は、「re-ligare」でしょう。「re-ligare」は、宗教を意味するreligionの語源でもある。 なので、「聖なる〔ものへの〕アマエ」の色彩がすこし出てくるんですかね~。 いくつか持っている辞書でも調べてみたのですが、 dependは、支配⇔従属的関係(原因⇔結果)の意味合いが強いみたいですね~。relyは、この意味合いがdependと比較すると、弱い。そして、dependは物質的・経済的意味合いが少し濃いみたいです。 類型的には お母さん⇔子供 reliance お父さん⇔子供 dependance の構図が成立するのかな。。。 なので、《アマエ》をdependanceととらえれば、 Diekbecさんのような考え方も成立するのであろうと思います。 と同時に、 nuetralさん、bragelonneさん、そして、ネコめは、relianceととらえている、 ということになるのでしょうか、 英語の語源的な観点からすると。。。 ラテン語の方は、 bragelonneさんにお任せします。 bragelonneさんに思い切り甘えちゃいます。
お礼
おはようございます。ご回答をありがとうございます。 ふうむ。生活感覚としての語義には よわいんですよね。外国での生活体験がないから。 もし ▲ rely : re-, intensive prefix, + ligare "to bind" ☆ のように《一たん分離したと知覚し さらには疎外感をも味わうに到るかどうかを別としても もう一度一体感を得ようと求める》ということであれば これまでのように 二通りの見方が出来るでしょうか。 《甘え》とは 1. 心理的な意味とかたちにおいて その《分離や疎外感を埋める》というウゴキ。 2. 存在論において 社会における共同生活という基礎の問題として 互いの関係性を互いに確立するという意志行為。また まだ意識すら持ち得ていないときには そのような意志行為の萌芽としてのウゴキ。 ▼ (de·pend) ~~~~~ http://dictionary.reference.com/browse/depend?s=t 2. to rely for support, maintenance, help, etc. (usually followed by on or upon ): Children depend on their parents. ~~~~~~~~~~~~~ ☆ このひとつの意味においては ディペンドは 言うなれば《すねをかじる》といったニュアンスなのでしょうか? まぁ 甘えている( Children depend on their parents. )ことになりますね。 《ぶらさがっている( to hang down )》という語義は どんなイメージなのでしょうね。脛ではなく親の腕にぶらさがっているというような感じなのかなぁ。わっかんない。 そうして(という言い方は あいまいなのですが): ◇ ~~~~~ いくつか持っている辞書でも調べてみたのですが、 dependは、支配⇔従属的関係(原因⇔結果)の意味合いが強いみたいですね~。 ~~~~~~ ☆ となるということでしょうか。 そうして ◇(回答No.23) ~~~~ 類型的には お母さん⇔子供 reliance 横軸 お父さん⇔子供 dependance 縦軸 の構図が成立するのかな。。。 神さままでを引っ張り出すと、この構図は狂ってきますけれども。 ~~~~~~~ ☆ といった図式が得られると。 その意味するところは: ◇ ~~~~~ なので、《アマエ》をdependanceととらえれば、 Diekbecさんのような考え方も成立するのであろうと思います。 と同時に、 nuetralさん、bragelonneさん、そして、ネコめは、relianceととらえている、 ということになるのでしょうか、 英語の語源的な観点からすると。。。 ~~~~~~~~ ☆ のように思われますが。・・・つまり 言葉の感じがまだわたしにはつかめていないということは 添えなければならないかなとは思います。 ひとつの感じとしてですが アマエはキッカケとしては むしろ《エポケー》のほうがよいかも知れないとまで思われるようなそうでないような。・・・です。 《思考の中断した状態において 他者との共生性には――意識下で――めざめている》ような状態(もしくは その一瞬)です。 心理学からは・その意味で土井健郎からは 離れたほうがよいかとも思えて来ています。いまリアルタイムでの思考です。
まず、にゅーとらるさんと猫様へ。応答、ありがとうございます。しかし私はどうも今ひとつ分からないのですよ。というのも、お二人とも、甘えることが愛のきっかけであるという説を支持していながら、お二人とも、甘えられた体験ばかり話している。自分が甘えた体験を語ってくださらないことには、容易に納得し難いのですが。どうでしょうか。 ただ、にゅーとらるさんのサイトを見てみて思ったけれど、私とは経験が違いすぎるのかもしれないなあ。お子さん、かわいいですね。ちょっとのことでも、ものすごく喜んでくれて、素直で。ご自身もそういうお子さんじゃなかったのかなあと推測します。私はそういう子供ではなかったし、私の子供もそういう子供では無いでしょう(笑)。机を貰い、ご飯を作ってもらっては喜ぶ。無いなあ。 机ー勉強の道具、ウザい。ご飯ー食べる義務が生じる、ウザい。そんな感じなんですよね。どんなに御馳走を食べても、楽しかったことは数少ないのです。大体、家族そろって食事もしなかったし。まあ、簡単にいえば、私の環境は、都会のギスギスしたものです。一つ気がついたことがあります。「甘えられた」時、過剰な要求をされた時、猫様などはっきりと書いていますが、それが愛情表現だと思うらしい。しかし私はそんな風に思ったことは無かったなあ。 にゅーとらるさんのサイトを見て気付いたのは、例えば、ケーキ。私、ケーキを作るとプロ級らしいですが、それは誰も食べてくれなかったからです。まずいものはいらない。誰も食べない。だから食べさせようと腐心した結果、プロ級だそうです。完全に考え方が違うんですよねえ。家族が冷たかったともいえるかもしれませんが…。 実際、私もまずいケーキが出てきたら、「こんなもん食えねーよ」と言うでしょう。そういえば、恋人が料理しても、箸もつけずに見た瞬間、「これもっとおいしくなるから、俺が作り直すわ」と言って、食卓に並んだものを一旦鍋に全部開けて、調理し直したなあ。相手は呆然としていました。モラルハラスメントと言えば、そうなんだろうなあと思いますが、どうもにも、それが事実ですねえ。 どうも私の中で極端な例を挙げたわけですが、考えてみれば、結構見つかりますね。人の仕事を面倒見ても、「全部やり直せ、こんなものを俺に提出してくるとはふざけてんのか、俺の時間を何だと思ってるんだ、このクズ、お前の存在価値なんか無いんだよ、さっさと引退しろ」くらい言って、突っ返すことが多いですねえ。甘えているー愛情ー受け止めてあげよう、という発想はさらさらないな。うん。「満足な豚」になりたいとプロフィールで書いていますが、それは願望なんですよねえ。 まあ、多数決でいえば、3対1なので私の負けです。そういう意味では多数派が一般的と私は思うべきなのでしょう。しかし「甘えてくる=愛情」だと思う人も世にはいるんですねえ。これは案外、楽な生き方だなあ。勉強になりましたよ。 ぶらじゅろんぬさんの方は、おかげさまで話がスタート地点に立ったというところのようで、めでたいなと思います。8(か)の前までは、私の意見を精緻に分解してくれたということですよね。どうもありがとうございます。 その後は、聖なる話に結びつけて普遍性を付与しようということでしょうか。うーん。これはなあ。私には完全に手に余ります。なぜって「甘えー愛」も実感が湧かないし、聖なる存在も私に語りかけてきた試しは無いのですから。 日常生活において聖なる何かって無いんですよ。何もかも、合理的にさばくべきことで、何かの処理が滞っているのは、私の能力不足。ただそれだけです。 >《無いアマエ》は 《甘やかされていたという経験》に通じるものがあると予断したい気持ちがあります。 私の振った話を受け止めてくださったのは嬉しいのですが、うーん。経験が違いすぎるのかな。反応がうまくできないでいます。 一つ事実として、取り上げてよいと思われるのは、「甘えられた時」の受け止め方が、人によって違うということです。にゅーとらるさん・猫様のように、愛情表現だと思う人もいる。私のように、クレーム、改善要求だ、と考える人もいる。こういう差異はなぜ起きるのでしょうね。まあ、感受性の違いと言って終わってもいいのですが、それも面白くないので、ちょっと引っ張ってみました。 何か面白い考え、ぶらじゅろんぬさんの方でありませんか。聖なる存在をめぐって、何か面白いことがいえませんか。まあ、私のような俗物には救いが無いという結論になるのでしょうし、それでいいと思いますが(笑)。ともあれ、世の一定数の人が、甘えてくる時に何を考えているのかが分かっただけでも、私には儲け物でした。「満足な豚」の考察に、一歩、進展がありましたので。お礼申し上げます。
お礼
そうですね。なかなか議論は煮詰まって来ていると同時に もうひとつ道は開かないみたいです。 お早うございます。ご回答をありがとうございます。 お尋ねのあった次の一点で もう少しわたしのほうからつけ添えます。 ★ ~~~~~ 一つ事実として、取り上げてよいと思われるのは、「甘えられた時」の受け止め方が、人によって違うということです。にゅーとらるさん・猫様のように、愛情表現だと思う人もいる。私のように、クレーム、改善要求だ、と考える人もいる。こういう差異はなぜ起きるのでしょうね。まあ、感受性の違いと言って終わってもいいのですが、それも面白くないので、ちょっと引っ張ってみました。 ~~~~~~~ ☆ これについての事情は もう少し複雑です。詳しく捉える必要があると考えます。 1. アマエを受けて 愛情表現だと捉えるのは――わたしの考えの場合―― その表現の発動のときまたそのときの心の状態を捉えて それは愛としてのアマエの問題であるというものです。 2. その発動されたあとの過程においても 愛情表現だと受け取るのは たぶん主観によると思われます。それは 主観の自由なのだと。 (その自由は 度量のちがいでもありますが 愛玩動物やあるいは子どもに対して持ち得る度量を 一般の赤の他人に対して しかもいぢわるをされたときに 持ち得るか。――ここでも 自由であるとは思いますが 正直に言ってそれほどゆたかな包容力を持つ人はめづらしいかとも思います)。 3. 言いかえると アマエの発動のときの特にその人の心のあり方に限っては――初めからの計算づくなどでないならば―― 《クレームや改善要求》とあとで受け取られるその事態と見方とは切り離すようにして 捉えられるのではないかとまで思っています。 (和を乱すのは 和をとうとび求めているからだというようなひとつの論理――これが 心のあり方でもある――をそこに見て取れないかといった視点です。つねにそうだというのではなく アマエの発動による場合にはです)。 4. つまり そのあとの過程では わるい場合にはクレームであることにさえとどまらず 難癖をつけて来たり誹謗中傷をばら撒いたりするようないくらでもわるい手段による迷惑行為があり得ると考えます。 何だかわたしは アマエの発動のときといった共通項を持ち出して イソップの蝙蝠みたいになってしまいました。でも一応の初めからの理論です。 このアマエなる主題は 実際の生活に直結しているようで とりわけ細かい分析や検証を必要とするまでの具体的な議論になりました。 またいつか発展させ得れば それ以上うれしいことはないと思います。 みなさんにですが もう少し開いていますので おぎないなど何でもお寄せください。
- NemurinekoNya
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nuetralさん、こんばんは。 いくら考えても思い浮かばなかったので、 日本語の「甘える」に該当する英語を調べてみました。 http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/je2/1611/m0u/ http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1350476098 が参考になるのではないかと思います。 サイト、拝見いたしました。 綺麗なお花の写真ですね。 ではでは。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ○ 甘え:emotional dependence とありました。ただのディペンダンスではなくて。 日本語の《甘え》は 《甘い(=しっかりしていない)さまになる》なのですかね? 分かるような分からないような。
- 阿加井 凛悟(@neutral)
- ベストアンサー率29% (231/773)
ぶらじゅろんぬさん、 沸騰したみたいな回答しちゃって失敬。 ところで言語学に詳しいぶらじゅろんぬさん、 「甘える」という言葉、 外国語ではどのようになってるんですか。 英語だと「spoil」の受動形?のようで、 なんだかしっくりこないんですわ。 たしかに生活習慣の違いや自覚なんんかも 関係の仕方に影響あるかもなー。 おいらは娘息子が小学生になっても ときどき同じ布団で寝てたし 布団の中で抱っこしてたし 一緒に風呂に入って お湯のかけ合いとかしてたし そういうの当たり前だと思ってたんだけど アメリカにいる友人に、 子どもは0歳のときから 夫婦の寝室とは別の部屋に寝かせるのが当たり前、 と言われてびつくりした覚えがあります。 彼女いはく、 親子は他人にはなれないけれど、 夫婦はもともと他人だから、 関係を保つ努力が必要なんだとか。 なるほどなーと思ったんですが、 おいらはやっぱり「抱っこ」と言われれば抱っこして、 そのようにして子どもに甘えさせてもらってました。 娘はもう「抱っこして」とは言わなくなったので、 おいらは娘の体温に甘えるのもむづかしくなり、 他の人に甘えてるような気がします。 いろんな人です、 職場の人とか井戸端会議ができるママ友とか 少年団のメンバーとか。 思ったことそのまんましゃべりました。 甘えてるなー。 ではでは。
お礼
つづいてです。 《依存関係》としては ・ dependence を充てるようです。 そして 再度確認ですが そのような持続しうる状態を言うよりは キッカケとしての――人間関係の始まりにおけるキッカケとしての――アマエのほうが 探究したい主題です。 それにとって趣旨説明欄にかかげた説明等にかぎるならそれらは 用いることができると思っています。 わたしも いわゆる甘えたのほうなんですけれど。 いちばんよく現われるのは 知らないことについてほとんど誰にでも気安くおしえてと言ってせまることです。
お礼
あらためまして こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ◇ ~~~~ 初期の段階では、親に打算は全くないと思いますよ。子供は宝物ですよ。 ですが、この宝物、自我が徐々に徐々に確立し、親のいうことを聞かなくなる。親の思ったように育ってくれない。 で、「昔はかわいかったのに」と言ったりする。 自己を完全に子供に投影できなくなっているからではないでしょうか。 ~~~~~~ ☆ これは 単純に言って それでもなお《自己を子どもに投影しようとしていて》 あぁ親の言うことを聞かない子だなぁと思うのではないでしょうか? ◇ ~~~~~ おもちゃ売り場で、床に仰向けに寝そべり、「買って買って」と駄々をこねる子供。 この時、親のとる行動は、大きく二つにわかれる。泣こうが喚こうが、無視を続け、子供に諦めさせる。あるいは、人目を気にして、仕方なく、子供におもちゃを買ってあげる。 どちらが、いいんでしょう(笑い)? でも、どちらも愛ゆえにということに、ひとまず、しておきます。 ~~~~~~~ ☆ わたしの考えるに たとえ子どもがまだ理屈が分からなくても 説明をして分からせる。つまり買ってやるにしろあきらめさせるにしろ 子が音を上げるまでそのいづれかの理由を説明しつづけます。 ◇ 愛しているのだけれども、親としての行動のトリ方がわからず、思わず手を挙げたりしてしまう。 ☆ という問題は ほとんどどの問題についても共通する根の深さがあるように思います。そしてそれは 無分別のアマエがつまり特にその自分自身における実体験の深い浅いが 反映しているのではないだろうか。 ◇ ~~~~ 無分別なるアマエは、他者への絶対的な信頼関係を土台としていると思います。 親からひどい虐待を受けた子供ですら、それでも懸命に親を愛しようとするそうです。ネグレクトされても、なお、かならず自分のところに帰ってくる、と信じているそうです。 ~~~~~~ ☆ これは いいお話ですね。自然本性の奥のそのまた奥のさらにその根の部分にそういったチカラとハタラキがあるとすれば たのもしいかぎりです。 ◇ ~~~~~ いろいろな話を聞くと、 理屈じゃないんですよね~、親に対する子供の絶対的な信頼というのは。 いや、それも《自分勝手な遺伝子》のなせるワザって話もあるんですが。。。 何か、書いてて、涙が出てきちゃった───眠り猫は涙もろいのでした(ポリポリ)───。 であるのと同時に、 他者に対して絶対的な信頼関係を築ける能力を、 誰もが有しているということの証明になるのではなかろうかと。 潜在的に持っているはずだ!! ~~~~~~~~ ☆ し ぜ ん ほ ん せ い!!!! 自分勝手にアマエを発揮するのでしょうよ。 ◇ ~~~~ 《自己愛かつ相手との同一視》は除外して欲しいですね。 《歪んだ自己愛に基づく打算的アマエ》とか。。。 ~~~~~~ ☆ これらはアマエとは別だと。分別盛りでしょうか。 かくして ◇ ~~~~~ う~ん、 大切なのは《無邪気なアマエ》、《聖なるアマエ》なんじゃないですか。 人間関係においては、他者、あるいは、他者への絶対的信頼という意味でです。 「人を見たら、泥棒と思え」じゃ~、世の中、世知辛くていけないと思います。 ~~~~~~~ ☆ そして そうしますと ひとつに 例のキムポットンさんらについては その言い分の内容がどうであれ もし無邪気に無分別にわれら日本人にアマエて来ているのならば そういう目と姿勢でまづは受け留めてやることが 最初の態度だとなるかも知れません。 かの国ではキリスト教がすごい勢いで普及していると言いますが どうも《梵我一如》類型なるその神を見失っているのではないか。と――論証抜きにですが――思えて来ました。つまりアマエがうしなわれてしまったところに何かその世の中の思潮がかたちづくられているのではないかと。 もうひとつに ユニクロなどの会社がブラック企業だとして批難されているという話題を先ごろからこのQ&Aで取り上げているのですが この問題についても同じような要因・原因としてアマエ問題が よこたわっているのではないか。 童心も まんざら捨てたものではないかも知れません。
補足
BA の判断基準についてですが: 《愛》を扱うからには そのいと高きところでは人間の能力と努力を超えた場のチカラがはたらくといったように捉えられるとすれば その限りで問いは懸案となります。 それでもその《非思考の庭》におけるチカラのはたらきについては 経験合理性にもとづく哲学の立ち場を保持してぎりぎりのところで触れていると思われる文章(判断)は 次のヘーゲルのものだと理解しています。《非思考の庭》は 《無限なもの》にかかわっています。 ▲ (ヘーゲル:法の哲学) ~~~~ 無限なものと 有限なものとの一体性・・・この矛盾・・・は どんな自然的なものも自分のなかにこれを持ってはいない ないしはこれを 我慢できないであろうが この矛盾を持ちこたえることができるのが 人格(――もしくは《時間》――)の高さである。 (『法の哲学』 §35追加。括弧内は引用者。) * 《人格》というと わたしにはむしろ語弊が生じるように思うので――道徳や倫理規範を議論しているというふうに誤解されるので―― 《わたしの時間の高さ》と言いかえました。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 言いかえると 《好悪・愛憎といった相対的な経験愛》と《好悪や愛憎などの相反するウゴキを全体として包み込む高い次元の愛》との《矛盾を持ちこたえることができる》という事態は 経験的なのではないか? つまり 高い次元の愛を人間は発揮することが出来ないが その愛に到り得ない人間の経験愛を超えようとする志向性は 人間にも経験行為として見られる。 言いかえると《懸案》を解決しようとする心の伸びを人は持つ。 この意味で 童心としてのアマエを推し出したいと思います。ゆえにこのご回答を BA とします。