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寺の成り立ちについて

お寺の外観を見ますと、まず石段を上がり、立派な門があり、しっかりした塀に囲まれています。もちろん質素な寺もありますが。 以前に聞いたことがあるんですが、寺は戦国時代の戦の折に侍や足軽等の宿泊施設として作られたと言うことだそうですが本当の所はどうなんでしょうか。 もちろん、一番最初は信仰の為だったんでしょうけど。 豊臣時代にはもう、時の支配者と宗教家とのいさかいもなくなっていたでしょうから、寺に立てこもって時の支配者と戦ったと言うより、他所の大名から攻撃されたときの為の拠点になったんでしょうか。

質問者が選んだベストアンサー

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  • oska
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回答No.5

>寺は戦国時代の戦の折に侍や足軽等の宿泊施設として作られたと言うことだそうですが本当の所はどうなんでしょうか。 正しくもあり、正しくも無い。 本願寺などは、寺院敷地内に雑兵が寝泊りする建物が存在しました。 延暦寺・根来寺も、僧兵が寝泊りしていましたよね。 が、宿泊施設として建てた建物ではありません。 戦国時代でも、民家は狭いですから大寺院を本陣として利用したに過ぎません。 地方では、本陣になった結果「敵の焼き討ちで、本堂もろとも全焼」という寺院も多いのです。 よくありますよね、創建当時は大寺院だったが、戦乱で規模が縮小した衰退した・・・。 >他所の大名から攻撃されたときの為の拠点になったんでしょうか。 その通りですね。 秀吉の命又は許可を受けて築城する場合は、先ず防御を考えますよね。 地形的に見て「弱点」の地域には、意図的に寺院を建立するのです。 計画的に、寺院が一直線に並んでいる城下町も多々あります。 街道から城下町への入り口付近には、大規模な寺院が存在しました。 いざ!と言う時には、砦になります。 また、城から郊外には「庭園」を設けます。 水戸城の偕楽園・高松の城の栗林公園などは、一種の「出城」です。 ※高松藩の場合、菩提寺も出城様式の設計です。 周りを堀で囲み、鯉が泳ぐ池は「有事には、堀」に変身。松は、非常時に実や皮が食料になる。 竹林は、弓矢になります。鯉は、食料や薬ですね。 また、多くの大名庭園内では薬草を育てています。 砦を意識して建立した寺院には、平地部でも「堀」を設けている場合が多いようです。 幕末には、これらの大規模寺院が「倒幕軍VS藩側の対面所」となっている場合が多いですね。 まぁ、都市部は(戦後日本政府が勲章を与えた)アメリカ空軍司令官の命令で無差別爆撃被害を受けましたよね。 結果、多くの寺院が焼けました。また、戦後の都市計画で移転した寺院も多くあります。 地方だと、名残がありますがね。都市部では、古地図で確認した方が面白いです。

kakekomi
質問者

お礼

oskaさんをベストアンサーに選ばせてもらいましたが、他の皆さんもありがとうございました。 皆さんの内容、参考にさせていただきます。

kakekomi
質問者

補足

回答ありがとうございます。 ANo.1さんの補足にも書かせていただきましたが、大阪城の南は平らな地形が続き、唯一の弱点です。 豊臣方も、勝利した徳川方も、南方面にお寺を建てたんですね。 今、各お寺の創建年を調べています。 また何かありましたら、お教えください。 ありがとうございました。

その他の回答 (4)

  • mekuriya
  • ベストアンサー率27% (1118/4052)
回答No.4

そんなことでわざわざ寺は建てません。元からあった寺を宿泊に利用しただけの話。 例えば名古屋の聖徳寺は鎌倉時代に創建されましたが、戦国時代に織田信長と斎藤道三が面会した場所として有名です。江戸時代になって徳川家康が街道の要所に宿場町を整備するまでは、ホテルも旅館も木賃宿も何にもありません。だからそれに代わる施設として寺が利用されたわけです。 仁和寺 御室会館(宿坊) http://www.ninnaji.or.jp/syukubou/index.html 宿坊といって、今でも修学旅行や高校野球などのまとまった人数の宿泊施設として利用されている寺も少なくありません。 北条時頼の廻国伝説を題材にした能の「鉢木」という演目があって旅の僧に扮した前執権・北条時頼が一夜の宿を佐野源左衛門尉常世に求めるという下りがあります。「鉢木」は創作でしょうけど、それぐらい宿泊先を見つけるのに苦労したのは間違いない。 詳しくは説明しませんが寺は時代の要請に応えて、様々な役割を果たしてきたといえます。 縁切り寺、寺子屋ぐらいは聞いたことがありますよね。

kakekomi
質問者

補足

回答ありがとうございます。 その時代その時代の試練に耐えて現代の形になったんでしょう。 ある時期は隆盛を極め、ある時期は時の権力者に従い、私が考えている様にお寺を砦としても使えるように作ったんだと考えます。

  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (817/3047)
回答No.3

戦国時代に武士の宿泊施設として作られた寺はほとんどないでしょう。 侍や足軽のためではなく、僧兵のために要塞のような防御能力をもった寺が作られたのです。 平安時代から戦国時代の中期にかけて、寺は荘園をもち独自の領地をもっていました。 そして僧兵を養い武力をもち、自分の武力で領地を支配し守っていたのです。 これは平安時代に荘園制が敷かれてから、戦国時代後期に大名が力をもち領国内の領地を全て自分で支配できるようになるまで続きます。封建時代は仏教勢力も大名と同様に力をもち大名に武力で対抗して居たのです。 大名が明確に寺社勢力に力で勝るのは、戦国時代の終盤になって複数の領国を支配する強力な力を得てからです。 信長などは石山合戦を10年も戦っています。あの信長の武力をもってしても、一向宗勢力を倒すのに10年かかったわけです。 加賀の一向一揆では、大名を倒し加賀を一向宗が独自支配するまでに至っています。

kakekomi
質問者

補足

回答ありがとうございます。 戦国時代以前は、自分達の宗派を守る為に、砦の様な構えの寺院、神社を作ったんですね。 現在社会も厳しいですが、昔はもっと厳しかったんでしょうね。 ありがとうございました。

回答No.2

日本最初の寺は 飛鳥寺(方興寺)です 蘇我稲目が自分の屋敷を清めて百済から伝わった仏像を奉ったのが始まりと言われています

kakekomi
質問者

補足

回答ありがとうございます。 「飛鳥寺」で検索しましたら、いろいろ載っていました。 昔、学校の歴史の時間で聞いた言葉が並び、なつかしいでした。 何かの折には又回答お願いいたします。

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.1

いろんな寺がありますので、一様には言えませんが。 戦国時代云々 これは、寺内町とかの話かと http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E5%86%85%E7%94%BA こちらは一向宗ですね また本能寺の変で有名な本能寺は法華宗ですが、 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E4%B8%80%E6%8F%86 法華一揆などで、戦闘拠点でもありました 足軽等というか、信長の定宿という小規模な砦となっております。 寺は戦国時代の戦の折に侍や足軽等の宿泊施設として作られたと ↓ これは、上にあげたように、 「寺自体が、宗教グループの防衛能力を持った拠点になった」 ↓ 「戦国大名の一円支配の中に組み込まれる」 ↓ 「施設として、宿泊などもできるようになった」 というような流れです。 京都の場合 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%9C%9F%E5%B1%85 御土居という、京都防御の惣構えが秀吉によって作られ、お寺は惣構えの中での防衛拠点として位置づけられています。 他の城下町も同様です。 寺に立てこもって時の支配者と戦ったと言うより、他所の大名から攻撃されたときの為の拠点 ↓ 上記に書いたように、最初はお寺が独立した武装集団。それが武装解除され、城下町の惣構えの中に組み込まれた(現在の本能寺が、本能寺の変の場所に無いのは、秀吉が御土居の惣構えをした時に移転させたからです)

kakekomi
質問者

補足

回答ありがとうございます。 今私が興味を持っていますのは、豊臣幕府が徳川からの攻撃に備えて、大阪城の弱点である南方面を守る為に、あちこちに独立した砦としてお寺を作ったのではないかと考えました。 大阪の天王寺区は特にお寺が集中しています。 大坂の陣後に創建されたお寺もおおいですが、1600年頃に作られたお寺が、砦の意味を込めて作られたのではないかと予想して、今調べているところです。 何かご存じでしたらまたお知らせください。

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