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ひとは他人に甘えることができるのか?
- ひとは他人に甘えることができるか
- 親子関係における甘えとは?
- 他人との関係での甘えは愛なのか?
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《無分別》な甘えという言葉に少し引っかかりをおぼえます。仏教をすこしかじっているので、《無分別》という言葉を聞くと、つい過剰反応をしてしまう(ポリポリ)。 自我が未発達なために、自己と他者を同じであると考える。考えないまでも、そう思う、推測する。その区別・差別をしないという意味でならば、無分別。 また、世間一般でいう分別、良識、常識がないという意味においても、無分別。 打算、損得計算が働いていない、働いていたとしても、わずかであるという意味においても、無分別。 無分別でもいいか、とは思うのですが、 《無邪気》という言葉の方が言い得ているのかな、という気がします。 ではありますが、bragelonneさんの提案にしたがって、《無分別》という言葉を使うことにします。 ☆☆☆☆☆☆ ~~~~~~~ (う) したがって上のオキシトシンが分泌されるかどうかにかかわらず(一般にはその分泌の以前において) どちらか一方の側がアマエをおこなうという場合です。 ~~~~~~ 生まれたての赤ちゃんの様にですね。 ~~~~~~ (お) あるいはつまり あたかも幼児が甘えるときのようにひとが相手に キッカケとして甘えるとき それは むろん小賢しい分別も遠慮もなく理屈抜きにそうしているのであり あるいはまた完全に無防備です。あたかも底なしの信頼感覚において 振る舞っています。 ~~~~~~ 幼児は、他者に自分を害しようとするような悪意の存在を認めない。無知ゆえに、絶対的な信頼が成立している。 ~~~~~~ (く) でも《互いの存在を自立させずに同一視する》ことにならないか? 子どもの側としては そこまでは考えていないであろう。計算はないのではないか。――つまり打算によるアマエは ここではアマエから除外することにした。 ~~~~~~ 本当のことをいうと、 《同一視》という言葉がいいのか、《自己の〔他者への〕延長》のどっちがいいのか、 少し悩んだのですよ。 で、自己愛の延長として、愛をすべて引っ括めちゃおうかな、なんて。。。 真っ先に浮かんだのが、子供のケースだったので。 小さな子供は、自分以外の人間も自分と同じ存在である、と素朴に信じているでしょう。 すこしフロイト的な話をしますけれど、 小さな男の子は、女の子にも当然自分と同じようにペニスがあると思っている。 ないと驚く。 で、あったものが何らかの理由でなくなった──去勢された──と思ったり、そのうちに、生えてくると思ったりする。 自己の過大適用なんですけれども、こんな心性があるじゃないですか。 でも、親が我が子を見るときは、たぶん、異なる心性が働いている。 自己の姿を子供に投影させている。子供に自分の姿を見ている、と思うのですよ。 で、少し悩んで、《同一視》という言葉を使いました。 ~~~~~~ (け) 親はどうか。計算によって子のアマエを受け留めるのだろうか。あるいはぎゃくに そのような打算を振り払おうとしてかどうか 子とのあいだに溝をつくらないようにと思ってかどうか かえってその相手として向き合っている子に自分を投影して互いの同一視をすることにならないか?――たぶん これは・これをも アマエから除外しうるのではないか。 ~~~~~~ 初期の段階では、親に打算は全くないと思いますよ。子供は宝物ですよ。 ですが、この宝物、自我が徐々に徐々に確立し、親のいうことを聞かなくなる。親の思ったように育ってくれない。 で、「昔はかわいかったのに」と言ったりする。 自己を完全に子供に投影できなくなっているからではないでしょうか。 ~~~~~~ (iv) そこには 子からのアマエにある関係性(それとしての愛)から逃避するかの振る舞いが見られる。 ~~~~~~ おもちゃ売り場で、床に仰向けに寝そべり、「買って買って」と駄々をこねる子供。 この時、親のとる行動は、大きく二つにわかれる。泣こうが喚こうが、無視を続け、子供に諦めさせる。あるいは、人目を気にして、仕方なく、子供におもちゃを買ってあげる。 どちらが、いいんでしょう(笑い)? でも、どちらも愛ゆえにということに、ひとまず、しておきます。 ~~~~~~ (し) すなわち むしろアマエがキッカケとして与えられたとき これを回避しているなら: ◇ ~~~~~ また、この同一視から、親は子供に対して、ときに情け容赦のない行動にも出たりもする。子供は、自分(親)、あるいは自己の一部、自分の所有物だから、親の意に反したことをしたとき、遠慮なく《ビシバシ》いける、のではと。 ~~~~~~~ ☆ といった事態になりかねません。無分別に対して無分別では応じることが出来ない・いやだという場合に起こる事例であるように考えられます。 (す) すなわち・つまり・とりもなおさず ◇ ~~~~ これが、甘えの基本的な構図ではなかろうか。 もっとえげつない言い方をすれば、 《自分大好き・自分勝手な遺伝子》のなせるワザではないか。 ~~~~~~~ ☆ と規定された事例は むしろぎゃくに〔特に子どものときに〕アマエを親や周りからキッカケだけとしてでも注がれる経験の薄かったひとの場合に起こる親業の一端なのではないか? ~~~~~~ だと思います。 そして、ネグレクトは違うと思いますけれども、 これが幼児虐待に繋がったりする。 愛しているのだけれども、親としての行動のトリ方がわからず、思わず手を挙げたりしてしまう。 ~~~~~~ (せ) 無分別なるアマエは 《自分勝手・自分大好き》そのものであるように見えますが その無遠慮は 無防備なる底なしの信頼関係を土台としている。ものと思われ やはりそれなら 愛情・しあわせホルモンなるオキシトシンのハタラキに通じるところがあると言ってもよいのではないでしょうか。 ~~~~~~ オキシトシンの話は置いておいて、 無分別なるアマエは、他者への絶対的な信頼関係を土台としていると思います。 親からひどい虐待を受けた子供ですら、それでも懸命に親を愛しようとするそうです。ネグレクトされても、なお、かならず自分のところに帰ってくる、と信じているそうです。 いろいろな話を聞くと、 理屈じゃないんですよね~、親に対する子供の絶対的な信頼というのは。 いや、それも《自分勝手な遺伝子》のなせるワザって話もあるんですが。。。 何か、書いてて、涙が出てきちゃった───眠り猫は涙もろいのでした(ポリポリ)───。 であるのと同時に、 他者に対して絶対的な信頼関係を築ける能力を、 誰もが有しているということの証明になるのではなかろうかと。 潜在的に持っているはずだ!! ~~~~~~ ☆ (そ) アマエがふたつの種類に割れました。 キッカケとしての・無分別にして底なしの信頼関係に根づく振る舞い。つまり無分別なアマエが ひとつ(これが基本)。 そして じつはこの基本のアマエを避けるときの自己愛かつ相手との同一視から来る打算アマエ。 ~~~~~~ 先に少し触れましたけれども、自己〔愛〕の延長をもって、すべての愛を引っ括めちゃおうと思っているので、 《自己愛かつ相手との同一視》は除外して欲しいですね。 《歪んだ自己愛に基づく打算的アマエ》とか。。。 自己愛は、他者愛へ転換できるものだと思っているので。 ☆☆☆☆☆☆ う~ん、 大切なのは《無邪気なアマエ》、《聖なるアマエ》なんじゃないですか。 人間関係においては、他者、あるいは、他者への絶対的信頼という意味でです。 「人を見たら、泥棒と思え」じゃ~、世の中、世知辛くていけないと思います。
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- 阿加井 凛悟(@neutral)
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こんばんわ、ぶらじゅろんぬさん。 ご返信と資料をありがとうございます。 うん?精神分析の話だったの? 読みながら、なんか 昔の恋人が書いたみたいな文章だなーと思い、 苦笑しちゃいましたー。失敬。 おいらの感想は、正直あまり気に入らん、けど いろんな人がいろんなこと言うなー、ぐらい。 それから、書いてあることは、だいたい 「一時的防衛機制」で片付くんぢゃないの? 心理学とか精神分析とか すっかり忘れちまいまったので、 あまりしゃべることもなくなっちまったんだけど、 とりあえずいろいろ置いていきますわ。 この中に「甘え」という言葉は見つからないんだけど、 キーワードは 安定・不安・対象恒常性・関係・発達、など。 http://homepage1.nifty.com/eggs/topics/hattatu.html http://www1.kiwi-us.com/~skyearth/psy/Kakuron/four.html http://www.geocities.jp/aqueousmarble/grouth.html ___________ >☆ このことを《乳児ないし幼児は それとして(母親と分離しているとして)概念においては自覚することなく しかも知覚において感じつつ あたかも本能によるかのごとくして 母親との一体感をもとめて行動する》と言ってよいのだろうか? :母親ぢゃなくてもいいと思うんだけど (うちの坊は1歳から保育園で過ごしてます)、 他者との一体感は求めてるような気がします。 たぶん、一体感≒還る家のようなもの。 >あるいはつまり この《一体感》というのは 言ってみれば《心理的》な場面としての出来事であって 存在論などとしての哲学では――観念的になるうらみはあるけれど―― やはり《人と人との関係性・社会性》といったことの契機として見ようとしているのであろうか? :契機であり、一生ものになるんぢゃないかなあ。 還る家のようなもの。がある、と感じる、という点で。 (↑日本語ヘタですみません、これで通じるかなあ。) 何かしゃべりたくなったらまた。 ほぢゃ。
お礼
こんばんは。ご回答をありがとうございます。 土井健郎の議論は あまりピッタリとしていなかったみたいですね。 ひとところだけを抜き書きしてしまいましたし。 ★ うん? 精神分析の話だったの? ☆ 土井自身は 精神分析医ではあります。 そして たしかに基本的に言って ここでは哲学が問題です。 アマエは エポケーのごとく分別としての思惟やあるいは意識的な知覚をも打ち捨ててみる心の地点に対応するかと考えます。 純粋意識などと言うと またまた 分別ごころで分析的にあるいは理念の探究としてのように捉えようとするでしょうから 言わないわけです。 直観(そのさとりを自覚したかたちで)すらないわけです。キッカケとしてのアマエには。 乳児や幼児における事例は 意識にこだわらない状態にあるということで 例示として用いるというかたちになるのだと思います。 たしかに 少年・青年期と成人期以降とに分けてとらえるかたちが 分かりやすいと思います。 かえってこんがらがって すみません。
- 阿加井 凛悟(@neutral)
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こんにちわ、ぶらじゅろんぬさん。でぃくべっくさん。ねこさん。 おいらの独り言を読んでくださり ありがとうございました。<m(__)m> またまた反抗的かもですが、(^_^;) 赤んボは 愛という【概念】を持たない! というそれだけ! なんぢゃないかなあ。 どうしてもおいらは 赤んボが 甘え≒生きる力≒愛(←ここおかしいですか?) をぶっ飛ばしているように思うんですよ、 そのようにして赤んボの側からも 関係を始めようとしているように思うんですよ。 親も子どもに甘えられるような関係。 あと、甘える経験があったかとか あまり関係ないんぢゃないかしら。 甘える「機会」がまるでないのは困るけど。 わたくしごとで恐縮ですが おいらは甘え方を 大人になるまであまり知らなかったんですね、 あ、ちがうわ、 知らなかったんぢゃなくて忘れてたんですね、 親から一方的に甘やかされてはいたんだけど。 おいらは甘える経験は「いつからでも」 始めたらいいんぢゃないの?と思います。 おいらが特に甘えさせてもらったのは、 0歳の娘と家から出て児童館に行ったとき。 他のママがいっぱいいましてね、 急に孤独ぢゃなくなった気がして、 めちゃくちゃ安心しましたわ。 おばぢゃんだって甘えさせてもらえるんだーと。 誰に、と限定しなくてもいいと思います。 おいらサッカー少年団のコーチしてるんですが、 「ねえコーチ見てて!こんなことできるんだぜ!」 「オレのも見て!」「アタシのも見て!」 と言って見せにくるんですが、 うんていだったり鉄棒だったり側転だったりするんですが、 周りにいる人に見てもらえるだけで その子にとってはちょっとした関係の始まり になっているように見えるんです。 そうしてだんだん仲間に「すごいね!」と言ったり、 「おまえ今オレの足踏んだだろ!」と言ったり、 「あいつにパス出したのに取ってくれへんかった!」 といろいろ言い出し、 「ぢゃ、次はどうしよう。」とも言い合うようになります。 またまた子どもが例ですが、 大人同士でもかまわないんぢゃないかしら。 例によってしゃべりたい放題ですが、 こうやって甘えてるってことにしてちょうだい。 ほぢゃ。 うん?回答してないやんか。 >好悪・愛憎をないまぜにした永続的な関係――が はぐくまれるか? :はい、たぶん。
お礼
ご回答をありがとうございます。 事例が増えることは アマエの一般性についての資料であり支えになるかと思います。 回答No.1の方が言っていたように 土井健郎の理論に片寄る必要はないでしょうが いちどこのあたりで参考資料としてかかげておいてみたいと思います。 いくつもありそうですが 一編。 ▼ (土井:甘えの心理的原型) ~~~~ 発達的に言えば 甘えの心理的原型は母子関係における乳児の心理に存するということはあまりに明らかである。以下この点について若干考察を加えると 生まれたての乳児については 甘えていると言わないことにまづ注意しよう。大抵は生後一年の後半に 乳児が漸く物心がつき 母親を求めるようになった時 はじめて《この子は甘えている》というのである。 すなわち ( a ) 甘えとは 乳児の精神がある程度発達して 母親が自分とは別の存在であることを知覚した後に その母親を求めることを指していう言葉である。 いいかえれば甘え始めるまでは 乳児の精神生活はいわば胎内の延長で 母子未分の状態にあると考えなければならない。しかし ( a-1 ) 精神の発達とともに次第に自分と母親が別々の存在であることを知覚し しかもその別の存在である母親が自分に欠くべからざるものであることを感じて母親に密着することを求めることが甘えであるということができるのである。 ところで ( b ) この現象は洋の東西を問わず 原則としてすべての乳児に観察し得るはずのものである。 なお人間の乳児に限らず 動物でも乳離れしない子は親につきまとうので その意味で例えば《子犬が親犬に甘えている》といった表現を用いることも可能である。ただ人間の場合はこの種の行為の心理的内容が洞察され得ることが特徴的であるといわねばならぬが 殊に日本語で甘えという言葉が発明されたことは この心理を大きくクローズ・アップすることに役立ったと言えるであろう。 すなわち ( c ) この〔甘えの〕概念を媒介として母親は乳児の心理を理解し それにこたえることが出来るので 母子ともに渾然とした一体感を楽しむことが可能となったのである。 ( c-1 ) そればかりでなく 甘えという言葉を持たない民族に比較し甘えを自覚する日本人の場合は この心理が人間の精神生活のあらゆる面に強い影響を与えることを許す結果となり またそれに応じてこの心理のヴァリエーションを示す多くの語彙を持つことが必要になってきたものと思われる。かくして・・・甘えの世界が現出するに至ったのである。 さて先に 甘えの原型は乳児がおぼろげに自分と別の存在であると知覚する母親と密着することを求めることであるとのべたが であるとすると ( d = a-2 ) 甘えるということは結局母子の分離の事実を心理的に否定しようとするものであると言えないだろうか。 ( d-1 ) 母子は生後は明らかに物理的にも心理的にも別の存在である。しかしそれにも拘わらず甘えの心理は母子一体感を育成することに働く。 ( d-2 ) この意味で甘えの心理は 人間存在に本来つきものの分離の事実を否定し 分離の痛みを止揚しようとすることであると定義することができるのである。 したがって甘えの心理が優勢である場合は逆に その蔭に分離についての葛藤と不安が隠されていると推理することも可能となるであろう。 もちろんそうであるからと言って 必ずしも甘えが常に非現実的かつ防衛的であるということにはならない。 ( d-3 ) むしろ甘えなくしてはそもそも母子関係の成立が不可能であり 母子関係の成立なくしては幼児は成長することもできないであろう。 さらに ( d-4 ) 成人した後も 新たに人間関係が結ばれる際には少なくともその端緒において必ず甘えが発動しているといえる。 ( d-5 ) その意味で甘えは人間の健康な精神生活に欠くべからざる役割りを果たしていることになる。 ( d-6 ) 分離の事実に全く目を蓋うことが非現実的ならば 分離の事実に圧倒されて人間関係の可能性に絶望して孤立することも同じく非現実的であると言わねばならないのである。 (土井健郎:『《甘え》の構造』(愛蔵版 1980) 第三章 「甘え」の論理 pp.80-83 ) ~~~~~~~~~~~~~~~~ ▼ ( d-2 ) この意味で甘えの心理は 人間存在に本来つきものの分離の事実を否定し 分離の痛みを止揚しようとすることであると定義することができるのである。 ☆ このことを《乳児ないし幼児は それとして(母親と分離しているとして)概念においては自覚することなく しかも知覚において感じつつ あたかも本能によるかのごとくして 母親との一体感をもとめて行動する》と言ってよいのだろうか? あるいはつまり この《一体感》というのは 言ってみれば《心理的》な場面としての出来事であって 存在論などとしての哲学では――観念的になるうらみはあるけれど―― やはり《人と人との関係性・社会性》といったことの契機として見ようとしているのであろうか? 《愛》という概念ないし人間的現実にも かかわらせて 捉えようとしていると思われる。 心理学と哲学 微妙な違いがあるだろうか?
- NemurinekoNya
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Diekbecさん、こんにちは。 bragelonneさん、こんにちはです。 ☆☆☆☆☆☆ ~~~~~~ きっと鳥は俺を愛しているに違いない。だから迷惑をかけているんだろう。そういう「思い込み」ですよね。 ~~~~~~ Diekbecさんのおっしゃるとおり、 これは主観、主観的判断にすぎません。 まして、相手はヒトではなくインコ。 人間の感情や理屈をそのまま当てはめることはできません。 正直、何故に、餌を取り替えるときに、鳥籠に手を差し入れたときのみ噛みつくのかは、わかりません。ただ、わたしのその行為がクチバシで噛みつくことのサインになっているだけかもしれません。その行動が様式化されている、つまり、このインコの癖・習慣になっているだけなのかもしれません。 なのですが、インコがガブリと本気(?)で噛みつくのは、身の危険を感じたからではなく、信頼関係があればこそ、だと思います。身の危険を感じたらば、噛みつく以前に鳥籠の中を逃げ回りますから。 ただ、 「コイツになら噛みついても絶対に大丈夫。この謎の存在──わたしのことを羽や翼のない変わったインコと思っているかもしれませんが──は、絶対に自分が危害をくわえない」という、わたしに対する信頼があるのは事実でしょう。 それがたとえ無知に起因することだとしても、そこに《アマエ》が存在しているだけは事実だと思います。 わたし、今いるインコの他にも、過去にもインコを飼ったことがあるのですけれど、噛みますね。どんなに懐(なつ)いていても、手の甲などを血が滲むまで噛みました。鼻や耳など結構、本気で噛みます。耳や鼻の頭だと血が出ます。 ───この痛みから逃れるために、クチバシの先を切るヒトもいます─── 肩や顔に止まって、耳や鼻などをクチバシで何度か突っつ遊んでいて、ある瞬間、何物かに取り憑かれたように、何の前触れもなくガブリ!! 耳たぶをやさしく噛むのは、たぶん、わたしの毛づくろいをしているつもり。。。 鼻を突っつくのは、インコのパートナー噛んでみられる、互いのクチバシを突っつき合うキズナ強化の儀式。。。 どちらも、インコの雌雄間にみられる愛情表現であり、愛情確認の形式。 ただ、ガブリの意味は不明。 もっと、「わたし──インコ──のことを構ってよ、遊んでよ」という意志表示なのかもしれないし、 それなのにその欲求がいっこうに実現されず、欲求不満のあまり噛むのか、 そのあたりことは、インコ本人に気持ちを聞いてみないことにはわかりません。 ところでところで、 いま飼っているインコは、人間目線で見ると、結構、おバカさんです。 鳥籠から出る、または、出されても、数年間、自力で鳥籠の中に戻ることができなかった。四角い鳥籠の上に乗っていても、そこから開け広げられた出入り口までたどり着けなかった。その方法を去年まで見つけられなかった。そして、今でもなお、時折、混乱している。 このバカさ加減が、また、可愛い。愛情をそそられる(笑い)。 ☆☆☆☆☆☆ ~~~~~~ ところが「甘えた」という自覚がないのですね。「甘やかされた」のであって、私から積極的に働きかけたわけではない。つまり受け身なのです。すると意識がぼんやりとしてしまって、それを何と呼んでよいのか分からない。恩知らずと言えば恩知らずでしょうし、バカだと言えばバカでしょう。しかしそんな思考停止という感じなのです。 ~~~~~~ 《アマエ》は、基本的に無自覚だと思います。 《甘えていること》を他者に指摘されるまで、たいがい、その事実に気づかないものだ、と思います。 「お前は甘い」「甘えるんじゃねぇ~」と他者に言われる言葉がその一つの証拠。 そして、《甘えている》という自覚が発生したら、そこには《遠慮》の気持ちや計算が働くと考えます。 無自覚の《アマエ》こそ《アマエ》の本質だと思います。 わたしなんざ~、親にプレゼントなんぞをしようなんて殊勝な気持ちは、髪の毛一本ほど、ミジンコほどにも起きない(大威張りする!!)。 母の日、父の日に何もプレゼンとしないというのが、わたしの愛情表現であって、親への信頼と《アマエ》の現われなんですから。同時に、今でもなお、わたしが親に甘えている紛れもない証拠です。 そんなものを贈らなくても、わたしの親とわたしの親子関係は絶対に揺るがない。その《無根拠》な、絶対的な確信がわたしの中にはある!! などと言うと、わたしが冷血動物であるかのように思われるかもしれませんが、何かあったときは最大限、親をヘルプしますよ、わたしだって。 わたしの父親、ここ数年、病院への入退院を繰り返しまして、わたしもちょっと付き添いで父のベッドの横で寝泊まりをしたりしたのですが、 いや~、血が繋がっているだけに、わたしには情け容赦もない、無理難題を吹っかけてくる。ワガママし放題(笑い)。 病気をフル活用して《アマエ》てくる。 それでいいんじゃないですか、親子なんだから。
お礼
ねむりねこさん こんにちは。ご回答ありがとうございます。 さらに活発になって来ましたね。 ◇ 《アマエ》は、基本的に無自覚だと思います。 ☆ この《無自覚》を 忘れていました。 そのつもりでいましたが 出していなかったみたいです。 そのキッカケとしての起点では どう見ても《無自覚》でいるでしょうね。 はじめからアマエを自覚しつつ発動するのなら 計画的意志行為としてのアマエのごとくになってしまいます。たぶんそれは たとえば《わたしは こういうふうに甘えたいんだけど・・・》といったような意図があるのでしょうか。おおむねふつうの会話になろうかと思われます。 ◇ そして、《甘えている》という自覚が発生したら、そこには《遠慮》の気持ちや計算が働くと考えます。 ☆ でしょうね。 ですから その自覚を持ったら いちどは控えつつしむか それともアマエとは別のかたちの同じ意図をもった行為に切り替えるか。そんなところでしょうか。 わたしも親が両方とも入院するようになったころを思い出しました。 ◇ 贈り物 あるいはつまり 贈与 ☆ この主題も けっこう問い求め甲斐があるように思います。ズレますが。
おはようございます。むずかしい局面ですね。何を争点にするべきかというお話のようですが、次のように提案してみます。まず、下記のように整理しておくことにします。 (1)幼少期、与えられる一方。愛の認識はない。 (2)成人後、自らも与えるようになる。愛の認識をうる。 このように整理しておいて、(1)と(2)を対立させるのではなく、(1)は(2)のきっかけであると考えれば、止揚できませんでしょうか。にゅーとらるさんの例を発展させる形で恐縮ですが、こんな風に考えてみたのです。少女は幼少期は自分が愛を受けているとは思わなかった。しかし自らが子を生し、授乳するに至って、あれが愛だったのだ、と認識するに至った、と。だから喩えると、種をまかれているようなものですよね。(1)の時期に種がまかれ、それが発芽するのは(2)の時期である、と。 これは昨日、考えたのです。しかしねえ、次の問題点が生じるのですよ。子供の時に甘える経験をしていない人は、愛の種を宿していないのだろうか、と。猟奇殺人などを考えると、答えはイエスであるような気がします。しかし孤児院で育った子供が、成人してから親になった時のケースを考えると、ノーだとも思うんですよねえ。親に甘えた経験がなくても、そんなことは関係なく、どこかに愛の種はまかれているはずだ、と。そうすると甘えた経験の有る無しは、関係ないんじゃないか、とも思えてくるのですよね(こうなると議論を全部無為にきしてしまうわけですが、手続き上、考えても見ないとならないことに思うのです)。 私は個人的には後者のように考えたいところもあるんですよね。しかし、止揚するぞと決意を固めて、さらにやれば、親でなくても、養父でも施設の人でも、愛の種をまけるのだ、ということにはなるのかもしれません。しかし実際のところは、どうなんでしょう。何か、議論が結論先にありきで、表面的なところで転がっている気もしないでもないのですよ。うーん。あとはぶらじゅろんぬさんに捌いてもらいましょう。 > ○ この子どもの頃の《受け身》の経験を いま能動的に捉えようとするなら、どういうかたち(内容)となりましょうか? 私の話ですが、答えられることは全て答えてしまったのですから、返答には窮しているところです。今から捉えればどうなるかという問いだとすれば、上記の提案が、お答えになっているかもしれません。いかがでしょうか。 >あっ そうか。《あまやかされていた子ども時代》と《親に贈り物をすることをつうじて知った愛とその認識における人生》とは つながっていますよね? 基本的な《わたしの自己表現としての動態》は 大筋でひとつの道である。 上記の提案は、そういう流れで考えれるとも私は思うのですが、どうでしょうか。
お礼
なるほど。共通の出発点に立てたかも分かりません。 ――まづは ご回答をありがとうございます。昨夜はなかなか考えがまとまりませんでした。 すなわち 提唱されたように 《愛》の問題を ひそかなかたちでのように《甘え》なる主題をめぐって 捉えてみるこころみのひとつのかたちとして 人生を次のように区分する: ★ ~~~~~ (1) 幼少期、与えられる一方。愛の認識はない。 (2) 成人後、自らも与えるようになる。愛の認識をうる。 ~~~~~~~ ここで焦点は 次に当てられる。 (3) ★ (1)と(2)を対立させるのではなく、(1)は(2)のきっかけであると考え》ることが出来るか? (4) 言いかえると 次の見方は つねに当てはまると見てよいか? ☆☆ ~~~~~ 《あまやかされていた子ども時代》と《親に贈り物をすることをつうじて知った愛とその認識における人生》とは つながっていますよね? 基本的な《わたしの自己表現としての動態》は 大筋でひとつの道である。 * (《大筋で》という条件づけは 要らないですね)。 ~~~~~~~~~~ (5) さらに具体的な焦点は (1) の幼少期における(また幼少期全体としての)アマエは 子どもにとって〔実の〕親子関係に限られるのかどうか。ここにあると思われる。 (6) すなわち 次のでぃーくべくさんの論旨を逆手に取って 実の親子関係におけるアマエに限らず アマエ経験があれば その種が(2) の成人後の人生において芽を出し花をも咲かせ得るか? という問いに代えうるか。 ★ ~~~~ 子供の時に甘える経験をしていない人は、愛の種を宿していないのだろうか、と。猟奇殺人などを考えると、答えはイエスであるような気がします。しかし孤児院で育った子供が、成人してから親になった時のケースを考えると、ノーだとも思うんですよねえ。親に甘えた経験がなくても、そんなことは関係なく、どこかに愛の種はまかれているはずだ、と。 ~~~~~~~ ☆ 《どこかに蒔かれていた愛の種》を中核として (1) と (2) との区分はひとつの人生としてつながっている。と見得るか? (7) すなわち でぃーくべくさんの次の論点が 当面の課題になります: ★ ~~~~~~~~~ そうすると甘えた経験の有る無しは、関係ないんじゃないか、とも思えてくるのですよね(こうなると議論を全部無為にきしてしまうわけですが、手続き上、考えても見ないとならないことに思うのです)。 私は個人的には後者のように考えたいところもあるんですよね。しかし、止揚するぞと決意を固めて、さらにやれば、親でなくても、養父でも施設の人でも、愛の種をまけるのだ、ということにはなるのかもしれません。 しかし実際のところは、どうなんでしょう。何か、議論が結論先にありきで、表面的なところで転がっている気もしないでもないのですよ。 ~~~~~~~~~~ (8) 注意点は: (あ) 理論先行ではいけない。《まづ結論ありき》ではダメだ。 であり 注目点は: (い) 幼少期におけるアマエ経験は 不可欠なものであるか? (う) 実の親子のあいだにおけるアマエに限られるか? (え) 限られない。つまり 育ての親などとのあいだにおけるように親子関係に準じたアマエがあって それとして不可欠だという見解が支持されると見るのか? (お) それとも 幼少期の経験は 一般にむろん成人期以降の人生に土壌をかたちづくっているが そこにおける親とのあいだのアマエ関係を取り出してみたときこのアマエ経験は 成人期における人生としての愛の認識に 無くてはならぬものだとは言い難い。か? (か) あっ ここで ズルイ考えがひらめきました。 1. アマエは 無分別・無遠慮・無打算であるからには 言ってみれば《聖なる甘え》と言い得る。 2. 無遠慮ながら 相手がそのアマエを嫌がれば それを控えようとする。 3. そうでない場合もあるが――つまり どこまでも言わば一体感を確信してのように 相手にキッカケとしてのアマエを推し出していく場合もあるが―― 相手が嫌がれば それをつつしもうとするウゴキもある。 4. このつつしみ深いアマエは 言うなれば聖なる甘えである。 5. 聖なるアマエは きよらかなおそれに包まれている。相手の意志や心に――意識せずとも――気を配る。 6. この《きよらかなおそれ》は 《信じる》における《かしこまり》としての畏れのことである。 7. かくして人は 《無根拠なるナゾの何ものか》から 遠慮は要らないよという声を聞いたかのように きよらかなおそれを持って・ということはその声の内容は おのれの心の欲していたことにこたえてくれたものだったと知って アマエ経験を得る。 8. どういうことか? 親子関係〔におけるアマエ経験〕をも活かしてくれるような《ナゾと我れとの関係》を見い出す。 * 理論の先行性を揚棄したかと思うのですが それが 誰もに経験されうる普遍的な体験であるか これはなお分からない。 霊の次元へ議論を揚げて 共通の場をさらに求め得たかに見えつつ 現実の理論も実践の問題も まだ何も明らかになっていない。 得られたことは: (7) の《甘えた経験の有る無しは、関係ないんじゃないか》の問いについて・ということは (8) の(お)の《無くてはならぬものだとは言い難い》というひとつの結論について それは そうであるかも知れないが そうだと断定することは出来ない。 つまり アマエ経験が不可欠だという理論の普遍性いかんについても 疑問符がつく。ということだと思われます。 いやはや 何にも出て来ませんでした。どうしましょう? とさらにズルさを発揮しつつ。・・・
補足
お礼欄へのおぎないです。 いまから述べることは どこから見ても理論先行で理論優先の発言になるのですが: 《非思考の庭――信じるという動態としての場――》は 誰にもあると想定しますので 《聖なるアマエ》が 信じるを通じてそれを捉えようとしても なかったと知ったし それが不可欠だとは考えられないという場合 この場合は ナゾの何ものかを有る神として受け容れるのではなく そうではなく 無い神として受け容れたかたちの《信じる》であると見ることになります。 その限りでは 《無い神》をおのが非思考の庭に受け容れている〔と想定される〕場合にも 聖なるアマエが 《無いアマエ》として はたらいた。 こういう我田引水の見方をすることになります。 《無いアマエ》は 《甘やかされていたという経験》に通じるものがあると予断したい気持ちがあります。
ありがとうございます。うーむ。両親の与えてくれたものを何と思うか。正直に言うと、よくわからないんですよね。与えてくれと、私が望んだわけではない。生まれてきた以上は、何かしら親の責務というものがあったに違いない。だがそうはいっても、彼らはそれ以上のことをしてくれたのではないか。いや、してくれたに違いない。 ところが「甘えた」という自覚がないのですね。「甘やかされた」のであって、私から積極的に働きかけたわけではない。つまり受け身なのです。すると意識がぼんやりとしてしまって、それを何と呼んでよいのか分からない。恩知らずと言えば恩知らずでしょうし、バカだと言えばバカでしょう。しかしそんな思考停止という感じなのです。 にゅーとらるさんのいっていることは、母親としての実感がこもっていて、その点では敬意を払っていますが、論理的には、混同しているように思うんですよ。「愛」を認識しているのは、母親の方であって、子の方は「愛」などとは感じないでしょう。 子はありがたいとは思うでしょう。しかし感謝を愛と認識するためには、他の様々な感情と比べることが必要だと思うのですよね。赤ん坊はそんな高度な思考の力は有していないと私は思うなあ。だから「赤ん坊が母を愛している」という表現は比喩であって、事実ではないと思うのです。むしろ人が愛を理解するまでには、ある程度、成熟している必要がある。つまり成人するまでにその他の様々な感情を経験し、ああ、これが愛なんだなと思う何かを見つけないとならない。 逆ににゅーとらるさんの話は、母の方が、赤ん坊に授乳することによって愛を見いだしたという話に思えるんですよねえ。今まで様々な人生の経験を積み重ねてきたけれども、我が子がわーっと泣いて、それに対して母乳を与えたときほど、自分が愛を感じたことはなかった、と。そういう話に思いますねえ。私からみると、ここでも愛は与えることでしか始まらない。 猫様の鳥の話は、どうなんだろう。きっと鳥は俺を愛しているに違いない。だから迷惑をかけているんだろう。そういう「思い込み」ですよね。ぶらじゅろんぬさんが書いているように、逆に「俺のことが嫌いなんだ、だから迷惑をかけているに違いない」という理屈も成立します。だから、この場合の愛は、主観的な問題ですよね。そして愛かどうかを確認するために、猫様は、餌を与え、世話をしてあげている。やはりここでも、愛のきっかけは与えることから始まっているように思うんですが。 お二方の例を私は上記のように考えますが、我田引水でしょうか。見解の相違は、赤ん坊や鳥が愛を感じるか否かという、そもそものところで起きているように思います。私が子供のときは、愛と呼べるような高度な感情?は両親に対して持っていなかった。愛と言うものを探り当てたのは、成人して、与える経験をした時である。そういう経験を踏まえていっているわけですけれども。私からは、にゅーとらるさんも、猫様も、与えることによって愛を認識しているように見えるんですがねえ。まあ、私はそう思うということであって、そう思わないと言われたら、いろいろな考えの方がいていいかなと思うという範囲ではありますが。とりあえず、ぶらじゅろんぬさんにバトンをおわたしすることにしましょう。
お礼
ご回答をありがとうございます。おはようございます。 むつかしいですね。 たとえば理論の要素にかんして 互いの見解を突き合わせようと思えば 次のような点で出来るかと思います。 ★ 人が愛を理解するまでには、ある程度、成熟している必要がある。つまり成人するまでにその他の様々な感情を経験し、ああ、これが愛なんだなと思う何かを見つけないとならない。 ☆ これに対しては ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~ (κ) ・・・愛――スサノヲ市民の個人としての自治 および それにもとづく互いのまじわり(交通)の 好悪・愛憎をないまぜにした永続的な関係 ~~~~~~~~~~~~ ☆ というふうに――ここではですが おおむねつねにと言ってよいと思います――規定していますので 必要条件としては この《関係の中に自分がいて それをうっすらとでも感じて知っている》という程度のことで足りると言えば言えると思います。 でもこれを争点にしても おもしろくありません。 あるいは同じツテで ★ 私が子供のときは、愛と呼べるような高度な感情?は両親に対して持っていなかった。愛と言うものを探り当てたのは、成人して、与える経験をした時である。 ☆ というようにおっしゃるのなら 愛を あるべき理想のような概念として知ることが基本だというふうに捉えておられるかも知れない。 でも そのいと高き理念をかかげるにしても その初めの一歩があると捉えるなら 同じ生活基礎に立っての議論である。だから違いは あまりない。 ところで 初めのご議論から キッカケは 自分の意志行為として何かを与えるというところにあるのではないかということでした。今回も ほかのお二人の事例を取り上げ検証しつつ ★ 愛のきっかけは与えることから始まっているように思うんですが。 ☆ という見解をたしかめておられる。 途方に暮れつつ 少しひらめいたことは 次でしょうか。 ★ ところが「甘えた」という自覚がないのですね。「甘やかされた」のであって、私から積極的に働きかけたわけではない。つまり受け身なのです。 ☆ つまり――もう何だか誘導尋問でもしているみたいになって来て 恐縮して来ましたが それでも―― こう問います。 ○ この子どもの頃の《受け身》の経験を いま能動的に捉えようとするなら どういうかたち(内容)となりましょうか? これですかねぇ。 理論にしがみついて言っているのではないことを祈るのみです。 ○ 少年時代は もうそれとして受け留めるのみだ。 いまそれをどうこう言って捉え直すこともないのではないか。 その後に 生活経験にもとづき 愛を知ったそのことが ほぼすべてだ。 こうなりましょうか? あっ そうか。《あまやかされていた子ども時代》と《親に贈り物をすることをつうじて知った愛とその認識における人生》とは つながっていますよね? 基本的な《わたしの自己表現としての動態》は 大筋でひとつの道である。 ここに行き着きますでしょうか。
- 阿加井 凛悟(@neutral)
- ベストアンサー率29% (231/773)
こんばんわ、ぶらじゅろんぬさん、 ちょっと場所を借りてよろしいすか? 別に回答ぢゃないんだけど、 声が出たいのんでべらべらしゃべってよろし? ___________ こんばんわ、でぃいくべっくさん、ねこさん。 文を書くのが苦手なので しゃべる調子にしゃべっちゃうけど ご寛恕ヨロです。 ◇ でぃべっくすさん。 おいらは やっぱ 愛は「求める」ことから始まる! のぢゃないかと思ひまつ。 生後数分の赤んボがどのように愛を覚えるか。 充分に表現させてもらえるからなんぢゃないか? その人たちは できることしかできないんだけど、 そんでもって できることというのは ごくわづか いやほとんどないんだけど、 ※できることを思う存分することをゆるされてる たくさん ゆるされるから なんぢゃないか? 産道を通る痛みや初めて肺で呼吸するときの混乱、 泣きたいだけ泣き喚き、暴れたいだけ暴れ、 誰からも教わっていないのに 生後数分で 母親の乳房をくわえる。 その人は何ができるわけでもないんだけど、 「生きようとする力≒愛」を覚えるから 「与える」ことを覚えるんぢゃないか。 ちなみにおいらは、 母乳を「与える」と我が子は泣き止むらしい と覚え、約1年半、休むことなく 3時間置きに「与えて」いたのですが (↑つまりわたしの都合で与えていたのですが)、 (↑つまりこれはおそらく打算ですが)、 そんなころ 阿呆なおいらは ようやく 「生きようとする力≒愛」を 全身に浴びるほど 刺さるほど 投げ飛ばしてもらつていることに気付いたのでした。 赤んボを例に出しましたが、大人だって、 無遠慮に ※できることを思う存分することをゆるされている ときに「生きようとする力≒愛」 を発揮できるんぢゃなかろうか。 たとえば、 弱音を吐く、愚痴を垂れる、 助けを求める、大粒の涙を流し声を出して泣く、 「淋しい」「悲しい」「困ってる」とつぶやく、 「オレはこうしたい、あなたにはこうして欲しい」 と叫んでみる、 こういうの(しつこいんだけど) 「生きようとする力≒愛」なんぢゃんないかな。 めちゃくちゃ反抗的で澄みません。 読んでくださりありがとうございました。<m(__)m> ___________ ◇ねこさん。 12番のご回答おもしろい。(*^_^*) おいらはネコちゃんが大好きで 若いころ一緒に住んでいました。 親ネコちゃんの名前はポチさんで、 子ネコちゃんの名前はブルさんでした。 で。親ネコのポチさんがね ときどきネズミさんを捕まえてくるんですね、 おいらのところに持ってくるんですわ、 ポチさんは ちゃんと食事は摂ってましたから 食うために捕まえてくるんぢゃなくて (殺してから運んでくるのではなくて)、 わざわざ「生きているネズミ」を 運んでくるんです、おいらのところに。 ポチさんというネコちゃん と住んでいるおいらにとっては ネズミさんはジャマだったので、 ポチさんがネズミを捕まえてくるたびに おいらはデカい声で叱り付けてたんだけど、 ポチさんは おいらというともだちに 「生きているネズミ」というオモチャ を持ってきてくれていたみたいで。 と、おいらが気付くまで「生きているネズミ」 を運び続けたポチさんは、 おいらに愛を送ってくれたのかもー、 と思ったのは ずいぶん長い間 ポチさんと同棲した後でした。(^_^;) ちっとも回答になってないんだけど、 思ったことそのまんましゃべりました。 読んでくださりありがとうございました。 ___________ ぶらじゅろんぬさん、どうもお邪魔しました。 うん? ぶらじゅろんぬさんにしゃべることはないのかって? また来年か再来年しゃべりたくなったらしゃべるわ。 ほぢゃ。
お礼
にゅうとらるさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 この問い求めとしての主題では特に体験がものを言うようですね。 ★ ~~~~~ 赤んボを例に出しましたが、大人だって、 無遠慮に ※できることを思う存分することをゆるされている ときに「生きようとする力≒愛」 を発揮できるんぢゃなかろうか。 ~~~~~~~ ☆ 《自由》ってことでしょうか。 体験には さらに動物との共生としての体験もあるようです。 (わたしは 動物が苦手です)。
- NemurinekoNya
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Diekbecさん、こんばんは。 braglonneさん、こんばんはです。 わたしはオスのインコを飼っているのですけれども、 このインコが、時々、未消化の食べたエサを僕にプレゼントしてくれてたりします。 これは、嫌がらせではなく、愛情表現、 I love you. の意味です。 この一例からもわかるように、動物においては、「愛情」「思い」がプレゼントに先行しています。人間も動物ですから、おそらく、同じであろう、と考えます。 まっ、インコの場合、これは、誰に教えられたわけでもなく、先天的に与えあれている本能に基づいているわけなのですが。 ただ、プレゼントの授受が愛情をより強くするのは事実です。 これによって、結びつきが強くなる。 潜在化している、あるいは、いまだ意識表層にはっきりと現われるほどまでに強くない、その思いが、自覚できるまで強くなって現われるのであろうと。。。 そして、 眠り猫の理系脳がぞろぞろと動き始める。怪しげなことを考え始める(笑い)。 これはミラー・ニューロンのなせるワザかもしれない、となる。 で、例によってWikipediaのリンク先。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%B3 うじゃうじゃと小難しいことが書かれていますので、 《考えられている機能》までジャンプしてください。 ネコが常々いう、「人間には共感をする能力・機能が脳に組み込まれているのだ」ということの科学的根拠の一つがそこに示されています。 ところで、わたしが飼っているこのインコ、普段は絶対に噛んだりしないのですが、餌を取り替えるなどするときには、時々、本気で指の甲を鋭いクチバシで血が滲むまで噛んだりします。 はて? はて?? はて??? う~ん、これは、おそらく、愛情確認に違いない。 どこまでのことが許されるのか、確かめているのかもしれない。 そして、自分が本当に愛されているのか、確かめているのであろう。 きっとそうだ!! 絶対にそうだ!!!! そして、おバカな眠り猫は、ホント、可愛い奴、となってしまいます。
お礼
ふむふむ。だいぶすすんでまいりました。 こんばんは ねこさん。ご回答をありがとうございます。 ◇ ~~~~~ ところで、わたしが飼っているこのインコ、普段は絶対に噛んだりしないのですが、餌を取り替えるなどするときには、時々、本気で指の甲を鋭いクチバシで血が滲むまで噛んだりします。 はて? はて?? はて??? う~ん、これは、おそらく、愛情確認に違いない。 どこまでのことが許されるのか、確かめているのかもしれない。 そして、自分が本当に愛されているのか、確かめているのであろう。 ~~~~~~~~ ☆ 《どこまでのことが許されるのか》 これを知ろうとして愛情表現もしくは相手の愛情確認のための表現がおこなわれる。 愛情から発していると一般にかつ基本的に言えると考えられる。 ただし その愛情確認のために表現をおこなうというときの手段が ひょっとすると――という意味は 相手の愛情が感じられず むしろ自分に対していぢわるをしていると思ってしまったときには―― やはり相手にもいぢわるをするかたちを採るかも知れない。 そういうかたちで 正負両様の向きの愛が表現されうる。 そしてそのとき 一般にその発動する時点にあっては――たぶんそれをアマエというのであろうと考えられ―― 愛なのだと考えられる。そこまではまだ よきほうの愛なのだと考えられる。 しかし負の向きの愛がおこなわれこれを受けたときには 相手における初めのキッカケとしての愛は受け留めつつも そのオコナイやその悪しき手段については そのことを指摘し やめさせるのがふつうである。 ◇ 「人間には共感をする能力・機能が脳に組み込まれているのだ」ということの科学的根拠の一つ としてのミラーニューロン ☆ 好意的なもしくはふつうの状態としてのマ(間)の取り方 そしてそういう意味での心的なヱクトル関係 これがまづ何よりも先に――つまり何か一定のオコナイをする前に 互いにただそこにいるという位置関係において―― そうだとすれば ミラーニューロンをつうじて感応されえて 互いにそれぞれ共感を得るようになる。 そしてこの共感反応は おそらく無分別・無邪気・無遠慮・無打算の心のさま(つまり アマエ)において 大きく生起するものだと考えられるかも知れない。 ミラーニューロンは 人間における作用として そうかんたんには 確認され得てはいないのですね。
お礼、ありがとうございます。論旨は分かったと思います。しかしお時間を頂きましたが、私はどうもよく分からないようです。実感が湧かないのです。私にとって愛情は、与えることでしか始まらないように思えるのです。甘えることから始まった愛情は、あまりない、というか、ないようです。 そうとなると、お前の両親との関係はどうだったのだと言われるかもしれませんが、うーん。両親は甘やかしてくれました。しかし成人し、私の方から両親に何かを与えてから、初めて愛情として認識できた。そんな風に思いますね。与えるまで、それを愛情と認識できなかったのです。ぶらじゅろんぬさんと逆のようですね。不思議なものです。 与えたものを受け止めてもらって初めて、私はそこに愛情があると思うようですね。もちろん、その与えるものが、見当はずれなものである可能性はあります。だからここには「甘え」があると言えば、そうなのかもしれません。しかし、何かおくれよ、とか、八つ当たりさせてくれよ(=場合によっては犯罪)、という類いの甘えとは、性質が異なるような気がするのです。 結局、問題は愛の捉え方いかんにかかっているのでしょう。経験が違えば、印象も違うのじゃないのかな。わからないのは、経験の違いに起因しそうです。まあ、こんな言い方をすれば、議論のすすめようが無いのかもしれませんが、私の方は手詰まりのようです。ご期待に添えないようです。すみません。
お礼
でぃーくべくさん こんにちは。愛に満ちた文章でのご回答をありがとうございます。 では個々に復唱もせずに全体としてお応えするかたちとなりますが: アマエ理論への――あさましい――未練からかも分からないですが こういま一度たずねさせてください。 ★ ~~~~~ うーん。両親は甘やかしてくれました。しかし成人し、私の方から両親に何かを与えてから、初めて愛情として認識できた。そんな風に思いますね。 ~~~~~~~~ ☆ ということは ご両親から差し出された具体的な生活じたいにおける《アマエ・ワールド》の中に(あるいは それ以上のアマエを許容していたとすれば その外にも)あって時を過ごしたという成人前の時代のこと これは どのように受け留められましたか? とお尋ねしたいと思います。 つまり わがアマエ理論によるならば 親御さんからのキッカケとしてのアマエ これを でぃーくべくさんが どのように受け取られたのか? ここに焦点があると考えます。 《親から提供されるかのように差し出されたアマエ――遠慮無し・無打算などのヱクトル関係――をどう受け留めたか?》 これだと思います。 いつだったか? と問えば 成人したあとご両親に贈り物などをした時点 でしょうか。 その時点において事後的にとしても 過去のアマエ関係の時代をどのように あらためて 受け留めたか? スルーしてもらってもいいのですが たぶん 理論の根幹にふれるやり取りになるかと思ったのですが。 そしてその《受け留め》において ほかのすべてのことがさらになお活きてくる とまで思われるのですが。・・・ 無遠慮に踏み込んだところがあったとしたら すみません。まえもって あやまりの言葉を申します。
- NemurinekoNya
- ベストアンサー率50% (540/1073)
おはようございます。 旧約のアベルとカインについての質問が出ています。 ヘブライ聖書における人間洞察 http://okwave.jp/qa/q8125777.html わたしは、 「旧約の神さまは血を欲しているのよ」みたいなことを書き込んでおきましたので、 よろしくお願いします。 イザヤ書や、新約聖書などで、これがどう克服されてゆくのか、書いてあげてください、 と、 わたしはbragelonneさんに思い切り《アマエ》ることにします(笑い)。 「神さまにバカにされた」「シカトされた」というのは、 カインの主観的判断であって、実はそうではないのだ、 みたいなことを書いてください(ペコリ)。 わたしが、一旦、書き始めると、絶対に旧約批判になっちゃいますので。
お礼
ご回答をありがとうございます。 むつかしい。のひとことです。 【Q:カインは なぜ・どこが わるかったのか?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7308621.html ここで問い求めをかなりの程度においてやったと思っていたのですが いま読み返してみて まだまだ練れていないなと感じています。 思案中です。 おっしゃるように ◇ イザヤ書や、新約聖書などで、これがどう克服されてゆくのか ◇ ~~~~ 「神さまにバカにされた」「シカトされた」というのは、 カインの主観的判断であって、実はそうではないのだ ~~~~~~~ ☆ このふたつの主題は 論点としても ひじょうに重要だと捉えています。 あぁ むつかしい。 ◇ わたしが、一旦、書き始めると、絶対に旧約批判になっちゃいますので。 ☆ そんなの 何ともないですよ。神をぼろくそに言っても だいじょうぶだとわたしは思っています。
補足
お礼欄へのおぎないです。 そこに引き合いに出しましたわたしの質問ですが その回答No.10氏(いまでは 名無し=退会になっているようです)の議論について 必ずしもわたしは論駁しえていないかも知れません。 No.10・12・14 の三つが その人の回答です。 ほかにも考えさせられる回答が寄せられています。よろしかったら どうぞ。
- 阿加井 凛悟(@neutral)
- ベストアンサー率29% (231/773)
あ、8番ですが、 8番はスルーしてくださいスルっと。 やっぱ「始まりはいつもアマエ」だわ。 立ち還りを繰り返しつつ生きるなら。 だれかに自分を丸投げっつーか。 http://www.youtube.com/watch?v=FkKYvzYPYto
お礼
つづいてです。 ★ ~~~~ やっぱ「始まりはいつもアマエ」だわ。 立ち還りを繰り返しつつ生きるなら。 ~~~~~~ ☆ 《立ち還り》というのは わたしがわたしであるそのわたしへの つねなる立ち還りだと思います。 なるほどそれと相まって 《キッカケとしてのアマエ》が出来ることになる。とは言えるようですね。 ええ。そして 確かにアマエは 《始まり》ないしキッカケとして捉えるのがよいと考えます。 あとにおける状態やその持続は 愛なる関係としてであると。
お礼
あらためまして こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ◇ ~~~~ 初期の段階では、親に打算は全くないと思いますよ。子供は宝物ですよ。 ですが、この宝物、自我が徐々に徐々に確立し、親のいうことを聞かなくなる。親の思ったように育ってくれない。 で、「昔はかわいかったのに」と言ったりする。 自己を完全に子供に投影できなくなっているからではないでしょうか。 ~~~~~~ ☆ これは 単純に言って それでもなお《自己を子どもに投影しようとしていて》 あぁ親の言うことを聞かない子だなぁと思うのではないでしょうか? ◇ ~~~~~ おもちゃ売り場で、床に仰向けに寝そべり、「買って買って」と駄々をこねる子供。 この時、親のとる行動は、大きく二つにわかれる。泣こうが喚こうが、無視を続け、子供に諦めさせる。あるいは、人目を気にして、仕方なく、子供におもちゃを買ってあげる。 どちらが、いいんでしょう(笑い)? でも、どちらも愛ゆえにということに、ひとまず、しておきます。 ~~~~~~~ ☆ わたしの考えるに たとえ子どもがまだ理屈が分からなくても 説明をして分からせる。つまり買ってやるにしろあきらめさせるにしろ 子が音を上げるまでそのいづれかの理由を説明しつづけます。 ◇ 愛しているのだけれども、親としての行動のトリ方がわからず、思わず手を挙げたりしてしまう。 ☆ という問題は ほとんどどの問題についても共通する根の深さがあるように思います。そしてそれは 無分別のアマエがつまり特にその自分自身における実体験の深い浅いが 反映しているのではないだろうか。 ◇ ~~~~ 無分別なるアマエは、他者への絶対的な信頼関係を土台としていると思います。 親からひどい虐待を受けた子供ですら、それでも懸命に親を愛しようとするそうです。ネグレクトされても、なお、かならず自分のところに帰ってくる、と信じているそうです。 ~~~~~~ ☆ これは いいお話ですね。自然本性の奥のそのまた奥のさらにその根の部分にそういったチカラとハタラキがあるとすれば たのもしいかぎりです。 ◇ ~~~~~ いろいろな話を聞くと、 理屈じゃないんですよね~、親に対する子供の絶対的な信頼というのは。 いや、それも《自分勝手な遺伝子》のなせるワザって話もあるんですが。。。 何か、書いてて、涙が出てきちゃった───眠り猫は涙もろいのでした(ポリポリ)───。 であるのと同時に、 他者に対して絶対的な信頼関係を築ける能力を、 誰もが有しているということの証明になるのではなかろうかと。 潜在的に持っているはずだ!! ~~~~~~~~ ☆ し ぜ ん ほ ん せ い!!!! 自分勝手にアマエを発揮するのでしょうよ。 ◇ ~~~~ 《自己愛かつ相手との同一視》は除外して欲しいですね。 《歪んだ自己愛に基づく打算的アマエ》とか。。。 ~~~~~~ ☆ これらはアマエとは別だと。分別盛りでしょうか。 かくして ◇ ~~~~~ う~ん、 大切なのは《無邪気なアマエ》、《聖なるアマエ》なんじゃないですか。 人間関係においては、他者、あるいは、他者への絶対的信頼という意味でです。 「人を見たら、泥棒と思え」じゃ~、世の中、世知辛くていけないと思います。 ~~~~~~~ ☆ そして そうしますと ひとつに 例のキムポットンさんらについては その言い分の内容がどうであれ もし無邪気に無分別にわれら日本人にアマエて来ているのならば そういう目と姿勢でまづは受け留めてやることが 最初の態度だとなるかも知れません。 かの国ではキリスト教がすごい勢いで普及していると言いますが どうも《梵我一如》類型なるその神を見失っているのではないか。と――論証抜きにですが――思えて来ました。つまりアマエがうしなわれてしまったところに何かその世の中の思潮がかたちづくられているのではないかと。 もうひとつに ユニクロなどの会社がブラック企業だとして批難されているという話題を先ごろからこのQ&Aで取り上げているのですが この問題についても同じような要因・原因としてアマエ問題が よこたわっているのではないか。 童心も まんざら捨てたものではないかも知れません。
補足
BA の判断基準についてですが: 《愛》を扱うからには そのいと高きところでは人間の能力と努力を超えた場のチカラがはたらくといったように捉えられるとすれば その限りで問いは懸案となります。 それでもその《非思考の庭》におけるチカラのはたらきについては 経験合理性にもとづく哲学の立ち場を保持してぎりぎりのところで触れていると思われる文章(判断)は 次のヘーゲルのものだと理解しています。《非思考の庭》は 《無限なもの》にかかわっています。 ▲ (ヘーゲル:法の哲学) ~~~~ 無限なものと 有限なものとの一体性・・・この矛盾・・・は どんな自然的なものも自分のなかにこれを持ってはいない ないしはこれを 我慢できないであろうが この矛盾を持ちこたえることができるのが 人格(――もしくは《時間》――)の高さである。 (『法の哲学』 §35追加。括弧内は引用者。) * 《人格》というと わたしにはむしろ語弊が生じるように思うので――道徳や倫理規範を議論しているというふうに誤解されるので―― 《わたしの時間の高さ》と言いかえました。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 言いかえると 《好悪・愛憎といった相対的な経験愛》と《好悪や愛憎などの相反するウゴキを全体として包み込む高い次元の愛》との《矛盾を持ちこたえることができる》という事態は 経験的なのではないか? つまり 高い次元の愛を人間は発揮することが出来ないが その愛に到り得ない人間の経験愛を超えようとする志向性は 人間にも経験行為として見られる。 言いかえると《懸案》を解決しようとする心の伸びを人は持つ。 この意味で 童心としてのアマエを推し出したいと思います。ゆえにこのご回答を BA とします。