- ベストアンサー
カタラナウヌスの戦い?
カタラナウヌスの戦い? 予備校で慶応義塾の2006年の過去問に書かれていたのですが、476年にカタラナウヌスの戦いで西ローマが滅びたと書いてあるのですが、その戦いについて調べても全く資料がありません。ちなみにカタラウヌムの戦いではありません。一体何なのでしょうか?
- みんなの回答 (4)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
- ベストアンサー
外国語表記の違いでしょう。 カールがカルロスだったりするのと同じ。 カタラウヌムの英語表記はChalonsだそうで。 他の書き方では何語かわからないけどKatalaunisch?なんてのもあるよう。 これがドイツ語やラテン語で書き方や読みが違ったりする。 仮にアルファベット読みだと「カタラウニス」 ラテン語だと「~ヌス」って名前も多いしラテン語読みなのか? おそらく問題を出した人が自分の専門とする研究分野の言語をカタカナにした。 そんなところではないでしょうか。 アメリカ史なんかだとルーズベルト、ルーズヴェルト、ローズヴェルト。 本によって書き方も色々です。 入試でも教科書の記載名と違うことはありますがなんとなくわかるでしょう。 大学の先生からすれば「なんとなくわかるだろ、空気読めよ。」ってことなんでしょう。
その他の回答 (3)
「誤った記述を選べ」の選択肢ではないのですか。 かな書きからするとCatalanaunusのようですがラテン語の地名だとすればありえない語形と綴りです。
- Mumin-mama
- ベストアンサー率45% (1140/2503)
専門家でないことをお断りしておきます。 西ローマが滅びた原因の一つが「カタラウヌムの戦い」451年であったといっても良いと思います。 それまでも他民族の侵入で傾いていた西ローマ帝国は、カタラウヌムの戦でローマはその力を急激に衰えさせ、25年後の476年にロムルス・アウグストゥルスは即位して一年もたたない476年9月4日にゲルマン人の将軍オドアケルによって退位に追い込まれ、歴史的にはこの出来事をもって「西ローマ帝国の滅亡」としているそうです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%A0%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%AB%E3%82%B9 http://www.google.de/search?q=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%8C%E3%83%A0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84+%E8%A5%BF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%BB%85%E4%BA%A1&ie=utf-8&oe=utf-8&aq=t&rls=org.mozilla:de:official&client=firefox-a#sclient=psy&hl=de&client=firefox-a&hs=lHr&rls=org.mozilla%3Ade%3Aofficial&q=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%8C%E3%83%A0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84+%E5%BD%B1%E9%9F%BF%E3%80%80%E8%A5%BF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%BB%85%E4%BA%A1&aq=f&aqi=&aql=&oq=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%8C%E3%83%A0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84+%E5%BD%B1%E9%9F%BF%E3%80%80%E8%A5%BF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%BB%85%E4%BA%A1&gs_rfai=&pbx=1&fp=66cb0b1e0557dda4 カタラウヌムの戦いは表向きはローマ人とフン族(Hun匈奴の子孫といわれるモンゴル系民族)の戦いのようですが、実質は(キリスト教に改心し、ローマ人側に付いた多数のゲルマン人)+ローマ人対フン族の戦いで、ローマ軍は勝利し、フン族を追い出したのですが、見方の戦死者も多く、その前からのゲルマン民族、ゴート民族、フン族の侵入で西ローマ帝国はほとんど衰えていたのと、その後、体格も勝るゲルマン人がローマ帝国の中で幅を利かせていったことなど、実際には、色々原因があるようで、一つに絞るのは難しいようです。 フン族について、 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%B3%E6%97%8F
- zep19
- ベストアンサー率45% (138/306)
カタラウヌムの戦いは 451年ガリア北部で起きた西ローマ(アエティウス)・西ゴート(テオドリック・トリスムント)連合軍と フン(アッチラ)・東ゴート(ヴァラミール)・ゲピート(アルダリック)連合軍の戦いです 戦いの結果は西ゴート王テオドリックが戦死しますが王子トリスムントが奮戦し ローマ・西ゴート連合軍が勝利 フン族王アッチラはトリスムントに車陣まで追い詰められ包囲されますが 西ゴートの台頭を恐れたアエティウスがトリスムントを説得しアッチラを逃がしました 結果的にアッチラを逃がしたことでフン族の西ローマに対する侵犯は収まりませんでした 西ローマの滅亡は ゲルマン人スキリア族出身の西ローマ傭兵隊長オドアケルが パヴィアの戦いでオレステスを破り戦死させ 476年オレステスの息子で西ローマ皇帝の幼いロムルス・アウグストゥスを退位させ カンパニア地方に追放した事件により西ローマの滅亡とされています