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観察力を活かした自明性に基づく行動の基礎
- 自明性に基づいた行動の基礎は観察力であり、それは既存の知識概念に頼らずに物事を観察する力である。
- 普通の人々は知識概念に頼って行動しているが、真の観察力を発揮すると自明性に基づく行動が可能となる。
- 観察力を活かすことで、判断や理論に頼らずに行動することができ、これが悟りの一部であると言える。
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質問者が選んだベストアンサー
>これを現代西洋風な学問用語で言えば何になろうか? 概念の外にある事物によって直接限定される直接的な認識の「直観的認識」。換言すれば、以前の認識によって限定されない認識。 しかしながら、論理学者であるバースなどは、このような認識は不可能であると結論づける。例えば、感覚が意識に直接与えるセンス・データは、それ自体、判断でも認識でもない。認識は必ず、二項的な判断の形(主語ー述語)をとるので最初の瞬間というものもなく、判断の瞬間もなく、むしろ連続的な過程において生じるのである、と。
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- kanto-i
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No.2です。 お礼ありがとうございます。 動画、見ることができました。 ありがとうございました。 苫米地英人さんは、昔本を読んで以来なので懐かしさもありました。 >目的のない観察というのが至高の状態と思っています。 目的のない観察とは「認識」のことではないかと思います。 受容できないと、人の認識は歪みますが 受容できるようになると、おきている事象が真っ直ぐ認識できるようになります。 いずれにせよ、お話しできて楽しかったです。 またの質問を楽しみにしています。
お礼
回答ありがとうございます。 >受容できるようになると、おきている事象が真っ直ぐ認識できるようになります。 そのとおりですね。
- ukiyotonbo
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>これを現代西洋風な学問用語で言えば何になろうか? 自由だな。
お礼
なかなか味のある回答ありがとうございます。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
これまでの回答と今後の投稿を 放棄します。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
No.1&6です。 ★★ (趣旨説明欄) ~~~ 知識概念と自分を中心とした重要性という物語から離れてはじめて真の観察力は生まれるのである。 そして、真の観察力を発揮すれば自明性に基づいた行動があるのみである。 そこには判断も理論も出る幕はない。 これが悟りの内容の一部であろうと思う。 ~~~~~~~~~ ☆ この命題に対して 異議をとなえている回答を寄せて来ています。 ★★ 知識概念と自分を中心とした重要性という物語から離れてはじめて真の観察力は生まれるのである。 ☆ 重要性という物語は 人と人との関係性という意味において 離れてはいけないというのが ひとつの異議です。 そんなふうにもっぱら自己を無化したことだけによっては《観察力》は生まれない。とも物言いをお伝えしています。 同じく《関係性》を離れては ものごとの《自明性》は得られない。これも 物言いの内容です。 丸太の一本橋を両側から渡り始めるという情況で どちらが先に渡るか? これは 純粋意識だけでは自明性を持ち得ず 観察力も生まれ得ない。ということを示すための事例です。 すなわち ご自身でそのことを主張するかたちにさえすでに成っています。 ★(No.6お礼欄) 情報の一部しか提示されていない問いを観察しろというのは鬼の所業です。 言いかえると 苫米地英人が 《母親もボールペンも まったく同じく重要である》のが《さとり》だと言ったとき それに対しては 自己無化だけによる自明性は観察力をもたらさないので さとりではないという回答内容をも寄せています。 つまり せいぜいが論理的な数学版としてのさとりでしかないのだと。 丸太橋を先にどちらが渡るかの解は 一概に決まらないとは わたしが言っています。 ☆☆(回答No.6) むろんどちらが先に渡るかについての正解は 複雑です。一概に決まるとは思えません。 そうして 自明性と観察力を 純粋意識において得るためには さらに同時に関係性という見方を必要とするという意味合いのことを やはりご自身が言っているということに顧慮をはらってみてください。 ★(No.6お礼欄) まあ、この解も相手がドラ息子だったり、こっちが命に関わっていたりといった情報を追加すると解が変わってくるわけです。 ★★ 万物に対する受容 ☆ は どうなりましたか? このように皮肉っぽく対話をすすめると いやがられることは承知の上で いわば もぐさんの度量をためしています。 なぜなら 人間の度量をめぐる全受容をとなえたのは ご本人だからです。
お礼
>そうして 自明性と観察力を 純粋意識において得るためには さらに同時に関係性という見方を必要とするという意味合いのことを やはりご自身が言っているということに顧慮をはらってみてください。 だから、関係性というものが不要とは言ってないでしょうが。 No.1のお礼にも以下のように述べてます。 他者との関係を否定しているわけではなくて、まず<純粋意識>といわれるような境地に達して、それを基点に世界と関わるのが実が大きいのではないかということなのです。 ただし、”純粋意識において得るためには さらに同時に関係性という見方を必要とする”とは述べていないのですが。 どこで述べました?
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
No.1です。 かつて 丸木の一本橋を渡ろうとしたら 向こうからもちょうど 渡ろうとしている人がいる。どうしたものか。見ると あ ちらは 従者をしたがえている。こちらは 独りっきり。 ならば 社会という見方から言って あちらのほうが 仕事を増やしておりその共生にとってより良いハタラキが ある。 よって こちらはゆづろう。相手を先にわたらせようと 判断した。 というような趣旨の話がありました。(パスカルでしたか)。 それでは もし苫米地英人の言うように 《ゴータマブッダにとっては――その《さとり》にあっては―― 母親とボールペンとは どちらもまったく同じく重要である》というのでしたら そしてそのような自己無化における純粋意識においてでしたら いったい丸木橋をどちらが先に渡るのが人間性とダルマに照らして良いのか? この問いについて《自明性》として答えは出て来ましょうか? どういう《観察力》が発揮されましょうか? という問題が 《関係性》のもんだいにはある。とお伝えして来ております。 早くハッキリ言えば 《空観のもとに見る縁起》の理論も必要ではないのでしょうか? つまり 純粋意識と同時にです。 むろんどちらが先に渡るかについての正解は 複雑です。一概に決まるとは思えません。 あっ相手はよく見ると 天皇陛下だ。という場合 果たして決まるか? たぶん 相手が わがマドンナだとすれば 言わずもがなではありましょうが いったい一般の事態としてまたその理論として 《自明性と観察力》は どういう答えを出しましょうか? ★ ~~~ 他者との関係を否定しているわけではなくて、まず<純粋意識>といわれるような境地に達して、それを基点に世界と関わるのが実が大きいのではないかということなのです。 ~~~~~ ☆ どうも《その実が成るかどうか》さえが まだあやふやなのです。
お礼
回答ありがとうございます。 お互いに見ることができる夜空の月を観察して感想を聞かせてくれというのはまだ可能ですが 情報の一部しか提示されていない問いを観察しろというのは鬼の所業です。 >社会という見方から言って あちらのほうが 仕事を増やしておりその共生にとってより良いハタラキがある。 よって こちらはゆづろう。相手を先にわたらせようと判断した。 これもひとつの解ではあります。ひとつのね。 そして、この解を知識概念化したものが「社会的礼儀」というものになるでしょう。 まあ、この解も相手がドラ息子だったり、こっちが命に関わっていたりといった情報を追加すると解が変わってくるわけです。
- NemurinekoNya
- ベストアンサー率50% (540/1073)
No3のお礼、ありがとうございます。 ちょっと重箱の隅突き。 ~~~~~~ >原始的・未開状態の人が、マイナスのネジとドライバーを目にし、この両者の関係性に気づくのか、それすら疑問です。そうであるとするならば、その自明性には文化・文明的要因が関わっていることになる。 気付く人間が天才ということになるでしょう。 ~~~~~~ 「自明性に気づくことができるのは、天才(のみ)」ということですか? つまり、万人には「真の観察力」はなく、一部の人間のみ「真の観察力」という先天的な能力を有すると。。。。 重箱の隅突きです。 質問者の考えを正確に知りたいもので。
お礼
回答ありがとうございます。 >「自明性に気づくことができるのは、天才(のみ)」ということですか? 天才論とかになると手に負えないので、自我の薄い者と修正しときます。
- NemurinekoNya
- ベストアンサー率50% (540/1073)
bragelonneさんに先を越されてしまった。 もっとも、ケノーシスは浮かばなかったけれど。。。。 アパティアやアタラクシアも少し似てるような気がするけれど、 やっぱ《エポケー》が最も相応しいのでしょう。 この質問における自明性の例、マイナスのネジとマイナスのドライバーですけれども、この両者の自明性は、両者の関係性の存在を抜きに語ることはできないでしょう。ここにおける自明性とは、アプリオリなもとして与えられたネジとドライバーの関係性にすぎない。 さらに、戦史時代の原始的・未開状態の人が、マイナスのネジとドライバーを目にし、この両者の関係性に気づくのか、それすら疑問です。そうであるとするならば、その自明性には文化・文明的要因が関わっていることになる。 また、ピカピカと光るドライバーの金属部分に対して神性を見出し、それを神として崇め立てることもあるかもしれない。ありえない話ではない。だとすれば、ここにおける自明性とは何を意味するのであろうか。存在する事物に新たな価値を創造することも自明性に含まれるというのか。もしそうであるとするならば、これを自明性の名で呼ぶことが可能なのか。わたしは違うと思います。 真の観察力。いい言葉ですね。そして、非常に小ズルい概念。あてはまらない事象はすべて、「真の観察力ではない」と言えばいいんですから。
お礼
回答ありがとうございます。 >原始的・未開状態の人が、マイナスのネジとドライバーを目にし、この両者の関係性に気づくのか、それすら疑問です。そうであるとするならば、その自明性には文化・文明的要因が関わっていることになる。 気付く人間が天才ということになるでしょう。 文化・文明的要因とは結局、ある知識概念の体系の馴染みというものでしかないわけだと思うのです。 >また、ピカピカと光るドライバーの金属部分に対して神性を見出し、それを神として崇め立てることもあるかもしれない。ありえない話ではない。 確かにそういうこともありうるのですが、神性を見出すことは想像の作業になります。 十人十色で神を見出すのですから科学や技術の誕生とは無縁のものでしょう。 >存在する事物に新たな価値を創造することも自明性に含まれるというのか。 科学や技術とは創造するものではなく、潜在的にある可能性を発見するものだと思います。よって、創造することは自明性に含まれないでしょう。
- kanto-i
- ベストアンサー率30% (180/596)
動画ありの表示が出ているのに、動画が表示されず見れません。 ちょっと残念ではあります。 悟りとは、理性と感性を同時に満足させることができるものだと思います。 それは前提条件ではなく、人が理解するということは それがすでに前提となっているからです。 多くの理解ができる根底に「悟り」があるのではなかと考えています。 観察は、最初から目的があり観察に至る訳ですから 悟り自身は特に何か目的を含んでいる訳ではないので一部とならないかなと思います。 ですから、学問用語は存在しないのではと思います。 ただ、私が知っているのは自分の内面がどの方向性に向かっているのかを観察し認識すること。 方向が違うと感じれば、それを修正して行くことで悟りに近づくと言うことです。 東洋的に言えば、「あるがままを観じること」に観察という行為が必要だと思います。 たとえば、誰かの言葉に腹が立ち一言いってやろうとしたとき その時の自分の内部の方向性が「嫌み」の方向を向いているのか 「上げ足」の方向を向いてるのか、事実だけを述べようとしているのかなどを観察します。 その観察の中で自分に対して方向が違うなと気がつけば、その後行動修正ができるかなと。 そんな中で、ゆっくり悟り(様々な理解)に向かうのだろうと思います。 ですから >自明性に基づいた行動の基礎は観察力 というのは、特に外れていると思えません。 観察力は途中経過に必要とされる行為の一部であると思うからです。
お礼
回答ありがとうございます。 >動画ありの表示が出ているのに、動画が表示されず見れません。 YOUTUBEに動画はありますので、検索をかけてみてください。 >観察は、最初から目的があり観察に至る訳ですから 目的のない観察というのが至高の状態と思っています。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。しつこく 《関係性》が大事だという回答を重ねて投稿します。 ★ ~~~ これが悟りの内容の一部であろうと思う。 これを現代西洋風な学問用語で言えば何になろうか? ~~~~~ ☆ たとえば ○ ケノーシス(からっぽにする/ なること。自己無化) ○ エポケー(判断中止)および純粋意識 ○ 〔ちなみに〕 もののあはれを知る。 いづれの場合にも 《生活世界》〔の中におのれがいるということ〕が同時に基礎として大事だと思われます。 * 関係性のもんだいは ★ 例えで言えば、マイナスのネジとマイナスドライバーは関係するという知識である。 ☆ というかたちを やはり《ひと》という観点から捉えた世界の図柄だと考えます。 ですから 縁起説および空観は――苫米地英人は 二の次だというふうな言い方でしたが―― ここで生きます。 なぜなら 自己無化は 自己がそうなるという自覚はあるからです。つまり はじめから《わたし》でありおしまいまで《わたし》でありつづけるという意味です。 ★ ~~~~ 知識概念と自分を中心とした重要性という物語から離れてはじめて真の観察力は生まれるのである。 そして、真の観察力を発揮すれば自明性に基づいた行動があるのみである。 そこには判断も理論も出る幕はない。 ~~~~~ ☆ それでも 世界に対して世界のなかで純粋意識となっている《わたし》はいるからです。 しかも 生活世界が大事だというのですから――たしかに言うのですが―― その自己無化した《わたし》は いま展開している世界について《判断》もおこない《理論》をも提示するというわけです。 なぜ《純粋意識》のままにとどまらないか? 人と人との関係性が それぞれの人間の《わたし》の基礎だからです。 人それぞれに考えが違うからです。 では すべての人が 自己無化し得て純粋意識の状態にあるなら もう《関係性》はどうでもよいのではないか? どうでしょう? どうなんでしょう? たとえば こうなるはずです。 どうぞどうぞと言われて いえいえ あなたからお先にどうぞと答える。こういう関係性のもんだいがあるという意味です。 口幅ったい言い方をしますと ★ 自明性に基づいた行動の基礎は観察力であり ☆ だけではなく 人と人との関係性も同時にあります。 もののあはれを知ったという自明性とそこにおける観察力だけで 人生百年を生きるという行動は いわば数学人生であると考えます。 苫米地英人の言うさとりも さとりの数学版であるように感じられます。 人間学人生は 関係性をも基礎に見ています。わざわざそれを取り上げることをする。と考えますが どうでしょう? もっとはっきり言えば 純粋意識だけを持ち生活世界(つまり 目の前の相手です)にはあまり目を向けないというのは いわば蛸壺人生です。
お礼
回答ありがとうございます。 他者との関係を否定しているわけではなくて、まず<純粋意識>といわれるような境地に達して、それを基点に世界と関わるのが実が大きいのではないかということなのです。
お礼
回答ありがとうございます。 関連の書籍を読んでみます。