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ひとは他人に甘えることができるのか?
- ひとは他人に甘えることができるか
- 親子関係における甘えとは?
- 他人との関係での甘えは愛なのか?
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《無分別》な甘えという言葉に少し引っかかりをおぼえます。仏教をすこしかじっているので、《無分別》という言葉を聞くと、つい過剰反応をしてしまう(ポリポリ)。 自我が未発達なために、自己と他者を同じであると考える。考えないまでも、そう思う、推測する。その区別・差別をしないという意味でならば、無分別。 また、世間一般でいう分別、良識、常識がないという意味においても、無分別。 打算、損得計算が働いていない、働いていたとしても、わずかであるという意味においても、無分別。 無分別でもいいか、とは思うのですが、 《無邪気》という言葉の方が言い得ているのかな、という気がします。 ではありますが、bragelonneさんの提案にしたがって、《無分別》という言葉を使うことにします。 ☆☆☆☆☆☆ ~~~~~~~ (う) したがって上のオキシトシンが分泌されるかどうかにかかわらず(一般にはその分泌の以前において) どちらか一方の側がアマエをおこなうという場合です。 ~~~~~~ 生まれたての赤ちゃんの様にですね。 ~~~~~~ (お) あるいはつまり あたかも幼児が甘えるときのようにひとが相手に キッカケとして甘えるとき それは むろん小賢しい分別も遠慮もなく理屈抜きにそうしているのであり あるいはまた完全に無防備です。あたかも底なしの信頼感覚において 振る舞っています。 ~~~~~~ 幼児は、他者に自分を害しようとするような悪意の存在を認めない。無知ゆえに、絶対的な信頼が成立している。 ~~~~~~ (く) でも《互いの存在を自立させずに同一視する》ことにならないか? 子どもの側としては そこまでは考えていないであろう。計算はないのではないか。――つまり打算によるアマエは ここではアマエから除外することにした。 ~~~~~~ 本当のことをいうと、 《同一視》という言葉がいいのか、《自己の〔他者への〕延長》のどっちがいいのか、 少し悩んだのですよ。 で、自己愛の延長として、愛をすべて引っ括めちゃおうかな、なんて。。。 真っ先に浮かんだのが、子供のケースだったので。 小さな子供は、自分以外の人間も自分と同じ存在である、と素朴に信じているでしょう。 すこしフロイト的な話をしますけれど、 小さな男の子は、女の子にも当然自分と同じようにペニスがあると思っている。 ないと驚く。 で、あったものが何らかの理由でなくなった──去勢された──と思ったり、そのうちに、生えてくると思ったりする。 自己の過大適用なんですけれども、こんな心性があるじゃないですか。 でも、親が我が子を見るときは、たぶん、異なる心性が働いている。 自己の姿を子供に投影させている。子供に自分の姿を見ている、と思うのですよ。 で、少し悩んで、《同一視》という言葉を使いました。 ~~~~~~ (け) 親はどうか。計算によって子のアマエを受け留めるのだろうか。あるいはぎゃくに そのような打算を振り払おうとしてかどうか 子とのあいだに溝をつくらないようにと思ってかどうか かえってその相手として向き合っている子に自分を投影して互いの同一視をすることにならないか?――たぶん これは・これをも アマエから除外しうるのではないか。 ~~~~~~ 初期の段階では、親に打算は全くないと思いますよ。子供は宝物ですよ。 ですが、この宝物、自我が徐々に徐々に確立し、親のいうことを聞かなくなる。親の思ったように育ってくれない。 で、「昔はかわいかったのに」と言ったりする。 自己を完全に子供に投影できなくなっているからではないでしょうか。 ~~~~~~ (iv) そこには 子からのアマエにある関係性(それとしての愛)から逃避するかの振る舞いが見られる。 ~~~~~~ おもちゃ売り場で、床に仰向けに寝そべり、「買って買って」と駄々をこねる子供。 この時、親のとる行動は、大きく二つにわかれる。泣こうが喚こうが、無視を続け、子供に諦めさせる。あるいは、人目を気にして、仕方なく、子供におもちゃを買ってあげる。 どちらが、いいんでしょう(笑い)? でも、どちらも愛ゆえにということに、ひとまず、しておきます。 ~~~~~~ (し) すなわち むしろアマエがキッカケとして与えられたとき これを回避しているなら: ◇ ~~~~~ また、この同一視から、親は子供に対して、ときに情け容赦のない行動にも出たりもする。子供は、自分(親)、あるいは自己の一部、自分の所有物だから、親の意に反したことをしたとき、遠慮なく《ビシバシ》いける、のではと。 ~~~~~~~ ☆ といった事態になりかねません。無分別に対して無分別では応じることが出来ない・いやだという場合に起こる事例であるように考えられます。 (す) すなわち・つまり・とりもなおさず ◇ ~~~~ これが、甘えの基本的な構図ではなかろうか。 もっとえげつない言い方をすれば、 《自分大好き・自分勝手な遺伝子》のなせるワザではないか。 ~~~~~~~ ☆ と規定された事例は むしろぎゃくに〔特に子どものときに〕アマエを親や周りからキッカケだけとしてでも注がれる経験の薄かったひとの場合に起こる親業の一端なのではないか? ~~~~~~ だと思います。 そして、ネグレクトは違うと思いますけれども、 これが幼児虐待に繋がったりする。 愛しているのだけれども、親としての行動のトリ方がわからず、思わず手を挙げたりしてしまう。 ~~~~~~ (せ) 無分別なるアマエは 《自分勝手・自分大好き》そのものであるように見えますが その無遠慮は 無防備なる底なしの信頼関係を土台としている。ものと思われ やはりそれなら 愛情・しあわせホルモンなるオキシトシンのハタラキに通じるところがあると言ってもよいのではないでしょうか。 ~~~~~~ オキシトシンの話は置いておいて、 無分別なるアマエは、他者への絶対的な信頼関係を土台としていると思います。 親からひどい虐待を受けた子供ですら、それでも懸命に親を愛しようとするそうです。ネグレクトされても、なお、かならず自分のところに帰ってくる、と信じているそうです。 いろいろな話を聞くと、 理屈じゃないんですよね~、親に対する子供の絶対的な信頼というのは。 いや、それも《自分勝手な遺伝子》のなせるワザって話もあるんですが。。。 何か、書いてて、涙が出てきちゃった───眠り猫は涙もろいのでした(ポリポリ)───。 であるのと同時に、 他者に対して絶対的な信頼関係を築ける能力を、 誰もが有しているということの証明になるのではなかろうかと。 潜在的に持っているはずだ!! ~~~~~~ ☆ (そ) アマエがふたつの種類に割れました。 キッカケとしての・無分別にして底なしの信頼関係に根づく振る舞い。つまり無分別なアマエが ひとつ(これが基本)。 そして じつはこの基本のアマエを避けるときの自己愛かつ相手との同一視から来る打算アマエ。 ~~~~~~ 先に少し触れましたけれども、自己〔愛〕の延長をもって、すべての愛を引っ括めちゃおうと思っているので、 《自己愛かつ相手との同一視》は除外して欲しいですね。 《歪んだ自己愛に基づく打算的アマエ》とか。。。 自己愛は、他者愛へ転換できるものだと思っているので。 ☆☆☆☆☆☆ う~ん、 大切なのは《無邪気なアマエ》、《聖なるアマエ》なんじゃないですか。 人間関係においては、他者、あるいは、他者への絶対的信頼という意味でです。 「人を見たら、泥棒と思え」じゃ~、世の中、世知辛くていけないと思います。
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- 阿加井 凛悟(@neutral)
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こんばんわ、ぶらじゅろんぬさん。 おいらはすっかり甘えん坊です。 ちょっとだけ反応して消えます。 利害関係のない愛のある甘え合いと そうでない甘え方があるんぢゃないか? 負担のかからない甘え合いと 互いを苦しめるほどの甘え合いがないか? たとえば 親が子どもに「期待」する。 幼稚園のお受験から始まり 一流企業に就職し (親であるわたしにとって) 理想的な家庭を持ってちょうだい、みたく。 たとえば お二階さんが国民に「期待」する。 オレの言うことを黙って聴いて 働いて税金を納め、 オレにとって 都合の悪いことは言うな、みたく。 こういう期待(実は「甘え」)って 殺人的?なんぢゃないかなあ。 それから、おいらは 傷の舐めあいをして何が悪い! と思ってるんですが、 放っておけば治癒する傷まで ペロペロとナメ過ぎるのも 殺人的?なんぢゃないかなあ。 ___________ オカンや教師や牧師も たまには 子どもに弱音を吐いちゃって いいんぢゃないかな。 そんな姿を見て 子どもは 「弱音の吐き方」を覚えるんぢゃないかな。 こういう甘え方おもしろいなあ。 甘えるなとデカい声で叫んで 不特定多数の人に甘えるという。 http://www.youtube.com/watch?v=n2i0gfPsJDQ ほぢゃ。
お礼
にゅうとらるさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~ こういう甘え方おもしろいなあ。 甘えるなとデカい声で叫んで 不特定多数の人に甘えるという。 ♪ 久宝留理子「男」 ~~~~~~ ☆ おまけに印税をかせいで行く。作詞も自分自身のようですね。 いやみも反抗心もなく 世の中や男に必ずしも恨みもなく ふと無邪気に・しかも文句をつらねてやろうかと自己表現する。そういうアマエでしょうか。 ★ 不特定多数の人に甘えるという。 ☆ と見るわけですね。しかも ★ 甘えるなとデカい声で叫〔ぶ〕 ☆ が 先ほどのキッカケとしてのアマエから出て来た内容(つまり内容をどう表わすかの形式)になっているようだと。 ★ ~~~~~ 利害関係のない愛のある甘え合いと そうでない甘え方があるんぢゃないか? 負担のかからない甘え合いと 互いを苦しめるほどの甘え合いがないか? ~~~~~~~~ ☆ 基本的なこととして やっぱりアマエは ことのキッカケだと思うのです。 ですから アマエ合いというのは すでにアマエをキッカケとして築かれた愛の関係だと思われます。 まぁ そのことを甘え合いと言って言えなくはないでしょうけれど。 ただし ★ 利害関係のからんだ甘え合い ★ 互いを苦しめるほどの甘え合い ☆ これらは ねこさんの言っていた自己愛――つまりこれは 閉鎖的な自己愛のことです――から来る相手との関係なのでしょうね。 相手に自己を投影するので あたかも絆のような一体感が現われているのかも知れませんが それは或る程度あるいはかなりの程度に 分別をもって計算をして互いに相手に要求をしたりするあいだがらであると思われます。 事例が出されていますが けっきょくもし基本の無分別のアマエであるならば 双方の側から 互いの意見や態度について批評したり批判したりするのが自由であると考えます。 この批判自由が保証されているかどうか。ここで 打算の(にせの)アマエが分けられるようになると思います。 つまり 国に対して 反論をしその政策を変えさせもすることができるなら ふつうの(よい)アマエだと思います。
お礼をありがとうございます。なるほど、認識の溝は埋まってきたように思います。 > (え) ところが 一般的な人間関係にしろ特殊な親子関係にしろ その関係の中でさらに日本語で《甘え》と呼ばれる現象は まだ必ずしもその内容がきちんと把握されていない。 (お) ここで問うのは このアマエは 愛と規定しうるのではないかであり そういう議論の順序になります。 承知致しました。 > (か) さらにはアマエが 一般的な愛の基礎であり原点でありあるいは推進力でさえあるのではないか。こうなっています。 なるほど、難しいところですね。これを考えて行こうというわけですね。 >遠慮の要らなさが 重なって来たとき 《愛が深まってくる》のかどうか。 たぶん いえ 確実に 《遠慮の不要》ということは そのとき同時にそれだけの愛――好ましい向きの互いの心的なチカラ関係――が築かれて来ているということであって そのことに特別の絶対性を見なければよいのではないでしょうか? というより何ごとも移ろいゆくことだとは思います。 >親しさの段階的区分の問題なのだと捉えられるのですが 違っていましょうか。 愛が深まってきた結果、結果的に遠慮がいらなくなってきたという議論の手順なら、同意するところです。遠慮をしない行為を積み重ねた結果、それを愛だと看做すというのなら、私は納得できないのですが。 > ☆ アマエは キッカケである。これが 条件であるかと考えます。 なるほど。条件であると。 >特定の人を相手として何らかのオコナイをおこなうに当たってその心つもりの動機つまりは無動機(無打算)においてになるのですが そこにおいてもし《無分別の(無邪気な・打算のない)無遠慮・信頼感》という状態であるのなら やはりアマエであり《愛》であると言えると思います。《犯罪》を形成するオコナイであったとしても。相手との関係においては キッカケとしてアマエおよび愛が先行しているのではないかと。きわめて微妙な問題ですが いまこのように推し出してみようと考えます。 うーん。そこまで言いますか。まあ犯罪でさえも、社会に対する甘え=愛として捉えるか。人権派の法律家もそんな風に考えているのかもしれませんね。 >犯罪となるオコナイが アマエであったり愛であったりするのではなく そのキッカケがアマエとして発動しており愛としてほんとうは成らせたいという要素があるのではないか。 社会を試している、被害者を試している、そういうことでしょうか。 >裏から言うならば 或る人が相手との関係で 心に癒されざる思いを抱いていてそれでももはやヱクトルとしての動きを形成せずと決めて 無関心をよそおうとすれば それは 愛の無であり たましい(心)の死であるのではないか。ここまで伸びるかも知れません。 まあ、自分のことを棚に上げて人のことを言えば、ブラック企業の社長の心は無関心であり、死んでいるやも知れませんねえ。 >ですから ここでアマエということを持ち出すのは ものごとのキッカケとしてだと言わなければいけないと考えます。ぎゃくに言えば キッカケなのですから その段階で相手はただちに・つねに 批判したり反論したりすることが出来るという恰好になっています。無遠慮をとがめることも出来るわけです。 なるほど、分かりました。上記を踏まえて、また考えてみようと思います。 追記)猫様へ 編集の通知、私の方には来ていませんよ。BAに選んでいただいたので、その時に確認してみたら、あ、編集されているんだ、と気付いたくらいです。まあ、いいのじゃないですか。会社から文句も出たのかもしれませんし。だって、特定の会社の名前だけ消えていますもの。良識ある人が苦情を言いまくってくれたら、よかったんですけれどもねえ。 あと、これを運営しているのはgooじゃなく、biglobeでもなく、OKWaveです。こちらの方が、通知が早いし、サイトも見やすいような気がします。お礼欄の書き込みとか、楽なんですよ。あと社長が「私に質問して」の欄にいます。一応、直接物申せることになっているのかな。プライベートで遊んでいるのか、目安箱をやっているのか、よくわかりませんが。 http://okwave.jp/oodakedo/1124.html 件の質問については、病的な感じがし、質問している方が煽られて病気が進行して行くのじゃないかなと思いました。書き込みが増えるほど、何かおかしくなって行く度合いが増して行きます。いじりすぎてもよくないでしょう。だから削除でよかったんじゃないかなと思います。ああいうの、あまり真面目に受け取っては行けないと思いますよ。健全な大人にああいう風に言われた傷つきもしましょうが、精神的な障害を抱えているとか、場合によっては高校生だとか、そういう人に何を言われても、何にも感じません。ウェブにはいろんな人がいるもんです。
お礼
こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~ 愛が深まってきた結果、結果的に遠慮がいらなくなってきたという議論の手順なら、同意するところです。遠慮をしない行為を積み重ねた結果、それを愛だと看做すというのなら、私は納得できないのですが。 ~~~~~ ☆ あっ ここは いま持っている仮説をつらぬきます。 すなわち (き) アマエがキッカケであるということは まづ或る人が別の人に声をかけるときから始まると見ます。 (く) その初めの段階においてアマエが発揮されるかどうか。それを相手はどう受け取るか。――これで互いの愛が築かれ深まるかが決まる。こういう方程式です。 (け) すなわち 無遠慮や無邪気さや無打算のアマエを 無根拠にふと出すか出さないかが始まりだという見方です。 (こ) あぁ この人なら 遠慮せずにアマエてもよいかなといったかんたんな感覚を持ったかも分かりませんが それにしても 根拠もなく声をかけたりするという恰好です。 (さ) つまりは 親子のあいだなら そして特にまだ言葉も話さない幼児と向き合う親なら 自然のうちにそうすると思われます。相手つまり子どもも 言ってみれば無遠慮の姿勢でいるということですし 何の憂いもなくアマエて行きます。 (し) ★ 遠慮をしない行為を積み重ねた結果、それを愛だと看做す ☆ というのとは微妙に違って 《遠慮をしないアマエ》がキッカケとなって もし相手がそれを受け容れたなら 遠慮なしの関係が積み重ねられて行くという――愛としての――過程形成だと考えます。 ★ ~~~~ >犯罪となるオコナイが アマエであったり愛であったりするのではなく そのキッカケがアマエとして発動しており愛としてほんとうは成らせたいという要素があるのではないか。 社会を試している、被害者を試している、そういうことでしょうか。 ~~~~~~ ☆ いえ。これは そういうふうに分析して捉えるとしても そのオコナイは明らかにマチガイです。マチガイだと言わねばなりません。 マ――つまり相手との関係における間の取り方――が違っていて そこから自己表出するオコナイは 明らかにアヤマチです。しかもそのキッカケには――つねにそうだということにはなりませんが―― ふと遠慮なく相手とのかかわりの中に自分をおいてそのカカワリにかかわって自己を何らかのかたちで表現しようとする無打算のアマエなる動きはあり得る。こういう見方です。 犯罪行為に発展するオコナイをみちびくキッカケとしてのアマエもあり得る。こういう見方です。 ただし 相手は 明らかにそのオコナイはマチガイだと分かるし 指摘します。そして自分自身も どこかおかしいとは――つまりみづからの心にさからって(つまり やましさ反応が内面に起こって)いるとは――知っているはずです。 つまりは 愛としてのヱクトルの向きがおかしくなっている。と同時に愛の発動は アマエとして起きているという場合はあり得るのではないか。 言いかえると 相手の側としてこのマチガイなるオコナイを受けるほうは 一方でアマエの発動を受け留めてやって 他方でオコナイそのものは アヤマチであると指摘し しかもそれを阻止するということになるはずです。 でも・それでも 見方によっては ★ 社会を試している、被害者〔に予定された相手〕を試している ☆ と見えるかも知れないと たしかに思われるところがあります。きちんとマチガイだと指摘してくれと言っているという節さえが見られるかも知れません。さらにしっかりとそのアヤマチを食い止めようとしてくれるだろうか して欲しいのだがと その違法行為者は じつは心に思っていて 従って相手をためしているところがあるかも知れません。 ただ愛ということになると そのアマエが発動するキッカケの時点・その段階までは 発動者も相手も まだ互いの広く捉えた愛の関係の中にいると言ってよいのかも知れません。そのあと 負の向きと中身の愛として表現されて行ってしまうのだと。 ★ まあ、自分のことを棚に上げて人のことを言えば、ブラック企業の社長の心は無関心であり、死んでいるやも知れませんねえ。 ☆ これはもう少し煮詰まったかたちで 前提条件などを踏まえた議論が あらたに出来るとよいと思っています。いまは保留とさせてください。 (勤勉が自己目的となったガリ勉にまでなると つまり資本の自己増殖なる道をひたすら歩むガリ勉なる人生だとすると 人びととの関係が 資本を介してのみ成り立ちよく言っても中立の状態になって ややもすると愛の停止となり無関心となるかも分かりません)。 あと ★ ウェブにはいろんな人がいるもんです。 ☆ に共感します。
- NemurinekoNya
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Diekbecさん、こんばんはです。 bragelonneさん、この場を少しお借りします。 gooから届いたメールを見て気づいたのですけれども、 わたしのところに投稿された回答の一部がgooさんの編集部によって一部編集されていたんですね。 たしかに、回答に貼り付けられたリンク先のホームページは結構エグかったので、 未成年者も利用するこの「教えて」という場を考えますと、 致し方なかったのない処置かとは思うのですが、 わたしに対する記述については、 わたしに「削除の可否」についての判断を任せて欲しかった。。。 う~ん、「表現の自由」と「公序良俗」、この兼ね合いが難しいといったところですか。 リンク先のアドレスも、現実を知るために残してほしかった、という気もするんですけれどが。。。 gooさんの「教えて」には無制限に《甘え》られない、 ということなのですね。 編集、削除を含め、gooさんは、断固とした処置をとる。。。 そう言えば、「詩」が「哲学」がという質問は、質問ごと削除されていました。 削除しましたというメールが届いていました。 わたしも回答をひとつ投稿したのですけれども。。。 現実は厳しい。なかなか《アマエ》は許してもらえない、ということですか。
お礼
せっかく書き込んだ文章がまるまる消えるとなると さびしい気持ちになります。 わたしは最初のころは いろいろアラシに遭って・それに売り言葉に買い言葉で返して 削除も何度か経験しています。
こんにちは。その本は読んだことがないので、よくわかりませんが、ざっと質問文を読んだ感想をお伝えします。 >(ε) 親子の間に《甘え》が存するのは至極当然なことである。 まず、そもそも「甘え」を愛と呼びかえられるように、最初から構造を組んでいますよね。甘えの原初の姿が親子関係にある、というのですから。実のところ、親子関係の特殊性を呼称する名称は、儒教の「孝行」であれ、ラカンの「対象a」であれ、なんであれ、実質的な内容は愛にならざるを得ません。なぜなら、原初のモデルを親子関係に設定して言いますので。論証力というより、例の設定の仕方に問題のすべてがあります。うーん。何となく、気に入らないです。これは「甘え」の根拠にはならないのではないか。単に「愛」を「甘え」と呼びかえることを提案したということではないのか。そのように思ったという感想をお伝えしてみます。 >(η) 義理と人情の概念を用いて 図式的に説明する。 次に、人情、義理、無縁という三つですが、私自身はどうなっているんだろうかと考えてみました。言われてみると、確かに「家族」、「友達」、「それ以外」の3つで動いていますねえ。しかし家族関係が人情なのか、友達が義理なのかと言われると、かなり違います。友達関係は義理があってそうしているというより、いて楽しいから、という快楽原則なのだなと思います。逆に言えば、つまんないなあ、めんどうなやつだなあ、と思えば、距離を置きます。いや、それでも受け止めることもありますが、これは「愛」と言ってよい類いのもので、義理=義務じゃないんですよね。 それに親しくなればなるほど、遠慮が無くなり、甘えられるというも、何となく嫌です。言葉遣いが乱暴になるのはいいけれども、やはり親しき中にも礼儀あり、で接してもらいたいですねえ。だから「遠慮のなさ=愛が深まってくる」とも思わないです。以前、私の恋人がこういうことをやろうとして、喧嘩になりました。「俺はお父さんでも、お兄さんでもないんだよ」と叫んだものです。しかし、この子の頭の中では、それが愛なのかあと思って、最後は私が折れました。だからある一定数、「遠慮のなさ=愛」だと思っている人がいることも認めますけれども、私はちょっとなあ、という気持ちです。 > (κ) たとえば 《おまえがわるい。全面的に一方的にわるい。謝罪せよ》と言うのは アマエだと思うのですが どうでしょう。 ここはよくわからないのです。以下の三段論法を言っていましょうか。 (1)一方が全面的にわるいと批判するのは、理性を欠いおり、甘えである。 (2)しかるに、土井の定義する「甘え」に照らせば、甘えの正体とは愛である。 (3)ゆえに、全面謝罪の要求は、愛の告白に他ならない。 だとすれば、(2)がおかしいと思います。この理屈に従えば、次のようにも言えるからです。 ・強請は甘えであり、愛である。 ・怠惰は甘えであり、愛である。 ・堕落は甘えであり、愛である。 ・犯罪は甘えであり、愛である。 だから論理的に破綻はしていると思うんですよ。 しかし甘えのない愛もないという主張は分かります。甘えは愛の必要条件ではあるが、十分条件ではないのかなと思います。こういう細かい成分の分析はしていないのでしょうか。最後の問いについては、上記の考えに従えば、「否」ですが、もう少し様子を聞いてから考えをお伝えしたいと思います。
お礼
こんにちは でぃーくべくさん。ご回答をありがとうございます。 ★ まず、そもそも「甘え」を愛と呼びかえられるように、最初から構造を組んでいますよね。甘えの原初の姿が親子関係にある、というのですから。 ★ 原初のモデルを親子関係に設定して言いますので。論証力というより、例の設定の仕方に問題のすべてがあります。うーん。何となく、気に入らないです。これは「甘え」の根拠にはならないのではないか。単に「愛」を「甘え」と呼びかえることを提案したということではないのか。 ☆ そうですね。ただちに思ったことを単純にしるしますが・つまり反論ですが (あ) 人と人との関係は ヱクトルとして向きが正負両様でありうる一般には心的な現象である。 (い) すなわち それを《愛》と呼ぶ。のではないか。 (う) もしそうだとしたら 親子関係もむろん愛である。 (え) ところが 一般的な人間関係にしろ特殊な親子関係にしろ その関係の中でさらに日本語で《甘え》と呼ばれる現象は まだ必ずしもその内容がきちんと把握されていない。 (お) ここで問うのは このアマエは 愛と規定しうるのではないかであり そういう議論の順序になります。 (か) さらにはアマエが 一般的な愛の基礎であり原点でありあるいは推進力でさえあるのではないか。こうなっています。 このような仕組みだという心つもりなのですが どうでしょう? ★ 逆に言えば、つまんないなあ、めんどうなやつだなあ、と思えば、距離を置きます。いや、それでも受け止めることもありますが、これは「愛」と言ってよい類いのもので、義理=義務じゃないんですよね。 ☆ たぶん渡世の義理だと思うのですが どうでしょう。社会的動物であること・つまりは存在の関係性 つまりは確かに愛なのだとわたしも考えます。 ★ だから「遠慮のなさ=愛が深まってくる」とも思わないです。 ☆ おそらくやはりアマエは むしろオコナイにかかわる契機なのであって 相手にその声をかけたり何か提案をしたりするときに《遠慮》をしなければならない間柄なのかどうか その判断に〔アマエは〕かかわってくるのではないでしょうか? 遠慮の要らなさが 重なって来たとき 《愛が深まってくる》のかどうか。 たぶん いえ 確実に 《遠慮の不要》ということは そのとき同時にそれだけの愛――好ましい向きの互いの心的なチカラ関係――が築かれて来ているということであって そのことに特別の絶対性を見なければよいのではないでしょうか? というより何ごとも移ろいゆくことだとは思います。 ★ だからある一定数、「遠慮のなさ=愛」だと思っている人がいることも認めますけれども、私はちょっとなあ、という気持ちです。 ☆ たぶん こういうことだと思います。つまり 親しき中にも礼儀ありというのは すでに遠慮の要らなさを互いに認め合っていることであり もしそうではなくむしろ《礼儀》が先に来るということでしたら それは まだその段階では《遠慮を必要とする》とみとめている。というふうに分けられるのであって そういう親しさの段階的区分の問題なのだと捉えられるのですが 違っていましょうか。 ★ ~~~~~~ この理屈に従えば、次のようにも言えるからです。 ・強請は甘えであり、愛である。 ・怠惰は甘えであり、愛である。 ・堕落は甘えであり、愛である。 ・犯罪は甘えであり、愛である。 だから論理的に破綻はしていると思うんですよ。 ~~~~~~~ ☆ アマエは キッカケである。これが 条件であるかと考えます。 特定の人を相手として何らかのオコナイをおこなうに当たってその心つもりの動機つまりは無動機(無打算)においてになるのですが そこにおいてもし《無分別の(無邪気な・打算のない)無遠慮・信頼感》という状態であるのなら やはりアマエであり《愛》であると言えると思います。《犯罪》を形成するオコナイであったとしても。相手との関係においては キッカケとしてアマエおよび愛が先行しているのではないかと。 きわめて微妙な問題ですが いまこのように推し出してみようと考えます。 もっとも関係ということ自体が 愛だと言っているので これは無条件に推し出しうることではないとも言わねばなりませんが 《アマエ=愛》論なる自同律としての内容を細かく確認することとしては あり得ると思います。 犯罪となるオコナイが アマエであったり愛であったりするのではなく そのキッカケがアマエとして発動しており愛としてほんとうは成らせたいという要素があるのではないか。こういう問い求めです。 裏から言うならば 或る人が相手との関係で 心に癒されざる思いを抱いていてそれでももはやヱクトルとしての動きを形成せずと決めて 無関心をよそおうとすれば それは 愛の無であり たましい(心)の死であるのではないか。ここまで伸びるかも知れません。 ただしむろん 強請も怠惰も堕落も犯罪もこれらの場合いづれも 自分でもそれは みづからの心にさからっていると分かっているし そのオコナイを受けた相手の側としては やめるように説得するはずです。 ですから ここでアマエということを持ち出すのは ものごとのキッカケとしてだと言わなければいけないと考えます。 ぎゃくに言えば キッカケなのですから その段階で相手はただちに・つねに 批判したり反論したりすることが出来るという恰好になっています。無遠慮をとがめることも出来るわけです。 ちょっと自信がないと言えば そういうところがあります。ご趣旨を取り違えているかも知れないと。 ひとまづ このようにお応えしてみます。
- NemurinekoNya
- ベストアンサー率50% (540/1073)
おはようございます。 ☆☆☆☆☆☆ わたしなんぞは、 《甘え》を《不平等な相互依存関係》ととらえてしまいますが、 《遠慮》のあるなしで《甘え》をとらえる。《甘えが》その試金石とする。なるほどなるほど、おもしろい説ですね。 ~~~~~~ 親子の間には《遠慮》がないが それは親子が他人ではなく その 関係が甘えに浸されているからである。この場合子供が親に対して遠 慮がないばかりでなく 親も子供に対して遠慮はしない。 ~~~~~~ にある、「この場合子供が親に対して遠慮がないばかりでなく 親も子供に対して遠慮はしない。」の一文には痺れました。 ではあるのですが、表面的ですね。なぜ、《遠慮》がなくなるのか、その説明がなされていない、と思います。 理系・眠り猫が考えるに、この《甘え》は自己愛に基づいているのではないかと。 子供と親との関係、とくに親の方ですが、相手(子供)と自己(親)の同一視に立脚していると思います。 相手は自分であるから、どんなことでも許してしまう。たとえそれが無茶な要求であっても、実現可能であれば、それを受け入れ、実現可能な範囲の中で実現しようとする。また、この同一視から、親は子供に対して、ときに情け容赦のない行動にも出たりもする。子供は、自分(親)、あるいは自己の一部、自分の所有物だから、親の意に反したことをしたとき、遠慮なく《ビシバシ》いける、のではと。 これが、甘えの基本的な構図ではなかろうか。 もっとえげつない言い方をすれば、 《自分大好き・自分勝手な遺伝子》のなせるワザではないか。 えっと、何だったかな、ど忘れしちゃいましたけれども、 母性愛を司るホルモン物質ってのがあるんですよ。 えっと、エ~ト。《オキシトシン》だ。 オキシトシン http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%AD%E3%82%B7%E3%83%88%E3%82%B7%E3%83%B3 オキシトシンが分泌されると、も~、相手がかわいくてかわいくてたまらなくなる。理屈抜きで、かわいい。目に入れても痛くないほどかわいい。放っては置けない。構いたくなってしまう。 なので、《究極の媚薬》とも呼ばれています。これ、人工的に合成が可能です。 しか~し、これは《母→子の愛》・《母性愛》を司る物質だから、男女の恋愛感情とは異質なんですがね。《媚薬》としては、それが欠点。 でも、恋愛の入り口、端緒にはなります。ということで、合成・製造、使用は、研究用に限られています。 と身も蓋もない話をしてしまいました。 嘘か本当かは分かりませんが、 赤ちゃんがお母さんのオッパイを吸う光景を目にした人の多くは、何だかわからないけれど、微笑ましい気持ちになる。これは、このオキシトシンが関係しているとか、いないとか。オキシトシンには、心を落ち着かせ、穏やかな幸福感をもたらすという効果もあるという話です。 ネコが以前、聞いた話によるとですが。。。 いけねぇ、いけねぇ、話が大きく脱線してしまった。また悪い癖が出てしまった。 話を元に戻して、 ☆☆☆☆☆☆ ~~~~~~~ (κ) たとえば 《おまえがわるい。全面的に一方的にわるい。謝罪せよ》と言うのは アマエだと思うのですが どうでしょう。 ~~~~~~~ たぶん、自己愛に基づく一方的な依存関係、依存体質。もっと悪くいえば、幼児心性なのなせるワザではなかろうか。その意味では、甘えなのではないでしょうか。 ☆☆☆☆☆☆ ~~~~~~~ これをキッカケとして 愛――スサノヲ市民の個人としての自治 および それにもとづく互いのまじわり(交通)の 好悪・愛憎をないまぜにした永続的な関係――が はぐくまれるか? ~~~~~~~ 《これ》は駄々っ子の行動・反応みたいなものですから、 相互間の良好な関係は成立し得ない、と思います。 徹底的に無視をされるか、相手が一方的に譲歩するか、そのいずれの関係しか成立し得ないと考えます。 ~~~~~~ (λ) 他人どうしでしかない《無縁》なる関係における《甘え》は むしろ《愛》か? ~~~~~~ 愛だと思います。でも、それは盲目的な「《自己愛》、そして、《自己と他者の同一視》」に立脚していると思います。 これに頼りすぎるのは、あまりに、危険ではないでしょうか。 無理が通って道理が引っ込むといった事態が、多々、発生することになると思います。
お礼
ねむりねこさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ◇ ~~~~ 母性愛を司るホルモン物質ってのがあるんですよ。 えっと、エ~ト。《オキシトシン》だ。 ~~~~~~ ☆ ヰキぺではうまく把握しえなかったので 検索しました。たとえば ▲ (オキシトシンとは) ~~~~~ http://www.cattailfarms.org/category/09.php 今では研究が進み、親が子供を抱いたり触れることで、親と子供双方からオキシトシンが分泌されることがわかっています。 オキシトシンが分泌されると安心感や信頼感が生まれ、親子の間に強い絆ができます。 母親に抱っこされたり触れられる機会が多い、愛情を受けた子供のオキシトシン量は高く、母親から愛情を受けずに育ったこともは逆に低いというデータもあります。 このようにオキシトシンとは、他人への安心感や信頼感、愛情を形成するのに重要な役割を果たしています。 オキシトシンの効果は母親と子供だけではなく、夫婦間や恋人、親友同士の結びつきにも関係しているとされています。 人が他人を信用したり愛したりする時には、脳内でオキシトシンが分泌されていると言われています。 オキシトシンを分泌することで人間関係を円滑にし、ストレスを軽減させる働きがあります。 オキシトシンは人以外の犬や猿、ネズミなどの脳内でも分泌されています。 ~~~~~~~~~~~~~ さてここで 大胆にかつ無謀にも さらに飛躍した定義をしてみたいと思います。あとでフルボッコでツッコミを入れてください。 (あ) 《あまえ》を あくまで基本的には そのとき・その場での(その意味では一時的なかつ一回きりの)キッカケ(モーメント)としてのオコナイに限るという前提をおくとしたら どうか。 (い) しぐさや表情 あるいは 振る舞い さらには発言および行動が オコナイであるのだが それは ひとつのキッカケとなるものとして捉えるということ。一定の状態ではなく またこのキッカケとしてのアマエによって 相互の依存関係が築かれたというその継続的な状態でもない。言わば初めの一回だけのキッカケになるアマエ これに限定するというものです。 (う) したがって上のオキシトシンが分泌されるかどうかにかかわらず(一般にはその分泌の以前において) どちらか一方の側がアマエをおこなうという場合です。 (え) さらにここでアマエは 《遠慮がない》のを内容とするというだけではなく いちばんの特徴は 《ブディズムでいう〈分別〉もない》ということだと考えるのです。無分別 つまり 理屈抜きだという点です。 (お) あるいはつまり あたかも幼児が甘えるときのようにひとが相手に キッカケとして甘えるとき それは むろん小賢しい分別も遠慮もなく理屈抜きにそうしているのであり あるいはまた完全に無防備です。あたかも底なしの信頼感覚において 振る舞っています。 (か) ひとの自然本性に沿った振る舞いとしてこのような内容をもって ここでアマエと規定してみたいと考えます。 さて ◇ ~~~~~ 理系・眠り猫が考えるに、この《甘え》は自己愛に基づいているのではないかと。 子供と親との関係、とくに親の方ですが、相手(子供)と自己(親)の同一視に立脚していると思います。 ~~~~~~~~ ☆ つまり 《無分別なる行動としてのアマエ》に 《自己愛》ははたらいているか? この命題について明らかにせねばならなくなりました。 一気に結論を模索するなら: (き) 子どもは《無分別の自己愛》に立脚しているかも知れない。自己愛に 相手とのあいだの関係をどうにかしようというハタラキがあるかどうか? ただただ関係を保ちたいという中立なる自然としての愛であれば――つまり無分別であることにおいて―― 差し支えないと言えるかも知れない。 (く) でも《互いの存在を自立させずに同一視する》ことにならないか? 子どもの側としては そこまでは考えていないであろう。計算はないのではないか。――つまり打算によるアマエは ここではアマエから除外することにした。 (け) 親はどうか。計算によって子のアマエを受け留めるのだろうか。あるいはぎゃくに そのような打算を振り払おうとしてかどうか 子とのあいだに溝をつくらないようにと思ってかどうか かえってその相手として向き合っている子に自分を投影して互いの同一視をすることにならないか?――たぶん これは・これをも アマエから除外しうるのではないか。 (こ) だとしたら 《自己愛》問題はかろうじて クリアできたであろうか? (さ) すなわち ◇ 相手は自分であるから、どんなことでも許してしまう。たとえそれが無茶な要求であっても、実現可能であれば、それを受け入れ、実現可能な範囲の中で実現しようとする。 ☆ にかんしては (i) キッカケとしてのアマエの問題ではなくなっている。 (ii) 無分別と 相手と自己との同一視とは別であると考えられる。 (iii) これは掘り下げるなら 親が子からのアマエを受けてこれを必ずしも受け容れようとしないで 計算づくで対処しようとしたがそれはやめて 少しでも親らしく振る舞おうとしてかえって子の要求を何でも満たしてやってしまうという事例である。 (iv) そこには 子からのアマエにある関係性(それとしての愛)から逃避するかの振る舞いが見られる。 (し) すなわち むしろアマエがキッカケとして与えられたとき これを回避しているなら: ◇ ~~~~~ また、この同一視から、親は子供に対して、ときに情け容赦のない行動にも出たりもする。子供は、自分(親)、あるいは自己の一部、自分の所有物だから、親の意に反したことをしたとき、遠慮なく《ビシバシ》いける、のではと。 ~~~~~~~ ☆ といった事態になりかねません。無分別に対して無分別では応じることが出来ない・いやだという場合に起こる事例であるように考えられます。 (す) すなわち・つまり・とりもなおさず ◇ ~~~~ これが、甘えの基本的な構図ではなかろうか。 もっとえげつない言い方をすれば、 《自分大好き・自分勝手な遺伝子》のなせるワザではないか。 ~~~~~~~ ☆ と規定された事例は むしろぎゃくに〔特に子どものときに〕アマエを親や周りからキッカケだけとしてでも注がれる経験の薄かったひとの場合に起こる親業の一端なのではないか? (せ) 無分別なるアマエは 《自分勝手・自分大好き》そのものであるように見えますが その無遠慮は 無防備なる底なしの信頼関係を土台としている。ものと思われ やはりそれなら 愛情・しあわせホルモンなるオキシトシンのハタラキに通じるところがあると言ってもよいのではないでしょうか。 ◇ ~~~~~~ (κ) たとえば 《おまえがわるい。全面的に一方的にわるい。謝罪せよ》と言うのは アマエだと思うのですが どうでしょう。 たぶん、自己愛に基づく一方的な依存関係、依存体質。もっと悪くいえば、幼児心性なのなせるワザではなかろうか。その意味では、甘えなのではないでしょうか。 ~~~~~~~~~ ☆ (そ) アマエがふたつの種類に割れました。 キッカケとしての・無分別にして底なしの信頼関係に根づく振る舞い。つまり無分別なアマエが ひとつ(これが基本)。 そして じつはこの基本のアマエを避けるときの自己愛かつ相手との同一視から来る打算アマエ。 (た) 後者の打算アマエは 基本のアマエを避けているからには アマエではないと思われます。 言ってみれば アマエに甘えられない人格がかたちづくられてしまっている。のではないかと思われます。 ◇ これに頼りすぎるのは、あまりに、危険ではないでしょうか。 ☆ それは もともと《危険》なのだと考えられませんか? 言わばアマエ欠乏症とでもいうような《人格》が形成されている状態ではないでしょうか。アマテラス人格語の過剰ではないでしょうか。 (ち) つまり: ◇ 無理が通って道理が引っ込むといった事態が、多々、発生することになると思います。 ☆ 普遍科学語を体得した上に普遍アマテラス人格語を成就した状態にあっては その振る舞いは《道理》そのものなのだと考えられます。 そこへ無分別のアマエが 向こうからやってくれば・そしてその底なしのアマエを振る舞うようになるならば それは《無理》というものであって そのときには《道理が引っ込む》ことになる。 こういった事態が いま・そしてこれまでのじんるいの前史においては ふつうのこととして起きていた。のではないでしょうか? ひょっとしたら コペルニクス的転回がやって来ないとも限りません。どうでしょう。 アマエは《無理》ではないところを 《アマテラス普遍語なる道理》から見れば 無理難題であり阿呆という意味での無分別だと規定されて来たというにんげんの前史。・・・・
用語を土井さんに限定するのですか。それを、私はあまえと呼びたい。
お礼
なるほど。そう来られては 返す言葉がなくなりますね。 土井説の定義の不備だとか あるいは 別の定義ではこうだといったこととか できましたら ご回答くださいませんか。 そふとゑーう゛さん こんにちはでした。ご回答をありがとうございます。
お礼
あらためまして こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ◇ ~~~~ 初期の段階では、親に打算は全くないと思いますよ。子供は宝物ですよ。 ですが、この宝物、自我が徐々に徐々に確立し、親のいうことを聞かなくなる。親の思ったように育ってくれない。 で、「昔はかわいかったのに」と言ったりする。 自己を完全に子供に投影できなくなっているからではないでしょうか。 ~~~~~~ ☆ これは 単純に言って それでもなお《自己を子どもに投影しようとしていて》 あぁ親の言うことを聞かない子だなぁと思うのではないでしょうか? ◇ ~~~~~ おもちゃ売り場で、床に仰向けに寝そべり、「買って買って」と駄々をこねる子供。 この時、親のとる行動は、大きく二つにわかれる。泣こうが喚こうが、無視を続け、子供に諦めさせる。あるいは、人目を気にして、仕方なく、子供におもちゃを買ってあげる。 どちらが、いいんでしょう(笑い)? でも、どちらも愛ゆえにということに、ひとまず、しておきます。 ~~~~~~~ ☆ わたしの考えるに たとえ子どもがまだ理屈が分からなくても 説明をして分からせる。つまり買ってやるにしろあきらめさせるにしろ 子が音を上げるまでそのいづれかの理由を説明しつづけます。 ◇ 愛しているのだけれども、親としての行動のトリ方がわからず、思わず手を挙げたりしてしまう。 ☆ という問題は ほとんどどの問題についても共通する根の深さがあるように思います。そしてそれは 無分別のアマエがつまり特にその自分自身における実体験の深い浅いが 反映しているのではないだろうか。 ◇ ~~~~ 無分別なるアマエは、他者への絶対的な信頼関係を土台としていると思います。 親からひどい虐待を受けた子供ですら、それでも懸命に親を愛しようとするそうです。ネグレクトされても、なお、かならず自分のところに帰ってくる、と信じているそうです。 ~~~~~~ ☆ これは いいお話ですね。自然本性の奥のそのまた奥のさらにその根の部分にそういったチカラとハタラキがあるとすれば たのもしいかぎりです。 ◇ ~~~~~ いろいろな話を聞くと、 理屈じゃないんですよね~、親に対する子供の絶対的な信頼というのは。 いや、それも《自分勝手な遺伝子》のなせるワザって話もあるんですが。。。 何か、書いてて、涙が出てきちゃった───眠り猫は涙もろいのでした(ポリポリ)───。 であるのと同時に、 他者に対して絶対的な信頼関係を築ける能力を、 誰もが有しているということの証明になるのではなかろうかと。 潜在的に持っているはずだ!! ~~~~~~~~ ☆ し ぜ ん ほ ん せ い!!!! 自分勝手にアマエを発揮するのでしょうよ。 ◇ ~~~~ 《自己愛かつ相手との同一視》は除外して欲しいですね。 《歪んだ自己愛に基づく打算的アマエ》とか。。。 ~~~~~~ ☆ これらはアマエとは別だと。分別盛りでしょうか。 かくして ◇ ~~~~~ う~ん、 大切なのは《無邪気なアマエ》、《聖なるアマエ》なんじゃないですか。 人間関係においては、他者、あるいは、他者への絶対的信頼という意味でです。 「人を見たら、泥棒と思え」じゃ~、世の中、世知辛くていけないと思います。 ~~~~~~~ ☆ そして そうしますと ひとつに 例のキムポットンさんらについては その言い分の内容がどうであれ もし無邪気に無分別にわれら日本人にアマエて来ているのならば そういう目と姿勢でまづは受け留めてやることが 最初の態度だとなるかも知れません。 かの国ではキリスト教がすごい勢いで普及していると言いますが どうも《梵我一如》類型なるその神を見失っているのではないか。と――論証抜きにですが――思えて来ました。つまりアマエがうしなわれてしまったところに何かその世の中の思潮がかたちづくられているのではないかと。 もうひとつに ユニクロなどの会社がブラック企業だとして批難されているという話題を先ごろからこのQ&Aで取り上げているのですが この問題についても同じような要因・原因としてアマエ問題が よこたわっているのではないか。 童心も まんざら捨てたものではないかも知れません。
補足
BA の判断基準についてですが: 《愛》を扱うからには そのいと高きところでは人間の能力と努力を超えた場のチカラがはたらくといったように捉えられるとすれば その限りで問いは懸案となります。 それでもその《非思考の庭》におけるチカラのはたらきについては 経験合理性にもとづく哲学の立ち場を保持してぎりぎりのところで触れていると思われる文章(判断)は 次のヘーゲルのものだと理解しています。《非思考の庭》は 《無限なもの》にかかわっています。 ▲ (ヘーゲル:法の哲学) ~~~~ 無限なものと 有限なものとの一体性・・・この矛盾・・・は どんな自然的なものも自分のなかにこれを持ってはいない ないしはこれを 我慢できないであろうが この矛盾を持ちこたえることができるのが 人格(――もしくは《時間》――)の高さである。 (『法の哲学』 §35追加。括弧内は引用者。) * 《人格》というと わたしにはむしろ語弊が生じるように思うので――道徳や倫理規範を議論しているというふうに誤解されるので―― 《わたしの時間の高さ》と言いかえました。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 言いかえると 《好悪・愛憎といった相対的な経験愛》と《好悪や愛憎などの相反するウゴキを全体として包み込む高い次元の愛》との《矛盾を持ちこたえることができる》という事態は 経験的なのではないか? つまり 高い次元の愛を人間は発揮することが出来ないが その愛に到り得ない人間の経験愛を超えようとする志向性は 人間にも経験行為として見られる。 言いかえると《懸案》を解決しようとする心の伸びを人は持つ。 この意味で 童心としてのアマエを推し出したいと思います。ゆえにこのご回答を BA とします。