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江戸時代、幕府または藩が公金を貸付ける制度。
武士は、市中の金貸しや懇意の商人から借金していましたが、幕府または藩から借金できる制度はありましたか。 災害の被害が甚大な場合、藩が幕府から何らかの措置を講じてもらっていますが、このよな幕府と藩の関係ではなく、武士個人が借金する場合です。 よろしくお願いします。
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講談社現代新書の山本博文著「参勤交代」に関連する記述があります。 第四章「参勤交代と藩財政」の中の「藩士への拝御貸銀」(P160)に次のようにあります。 加賀藩士有澤九八郎の『御参勤御供被仰付留』(金沢市立図書館所蔵)には、「会所方拝御貸銀」借用のことが出ている。弘化二年(1845)二月のことで、拝借銀高は五百目、これを十五ヵ年賦で借用している。利子は1ヵ月百目につき五分ずつで、毎年七月に返済することになっている。 この貸金は、藩士の知行当たりいくらと決めて許されるものだった。‐略‐ そして、有澤の場合、この五百目では足りず、「会所方拝御貸銀知行当り之外過借」を願い、知行百石につき無利子で二十五匁の拝借を許されている。‐略‐ また、申年(嘉永元年=一八四八か)二月、有澤は、同僚三人とともに「御表拝借願」を提出している。 以上のことから、加賀藩では最低「会所方拝御貸銀」・「会所方拝御貸銀知行当り之外過借」・「御表拝借」の三種類の貸付制度があったことになります。このような藩が藩士に対して貸付をする制度は加賀藩に限らず存在します。特に、藩財政が厳しくなり、藩士から借上(俸禄の一部を藩が借りるという名目で実質的に俸給カットを実施。半知‐俸禄の半分カットなどもあります。)を実施するようになると、反対給付のように貸付制度が整備される傾向があります。 上記の史料は手近にあったものですが、同じ加賀藩の例としては「武士の家計簿」、尾張藩の例としては「元禄御畳奉行」にも借用金に関する記述があったと思います。借上と貸付制度の整備の関しては専門書に出ていたと思いますが、具体的な論文名が浮かびません。悪しからず。また、貸付制度については歴史小説にも登場することがあります。 以上、参考まで。
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- 川原 文月(@bungetsu)
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こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>幕府または藩から借金できる制度はありましたか。 回答から先に述べますと、「ありませんでした」。 そうでなくても、幕府も諸藩も赤字続きで、 幕府では、銭の改鋳などをして、金や銀を取出し、新たな粗悪な小判や銀貨にして凌いでいました。 従って、明暦の大火で千代田城の天守閣が焼失してしまいましたが、財政難のため再建されませんでした。 [江戸時代、江戸城とは言わず、正式には、千代田城、または、舞鶴城(ぶかくじょう)と呼び、庶民はただ単に「お城」と呼んでいました]。 また、諸藩では、「藩債」などを発行し、庶民から金集めなどをしました。 では、災害などの復旧は・・・と、言うと、 例えば、河川改修などでは、藩も多少は資金を提供しましたが、多くの場合、村の庄屋などが自腹で資金を出して復興にあたりました。 ですから、良く歴史に出てくるような「義民」、「善民」と呼ばれる人たちが輩出されたのです。 結論: 幕府も諸藩も財政赤字でしたので、家臣(武士)が困窮していても、幕府や藩から借用するような制度は存在しませんでした。
お礼
ご回答ありがとうございます。 やっぱり、そんな制度はなかったのですね。 260を超える諸藩の中には、そんな制度もあったのではないか、と思って質問しました。
お礼
加賀藩の具体例を教えて下さってありがとうございます。 なるほど、そうですよね。 町の金貸しが儲けているのですから、財政の苦しい藩が“金融”に目をつけても不思議ではないですね。 『参勤交代』などの3冊は全て読みましたが、「借金」に注目して読んだのではないので、全く気付きませんでした。 「会所」に着目して検索したら、「貸金会所」がありました。 幕府の公金貸付機関で、旗本・御家人に貸し付けることもあったようです。 よいヒントを頂いたお陰でいろいろ調べる目処がつきました。