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戦いの人数って、正確なの?
日本でも中国等でも、歴史上の史実を見ると、何万の大軍同士の戦いとよくありますが、あの数字は本当に正確なのでしょうか?(自分が思うにかなり誇張されているのでは?もし、本当にそれだけの人数同士の戦いだと、場所が恐ろしく広くなければいけないし、第一、いくら旗とか武装の種類が違って、目印をつけたとしても、敵味方の判別がむずかしく、戦いに支障があったのでないかと思えるのですが、、、)ぜひ、歴史に詳しい方、教えてください。よろしくおねがいいたします。
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日本での源平時代のおおざっぱな時代での数え方は正確さを欠きますが、戦国時代になると軍制も発達し、出陣が発令されると所領に定められた人員、馬匹、装備を揃えて、集合地点に向かい、戦奉行の窓口で申告し着到帳に記録されます。 それらを集計して主将に報告されるのでかなり正確な数字は把握されます。 もちろんここでサバを読むことも行われるので対外的には誇張もあるとおもわれますが・・・ 個々の兵士は敵味方の識別用の袖印、合い言葉、服装まどで識別する他大抵同郷が纏まっているので顔なじみです。 軍旗である旗印は敵味方の識別と同時に所属部隊の位置をしめします。 馬印は主将や本陣の所在を全軍に示すので重要視されます。 これが倒れると敗北を意味するのでこれの護衛兵は練達の兵士があたります。 服装、鎧などを朱色で統一した「赤備え」は有名ですがこれは識別と共に勇武の誇示でもありました。 野戦の遭遇戦は別として戦闘には必ず陣立てという布陣が定められ、部隊毎に一定の間隔をおいて整然と整列します。 この陣立てにも色々あってどの陣立てを用いるかは使い番や信号で知らされるのですが敵前では混乱しやすくそこを攻撃されて敗北した例はよく見られます。 武田信玄の軍は陣形の変更が優れていたといいます。 またこの陣立てを乱す抜け駆けなどを厳重に罰しました。 薩摩の島津家では部将が戦死すれば部下はその場に踏み留まり、全員戦死する定めでこの為勇武な気風がうまれました。 ローマ軍は100人長、千人長をおき、それぞれの部下を統制し組織的な戦闘で敵を圧倒し、統制された戦闘方式に慣れない蛮族を制服しました。 また彼らは武器の取り扱い、体力に優れたプロで平時でも訓練を欠かしませんでした。 敗北すれば死か奴隷にされる運命ですから死力を尽くして戦いました。 また十人制という刑罰で、命令違反や卑怯な振る舞いがあると当人だけでなく十人に一人を選び死刑にし連帯責任をとらせて団結と統制に勤めたことも有名です。
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- reny
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いろいろと正確な数字を確定するために歴史家は苦労してますね。 例えば、中国の春秋時代あたりまでは「戦車○乗」と言う表現がありますが、御者・右乗・本人の3人が戦車(馬車)に乗り、その周りに兵卒が、甲士10人、歩兵20人が随うと規定されています(「周礼」)。 当時は領民の5人に1人を徴発していたようなので、ここから当時の人口を類推したりしています(約500万人が当時の中国の人口になります)。 日本の戦国から江戸時代にかけては、足軽まで含めた武士を養える数は50万石で1万人強ほどだったようです。ただし、鉱山(金山や銀山など)を抱えていたり、交易で潤っている大名などはそれ以上の兵数を養えました。 こうしたことから本国に残して出征した兵数などを概算で得て、公表された数字と比較検討するようですね。 戦闘自体は、味方に誤って殺されるなどは夜襲を受けたときなどに見られますが、混乱は少なかったでしょう。基本的に指揮官の下で集団で戦闘しています。弓や投石機・鉄砲などの遠距離用の兵種もいれば、槍や矛などの長い武器をもった兵種、接近戦用に剣などを持った兵種などがあり、役割分担され、戦闘に投入される時期も異なります。 混戦になっても、旗を立てて目印とし、派手な衣装の指揮官が馬上にあって集団としてのまとまりを維持させようと必死でやっています。兵士も集団からはぐれると味方にすら殺されてしまうので、必死だったようです(指揮官やその指揮を代わりに執る人物が死んでしまうと兵士の多くは逃げ散ってしまいますが・・・)。
お礼
なるほど、、、すごく詳しいので、とても勉強になりました^^。本当にありがとうございました!
- nacam
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ほとんどの場合、いい加減です。 とくに中国の戦いでは、2万程度の軍勢を、平気で100万とか言っています。 日本や西欧の場合、中国ほどひどくありませんが、こちらの勢力を大きくみせるために、誇張する事もあります。 さらに、日本の場合、小荷駄隊(物資輸送隊)が、軍の約半数を占めますから、戦闘部隊は、その半数といったところが実態です。 西洋の場合も、直接戦闘に参加しない従者が、騎士一人につき二人程度ついているのが普通ですから、戦闘部隊は、総数から割り引いて考える必要があります。 ただし、西洋の場合、従者を数えない場合もけっこうありますので、普通の戦いでは、1万を越える軍どうしの戦いは、ほとんどありません。 イギリスとフランスが戦った100年戦争で、イギリス軍は、平均3000人程度の軍しか有りませんでした。 一方フランス軍は、最大動員した時で、2万程度でした。 中国の場合、軍勢を1/10から1/100程度とみなし、日本の場合、1/2程度、西欧では2/3程度とみるのが良いと思います。
お礼
やはり、誇張されていると思ったほうが正解のようですね^^。丁寧なご回答、ありがとうございました^^。
- cocomonchi
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本とかでたまに出てきますが、将軍に兵士が○○人の兵士が集まりました!とかあるので、書記みたいのがきちんと残していたのでは? 場所の話は昔はほとんど荒野だったわけですし、野戦はそんなものでは? 昔、GLAYが10万人コンサートとかやってましたけど、あれが敵味方でも5万対5万ですし、東京ドームくらいな広さでもそれぐらい入りそうですもんね。 あんまり回答になってませんが…
お礼
確かに書記のは残していたのだろうと思います。ご回答、本当にありがとうございました^^。
- imp-dsc
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ぶっちゃけ、フカシ・見掛け倒し・ハッタリから好きな解釈どうぞ。 と言うのもなんなので、少し説明します。 良く○○は百万と号する大軍を率いて□□に攻め込んだ。という記述がありますが大体の実戦力は半分位です。というのも50万も100万も大きな兵力という意味では変わらないのですが、ケタが違うとやはり印象が違ってきます。まぁ相手の戦意喪失が目的の一つです。 それから東洋では灌漑がより発達していて、養える人口が一定面積上でも西洋より上回ってます。なので中国では普通に10万単位。日本でも戦国時代末期では関ヶ原で東西合わせて20万近くの軍勢が結集しています。 一方西洋は面積当たりの効率が東洋よりも低いので人口も少なく、現在の国同士の戦いで10万居たら大軍と言えるでしょう。 ただし兵士一人当たりの質というか効率は西洋が上だと思います。 古代ローマ時代では地中海沿岸全域と現在のフランス+α、イギリス、ルーマニア等の広大な領土をわずか30万程の軍で守ってましたし。 参考までに陸上自衛隊は十数万です。それが可能だった理由としては重装備で兵士の死傷率を抑え、張り巡らされたローマ街道で部隊を移動速度を底上げし、現在の世界各国の士官学校の教材になってる戦術を駆使できる人材を数多く擁していた事と、何よりも個々人の士気の高さが理由だと思います。 おっと話がそれましたね。敵味方の判別は意外と容易だったと思います。世界中の甲冑を見てると・・・少なくとも指揮官や有名人の品だと時々「ありえねぇ~」と言える位派手な意匠が施されています。かなり違うのですが、実感したければコーエーというメーカーが出している三国無双などのゲームの甲冑をみるとイメージしやすいでしょう。もっとも現代風にアレンジしてありますが、実際の甲冑はそれよりもインパクトあるものはままあります。 土地の広さに関しては問題無いでしょう。というのも大陸は凄まじく広く、現代よりも建築物が少ない為です。日本でもスケールダウンしてその状況はあてはまるでしょうし、ぶつかる戦力が少ないので大きな問題では無いかと思います。それよりも少ない戦力側はノコノコと広い場所に出たら袋のネズミにされるので狭い場所に誘き出して身動き取れない大軍を翻弄したり、奇襲を敢行して一気にけりをつけたりするでしょう。織田信長の桶狭間が有名ですね。
お礼
そうですよね、やはり、相手の戦意喪失のための誇張もあるでしょうね^^。早速のご回答、ほんとうにありがとうございました^^
お礼
自分の質問に対する回答がすべて網羅され、なるほどと思うことばかりでした^^。特に10人制という刑罰には驚きました。こういうことで、団結と統制に努めたのですね^^。詳しい、そして丁寧なご回答、本当にありがとうございました!!