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江戸時代の鎖国について教えてください。
江戸時代、日本は鎖国制度で貿易制限をしており、外国人の国内での活動も大きく制限されていました。 ところで、日本人はどうだったのでしょうか。出島などの外国船に乗り込んでオランダなどのヨーロッパに入国した者もいたと思います。もちろん帰国すれば死罪でしょうが、移住覚悟で出国はできたと思います。 また、ヨーロッパでも日本でも需要はあったと思います。ヨーロッパの機械や、医学について、国内での研究にあきたらず出国した者もいたと思います。また、ヨーロッパの技術も、日本の技術も、相互に大きなメリットがあり、金儲けに目敏い日本の武士や商人が何もしなかったとは思えません。幕府自体でも、表向きは禁制として取り締まりながら、秘密裏に使者を送って技術や情報を得ていたものと思います。 こういった記録は歴史上ないのでしょうか。 質問1. ヨーロッパ・米国・中国側での日本との貿易・移民に関する記録はありますか。日本の資料でも、ヨーロッパや米国側の資料でもかまいません。 質問2.日本国内では外国人の活動は制限されましたが、東南アジアの日本人町やヨーロッパ・中国・米国では、日本人は活動に制限はありましたか(私は、安土桃山時代の東南アジアの日本人町のようなものが、小規模ながらヨーロッパにあったのではないかと思います)。 以上です。
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こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>質問1. ヨーロッパ・米国・中国側での日本との貿易・移民に関する記録はありますか。日本の資料でも、ヨーロッパや米国側の資料でもかまいません。 「鎖国」と聞くと、まずは、長崎の出島だけでの交易が思い描かれると思いますが、「四口(よつのくち)」と呼ばれる方法で、鎖国時代(江戸時代)でも、海外との交易の路は開かれていました。 1.中国から琉球へ、そして、薩摩藩を通じて幕府への路。 2.中国から朝鮮へ、そして、対馬を通じて幕府への路。 3.中国やオランダから長崎(出島)へ、そして、幕府への路。 これが、一般的に知られる鎖国時代の正規のルートと、多くの人に知られている路です。 4.蝦夷地(アイヌ)から松前藩を通じて幕府への路。 しかし、日本人の移民は、明治や大正時代のように、例えば、ブラジルへの集団移民等はありませんが、1人2人ぐらいの朝鮮や香港などへの移民はありました。 また、当時は、当然、海路しか方法がありませんので、船の調達が困難で、しかも、莫大な費用がかかりましたので、小船で何とかたどり着ける範囲で、誰でも行けた、と、言うわけではありません。 >>質問2.日本国内では外国人の活動は制限されましたが、東南アジアの日本人町やヨーロッパ・中国・米国では、日本人は活動に制限はありましたか(私は、安土桃山時代の東南アジアの日本人町のようなものが、小規模ながらヨーロッパにあったのではないかと思います)。 香港、マカオあたりには、数人の日本人が移住をし、いわゆる「日本町」を作ったりしましたが、寛永12年(1635)に幕府は「日本人の海外渡航と帰国の禁止令」をだしましたので、それ以後も、密航した者もいるかとは思いますが、公にはできませんでしたので、そうした記録は「闇に葬られて」しまいました。 (よもやま話) これまでの考え方:(通説) (1)「神の下では、万民が平等」という教えが、徳川幕府を頂点とした「封建社会の秩序」を乱しかねない。などの理由が挙げられていますが、戦国時代あたりから日本に「布教活動」を活発に行い始めたのは、主に、イギリスやポルトガル、スペインを中心としたキリスト教の中でも、カトリック系の宣教師たちであった。 (2)そして、確かに、私たちは、学校教育などの現場で「キリスト教徒」の進出に恐れて、日本が植民地化されるのではないか、と言う「懸念」から「鎖国」をした・・・と、習ってきましたね。 (3)しかし、長崎の出島においてはオランダとの交易は「許可」をした。 これには、オランダも植民地化を推進する国ではありましたが、一言で言うと、日本から「輸入」する「産物」が乏しかった。つまり、東インド会社などのように、当時、ヨーロッパが欲しがるような「香辛料」などは、日本の風土の中では、全くなかった。 さらに、金銀などにしても、当時は「銀」が主な流通貨幣でしたが、メキシコにおいて銀山の開発が本格化して、大量に輸出されたため、「黄金の国ジパング」とは言われても、その産出量は比較にならないほど少なかったためにスペインはいち早くメキシコとの交易に転じた。 なお、当時の日本の「銀」の産出は「石見銀山」が世界市場でも2%位を占めていたといわれています。 そして、オランダはキリスト教の中でもプロテスタント系が多く、東インド会社を巡っては、オランダはイギリスに勝利をしイギリスは排除され、日本からも撤退せざるを得なかった。しかし、すでに、日本が戦国時代頃から布教がされていたカトリック系をプロテスタント系に改宗せよ、と言っても、すでに根付いてしまったものを覆すことは、非常に困難であり、無理だと考え、布教活動に対する「魅力」は何もなかった。 (4)そこで、布教活動をするよりも、交易による利権に目を向けた。 もう一つの考え方:(日本側) (1)どのような国の支配者たちも、自らの権力の「維持」「強化」を目指すものであり、海外との交渉で諸問題が発生するよりも、「閉ざされた社会」の方が「管理」をしやすい。 (2)当時の諸外国と言えども、中国や朝鮮でも同様に「閉ざされた社会」であり、例えば、明にしても、朝貢以外を排除し、中国人の海外渡航を禁止している。 (3)幕府としては、「開国」することにより、日本の諸藩が貿易による「財力」や「兵力」の拡大を強く恐れた。 (4)ただし、こうなると、諸外国の「情勢」が何も見えなくなって、いわゆる、「独裁国家」になるため、幕府権力だけでは日本を「独裁的」に統治する力は、まだ「完全」とは言えず、とは言っても、幕府権力という独裁的立場を確立するために、「布教活動をしない」という約束のもとで、長崎の出島のみでのオランダとの交易を許可した。 そこには、日本の諸藩を介入させず、幕府だけが「富」と「情報」を独占するためであった。 しかし、幕府の力が、まだまだ弱いことを印象付けたのは、寛永14年(1637)10月25日より発生した「島原の乱」では、幕府軍は苦戦をし、オランダに依頼をして、海上から原城への砲撃をさせています。 (5)「鎖国」をする・・・と、言うことは、とりもなおさず、国家の中だけで「自給自足」をすることになるわけですが、秀吉の頃からは、日本国内でも「灌漑」「治水」事業が発達して「新田開発」なども盛んになった、また、「農業技術」や「農機具の発明」などで徳川幕府としては、「国内生産」「国内消費」だけでも統治できる・・・と、考え「鎖国」に踏み切った。 (6)やがて、幕府権力も充実してくると、海外との戦いでも、必ずしも「最新の兵器」だけで勝てるわけもなく、「兵力数」や「食料の補給路」で、さらには、戦国時代としう戦いにおいての「戦略」や「戦闘技術」では、幕府は諸外国に対抗できる・・・と、考えた。 これには、秀吉が朝鮮出兵で「補給路」を絶たれて敗北した経験が、そうした考えとなった。 従って、徳川幕府としては、「鎖国」をすると同時に「海外進出」には一切目を向けていない。 寛永12年(1672)6月25日、幕府評定所の話し合いで酒井忠勝は、 「我々は、他の人の奉仕を受けることができるかぎり、日本の船を国外に渡航させる必要はない」 との諮問が出されている。 (7)幕府は、一気に「鎖国」をしたわけではなく、徐々に発令していった。 *慶長17年(1612)、キリスト教禁止令を出す。 *寛永10年(1633)、奉書船(渡航が許可された船)以外の海外渡航を禁止。 *寛永12年(1635)、日本人の海外渡航と帰国を禁止。 *寛永14年(1637)、島原の乱。 *寛永16年(1639)、ポルトガル船の来航を禁止。 *寛永18年(1641)、オランダ商館を平戸から長崎の出島へ移転。 「鎖国」という言葉について: (1)ドイツ人のエンゲルベルト・ケンペルが江戸旅行をして、帰国後に書いた「日本史」(1712刊)の中にある、 「日本国において自国人の出国、外国人の入国を禁じ、また、此国の世界諸国との交通を禁止するにきわめて当然なる理」 と、いう一文を、蘭学者である志筑忠雄(しづきただお)が享和元年(1801)「鎖国論」において初めて使用した「造語」である。 (2)しかし、嘉永2年(1849)に成立した「徳川実記」では、寛永12年(1635)の措置を「海禁」と書かれている。 (3)近年、「鎖国」という言葉は、研究者の間でも使われなくなってきており、学校の教科書などでも、山川出版「新日本史」では、本文中には一切「鎖国」という文字は出てきていない。 (4)著者の東大教授藤田覚氏によると、 「幕府は、最初から鎖国を意図したわけではない。その状態が、たまたま200年ほど続いたから『なんとなく鎖国』だった」 と、考えた方が自然ではないか・・・とコメントしている。 少しでも、あなたのお役に立てば・・・。
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山田長政の例でみられるように鎖国政策は棄民政策になってしまい、かわいそうにも漂流民でさえ帰りにくい国になりました。しかし、日本人は無宗教に近いので日本人街が長く残ることなく、地元に溶け込みます。 「郷に入らば郷に従え」を字でいくいき方で、海外でも大きな問題を起こしていません。 アメリカの排日運動も一種の人種差別だし、中国の排日運動はあまりに領土的に貪欲な日本の要求によるものです。
幕府は海外情報ルートを持っていました。 言わずもがなのこと、オランダです。 朝鮮通信使13回、琉球使節18回に比べてきわだって多い166回の、 オランダ商館長(カピタン)による江戸参府は、 独占的対日貿易の許可継続のお礼としておこなわれたのですが、 幕府は、このカピタンに、 風説書(ふうせつがき)による情報の提供を義務づけていました。 渡辺崋山の海外知識の一端も、入手した風説書からのものでした。 カピタンの江戸での宿舎はオランダ宿の長崎屋。 この長崎屋は洋書の販売もおこなっていたのですが、 その所有冊数は、17280! 明治になってそれら洋書は開成所の所有するところとなりました。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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幕政から幕末まで、薩摩藩などの潤沢な財源は外国貿易であるとのことです。 江戸の大名屋敷などの跡地を発掘すると、遠く欧州などからの輸入品がたくさん出てくるそうです。 キリシタンと外国政権の差し止めはしていても、結構文化や文物の行き来はあったようです。 鎖国というのは全面的に、禁止していたというのとは、必ずしも違うのだということを、自治体の文化講演会でも伺いましたが。 この鎖国問題だけではなく、歴史の言い方は、ずいぶんと訂正が多いのではないでしょうか。