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幕府・藩の財政と米や税金
- 幕府・藩の財政において米は重要な資源となっており、農民は生産米の半分を年貢として納めていました。また、野菜や茶などの農産物についても年貢として納められていたと考えられます。
- 武士は納められた米を換金したり、物々交換によって必要なものを手に入れる生活をしていました。武士階級の中でも貧しかった者も存在し、奥さんは内職をして家計を助けることもありました。
- 金や銀の生産は幕府や藩の直轄で行われていたと考えられます。
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(1)米以外の農産物に関しては、小年貢、小物成などとよばれる税がありました。 何でもかんでもということではなく、その地方地方で財源として充分な税収が確保できる作物に対して課税していましたので、品目も税率も各大名領で異なっていました。 同一の作物である米のように一律に何割であった、と言い切ることができません。 漁民や狩猟業者に関するご質問がありますが、江戸時代の身分制度と課税制度の基本をご理解下さい。 まず百姓という身分呼称は、城下町以外の村落に居住していた人達の総称とお考え下さい。 農業従事者に限られた呼称ではありません。 つまり漁師も猟師も百姓という身分階級に属していたということです。 村落で農機具や什器、家具などを作っていた人達いわゆる職人も百姓という身分に属していました。 村落で商い、つまり定住して商店などを営んでいた人たちいわゆる商人も百姓という身分に属していました。 (士農工商などという区分は何処にも存在していなかったということです) 課税に当たって現在のように個人の財産や所得に対して課税するという考え方は採用されていませんでした。 年貢などというものは、あくまでも村落に対する課税です。 四公六民などというのも、村落の総生産高の四割を年貢として徴集するということです。 上記の米以外の作物に対する課税も同じです。 江戸時代の村落と言いますのは、百姓の自治組織によって運営されていました。 領主からの課税命令もこの自治組織の長に対して下されていました。 代官と呼ばれる末端官僚がこの命令と言いますか、その年の徴収額を、庄屋、名主などと呼ばれる村落の自治組織の長に提示するだけでした。 村落内の百姓は土地の所有の有無や面積の多寡で細かく階級として制度化されていました。 土地を所有していて一定量の収穫を見込むことができる階層を本百姓と呼びました。 この本百姓達が、村落に課税された年貢を収穫量や所有地の面積に応じて分担して負担していました。 この年貢を負担していた本百姓だけが自治組織の運営に携わることができました。 武家と公式に話をすることができたのもこの人達だけでした。 つまり現代でいう市民権を持っていたのは本百姓と呼ばれる階級の人達だけだったということです。 年貢を負担していない人は水呑、小作などと呼ばれました。 水呑百姓というのは蔑称ではありません、正式な階級呼称です。 江戸時代の課税には物納のや金納の他に役務の提供がありました。 本百姓はこの役務の負担を嫌い、水呑百姓や小作に負担させました。 歴史マニアの間で一揆などという騒動がよく話題になりますが、その大半はこの村落内での身分階級間での争議でした。 (2)領内で集められた米は、大阪で現金に交換されました。 幕臣および幕府領のものは江戸で現金と交換されました。 各大名は江戸屋敷を所有していましたので、この江戸屋敷の経費を捻出するのに必要な米は江戸へ送られました。 この交換作業は実際には専門の商人が請け負っていました。 大阪では単に米問屋、江戸では札差と呼ばれていました。 幕府から営業許可書を取得した300軒~400軒程度の極めて独占的な立場の人達でした。 この営業許可書が株と呼ばれました。 現在の株券の語源です。 各大名は各々特定の問屋にのみ交換を依頼していました。 米問屋や札差は入手した米を都市で生活する庶民に商品として販売していました。 幕臣は給与を幕府から受け取るのではなく、各担当の札差の店へ出向いて現金と食糧として必要な米を受け取っていました。 この米と現金の交換比率はあくまでも商人同士の相場で決められていました。 つまり武家の現金収入というのは商人の米相場によって毎年変わっていました。 (3)主要な金銀などの鉱山は関ヶ原の直後に全て徳川家の領地とされました。 つまり主要鉱山は全て天領だったとお考え頂いても差し支えはありません。 (4)都市の商人も村落の百姓と全く同じ自治組織を構成していて課税なども村落と全く同じ制度が適用されていました。 公式の場で町人として武家と話ができるのも、百姓同様に租税を納入している人達だけでした TVの時代劇でお白洲に必ず家主さんが同席するのはこの制度を表しています。 TVの時代劇に出てくる悪徳商人による賄賂というのは、現代風にアレンジされたものです。 江戸時代の武家といいますのは、基本給は親子代々開闢以来変わりませんでした。 収入を増やすためには何らかの役職に就いて役職手当を受け取る以外に方法はありませんでした。 この役職も習慣上親子代々世襲でしたので、簡単には就くことは出来ませんでした。 その上兼業は厳しく禁止されていました。 親の財産を相続できるのは兄弟の中で一人だけでした。 他の兄弟はこの相続した人に養ってもらいか、嫁や養子として他家へ移る以外の方法がありませんでした。 兄弟に養ってもらっている男性は厄介と呼ばれました。 厄介は蔑称ではありません正式な呼称でした。 ○○家厄介△△兵衛など名乗りました。 武家社会というのは軍事組織でした。 一定の身分以上になると戦闘員である家臣を養う必要がありました。 更に外出の際には槍持やぞうり取、荷物持などの奉公人を同伴する必要がありました。 つまり戦場へ向かうのと同じ態勢で外出しろ!ということです。 これ等の経費は全て基本給から捻出して支払いました。 こんな社会制度が200年以上も続いていましたから、武家にとっては現金は何物にも代えがたいものでした。 慶弔などの贈答には小判が用いられました。 形式の時代ですから、贈答品の多寡で相手への尊敬の度合いを示しました。 つまり、どこまでが交際費でどこからが賄賂なのかということが判然としない時代でした。 現金に困らない商人が武家に小判を贈与しても、賄賂なのか挨拶の手土産なのか判別は極めて難しい時代だったとお考えください。 藩幕制度というのは巨大な軍隊形式の官僚組織でしたので個人の裁量巾などほとんどゼロでした。 国定忠治の事件の発端は食料不足でしたが、当時現地の代官は数俵の米の払い出しを江戸の勘定奉行に請願しましたがみとめられませんでした。 これに対して国定忠治が強奪した米をばら撒いて歩きました。 後はお定まりの捕り物です。 このような事件の顛末を官僚として律儀に報告した報告書が現在も残っていて全容を知ることができます。 TVの時代劇の揚げ足取りをしても始まりません。 お話として楽しんでください。 以上超大雑把に説明しましたが、なにかあれば補足で追加質問を願います。 参考 地方三役 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/地方三役 町役人 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/町役人
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- titelist1
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まず、幕藩体制とは明治政府のような中央集権体制とは異なっています。各藩が一つ一つの国なのです。徳川幕府は大大名の徳川家が各大名を軍事力で配下に置いているのです。したがって、各藩の税金は大名に任せているのです。土地は大名のものなので年貢は借地料のようなものです。この借地料も各藩で異なっています。幕府直轄の天領やお膝元の関八州では年貢も軽かったのです。 幕府は中央集権政府ではないので、現在のような一律の法人税や所得税も無かったのです。そのかわり商人には橋を作らせたり、祭りの費用負担をさせたりして、政府の補助金のような負担をさせていました。所得税も商人からの負担金として町人にもどしていたのです。したがって商人は裕福になり武士を凌ぐ財力を持ちました。 武士は年貢米をお金に換えるしか収入はありません。江戸時代の米の石高は2000万石と言われています。徳川幕府が500万石。徳川の親戚藩が500万石。残りが外様の1000万石です。加賀藩の100万石はその中で随一です。1石は100升で1両とすると現在の10万円に相当します。2000万石では2兆円になります。人口は1000万人にも満たないので現在の12000万人に換算すると24兆円です。その半分の12兆円が徳川も含めた全大名の税収になります。現在の税収は50兆円ほどですので、税金としてはかなり少ないのです。 町人から税金を取れなかったことが、幕藩体制の行き詰まりになったのです。幕末の大奥の建物はポロポロであったと言われています。旗本であっても町人から借金をしないと暮らせなかったのです。旗本株を売りに出す武士も多かったのです。勝海舟のお爺さんはその旗本株を買って侍になりました。坂本竜馬のお爺さんもお金で侍になりました。
お礼
大変興味深いご回答ありがとうございました。 幕府は中央集権政府ではない、各藩が一つ一つの国なのです。……このお話は、聞いたことがあります。ただ、藩の取りつぶしが出来たわけでしょ。また参勤交代だとか、大名の妻子が江戸住まいであったことなどを考え合わせると、中央集権かどうか、体制の問題は別にしても、幕府と大名との関係というのは興味深いですね。
- hekiyu
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"そのため、農民の生産米の半分を年貢として納めさせ、それが、 武士社会を支えてきたのだと思います。" ↑ 当初は半分ぐらいでしたが、やがて農業の生産性が 向上し、隠し田などの開発により、実際は30%ぐらい、 中には20%ぐらいのところもありました。 現代の租税負担率が40%を超えていますから、もしか すると江戸時代の方が税金は少なかったかもしれません。 (1) 年貢米、というぐらいで、お米が中心でしたが、お米がとれない 地域では、野菜などで納めたこともありました。 漁業は村単位で小物成と言う税を金銭で納めていました。 商業や漁業、狩猟者など個人が納める税は運上金といいまして 「分一」と呼ばれ収入の一割、五分、三分など一定の税率で納めて いたそうです。 (2) 蔵前制といいます。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%94%B5%E7%B1%B3 ”武士階級というのは、ごく一握りの階級だと理解していたのですが、 それでも貧しかったのでしょうか?” ↑ 生産性の向上などにより、農民の暮らしが徐々に良く なって行きました。 だから物価も上がります。 しかし、武士に入るお金は変わりません。 だから、物価が上昇するに従い、下級武士の生活はどんどん 貧しくなって行きました。 なら増税すれば、と思いますが、農民の力が強く そう簡単には増税できなかったことが、実証研究で 明らかになっております。 (4) 冥加金ですね。 旅籠や質屋などの各種業界の株仲間が、商売を独占する御礼の気持ちを表す 政治献金の意味合いで冥加金を納めました。 自発的な献金のため納める側が金額を決めていたと言われています。
お礼
江戸時代の農民がけっこう豊かであったというのは、聞いたことがあります。「江戸時代の方が税金は少なかったかもしれません。」というのは、幕府財政の危機のことなどを考えると、ついつい笑いがこぼれてきます。 (1) よくわかりました。出てきた用語を調べてみます。 (2) 農民の力が強くそう簡単には増税できなかった……大変興味深いお話ですね。 (4) 商売を独占する御礼ということは、そのあたりに武士の権限があったということですね。政治家や現代の役人に通じるところがあるような気がしました。(*^_^*) ありがとうございました。
一部だけですが。 漁業者は網役といって課税されていました。 しかし漁獲の一部というとバラつきがあるし雑多な魚では評価が難しいこともあり、現物納付は江戸の初期頃までだったとされています。 その後は、網の大きさなど漁具に一定の課税を行い定額で徴収する方式が主流に変わりました。貨幣が普及してきたことが一番の理由でしょうか。
お礼
早速のご回答ありがとうございました。 ということは、武士はあらゆる分野に利権を持っていたと解釈しても構わないようですね。
お礼
(1)農業従事者に限られた呼称ではありません。……「百姓」を検索して、認識を新たにしました。 士農工商などという区分は何処にも存在していなかったということです……私が日本史を習ったはるかに遠い昔は、江戸時代の身分制度としての「士農工商」というのは、インドのカーストと同じように、まさに金科玉条のごとく光り輝いていたのですが……。歴史も変わるのですね。 代官……領主の意向を伝える、まさに「代官」だったのですね。 役務の提供……全く頭に浮かびませんでした。 (2)大阪で現金に交換されました……「大阪の蔵屋敷」の意味が、今、分かりました。 「各大名は江戸屋敷……必要な米は江戸へ送られました。」……銭ではなく、米ということは、江戸、大坂は圧倒的な消費地だったということですね。 「この営業許可書が株と呼ばれました。」……相撲の世界でよく、「親方株」という言葉を聞きますが、「株」という用語の本来持っている意味が何となく分かるような気がしました。 「幕臣は給与を幕府から受け取るのではなく、……この米と現金の交換比率はあくまでも商人同士の相場で決められていました。」……給料日があるのだろうと思っていました。(*^_^*)しかし、何か賄賂が生まれそうな仕組みを感じますね。 (3)家康の、戦の駆け引きばかりでなく、経済的な能力にも恐れ入りました。 (4)よく分かりました。 「この厄介者が……」と叱られても「厄介」という身分だから仕方がないですよね。少し気持ちが楽になりました。(*^_^*) 「形式の時代ですから、……賄賂なのか挨拶の手土産なのか判別は極めて難しい時代だったとお考えください。」……江戸時代に限らず、現代にもありそうな……。(*^_^*) 国定忠治……名前は知っていましたが、背景は全く知りませんでした。人気の一端を知ったように思います。 ありがとうございました。