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あまえはゴミクズでしかないか?
- アマエについて再度問います。土井健郎の『甘えの構造』によれば、親子の間に甘えが存在するのは当然のことであり、親子以外の関係でも甘えが働く場合は親子関係に準ずると考えられます。義理と人情の概念によって甘えを説明しています。
- 親子の間には遠慮がなく、それは親子が他人ではなく甘えに浸されているからです。一方、親子以外の人間関係では遠慮が増し、親しい関係ほど遠慮が減じます。人々は遠慮を好まない傾向がありますが、日本人は親子間の関係を望むとされています。
- アマエによって生まれる関係性は愛や共生の基盤となり得るのか、他人同士の関係においてもアマエは存在するのか、これらの問いについて考える必要があります。われわれはアマエを捨ててしまったのか、他の世界ではどうなのかも検討すべきです。
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うむむ、無条件、にですか。これは現実的には、人は信頼関係を徐々に形成するものであって、例えば出会ったその日から親友である、なんてことは稀にしかないわけです。 では、稀にあるのかと言うと、それはあると言わざるを得ないでしょう。出会ったその日から意気投合し、他人とは思えなかった、本音で付き合えた、なんてこともあるかもしれません。また、赤の他人でも危篤の時には助けを出す、そんなこともあり得るからです。 問題は、この、いざという時の友こそ真の友、とか、本音で付き合える、という処の友関係を、日常しかも一般に言うことが出来るか、と言う処だと思います。もしそれができればとても気持ちのいいことだと思うのですが、諸々のしがらみに掴まれている我々には、現実問題としては難しいでしょう。 しかし言うべきは、本来はそれが可能であると言うことでしょう。そうであるからこそ、このような話もできるのだから。 このような発想があると言うこと自体が、それ、つまり無条件の上での信頼関係が成り立つ可能性を示唆しているのだと私は見ます。これは身をもって実験する価値のあることですが、色々の立場を身につけてしまっている現実と言う虚構の中では、やはり簡単ではないでしょう。惜しい話です。 しかし、惜しいままにしたくないので、さらに一歩踏み込むならば、色々の現実をも、つまり酸いも甘いも、清濁を包含して、つまり、人の一般化された苦しみを理解して、しかも自分も相手も信頼している故に、慎みや勇気、尊敬などをもって、積極的かつマイルドに、言ってしまえば清く、人々と付き合うことができ得ると言えるでしょう。ここまで来ると、その人の人格はほぼ完成しつつあるのではないでしょうか。うーむ、興味深い話になって来ましたが、応答あるでしょうか。 アマテラス性をもちつつ、スサノヲの親しみ易さがあり、積極的でありつつも慎み深いという人間像が見えてきた気がします。
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- a_hona
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相手が取り合わない場合は、爽やかな忍耐というのを為すことができれば、問題は解決出来るように思えました。忍耐に苦しみの伴うことのない、信頼に基づく労を要さない忍耐であり、一見、関係の滞ったように見えても、実はうまく流れているような、そんな忍耐を思いました。
お礼
★ 爽やかな忍耐 ☆ ですか。 忍耐が必要ではないか? と言えば こたえは 必要である でしょうね。 ただ単に耐え忍べばよいというのではなく 《さわやかな》ということなのでしょうね。 ううん。――というのは それが アラシ屋さんにそのまま通じるのか? という分からなさが残らないかと言えば 正直言って 残ります。 おっと ご回答をありがとうございます。 ★ 忍耐に苦しみの伴うことのない、 ★ 信頼に基づく労を要さない忍耐であり、 ★ 一見、関係の滞ったように見えても、実はうまく流れているような、そんな忍耐 ☆ たぶん 飲み込みが百パーセントにまではまだ達していないところがあるとすれば これだけでは 相手のこと・相手の反応が分からない。からだと思います。 特に《信頼にもとづく》といったところなどはよいと思うのです。そしてそれでも その態度は こちらの態度であり振る舞いだけであるというふうにも考えられたりします。 これらの説明からすれば 忍耐が 前向きであってよいと思います。 なのですが それでもそこで 相手の応答は――《うまく流れているような》とありますけれど―― まだブラックボックスの中に入っているかのような 感じが残りますかねぇ。 もっとも 相手が無反応だとしても 忍耐が基本になるであろうことは 飲み込めますし そうならざるを得ないかと思います。対話を放棄しないとすれば そして放棄しないのですから そういった広い意味の忍耐になるかと思います。 受け留めて さらに考えてまいります。ありがとう。
一般に「甘え」というのは、相手が許すなら愛情の表現だし、甘えてもらっては、困るなら拒否、否定される 経済活動では、甘えの構造があると競争には負けるが、政官業癒着のように甘えっぱなしでも、おいしいものもある。
お礼
のーまーく30てぃーさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 No.2の あ_ほなさんとのやり取りで考えたのですが ・ アマエは 条件つきなのか? つまり 無条件におけるシンライカンケイであるのではないのか? なる問いをまづここでも思い浮かべました。 ★ 政官業癒着のように甘えっぱなしでも、おいしいものもある。 ☆ これは たぶん筋が違うように思います。なぜなら 親子のあいだで遠慮がないということは 一方でたしかに《人情》と言っているので 次のような結論をみちびくのは ゴウインであると見られるかも知れませんが 他方では 自分の考えをやはり遠慮なく述べ合う・またとことん議論しヨリよい答えを問い求める。ということをも伴なうと考えるからです。 《癒着》と《あまえ》とがひとしいか? という問いにもなるでしょうか。 癒着には 何かアマエとは違った別の人為的なものが入り込んでいるような感じを受けるのですが。 ★ 一般に「甘え」というのは、相手が許すなら愛情の表現だし ☆ という常識的な考えもありましょうし しかも親子の愛情やシンライカンケイであるなら 無条件に相手にあまえて行くこともありではないか。とも考えたりします。 たぶん ここで思ったのですが 現代人はすでに あまりにもアマエをふるいナラワシであり不合理であるとして もはや遠くに捨てて来たのではないか。全部を捨てる必要はなかったのではないか。・・・こういった控え目な主張もあるかも知れません。 ご議論をわたしはうまく伸ばし得ませんでしたが こんなふうに取り敢えず思いました。
- a_hona
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甘えを、信頼と置き換えることができるならば、それは無条件に成立する、高度な信頼だと思います。 極論すれば、世の中には詐欺師などもいますが、その深い人間足るところのものを信頼すると、詐欺師にもまた違った眼差しを向けることができます。そういう意味で信頼は甘えに通じる部分もあるかと思いました。従って、この論調でいくならば、甘えはゴミ屑どころか宝であるということになります。但し、どれだけ人間の深い処に通じ得るか、という条件によって、この甘えなる信頼の有効性は限定されていますが。 甘えを信頼と置き換えることが出来るならば、そこには忍耐や謙遜、思慮などの善いものが色々と付随するでしょう。そうすれば、スサノヲ的ナチュラルな人間関係にも、規律を超えた人間の規範になるような態度が現出し得、アマテラス性を内在したスサノヲ市民が生まれるのではないかと考えました。 中々勉強になる質問でした。
お礼
こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ 甘えを、信頼と置き換えることができるならば、それは無条件に成立する、高度な信頼だと思います。 ★ 但し、どれだけ人間の深い処に通じ得るか、という条件によって、この甘えなる信頼の有効性は限定されていますが。 ★ 甘えを信頼と置き換えることが出来るならば、そこには忍耐や謙遜、思慮などの善いものが色々と付随するでしょう。そうすれば、スサノヲ的ナチュラルな人間関係にも、規律を超えた人間の規範になるような態度が現出し得、アマテラス性を内在したスサノヲ市民が生まれるのではないかと考えました。 ☆ 常識かつ深い人間洞察にもとづくもっともなご議論であると受け取ります。スサノヲとアマテラスとの対照にも触れてもらいました。 ★ アマテラス性を内在したスサノヲ市民 ☆ これが 目指すべき人間像のひとつの表現であるとも考えます。 と受け取っているその上に なお型破りで破天荒な見方を提出します。 ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~~~~~ (あ) 親子だけは無条件に他人ではない。 ・・・ (う) 親子の間に《甘え》が存するのは至極当然なことである。 ・・・ (き) ・・・この場合子供が親に対して遠慮がないばかりでなく 親も子供に対して遠慮はしない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ というように アマエは 無条件なるシンライカンケイであるという命題を提出したいと思います。但し書きをしない無条件にてだという見方です。 すなわち 赤ちゃんが母親に対して採る態度そのものです。母親のおっぱいが毒であるかどうかには頓着することなく あまえて行きます。 ですから――よい側面のみを見ていると突っ込まれるかと思いますが―― よく言えば 《聖なるアマエ》が成立するかも知れません。 (あまり触れたくありませんが 慈悲でも 無縁慈悲の境地につながりますね)。 ★ そうすれば、スサノヲ的ナチュラルな人間関係にも、規律を超えた人間の規範になるような態度が現出し得 ☆ という姿が 無条件にてだという見方です。 すなわち・すなわち あんがい現実的な話なのであって いくぶん皮肉交じりにもなりますが 要するに韓国や中国が 合理的な思考を超えて自分たちの要求をそれぞれ突きつけてくるのは 何はともあれ 《あまえ》なのではないか? といった問いが この議論につづいて持たれる。こう思います。そういった要求の突きつけに対して どう捉えどう扱うかといった問題になるかと考えたものです。 そのとき一瞬は ★ そこには忍耐や謙遜、思慮などの善いものが色々と付随する ☆ ことが なかなか大変であり むつかしいように思うからです。 果たして ★ 極論すれば、世の中には詐欺師などもいますが ☆ というように もっともな議論が 但し書きとして付くのが ほんとうなのか? こういう議論になると思ったからです。
- U_Sugishita
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質問者の弁を借りるならば、このサイトに依存して稚拙な投稿を繰り返すのは、あきらかな「アマエ」であり、ゴミクズということになりますね。自己紹介お疲れ様です。
お礼
そういった見方なのですね。残念ながら。 ともあれ ご回答をありがとうございます。 ★ 稚拙な投稿 ☆ この《稚拙さ》は どのように・たとえばどの文章や見解についてそう判断なさいましたか? このひとつの問いとその答えが ご回答内容の当否をすべて決めるのではないでしょうか。 ★ サイトに依存して ☆ いるかどうかは 投稿内容がいかにあるかで決まって来ましょう。 と考えるならば それについて何ら触れ得ないまま こうやって投稿しているというのは ★ あきらかな「アマエ」であり、ゴミクズということになりますね。自己紹介お疲れ様です。 さてこのアマエに対して どう振る舞うか? 回答者さんの弁を借りるならば すでに切れているものを 引き戻すこともむつかしいでしょうか。と述べて 再訪を俟ち そのときの文章内容によって判断することとします。あしからず。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ これは身をもって実験する価値のあることですが、色々の立場を身につけてしまっている現実と言う虚構の中では、やはり簡単ではないでしょう。惜しい話です。 ☆ ここまでは カザリ≒シガラミをつけたクリスマス・ツリーですね。まぁ 大ざっぱに言えば。 ★ しかし、惜しいままにしたくないので、さらに一歩踏み込むならば、色々の現実をも、つまり酸いも甘いも、清濁を包含して、つまり、人の一般化された苦しみを理解して、しかも自分も相手も信頼している故に、慎みや勇気、尊敬などをもって、積極的かつマイルドに、言ってしまえば清く、人々と付き合うことができ得ると言えるでしょう。 ☆ その想像力たるや――上目からの目線になるのかも知れませんが―― よしですね。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~ ここまで来ると、その人の人格はほぼ完成しつつあるのではないでしょうか。うーむ、興味深い話になって来ましたが、応答あるでしょうか。 アマテラス性をもちつつ、スサノヲの親しみ易さがあり、積極的でありつつも慎み深いという人間像が見えてきた気がします。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ おおお! ですね。 ただ たとえばの一つに 相手がすでにプッツンとなっていて切れている場合は 困りものです。 アラシというのには 困りものです。よわります。・・・