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観測の水平線・地球は青かった
人間というローテクをロケットに乗せて打ち上げてみた。 地球をぐるぐる回って、届いた報告は「地球は青かった」 ハイテクが人間的観測の水平線の向こう側に送り届けてくれたのである。 地球は青い、のではなく「青かった」のである。 「地球は青かった」 皆さん、この言葉ど―思います?
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- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
通常われわれは陸上に生活しており、大地は茶色か、 せいぜい緑です。 青いのは空の方です。 当然、宇宙から見た「地」球も茶色っぽい球だと考えて 当然です。 ところが実際は、陸地は地表の30%にも及ばず、 ほとんどが海面である上に、大気の散乱(青空と 同じ原理)によって地表に青いベールがかかるために、 それまで思っていたより全体的に青いので、 「(~だと思ってたけど)思ったより青かった」という ニュアンスではないでしょうか。
- LinguaFranca
- ベストアンサー率52% (10/19)
ネット上で調べてみますと、「地球は青かった」という表現は正確ではないようですね。 参考 http://sasakima.iza.ne.jp/blog/entry/151395 しかし、そんなことはどうでもいいくらい、私はこの言葉が好きです。 というのは、簡潔で分かり易く、心に残りやすいからです。 でも一番の理由は、その「青かった」の部分が、日本語を母語とする人に感動を与える表現だと思うからです。 「青かった」というのは、単に「青い」の過去形ではないと思います。 例えば、探し物が見つかった時に、 「あった!あった!」 と言いますよね。これは過去形ではありません。文法的にはムードと呼ばれるものですが、詳しいことはどうでもいいです。 私が言いたいのは、日本人が「青かった」を耳にすると、「あった!」と同じように、ずっと探し求めていたもの、知りたかったものがやっとわかったという、「感動」を味わえるということです。 さらにもう一つあります。 英語でもそうですが、日本語でも、「もし私が芸能人だったら、、」と仮定するときに現在のことでも過去形を使いますよね。この場合は、ある程度過去に戻らないと、「現在が芸能人である状態」を作り出せないからだと思います。つまり、過去のある点を否定するときに、現在の事でも過去形を使うことがあるのです。 「青かった」というのは、本当に感覚的な話ですが、過去のいろいろなこと(地球はどんなだという仮説など)を否定してまで「青いという事実」を主張する力強さを感じます。 以上の2点から私は「青かった」という表現は本当に感動を共に共有できる表現だと思います。
お礼
原文も素晴らしいですね。 ありがとうございました。
補足
そうなんです。 自分のいるところは青く美しい世界なんです。 あ―見たいな・・・
- hg3
- ベストアンサー率42% (382/896)
ご質問は、人類初の有人宇宙飛行に成功したソ連のガガーリンの言葉に関することですよね。 この「地球は青かった」という言葉は、正確な引用ではないというのは有名な話です。 また、ガガーリンのコメントは、地球へ帰還した後のものですから、仮に過去形で「青かった」と言ったとしても問題ないかと思います。
お礼
ありがとうございます。
補足
人類の中のほんの一握りの人だけが 「地球は青かった」と言える。 何か物足りない・・・ 死ぬまでそう言えない自分が物足りない せめて写真でも見て「青かった」と呟こう。
お礼
ありがとうございます。 >「(~だと思ってたけど)思ったより青かった」 思ったよりですか かもしれませんね。 山の民と海の民では感覚が違うかもしれない、などとも思ってしまいますが 原文を読むと、衝撃的な光景であった事は間違いないようです。 初めて見る地球の光景は想像だに出来ないものであったようです。 地球との初対面というものです。 この状況で受けた心理的衝撃の内容において 色彩感ももちろんですが 地球が完全な球形であったということも大きかったと思います。 純粋形態は人間のみが創りうるものであり、自然には存在しないという固定観念が崩壊した出来事だったかもしれません。 丸く青い地球・・・やっぱりきれいですね。
補足
科学的観測の水平線は、常に存在します。 それは無くなる事はないと思います。 人間の観測の水平線も同様です。 人間という生きた感性を宇宙に送り出して、実際に見るという実験の価値はどのようなものなのでしょうか? ISSに乗った日本人宇宙士の方がTVで 宇宙のメロディというかバイブレーションのようなものを感じたと話していました。 無重力状態では感覚や感性も地上とは違ってくるのかもしれません。 このへんの事にも興味が湧いてきますね。