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北越戦争。官軍の宿泊、食料。
官軍は、慶応4年2月、京都を出発し、同年5月、長岡藩周辺に進軍しています。 そして、この戦闘での官軍の死者は、wikiによれば約千人です。 質問です。 1.北陸道を進軍した官軍は、おおよそ何人ですか。 2.寝泊りはどこでしたのですか。また、食料は、どのように調達したのですか。 これらの費用は支払ったのですか。 よろしくお願いいたします。
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1、河井継之助記念館の◆河井継之助の改革と戦争 https://tsuginosuke.net/?page_id=174 には、敵の軍勢約2万となっています。 2、幕末ですからまだ小荷駄隊 https://www.weblio.jp/content/%E5%B0%8F%E8%8D%B7%E9%A7%84%E9%9A%8Aが、担っていたんだと思います。
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- f272
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(1) 北陸道から2500人、三国街道から1500人という規模だったようだ。 (2) 宿場の宿に泊まったり、寺に泊まったり、何もなければ野宿です。 食料は最初にもてる分は各自が持っていきましたが、すぐになくなりますので、その後は現地での調達です。近くの村に供出するように指示を出します。対価も支払いましたが、十分な対価とは言えなかったようで、不足分は村が負担します。
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ご回答ありがとうございます。 春まだ浅き北陸道を2500名の兵が行進したのですね。 北陸道の宿場は、東海道に比べて小規模ですし、また、当時、参勤交代制度は廃止されていましたから、多人数の宿泊受け入れは、寝具、炊事など大変だったでしょう。 多分、100―200人を組にして進軍したのでしょう。 いろいろ想像してみます。
- 畑 茂夫(@Flareon)
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それと新潟日報が過去に戊辰戦争当時の新潟県の資料を収集して書籍を出版したことがあります。 そのあたりの資料ですかねえ。
- 畑 茂夫(@Flareon)
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私は新潟県人で先祖が幕府軍に従軍しましたが、侍は全員失業したので、この手の話に助言できませんねえ。 長岡市にも郷土資料館があるでしょうから、そこに電話すると館長は郷土史家の重鎮なので、詳しく応対してくれます。 むしろ用件が済んで電話を切りたくても1時間くらい長話しますよ。 そこからさらに、追加の研究要素を仕入れればいい。 相談に乗ってくれた恩返しで、長々と1時間くらい話を聞いてあげてください。
お礼
ご回答ありがとうございます。 東海道や東山道を進軍した官軍は、主体が薩長ですから鹿児島県史などでかなり詳細が分かるのですが、北陸道方面は土佐藩主体のようです。 長岡藩の奮戦ぶりは司馬遼太郎の小説でも知ることができますが、官軍のことはちょっと分からないので、誰かに教えてもらおうと質問しました。
お礼
ご回答ありがとうございます。 なんと言っても運搬は重要です。 小荷駄隊が組織されていたでしょう。 河井継之助記念館の記事は参考になりました。 ここの記事では戦死者は340名になっています。 Wikiの記事とは大きな差があります。調べてみます。 2万という数字は、途中から官軍に恭順した藩を含めたものと思います。