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歴史上、もっとも人数差があった戦いはなんですか?

しかもそれで少ない方が勝った戦いです  

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  • eroero1919
  • ベストアンサー率27% (3007/11113)
回答No.8

他の人も回答していますが、ムーミン谷のゴルゴ13ことシモ・ヘイヘさんつー人がたった32人で4000人のソ連軍を撃退したってことがあるそうです。 ちなみに戦力比だと125:1になります。

その他の回答 (7)

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.7

人数差ですか。 人数比なら、シラノ・ド・ベルジュラックの戦いです。 何しろ、一人で120人を相手に戦い、勝利したのです から、宮本武蔵も真っ青です。 もっとも、倒した敵は数人で、後は逃げてしまった そうですが。 彼は鼻のシラノとして有名な人物です。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A9%E3%83%8E%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF

  • bakamr
  • ベストアンサー率32% (149/463)
回答No.6

少々題目と違いますが。 ・歴史上最も「劣勢を覆した戦」 合肥の戦い 曹操領の南方の要衝・合肥を巡って曹操と孫権の間で行われた戦い。 孫権率いる大軍勢が張遼・楽進・李典を大将とする少数の曹操軍に大敗を喫したことで知られている。 元寇 日本の鎌倉時代中期に、当時大陸を支配していたモンゴル帝国(元)及びその服属政権となった高麗王国によって二度に渡り行われた対日本侵攻の呼称 アレシアの戦い 紀元前52年の8月から10月にかけてガリア総督ガイウス・ユリウス・カエサル率いるローマ軍と、アルウェルニ族のウェルキンゲトリクス率いるガリア人連合軍との間で行われた戦闘 七年戦争 プロイセン及びそれを支援するグレートブリテン王国(イギリス)と、オーストリア・ロシア・フランスなどのヨーロッパ諸国との間で行われた戦争 オーストリアがフランスと同盟を結んだ外交革命、400万対8000万と言う圧倒的な人口格差など 当初プロイセンは敗勢を余儀なくされ、その命運も尽きるかと思われたが プロイセン王フリードリヒ2世(フリードリヒ大王)の適切な戦争指導と、エリザヴェータ女帝の死によるロシアの離反によって 戦局は打開され、幸運にも戦争はイギリス・プロイセンの側に有利に帰着した 百年戦争 フランス王国の王位継承をめぐるヴァロワ朝フランス王国と、プランタジネット朝およびランカスター朝イングランド王国の戦い ジャンヌ・ダルクがイングランド連合軍を撤退させ、救世主、あるいは聖女と称えられたのは有名 桶狭間の戦い 永禄3年5月19日(1560年6月12日)に尾張国桶狭間で行われた合戦。 2万5千といわれる大軍を引き連れて尾張に侵攻した駿河の戦国大名である今川氏真・今川義元に対し 尾張の大名・織田信長が10分の1程とも言われる軍勢で本陣を強襲し、今川義元を討ち取って今川軍を退却させた。 日本の歴史上最も華々しい逆転劇と言われる非常に有名な戦いである。 カンナエの戦い アプリア地方のカンナエ(カンネー)で起こったローマ軍とカルタゴ軍の戦い この戦闘でローマ軍はおよそ60,000名の死傷者(大半が戦死)を出した。 カルタゴ軍の損害は6,000名ほどであり、その大半は戦列中央のスペイン・ケルト兵だった。 殺戮の丘 冬戦争中のコッラーの戦いにおける丘陵地を巡る戦闘では、シモ・ヘイヘを含むフィンランド軍32人が4000人の赤軍を迎撃 拠点防衛に成功し、この丘陵地は“殺戮の丘”と呼ばれた。 コンキスタドール コンキスタドール (Conquistador) とはスペイン語で「征服者」を意味するが、とくに15世紀から17世紀にかけてのスペインのアメリカ大陸征服者、探検家を指す。 少数の部隊でアステカやインカの大軍に勝利できた背景のひとつには 火器や剣、甲冑、騎馬兵(アメリカ大陸には馬がいなかった)など、ヨーロッパの科学技術の圧倒的な優位があった。 沖田畷の戦い 日本の戦国時代の1584年(天正12年)3月に肥前国島原半島(長崎県)で勃発した九州の戦国大名である龍造寺隆信と有馬晴信・島津家久連合軍の合戦 龍造寺隆信は島津の援軍を警戒した鍋島信生の諌めを聞き入れず、大軍(史書により18,000から60,000と開きがある)を率いて海路遠征し 有馬・島津勢8,000余と森岳城(島原城)付近の沖田畷で対峙した。 沖田畷の戦い キューバ革命 ゲリラ12名VSアメリカの支援を受けた一国 昆陽の戦い 中国の新代の地皇4年(西暦23年、または更始1年)昆陽(豫州頴川郡。現:河南省平頂山市)における新軍と緑林軍との間の戦い 河越城の戦い 戦国時代に、武蔵国の枢要な城であった河越城の争奪を巡って、河越城周辺で争われた一連の戦い 河越城の戦いは、約10倍の兵力差を覆しての勝利として、戦史上高く評価されているものの、不明な点も多く更なる研究が待たれる合戦である。 河越城の戦い 泗川の戦い 慶長3年9月(1598年10月)、朝鮮半島の泗川で島津義弘率いる島津軍7千が明の武将董一元率いる数万(後述)の明・朝鮮連合軍と戦って撃退した戦い。 圧倒的な戦力差があるにもかかわらず、劣勢な島津軍が勝利した伝説的な戦いとして知られているが、明軍の数および死者数については資料ごとにかなりの差がある。 泗川の戦い 岩屋城の戦い 九州制覇を目指す薩摩の島津氏が、大友氏の家臣・高橋紹運が籠る岩屋城を落とした戦い。 島津からは総勢20000余人が出陣、対して岩屋城には763名の城兵が籠り徹底抗戦を行った。 紹運以下763名全員が討死、自害して戦いの幕は降りた。 一方、島津氏は岩屋城を攻略したものの多数の将兵を失ったため 態勢の立て直しに時間を要し、九州制覇という島津氏の夢が叶わなかった遠因となった。 岩屋城の戦い 彭城の戦い 中国楚漢戦争期の紀元前205年に項羽の楚軍と劉邦の漢連合軍との間の彭城(現在の江蘇省徐州市)で行われた戦い。 この戦いで56万の軍勢を項羽が3万の軍勢で勝利し、漢連合軍が大敗、解散へと追い込まれた。

  • nevel
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回答No.5

ロシア兵をシモヘイヘがやっつけたやつ

回答No.4

川越の夜襲 桶狭間の戦い

  • nevel
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回答No.3

人数の比じゃなくて差であれば、日清戦争。

回答No.2

日本vs朝鮮の応永の外寇でしょうか。 守る日本軍(対馬)600名、攻める朝鮮軍1万7千余。1:28。 日本軍は勇猛果敢に戦い、朝鮮軍を撃退したばかりか、長年賠償もさせました。 http://hoi333.blog.fc2.com/blog-entry-54.html 多勢に無勢ではテルモピレーの戦い(ギリシャvsペルシャ1:30)も有名ですが、ギリシャが負けています。

  • nevel
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回答No.1

スペイン人が南アフリカの原住民と戦って、インカだとかを滅ぼしたやつ。

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