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足軽について
- 足軽の出身身分や役割について、戦国時代における変遷や重装備の装備状況について調査しています。
- 足軽の起源や雇用主の範囲について、戦国時代における社会的な位置づけや役割の変化について調査しています。
- 戦国時代における足軽の分捕り行為とその違いについて、日本と西洋の戦術や目的について比較しています。
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>4 「兵卒の身分は依然として武士と農民の間に位置して低かったが、」とあるのですが、戦国時代には、殿様の録をはみ、殿様専属の戦闘員として戦に参加した「武士としての足軽」と、普段は農業を営み、副業として戦に参加した「農民としての足軽」の2種類の足軽がいたと理解してよいのでしょうか??? 2の質問の回答に追加すると、足軽の一部(大部分?)は普段は農民で、戦に出るときに足軽として出征してました。 この構図が大きく変わったのが織田信長で、彼は流れ者を雇って足軽としました。 いわゆる、専業の足軽を作ったのです。 また信長は、武士たちを城下町に集めました。 それまでの武士は、普段は田舎で生活して、戦で招集されると配下の農民を率いて出征したのですが、武士たちを城下町に集めて、率いる足軽を農民ではなく、流れ者を雇ったのです。 その結果、織田軍団は、農閑期だけでなく1年間ぶっ続けで戦える軍隊となり、日本統一を加速化させました。
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- cse_ri3
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>3 「戦国時代を迎え集団戦が本格化・大規模化していくと、」とあるのですが、この要因として「鉄砲の伝来」が影響していると考えてよいでしょうか???影響しているとしても、どのように影響したのか分かりません。他の要因は何でしょうか???農業生産高なんかも関係するのでしょうか??? 鎌倉時代の主力は騎馬弓兵だと書きましたが、以後の時代でも鉄砲伝来までは騎馬弓兵は最強戦力でした。 離れた距離から、長弓を使ってぶんぶん矢を射ってくる騎馬武者は、残念ながら槍をもった足軽では勝てません。 足軽の側が盾に隠れて矢を射ても同じです。今度は馬で突撃してきます。 矢で射ても、騎馬武者の大鎧はたいていの矢を受け止めてしまいます。 その構図が崩れたのが、鉄砲です。 火縄銃の射程は100メートルくらいですが、騎馬武者の大鎧も簡単に打ち抜きます。 鉄砲の登場で、駆られる側の足軽と駆る側の騎馬武者の関係が、逆転しました。 以後の騎馬武者は、鉄砲での狙撃を恐れて、戦場では馬から降りて戦うようになりました。 単騎での戦闘力は誇れなくなり、以後は集団戦の指揮官となります。 農業の生産高のことは、今は思いつきません。 何か思い出したら、後ほど回答します。
- cse_ri3
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>2 「また、足軽を雇ったのは大名といった武家に限らず、東寺など寺社勢力も自衛のために足軽を雇った。」とあるのですが、普段、雇われていないときは、どんな身分で何をしていたのでしょうか??? これは西欧の事例ですが、傭兵たちの平時の商売は山賊です。 戦いのときだけ、貴族に雇われて戦場に行ったのです。 足軽たちも、戦場で暴行・略奪に勤しんでいたとあるので、平時の時も同じことをしていたと考えられます。 また、悪党に雇われた足軽たちは、平時は船員や護衛などの職業に就くものもいたでしょう。
- cse_ri3
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質問が多いので、分割して回答します。 >1 「伝統的な戦闘形態は個人戦から集団戦へと変化し始め」とあるのですが、この変化の要因は何でしょうか??? 鎌倉時代の主力は、騎馬弓兵です。ですが、馬を養うには土地が必要です。 しかし、鎌倉末期にかけて得宗専制が成立すると、戦乱による武勲を立てる機会が減り、土地をもらえなくなってきました。 そこで騎馬弓兵が増やせなくなったことや、他に悪党の台頭もあったので個人による騎馬弓兵の戦いから、足軽による集団戦が増えたのではないかと思われます。
- doraneko66
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全て個人的な見解ですが。。。 1 下克上から、武家出身じゃない人からも武士と名乗り 戦いに参じるようになり、指揮官が武家の武士とは限らなくなってきたから、武家の武士のような伝統的な名を名乗り、大将同士の戦いで勝負が決まるみたいなのがなくなったのだと思います。 個人戦では凄腕同士が、的当てで勝敗決めてとかもあったと聞きます。 2 様々だと思います。 百姓であったり、野武士みたいな盗賊だったり、士官を求め放浪する野武士だったり、食ってはいけないと商人をしながら、放浪していたりだと思います。 油売りの斎藤道三、祖父が薬売りの黒田如水、盗賊だった蜂須賀小六、海賊だった村上武吉、農民だった豊富秀吉などなど 3 鉄砲ってよりかは、野武士から成り上がった武将と戦う時に伝統的な儀式や戦い方が通用しなくなったからだと思います。鉄砲以前から集団戦は大規模化していると思います。特に応仁の乱以降、盗賊が増えて村同士、農民と盗賊同士など戦いが増えていたのだと思います。 4 それを採用したのが、織田信長と言われてます。 城内で相撲を取らせて、強い奴を専属の足軽にしてた。とか それまでは、農民や盗賊を雇って戦っていたと思います。 5 国々によると思います。 重装備を支給してたと言うより、死体から甲冑を剥ぎ取っていたこともあるから、重装備になってきたのだと思います。 6 野武士だと思います。 生活は、盗賊だったり、商人だと思います。 転々と戦いのあるところに参戦していた人も いると思います。 7 主に宗教戦争的なところや資源を奪うところ だと思います。 その頃西洋は、大航海時代だったと思いますので 土地そのもの支配を目的としていたから、富を 奪って帰るみたいところではなく、宗教で洗脳させたり、武力で土地の支配権を取り原住民を追い出したり、奴隷にしたりしてヨーロッパから人を住まわせ、奴隷に土地を耕せ、その資源で商売をさせて、最終的には国に税金を納めされる形だと思います。
お礼
すべてにご回答いただき、ありがとうございました。 7 主に宗教戦争的なところや資源を奪うところ だと思います。……参考になりました。
- rikimatu
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1に関しては恐らく大きな要因としては元寇で外国の軍隊と戦った事でしょうね。今まで日本の戦い方としては「やあやあ我こそはどこどこの何輩で父はなになにの」と自己紹介してから相手も「我こそは」と自己紹介してやり始めるみたいな感じみたいで元軍はそんな作法も知りませんから自己紹介を始めた途端、グさっと刺されたでしょうし。 2に関しては応仁の乱とか言われる時代だと京の町に浮浪者や焼け出された人も石を投げれば当たるみたいな感じでいたので雇い入れるという感じみたいです。今でいう傭兵みたいな感じでこれも1で言う集団戦に変わった要因の一つだと思います。 戦国時代に行くと足軽は6番で普段は農民です。 当時の戦はほぼ農閑期に行っていました。戦国大名辺りは飢餓など食料確保などの考えで農民としたらまあ出稼ぎというか農閑期の臨時収入として言っていたみたいです。給料なんて貰えなかったから、略奪や奴隷狩りをしていて収入を得ていました これは黙認されていたみたいで上杉謙信も率先してやってました。 ちなみに市で売買の相場は一人約30万位で売られたのですが戦の直後は一人約4千円まで下落したみたいですよ。 これまたちなみに、織田信長は武田信玄や上杉謙信より勝率としたら低かったのでどうしたら勝てるかと考えたら常時動ける軍隊を作るというので兵隊に給料を出す事で兵農分離をしたみたいです。
お礼
1 元寇で外国の軍隊と戦った事でしょうね。……納得できますね。元寇の影響というか、外国と戦うということは、大きな影響を及ぼしますね。 2 に関しては応仁の乱とか言われる時代だと京の町に浮浪者や焼け出された人も石を投げれば当たるみたいな感じでいたので雇い入れるという感じみたいです。……都は壊滅状態だったようですから、当然浮浪者も多かったでしょうね。 これも1で言う集団戦に変わった要因の一つだと思います。……戦う技能もさりながら、数も重要になったということなのかも。 農民としたらまあ出稼ぎというか農閑期の臨時収入として言っていたみたいです。給料なんて貰えなかったから、略奪や奴隷狩りをしていて収入を得ていました……今調べているところなのですが、「足軽の生態」とでもいうのでしょうか、興味深いですね。 これは黙認されていたみたいで上杉謙信も率先してやってました。……越後は食料の生産量が少ないので、略奪の目的もあったというようなことは、何かで読んだ記憶があります。 織田信長は武田信玄や上杉謙信より勝率としたら低かったのでどうしたら勝てるかと考えたら常時動ける軍隊を作るというので兵隊に給料を出す事で兵農分離をしたみたいです。……そうですか。楽市・楽座などで、常備軍を持てるほど経済的に豊かになったということもあるのかもしれませんね。
- tzd78886
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足軽というのは「臨時雇いの兵士」ですから、契約が切れればそれ以外の仕事を渡り歩いていました。その多くは農民です。木下藤吉郎みたいに実家から飛び出して放浪していたり、家業を継げない次、三男以下の男性が自分の食い扶持を得るためにやっていた例が多かったようです。藤吉郎のように出世したりしたのは例外中の例外で、大半は出世欲も無ければ教養も財産も無く、主君も単なる金蔓としか考えていないものが大半でした。
お礼
ありがとうございました。
お礼
ありがとうございました。 どのご回答も「目からウロコ」という印象で、私の歴史知識の範囲を超えていました。参考になりました。「歴史」って奥が深いことを改めて知らされました。 >3 「農業生産高なんかも関係するのでしょうか???」と想定したのは、農業生産の向上が、普段は、暇を持て余しているゴロツキの足軽への雇用の拡大につながったのではないかと、……素人のあて推量です。笑ってやってください。