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「隻手の声」とは?禅問答についての質問
- 禅問答とは、答えが無いことを考える訓練法であり、思考の鍛錬になると言われています。
- 「隻手の声」とは、白隠が修行者たちに問いかけた問答の一つで、片手でどのような音がするかを報告するよう求めています。
- 質問者は具体的に「隻手の声」にはどのように応答するのか、またこの問答を煮詰めていくことでどのような結果や悟りに到達するのかに興味があると述べています。
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答えてみましょうか 「太い指が書け と言っている」 白隠の書画には力がある感じがします。 白隠はなぜ沢山書いたのか? 答えは簡単です。 書きたかったからです。 頭ではない、手が指が書きたい、と言っていたのだと思います。 生命力の発露といったもの、迷いのない自己の本質を「隻手の声」に聞いたのではないでしょうか。 太い指で愚直に書くところに、書きながら自己の本質的なものを確かめていたのかもしれません。 書画に限らず、様々な工作においても、微妙ですが「太い指で押さえた」という感触を、それらから受けるときがあります。 手というものが自己と外界との繋ぎ役であるところに生じてくる感触です。 また、切れるような繊細さというものもあります。 こうした玄妙な感覚は、創作に携わる人の個性によって違いはあると思いますが 共通しているのは、内面的で本質的なものの発露のようだ、ということです。 生命力の発露といってもいいのではないでしょうか。 「手はものを言う」 と言い換えれば、分かり易い感じがします。 白隠の指は、きっと太かったんではないか・・(笑) そんな感じがします。 片手の音とは、生命の躍動の声、じゃないでしょうかね 音でない音、声でない声 ふつふつと湧き出てくる純粋な生命力、みたいなもんでしょうか。ね
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- MOG777
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禅宗には詳しくないですが 誤解を恐れずに言えば、公案は閃きの修行のためにあると考えます。 ですから、正しい解答というのは無いし、思考の訓練でもありません。 閃きが正しいと確信すれば、自我とその思考への依存が減ります。 その結果、無我という状態に親しみ、悟りやすくなります。
お礼
ご回答、ありがとうございます。が、よくわからないので、よかったら、補足をお願いいたします。 まず、私には細かい表現がくめません。ご回答によれば、閃きの修行と思考の訓練は異なるモノのようです。しかし閃きとは思考のなせるわざなんですから、どちらもよく似たものじゃないでしょうか。どうなんでしょう。 次に、以下の一節が分かりません。 >閃きが正しいと確信すれば、自我とその思考への依存が減ります。その結果、無我という状態に親しみ、悟りやすくなります。 難しすぎてわかりません。閃きが正しいと思えば、なぜ自我への依存が減るんでしょうか。正しいと確信する自我がいるのだから、ますます自我が強固になるんじゃないでしょうか。無我にはいかないような気がします。 最後に、もうご自身は、無我の境地を悟っているという書き方でいらっしゃいますね。その見地から見て、隻手の声の回答を出してみてもらえますまいか。私は無我と言われても、何のことやら、察することはできないのです。だから、公案のご回答を見て、なるほど、こういうものか、と納得したいのです。
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お礼
ありがとうございます。なるほどねえと思って読みました。 >片手の音とは、生命の躍動の声、じゃないでしょうかね >音でない音、声でない声 >ふつふつと湧き出てくる純粋な生命力、みたいなもんでしょうか。ね 私はこれに共感するところがあります。というのも、片手で音が出るということは、手を打ち鳴らさないでも、手がある限り、音が出ていることになるからです。寝ている時も、ご飯を食べている時も、その音は出ているのかもしれません。何の音だと言われたら、命の音としか言いようがないなと思ったりします。 白隠の書画のお話も面白く読みました。きっと「声」とは音である必要が無く、書画かもしれないわけですね。といいつつ、白隠の書画を見ますが、達磨など、現代の漫画の挿絵みたいだなあと思ったりもします。力強いには力強いが、カリカチュアされているところに、現実の厳しさを捉える目が欠落しているように思います。宮本武蔵の作品などの方が、手の声というイメージには近い気がするのです。 この点、うーん、ちょっと微妙です。改めて書画が手の声かと思うと、がっかりもしたりします。良作を私が見ていないだけなのかもしれませんが。。
補足
ご参加くださった方々、どうもありがとうございました。どの回答もよかったのですが、「手の仕事」って、ハイデガーっぽいですね。公案は、なぜ手でなければならなかったのか。やはり手がモノを作るという特殊な部位であるかだと思います。禅がこういうことを考えているか否かは知りませんが、手ならではの特性に触れているという点でBAに選ばせて頂きました。