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「隻手の声」とは?禅問答についての質問
- 禅問答とは、答えが無いことを考える訓練法であり、思考の鍛錬になると言われています。
- 「隻手の声」とは、白隠が修行者たちに問いかけた問答の一つで、片手でどのような音がするかを報告するよう求めています。
- 質問者は具体的に「隻手の声」にはどのように応答するのか、またこの問答を煮詰めていくことでどのような結果や悟りに到達するのかに興味があると述べています。
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答えてみましょうか 「太い指が書け と言っている」 白隠の書画には力がある感じがします。 白隠はなぜ沢山書いたのか? 答えは簡単です。 書きたかったからです。 頭ではない、手が指が書きたい、と言っていたのだと思います。 生命力の発露といったもの、迷いのない自己の本質を「隻手の声」に聞いたのではないでしょうか。 太い指で愚直に書くところに、書きながら自己の本質的なものを確かめていたのかもしれません。 書画に限らず、様々な工作においても、微妙ですが「太い指で押さえた」という感触を、それらから受けるときがあります。 手というものが自己と外界との繋ぎ役であるところに生じてくる感触です。 また、切れるような繊細さというものもあります。 こうした玄妙な感覚は、創作に携わる人の個性によって違いはあると思いますが 共通しているのは、内面的で本質的なものの発露のようだ、ということです。 生命力の発露といってもいいのではないでしょうか。 「手はものを言う」 と言い換えれば、分かり易い感じがします。 白隠の指は、きっと太かったんではないか・・(笑) そんな感じがします。 片手の音とは、生命の躍動の声、じゃないでしょうかね 音でない音、声でない声 ふつふつと湧き出てくる純粋な生命力、みたいなもんでしょうか。ね
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ANo.6です。 公案は数こそ沢山ありますが、それを通じて伝えたい事は、たった一つしかありません。だから本当に公案を一つ解く事が出来れば、連鎖的に殆どの公案を解く事が出来る様になりますし、新たに公案を作るなんて真似も可能になるんです。 公案には固有の正解というものはありません。師家に自らの見解を示し、それが「道」に沿うものであれば認めてもらい、ズレているなら指導していただくというだけの話です。 ちなみに、私にもズレた事を言ってるんじゃないかと心配してた時期がありまして、その時は必死こいて色々と調べました。本だと時間かかって仕方なかったけど、ネット検索や掲示板を使う様になってからの進歩は早かったです。それでも自信がつくまでに数年かかりましたが。 >公案にも流行りってあるんですか? ありますよ、臨済宗が数百年間患っている、公案体系という流行病が。
お礼
どうもありがとうございます。確かに、文言の解釈をめぐる組織なのですから、聖書を中心としたキリスト教と同様、解釈の流行り廃れが起きているかもしれませんね。明文化されていないと思っていたのですが、なるほど、言われてみれば、うっかりしていました。 「道」ですか。確かに、「正解」という表現より、しっくりします。外れてはならない「道」。道を外れるなら外れても結構ではあるが、あまり良いことにはならない。また遮二無二やっても、道を外れることがあるわけです。 こうしてみると、公案に答えることは誰でもできるが、道にそう回答を与えることができるのはごく一部と言えそうです。道を見極めるように配慮しないと、公案に答えても、禅としては意味が無いのかもしれませんね。まあ、何が「道」なのかをすぐに教えてくれと望むのは、無茶なことなのかもしれません。 ふーむ。改めて考えると「道」とは近代合理主義では、捉えられない概念ですね。付き進めるものなら、前に山があろうと、谷があろうと、切り拓いて突き進むのが、近代ですので。「道」の求道者の場合、あらかじめつけられた道筋を探し、自然と喧嘩しないように、謙虚に進むのでしょう。
- 雪中庵(@psytex)
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#9の者です。 >耳が聞こえず、目も見えないとしても、柏手は聞くことができるのでしょうか? 僕は夢の中でも音を聞きます。 「手を打つ」という感覚を把握し、それが遠くで行われていると 感じる手段があれば、それが点字で読んだものであれ、 “知る”事実は同じです。
お礼
ありがとうございます。得心行きました。自分が手を打った経験、耳にした経験を反芻すれば、なるほど、音は聞こえますね。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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臨済でしょうが、古来有名な偈というか、問答ですね。いろいろ解説や啓蒙書はでていませんでしょうかね。 両手で打てば感覚に知覚する音が聞こえるでしょうね。 片手では感覚に聞こえる音も、サイ氏がいう可聴を越えた音も出せないでしょうね。 隻手の声、正に音でないところが面白いともいえそうです。 声になる前、声以前の声。感覚も可聴の範囲も超えた超然、事象界に冷淡な世界。 そこが出発点であり、行き着く場なんでしょうね。 隻手の声の世界はそういうように、感覚界という相対、関係の惑わしの世界を超えているのでしょう。 というのも一つ。 未だいろいろありますが。 まぁ奇人変人という自己性、個性性に徹した世界で自己を見つめることでもあるでしょう。同じ事ですが 偈にしろ問答にしろ、そこで出してくる新鮮と包丁だけが価値の世界ですから、対する状況とその問答者同士の意識如何で意味と力はありうるものでして。 それを捨象して、文章での論理と知では無内容ですよね。 白隠にそれ(夫れ)、隻手の声如何といわれれば、 私は聴法の禅師にそれ(夫れ)まさにそれしる。と私は対するかも知れません。 でもそれはそこの場の力と感激が命で、意味は全く初歩的ですね。 はっきりいえば、臨戦状態でしかない真実存在が命で、ここで聞いても文言しかないですね。
お礼
ありがとうございます。音になる前の音。意味をもつ前の音。それを言葉という分別で捉えるのは限界があるでしょうね。 しかし言葉もそうバカにしたものではありますまい。結局は言葉でお伝えする他ないわけですし、出題も言葉によってなされているのですから。 >はっきりいえば、臨戦状態でしかない真実存在が命で、 ちょっと難しいです。もう少し優しく噛み砕いて教えてください。
- 雪中庵(@psytex)
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そもそも両手で打った時の拍手の音は、本当に聞いていると 言えるのでしょうか? 「聞く」とは音の振動ですが、音の振動が全て拍手ではない のは当然の事です。 あくまで手を打っているのを目にしてこその、「拍手を聞く」 なのです。 であれば、片手で打ってもそれを認識できれば、「隻手の声」 を聞いていると言えます。 そもそも「片手で打つと音はしない」というのは、人間の耳の 可聴域が及ばないだけで、空気分子の当たる振動(風切り音) や生体電流の変化による電波、質量の加速による重力波など、 それなりの“耳”さえあれば聞こえる“音”を出しているのです。 自分の耳が及ばない事を「無音」と表現するのは、自己中心 的に過ぎるでしょう。
お礼
ありがとうございます。 >そもそも両手で打った時の拍手の音は、本当に聞いていると 言えるのでしょうか? なるほど、常識を疑うわけですね。ところで、耳が聞こえず、目も見えないとしても、柏手は聞くことができるのでしょうか?
- ri-zyu
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禅は学問(分別・理屈)ではないしょうから、宗教の本質を学で究めようとしても 掴み切れないと思います、学というものは大変重要でしょうが、学というものが尽きたとき 気づきとして魂の中に入ってくるもだと私なのでは思っています。合掌
お礼
ありがとうございます。
(1)片手を振ってみる (2)あたまでっかちじゃなくなるのかも
お礼
ありがとうございます。参考リンクも読みました。なるほど。禅僧ではない方のページだそうですが、並々ならぬ力の入れように、驚きました。ランダムで公案が出てくるシステムなど、よく作ったなと感心しきりです。シンプルなお答えも、禅っぽいですね。
補足
これが初回答なのですね。お礼の意味で、ファン登録させていただきました。
みぎひだり 相対するもの やかましや 分けぬ音をば 一如と言うなり ・・・みたいな感じで、公案の解は、 道歌で応答するのがカッコイイと思ってます。 流行りの「片手と一枚になる」とかの回答は、 本質的に違うと思ってるので、あまり好きじゃないです。 これが(1)への回答です。 (2)右手と左手を打ち合わせれば音が出るけど、 片手だと音は出ない。 コインには表と裏があるけど、 表か裏しかないコインは有り得ない。 人生には幸も不幸もあるけれど、 不幸がなければ幸せは実感出来ない。 光が無ければ闇が認識される事は無く、 闇が無ければ光は認識される事が無い。 我々は、相対するものがなければ、 物事を認識する事が出来ない。 「此れあれば彼れあり、これ生ずれば、かれ生ず。 此れなければ彼れなし、これ滅すれば、かれ滅す」 これが片手の音の意味です。 白隠禅師が片手の音を聞けというなら、 私は両手が打ち合わされる前の音を聞いてみろと言い返す。 使う言葉は違うけど、 実は、二人は同じ事を言っている。 つまり、右だの左だのと分別する前の、 無分別の静寂を聞き、そこに留まれという事。 これぞ不生・無生の坐禅なり。
お礼
ありがとうございます。カッコいいなあと思いました。そしてお答えを読みながら、私はどういう風に受け止めたらいいのだろうと思いました。 さしあたり理屈として整理すると、 ○分別=右手と左手を判別する、 ということみたいですね。そして相対的なものによって、判断しているという認識の営みそのものを再検討するというわけなんですね。なるほどなあ、と思いました。 取り急ぎお礼欄を書きこみましたが、また思いついたら、補足欄で何か書こうと思います。ところで、 >流行りの「片手と一枚になる」とかの回答は 公案にも流行りってあるんですか? そして流行りって、どうやったらわかるんですか? 禅僧さんか、その関係者の方なのかなあと思ったりしました。
補足
ブログ拝読しました。ご自分でも公案をおつくりになっていらっしゃるんですね。犬から「犬」という名称を奪って、犬を本来の犬にしてあげなさい、とは面白いですね。現代思想みたいです。 でも、最終的に、ご自分のお答えが正解かどうかはどうやって見分けているのですか。ご自身が禅僧ではないそうですから、やはりお知り合いなどいらっしゃって、相談しているのでしょうか。
- ri-zyu
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ON2です >無分別ですか。それって何ですか。 分別は道理をよくわきまえていること。また、物事の善悪・損得などをよく考えること。のようですが 無分別は善悪 損得 是非の分別がなくなった状態だと思います 悟りも迷いも同じものだと言うことだと思います。 事に執着すれば迷いなり、理に叶うも悟りに非ず 悟ろうと分別すればそれは迷いだと思います、悟りが理に叶った説明が出来れば悟りではないと思います >悟りは、何もかもが説明できなくなるのとは違うと思いますが。 説明が出来て人々覚れるなら老師が説明をすれば言いだけの事じゃないでしょうか。
お礼
ありがとうございます。うーん、なるほど。説明によって悟りに達しないのだから、非言語=無分別である、と。しかしそういう風に言い出せば、職人さんが親方から技を盗んで体得するとか、言葉による説明ではなく、体得するものは、無分別という風になってしまうんじゃないですか。
- MOG777
- ベストアンサー率14% (20/139)
お礼ありがとうございます。 例えば、事故にあったときに、スローモーションになり無意識に回避したといった経験は 自分以外の何かがそうさせたともいえるし、自分の脳が高度な情報処理をした自力の結果とも主張できるわけです。 閃きを発生させた主体というときも同じような主張ができるわけです。 >閃きが正しいと思えば、なぜ自我への依存が減るんでしょうか。正しいと確信する自我がいるのだから、ますます自我が強固になるんじゃないでしょうか。無我にはいかないような気がします。 確かに閃きにより自我に執着する方も過去にいましたね。 >最後に、もうご自身は、無我の境地を悟っているという書き方でいらっしゃいますね。 私は低いレベルの悟りでしょうね。 >その見地から見て、隻手の声の回答を出してみてもらえますまいか。 私は禅宗には詳しくありませんから禅僧に尋ねてみてください。 ただし、隻手の声の回答はできませんが、仏教の根底に共通思想からこの質問を諌めたかったわけです。
お礼
再度、ありがとうございます。 >閃きを発生させた主体というときも同じような主張ができるわけです。 閃きとは自我とは別の何かが降りてくるというわけでしょうか。いたことか、降臨のようなイメージを持って受け止めました。しかし、この問い程度で、何かの神仏が降臨してきちゃっていいのですか。神仏ってそういうものでしょうか。 訳が分からなくなって、自我のタガが外れるかもしれません(魔境に入ると表現するようです)。しかし、もしこの程度の問いで神仏が降臨してくるなら、世の中のあらゆる言葉は、無我の契機となるでしょう。うーん。深いような、とってつけた話になっているような、微妙な気持ちです。非常に傲慢かもしれませんが、この程度の問いは、誰でも生産することができると思います。その度に神仏が降臨してきたとしたら、とても軽薄だなと思います。 >ただし、隻手の声の回答はできませんが、仏教の根底に共通思想からこの質問を諌めたかったわけです。 「諫める」とは、どういうことなのか、私には今一つ伝わっていません。質問趣旨と離れて構いませんから、どうぞ論を展開していただけませんか。ちなみに禅僧はお答えしてくれないでしょう。答えてくれるなら、回答例などを本屋で売ってくれていることでしょうから。問いはあっても答えはない。答えを定めないということは無責任にも思えますが、裏を返せば、誰もが問いを投げ、それを考える自由が許されているのだろうなと私は思います。諫めるべきことですか。
- ri-zyu
- ベストアンサー率30% (184/611)
>(1)白隠に問われたと仮定して、お答えしていただけませんか。 分別で聞くから聞こえないの、無分別では音が聞こえました 無分別ですから説明は出来ません。 >(2)この問答を煮詰めていけば、どういう結果(あるいは悟り)に到達すると思いますか。 分別を使うと煮詰まって解けないから、無分別で解く、無分別ですから説明は出来ません
お礼
ありがとうございます。無分別ですか。それって何ですか。悟りは、何もかもが説明できなくなるのとは違うと思いますが。
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- 2
お礼
ありがとうございます。なるほどねえと思って読みました。 >片手の音とは、生命の躍動の声、じゃないでしょうかね >音でない音、声でない声 >ふつふつと湧き出てくる純粋な生命力、みたいなもんでしょうか。ね 私はこれに共感するところがあります。というのも、片手で音が出るということは、手を打ち鳴らさないでも、手がある限り、音が出ていることになるからです。寝ている時も、ご飯を食べている時も、その音は出ているのかもしれません。何の音だと言われたら、命の音としか言いようがないなと思ったりします。 白隠の書画のお話も面白く読みました。きっと「声」とは音である必要が無く、書画かもしれないわけですね。といいつつ、白隠の書画を見ますが、達磨など、現代の漫画の挿絵みたいだなあと思ったりもします。力強いには力強いが、カリカチュアされているところに、現実の厳しさを捉える目が欠落しているように思います。宮本武蔵の作品などの方が、手の声というイメージには近い気がするのです。 この点、うーん、ちょっと微妙です。改めて書画が手の声かと思うと、がっかりもしたりします。良作を私が見ていないだけなのかもしれませんが。。
補足
ご参加くださった方々、どうもありがとうございました。どの回答もよかったのですが、「手の仕事」って、ハイデガーっぽいですね。公案は、なぜ手でなければならなかったのか。やはり手がモノを作るという特殊な部位であるかだと思います。禅がこういうことを考えているか否かは知りませんが、手ならではの特性に触れているという点でBAに選ばせて頂きました。