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歴史は勝者によって書かれる
敵対した勢力を悪者にするとか、勝者にとって都合の悪いことは歪曲して書くとか、あるいは無視するとか、「正史」にはこのような個所が随所にある、ということをたびたび聞きました。 「日本書紀」についてはある程度のことは分かりましたが、「続日本紀」や「日本後紀」にもそのような個所がありますか。 2,3行でよいですから典型的な例を教えてください。 よろしくお願いします。
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『続日本紀』・・・藤原種継暗殺事件、早良親王廃太子事件の削除
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- izuhara
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重ねての回答となり申し訳ありません。 >>『続日本紀』・・・藤原種継暗殺事件、早良親王廃太子事件の削除 > これでは藤原種継暗殺事件が『続紀』に記載されていない、との印象を受けます。この点に関して、「件の経緯は『続紀』にも記述がある」との指摘を当方は史料に基づいて説明しただけです。 No.3の回答にも申し上げましたように、語弊がありました。仰るように、暗殺事件が記載されていないような印象を招く表現でした。失礼致しました。 正確に表現するならば「藤原種継暗殺事件に関する記事、早良親王廃太子事件の記事の削除」とすべきでした。 >>ただ先の回答は、そのような暗殺事件の記述そのものの有無ではなく、暗殺事件を記した記事が削除されていることを踏まえて回答したものです。 >以上のお答えをなさっていますが、これは当方の回答趣旨とは異なる問題です。(以下略) 質問の趣旨は、「続日本紀」や「日本後紀」に編纂者の恣意的な記述姿勢があったかどうか、という事実関係の有無であり、それ以上のことは求めていないようでしたので、簡潔に回答しました。 No.2・4の回答者の方の回答趣旨は十分に理解しておりますし、その内容に異論もないことを申し添えておきます。あえて私見を述べるのであれば、質問の意図からあまりに飛躍・乖離しているのではないかと思う次第です。
お礼
ご回答ありがとうございます。 私は、これまでいっぱい質問してきましたが、お二人からは、たびたび丁寧な回答を頂き感謝しております。 今回は正直なところ、ヒントだけでよかったのですが、そうは言うものの詳しい回答を頂けるのに越したことはありません。 自分なりに解釈して、「続日本紀」の解説本を読んでみます。
- TANUHACHI
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質問者様ならびに他の回答者様にいささかの誤解を生じさせてしまった模様ですので、それに対する回答ならびに補足です。 前回♯1の回答者は次の答を寄せました。 >『続日本紀』・・・藤原種継暗殺事件、早良親王廃太子事件の削除 これでは藤原種継暗殺事件が『続紀』に記載されていない、との印象を受けます。この点に関して、「件の経緯は『続紀』にも記述がある」との指摘を当方は史料に基づいて説明しただけです。 >藤原種継の死亡年齢 これは単純な引用ミスでした。お詫びして訂正致します。なお当方の引用元は『国史大系本』であり、ご指摘されている『新日本古典体系本』でも確認したところでは「四十九」と記されています。 >ただ先の回答は、そのような暗殺事件の記述そのものの有無ではなく、暗殺事件を記した記事が削除されていることを踏まえて回答したものです。 以上のお答えをなさっていますが、これは当方の回答趣旨とは異なる問題です。 当方が前回の回答趣旨としたのは、公的史料の性格が「政敵を排除する目的での作為的な削除や改竄を意図する」との短絡的なレベルに矮小化されるべきではないとの意味です。 1および3の回答者は『日本紀略』にみえる藤原種継と早良親王の確執に照準をあてて、『続紀』の史料的脆弱性の根拠とされていますが、ではそうした確執をなぜ『日本紀略』では殊更に採り上げているのかとの疑問も生じます。このことを僕は問題視しています。 この背景にあるのは、この史書の編纂者による可能性が多分にある、との指摘が石井正敏氏の省察によって提起されています(『国史大系書目解題 下巻』277ページ)。 早良親王の一件が桓武天皇の時期に削除され、平城天皇の時期に復活し、嵯峨天皇の時期に再び削除されるとの異常な経過を辿った背景にあるのは、光仁天皇即位前紀にみえる藤原百川伝の引用とあいまって、編者が藤原式家にゆかりのある人物ではないかと推測があります。『日本紀略』の編者と成立時期は当史料の本文および諸写本全ての奥書ならびに識語にも全く記されてもいません。 また同書の前編部分は六国史の抄出との性質から、これを十分信用に値するとする見解(柳宏吉氏)もある一方で、そうした見解の持つ欠陥も指摘されています。 前述の石井氏に依れば、 (1)文字・文章を改めている事例 (2)単純な誤脱・錯簡の事例 (3)合致する事例 (4)原文を誤解した抄録、もしくは誤解を招く抄出の事例 (5)係られた日付とそこに記された出来事の実際に起こった日が違う例 との幾つものパターンが紹介されてもいます。こうした部分から『日本紀略』も他の史料と同様、取扱注意の原則に従わざるを得ないとの結論に至ります。 現時点での、日本古代史の到達点としては藤原種継の暗殺と早良親王を首魁とする派閥の対立が関連づけられて説明され、僕自身も一応はそれを支持していますが、仮に今後新資料の発見がなされたならば、この見解にも再びメスが加えられることだけは確かです。その時には「なぜこの一件が公的史料であれほどの扱いになったのか」を改めて問う必要があるでしょう。 「史料」には絶対的に正しいなどの裏付けもありません。編者や識者が「その事象をどう見たか」によってスタンスも180度の様変わりを見せます。ですから現代の我々が史料に接する時にはあくまでも「相対的な材料」として冷静に見ることが肝要であるとの僕の結論に変わりはありません。 Aという史料にはこう記されているが、Bという史料には記述がないという場合、には少なくとも二つの問題が生じます。一つは「あったのに書かなかった」もう一つは「その事実はなかった。だから書かなかった」です。二つの問題の間には「意図としての温度差」に天地ほどの違いもあります。何れであるかを知るには、AおよびB以外の材料を集めて、一見遠いところに見えることから問題を組み立て直さねばなりません。
お礼
ご回答ありがとうございます。 私は、これまでいっぱい質問してきましたが、お二人からは、たびたび丁寧な回答を頂き感謝しております。 今回は正直なところ、ヒントだけでよかったのですが、そうは言うものの詳しい回答を頂けるのに越したことはありません。 自分なりに解釈して、「続日本紀」の解説本を読んでみます。
- izuhara
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NO.1です。種継暗殺事件の削除について否定の回答がありましたので補足します。 質問者さんが調べられることでしょうが、無責任な回答をしたわけでないこと示すために再回答しました。長文となりすみません。 まず、引用されている『続日本紀』の記載は、延暦4年9月24日(丙辰)条の記事ですが、これは「種継が警備中に負傷し、翌日死亡した」(なお、管見の限り刊本では種継の年は四十九と記載されています。)ことを示すもので、これを暗殺事件を示す記事と理解できるのかという問題があります。襲撃されたとはどこにも書いていません。もっとも、前日23日(乙卯)条には「種継が賊に射られて死んだ」との記載がありますので、暗殺事件を記述していることは間違いありません。この点先の回答に語弊がありました。 ただ先の回答は、そのような暗殺事件の記述そのものの有無ではなく、暗殺事件を記した記事が削除されていることを踏まえて回答したものです。 よく知られているように、『続日本紀』の記事を抜粋した『日本紀略』には、引用文は28日(庚申)条に記載されており、23日(乙卯)条には「種継が賊に襲われ二つの矢が身体を貫いた」との記載が、24日(丙辰)条には「種継が死に、賊を捕らえるよう詔勅があり、大伴竹良らが捕縛され処罰された」との記載があります。ちなみに28日(庚申)条には早良親王の廃太子から死に至る記事があります。現在残る『続日本紀』にはこれらの記事はありません。これは政治的理由で削除(『続日本紀』は、桓武が自分の治世の歴史まで編纂させたという余り類を見ない特徴を持っています)されたものと考えられています。 もちろん、この理解が近年の研究によって覆されているならば、話は別です。もとより専門外ですので、是非ご教示いただきたいと思います。
お礼
種継暗殺事件について再度の回答を頂き、しかも詳しく教えて下さってありがとうございます。 何しろ基礎知識がないのでまだ理解できませんが、ポイントを絞って調べる楽しみができました。
- TANUHACHI
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このご質問の趣旨ですが、「歴史評価」はどの様にして行われているかとの問題と密接にリンクしている性質の問題です。質問者様のプロフィールから想像するところでは、戦前・戦中の「国史」の記述と現在の「日本史」教科書の記述に相当の違いがあることで、時によっては違和感を感じられていることとも存じます。 「建武親政」と「室町幕府」の関係に例を求めるならば、戦前や戦中での「足利尊氏」に関する評価は、専ら「逆賊」とされていますが、現在では武家政権の再構築を求めたと人物として評価されています。180度逆の評価です。 史実としての南北朝内乱を記した史書にも、北朝のスタンスで記された『梅松論』もあれば、南朝を支持する『神皇正統記』もあります。 もし質問者様が指摘されるように「公的史書」だけがその時代を映し出しているとお考えならば、中世には『吾妻鏡』以外の史書は存在しないことになります。けれども実際には幾多の史書があることも事実です。それらは民間人が遺したことで「野史」もしくは「稗史」などと呼ばれます。実際の中世史研究では正史と正史以外の諸史料を擦り合わせることで、一つの事象を確定していきます。気の遠くなるような作業です。 話は横道にそれましたが、『六国史』殊に『続紀』の扱う範囲は日本が「国家としての体裁を整える段階」であり、その正当性を裏付けることを意識して書かれた側面も多々みられます。 ここで勘違いしないでいただきたいのは「国家としての枠組みとそれを支える諸制度」が公的史書としての『続紀』の価値を示す指標であるとのことであり、その他の物語は捨象して考えても差し支えなどないとのことです。 「藤原種継暗殺事件」ですが、『続紀』延暦四年九月の条には以下の記述が見えます。引用してみます。 「至於行幸平城。太子及右大臣藤原朝臣是公。中納言種継等。並為留守。照炬催𢮦(検)。燭下被傷。明日薨於第。時年四十。」桓武天皇が行幸している間、太子および藤原是公そして中納言種継は留守を預かるところとなった。そしてかがり火を焚いて警備をしていたが、何者からかの夜襲を受けて負傷し翌日に屋敷で没した。その年は四十歳だった、との記述はあります。決して「削除」はされてもいません。 また『続紀』が王権の正当な継承者としての天皇家および権力者としての藤原氏の正当性を裏付ける目的で編纂されたならば、藤原氏の家門に属する人物の訃報を削除する意味がわかりません。 誰それと誰それが敵対関係にあり、その両者の確執により一方が権力から排除されたとの「史実」と「史書がそれを記載しているかどうか」は別問題です。 歴史を人物と人物の抗争関係で物語のようにとらえることは「基 本 的 に 誤 り」です。歴史学者それも戦後歴史学の流れを汲む研究者による論文をお読みになることをお勧めします。
お礼
丁寧なご回答ありがとうございます。 あまり難しいことは分かりませんが、平たく言えば「日本書紀」にはウソもマチガイもあるそうです。 それなら、「続日本紀」や「日本後紀」にもあるのではないか、くらいの考えで質問しました。 何が分からないのか、何を聞きたいのかを、もっと端的に質問しておけばよかった、と反省しています。 歴史を勉強する上での基本的な心構えについてはよく解りました 感謝します。
お礼
早速のご回答ありがとうございます。 これだけで十分です。 これをヒントに調べてみます。