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映画と精神分析の共通するところ
- 映画と精神分析は共通点があるのか疑問に思っています。どのような共通点があるか教えてください。
- 映画と精神分析は同じ時代に生まれ、カメラの視線と精神分析の第三者の視点に共通点があります。
- 映画と精神分析は同じ時代に生まれ、思想史的に共通する幹を持っています。共通する土俵について教えてください。
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いまのわたしたちは映画を見ることがもはやめずらしいものでもなんでもなくなり、映画館で見ることすらまれになっています。そのため、映画が登場したとき、いったいどのような衝撃を人びとに与えたのか、理解することが逆にむずかしくなっています。 けれども、映画誕生からほどない時期のベルクソンの『創造的進化』から始まって、バルトやラカン、ジジェクなど、非常に多くの思想家が映画について、考察し、言及しています。つまり、それくらい「映画」というのは、わたしたちのものごとの見方を根本から変えてしまったものだったといえるでしょう。 それを知るためには、そもそも映画というのはどのようなものなのか、ほかの、たとえば小説や、写真や、絵画とどのようにちがっているのかを、もう一度考えてみることが必要かもしれません。 たとえばベンヤミンは『複製技術時代の芸術作品』のなかで、 「人間の歩行について、大まかにではあれ誰でも説明できるのが、通例だとしても、足を踏み出す何分の一秒かの瞬間の動きについては、ひとはたしかに何も知らない。ライターや匙をつかむおなじみの動作について、ぼくらは大まかには承知しているものの、そのさい手と金属とのあいだに本来どういうことが生じているのかは、ほとんど知らない。まして、ぼくらの心理状態の差異に応じてその点が堂微妙に変化するかなど、分かってはいない。こういうところにカメラは、そのすべての補助手段――パン・アップやパン・ダウン、カット・バックやフラッシュ・バック、高速度撮影や低速度撮影、アップやロング――をともなって、介入してゆく。精神分析によって無意識の衝動を知るように、ぼくらはカメラによって初めて無意識の視覚を体験する」(p.176-177 野村修訳「複製技術時代の芸術作品」 多木浩二『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』所収) と、映画による映像というものがどういうものであるか、精神分析とパラレルな関係にあるものと位置づけて、読み解いていきます。 では、どうして映画はこのように > 精神分析による第三者の視点 として語られるのでしょうか。 このご質問には、以下の文章が参考になるのではないかと思います。 「映画を見るときに、われわれは映画館の闇のなかに座る。すると、われわれの背後から一筋の光が投げかけられて、それが前方のスクリーンに実物大の、いや、それ以上の大きなイマージュを投影する。そして、そのイマージュは、運動するリアルなイマージュであるのだが、しかし現実にはけっしてありえない仕方で断片化されており、その断片がモンタージュされているのである。 こうしたイマージュの投影の一切は、実は夢に似通っている。つまり、夢が、闇のなかでわれわれの無意識という背後の光源が投影するモンタージュされたイマージュの連なりであるのと同じ構造を映画は備えている。映画とともに人間ははじめて、夢というみずからの無意識の秩序と共延長的なメディアを確立したのだとも言えるのだ。(…略…) 映画を見るとき、われわれは、あたかも無名の誰かの夢を、無名であるがゆえにまたわたしの夢ともなりうるような夢として見るのだ。そこには、夢の分有という無名のコミュニケーション、ほとんど神話の生誕にも比すべき、無名の共同性の出現がある。すなわち、映画が夢であるとしても、その夢は、現代の社会におけるある種の共同性に裏打ちされた神話性の誕生としての夢なのである。」(p.118-119 小林康夫「映画」『哲学の木』所収) 以上、何らかの参考になれば幸いです。
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- Oubli
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デビッド・リンチのMulholland Drive フロイトの、夢は記憶の断片を再合成して潜在的欲望を表現するという、そのままの映画だと思います リンチがフロイトのことを意識していたかどうかは知りませんが
お礼
ありがとうございます。 大変よい映画を教えていただきました。 じつは、私はデビットリンチ作品をろくに見たことがありません。 ですが、私がこのような質問をするにいたる経緯には、 デビットリンチは大きく関係していて、 なにか運命的なものを感じさせられました。 デビットリンチには、なにかゾッとさせられるところがあります。うまくいえませんが。 いつか、この作品を観る機会があるかもしれません。 一生ないかも知れません。どちらでもよいです。 きっとすばらしい作品でしょうから。
補足
ありがとうございます。 私が求めているのは、 「精神分析を用いたor扱った映画」の個別ケースではなく、 「精神分析と映画」が共通する地平です。 ですが、この映画のことを調べたら面白そうなものが見つかりました。 wikipediaからです。 以下引用 「デヴィッド・リンチによる10個のヒント 以下は、リンチにより提示された、ストーリーを理解するためのヒントである。映画公開時は、オフィシャルサイトにも掲載されていた。 映画の冒頭に、特に注意を払うように。少なくとも2つの手がかりが、クレジットの前に現れている。 赤いランプに注目せよ。 アダム・ケシャーがオーディションを行っている映画のタイトルは? そのタイトルは再度誰かが言及するか? 事故はひどいものだった。その事故が起きた場所に注目せよ。 誰が鍵をくれたのか? なぜ? バスローブ、灰皿、コーヒーカップに注目せよ。 クラブ・シレンシオで、彼女たちが感じたこと、気づいたこと、下した結論は? カミーラは才能のみで成功を勝ち取ったのか? Winkiesの裏にいる男の周囲で起きていることに注目せよ。 ルース叔母さんはどこにいる?」 引用以上 何気なく映画を見てしまうと、見逃してしまうこと、これが「無意識」とつながりがあるのではないかと思いました。 それを監督が見落とすことのないように指示すること、ある種の「正解」があること、 が非常に面白く感じました。 私たちの「意識」が見落としてしまうこと、それを「カメラ」はすべて拾い上げます。 「無意識」とは、こういうことではないか、と感じさせられました。 どなたかご意見ください。 以前、藤田まことの刑事ドラマを見ていたら、 ストーリーとは何の関係もなく用いられるティーカップに、 「麻の葉っぱマーク」が視聴者にはっきり見えるように記されていて、 製作者の(藤田さんの?)見えない意図のようなものに驚かされたことがあります。 同様の例では、比較的最近騒がれた、 「8/7のフジTVのドラマで、主役がフロントに「fool on the hill friends」、バックに「little boy」とプリントされたTシャツを着ていました。」というのがありました。 「無意識」、「カメラのはたらき」、って、こういうことですか?
- foosun
- ベストアンサー率12% (13/104)
映画に特有な性質なんか無いと思います。 なので小説やTVドラマにも同じことが言えると私は考えます。 だからmultiphaleさんの聞きたい事について私は回答できません。悪しからず。
お礼
いえいえ、ありがとうございました。 とてもよいヒントでした。 ご自身でお考えになったご回答をいただけるのはうれしいことです。
補足
そういわれてみると。 どうして精神分析が、「映画」と特別な関係にあるように扱われるんでしょうか。 「小説」じゃダメなんでしょうか。
- foosun
- ベストアンサー率12% (13/104)
フロイトの見解の中心に、「氷山の下の意識」という考え方があります 要は無意識です 人間には意識できる意識と意識できない意識がある で、映画を見ているときの視点は無意識なんだと思います なぜなら映画の中の人物が得をしようが損をしようが自分には関係がない、素直にその映画にリアクションできる ということは、映画を見ているときのリアクションを分析することはそのままその人物の無意識を分析する、つまり精神分析になりえます こういう事じゃないか? 精神分析って無意識に焦点を当てるものだから、無意識というキーワードを考えれば映画との関係性が見えてくると思います!
補足
ありがとうございます。 「無意識」というキーワードを出してくださったおかげで、 映画と精神分析の関係が整理しやすくなりました。 「映画を見ているときの視点」=「無意識」とされましたが、 その場合の「映画」が、「演劇」や「小説」であってはいけないのでしょうか。 「映画」でなくてはいけない必然性があまり感じられないように思います。 ですが、おかげで問いを立てやすくなりました。 精神分析において、「カメラ」にあたるものは何ですか。 「カメラ」はいったい何を見ているのですか。 映画の中で、「寝椅子に座っているひと」は誰ですか。 「分析者」の位置にいるのは、役者ですか、観客ですか、批評家ですか。 「観客」の「リアクション」=「無意識」を分析することが、「精神分析」となると、 「映画そのもの」はいったい何にあたるのでしょうか。 拝
- amaguappa
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> ざっくりとしたことにお答えできるかたがいらっしゃらないというのに、 > 絞り込んだ質問にお答えしてくださるかたがいらっしゃるとは思えません。 そうでしょうか。そうかもしれませんね。 「映画における主体とは、視点と話法によるのでしょうか?」 「精神分析は、直接話法的介入と間接話法的介入によって、どのような違いがあるでしょうか?」 「近代的自我における主体とは、語ること/語られること、見ること/見られることにどのように捉えられるのでしょうか?」 「室内空間で一人で経験することは近代思想史的にどのような意味があるのでしょうか?」 「回想とはどのように表象可能なものですか?」 「マネのフォリー・ベルジェールの表象を分析してください」 などなど面白い質問があなたの中に生まれると思います。 何が聞きたいかによってすでに何が答えられようとしているかが描かれますが、 同時に、誰が答えられるかも縁取ってくれそうです。
補足
ご回答ありがとうございます。 「こたえは問いのなかに含まれてる」ということを教わったことがあります。 私の求める回答へといたるために、「面白い質問」を立てるだけの知識も教養も備えておらないため、 このような雑な質問をいたしております。 あなた様は、たいへんに知識も教養も豊富な方とおみうけいたします。 私が何を聞きたいと願っているのか、私の教養の程度がどの程度であるか、あなた様はおおむねご理解されてるように感じます。 あなた様の提示くださった「面白い質問」は、私の聞きたいことの一歩先を行っておるように感じ、私には理解できません。 私の知りたいことは、 「誕生が同時期でもある、映画と精神分析はどういう点で同じであるといえるのか」 です。 願わくは、私の知識レベルにまで天下ってご回答くださることです。 単なる知識の披露や馴れ合いでしたら、無用に存じます。 拝
- foosun
- ベストアンサー率12% (13/104)
amaguappaさん ドュルーズのような(一見)机上の空論を展開する学者を最初に勧めるのはいかがなものかと思いますけど
補足
あなた様は私に何を勧めてくださいますか?
- amaguappa
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ドゥルーズは読まれましたか? もしくはドゥルーズ研究周辺の読み物は? 大学3~4年生のレポートや卒業論文や修士論文にふさわしいテーマについて、 読むだけでも大変な書物をダイジェストしながら メタ分析・メタ批評的に回答してくれる人がここにいるとは思えません。 映画の定義や手法や定石と、精神分析の定義や手法や定石とを、それぞれご自分で探ってみてはいかがでしょうか。 映画の起源や誕生をより思想史に踏み込んで描き出すのには労を要します。 おなじく、精神分析の起源や誕生を思想史に踏み込んで描き出すのも一仕事です。 それぞれの専門書から吸収したあと、きっと絞り込んだ質問ができるようになると思います。
補足
>大学3~4年生のレポートや卒業論文や修士論文にふさわしいテーマについて、 読むだけでも大変な書物をダイジェストしながら メタ分析・メタ批評的に回答してくれる人がここにいるとは思えません。 とのことですが。 >それぞれの専門書から吸収したあと、きっと絞り込んだ質問ができるようになると思います。 ざっくりとしたことにお答えできるかたがいらっしゃらないというのに、 絞り込んだ質問にお答えしてくださるかたがいらっしゃるとは思えません。 あなた様からいただいた回答は、まったく意味をなさないように思えます。 「専門書を読め」ということでしたら、せめてその専門書をに誘導していただきたかったです。
お礼
ありがとうございました。 たいへん、参考になりました、 というより、タイトルにある質問内容について、 わたしはこれ以上の問いを立てることができません。 的確な引用ありがとうございました。 ベストアンサーといたします。 ベルクソン、ベンヤミン、バルト、ラカン。 これから彼らの著作に直接あたって、この問題について考えようと思います。 「映画とともに人間ははじめて、夢というみずからの無意識の秩序と共延長的なメディアを確立したのだとも言えるのだ。」 結論ありがとうございます。