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美しさについて
素朴な疑問です。 私は、花を見ると「美しい」と感動し、元気がでます。 美術館に行って、絵画を観ても「美しい」と感動し、元気がでます。 私は男性ですが、内面・外面含め、女性に対しても同じ心の動きかもしれません。 しかし、「美しい」ものを見ると所有したくなります。 いわゆる執着心と言えるでしょうか。 西洋哲学では、いわゆる哲学が「真・善・美」の追求と言われるように「美」を肯定しますが、 東洋的な仏教的な考えでは、いわゆる「煩悩」として「美」は否定されるのでしょうか? 回答をお待ちしております。
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No.3 です。 少し勘違いをされておられるようです。 >>> No.3 お礼欄 詳しい回答ありがとうございます。サイトの提供は、本当に助かります。私は仏教についての知識はかじった程度です。「空」というのは、「無分別智」であり、西洋哲学でいう「真・善・美」という「概念」の追求というのは、幻想に過ぎない(戯論)と考えてよろしいのでしょうか?もし「美」という概念をあえて考えると、五うん(「色」「受」「想」「行」「識」)の「色」に属するのか、六境の「色」に属するのでしょうか?お釈迦様は「感覚は信じてはいけない」とおっしゃたようですが、「美」は感覚によって「受」されるものでしょうか?西洋的な考えの私は「美」や「善」の「識」の積み重ねが、人間的成長に関わると感じてますが、どうでしょうか? <<< まず、私自身も「仏教についての知識はかじった程度」でしかありません。仏教徒ではなく、専門分野からすれば、西洋科学系に属しています。かといって、キリスト教徒でもありませんし、イスラム教徒でもありません。 また、 >>> 西洋哲学でいう「真・善・美」という「概念」の追求というのは、幻想に過ぎない(戯論) <<< は、的を外しています。 それら「真・善・美」は単独で存在するものではなく、「○○にとっての」という結びつきが必要なものです。そうして、対象もまた必要です。すなわち「○○にとっての●●に対する真」であり、「○○にとっての●●に対する善」であり、「○○にとっての●●に対する美」です。 「真・善・美」そのものを、他から切り離しては何も言えないはずです。 そういった「全体・総体」として捉えるとき、すなわち、概念として切り離されたものを扱うのではなく、たとえば「文脈や日常生活内での関連性として、切り離せないものだと認識せざるをえない」と、一歩横にずれて、(あるいは、別の次元に立脚して)考えるということが、哲学の分野では良く行われる(行われていた)ようです。 >>> お釈迦様は「感覚は信じてはいけない」とおっしゃたようですが <<< 出典はどこでしょうか? 私の文章をみて、そう思われたのなら、それは勘違いです。 まず、「○○は無」という言葉ですが、この「無」を「消失」や「消滅」のように読み取るのは誤読になります。 以下、順を追っていきます。 まず「空」ですが、「空っぽ」という意味ではありません。 英語で言うところの「space」に相当しますが、何かで充満していても「space」です。 たとえば、宇宙空間(cosmo space)は星やガスや電磁波(宇宙背景放射)で満たされています。 「○○は無」といったとき「消え去る・無くなる」のではなく、「変化する」が正しい解釈に近いです。 「空」の内部において「●●という実体」(色・物質)が「○○」に変化し「空」全体を占めるようになったと考えてもいいでしょう。 般若心経で言えば、 「是故空中 無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色聲香味觸法」 の前文は 「是諸法空相。不生不滅。不垢不淨不增不減。」 です。 「生ぜず、滅せず、垢つかず、浄からず、増さず、減ぜず」 です。 色々な物が混在して、それぞれが区別できる状態(色)から、それぞれの境界が消え去って混ざり合い、空間内部に均等に混ざったときを、例えば「空」とするわけです。 その内部での変化であって、「全体」としての量が増えたり減ったりするわけではないということです。(不生不滅。不垢不淨も同じことです。全体の一部のみを切り離して考えると生じたり滅したり、汚れたり綺麗になったりしますが、「全体」としてみると、変化しないのと同じです) 「感覚」についても同じことです。たとえば「全体」の内部で「生まれ来て、死に行く」わけですから、生きている間の「感覚」というものは、「全体」の内部では「変化する」わけです。個人にとっては「生じ・滅する」わけです。しかしながら、「今・ここ」という概念を離れて時間の進行から離れて考えたときの話(色即是空)です。そういった「考え方・見方もできるよね」ということを理解した後、「いま・ここ」という立脚点に立ち戻る(空即是色)ということが必要だということです。 西洋的な科学・哲学の視点からみると、東洋的な考えは時として誤解されるようです。 特に仏教の「空」は「虚無」と間違えられたことがあったということです。 その当たりについては、下記を参照願います。 http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0878.html 第八百七十八夜【0878】03年10月28日 Seigow's Book OS / PIER ロジェ=ポル・ドロワ 『虚無の信仰』 2002 トランスビュー Roger-Pol Droit : Le Culte du Neant 1997 島田裕巳・田桐正彦 訳
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- kurinal
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amenhotep2000様、こんばんは。 「私見」に過ぎないもので申し訳ありませんが、 1 美醜というものを諦める(「美」を否定する、というのとは違う)・・・そのほうが気楽だから 2 絶対的に諦めなければならない、ということもない・・・「絶対的に~でなければならない」というのも気楽ではないから 3 そのようなことは、どうだってよい・・・そのほうが気楽だから こんな感じでしょうか Ano.9様のご回答と、ほぼ同じであるようです。
お礼
回答ありがとうございます。仏教の考えとしてNo.6さんの回答にも、私は共鳴してます。なにが真理なのだろうか?そのようなことに執着することが、私の煩悩なのかもしれません。世界にいろいろと宗教はありますが、人が共鳴する真理があるから、多くの人に信仰されると思います。ちっぽけな人間である私の考えではわかるのは、その一部かもしれませんが、神様、仏様に近づきたいとするのは、人間の高慢ですかね。もう少し、川の流れに身を任せるという考えが必要かもと、この回答を見て感じました。ありがとうございます。
- 来生 自然(@k_jinen)
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No.3, 12 です。 少し補足しておきます。 >>> No.12で そういった「全体・総体」として捉えるとき、すなわち、概念として切り離されたものを扱うのではなく、たとえば「文脈や日常生活内での関連性として、切り離せないものだと認識せざるをえない」と、一歩横にずれて、(あるいは、別の次元に立脚して)考えるということが、哲学の分野では良く行われる(行われていた)ようです。 <<< ですが、最初の質問の >>> 西洋哲学では、いわゆる哲学が「真・善・美」の追求と言われるように「美」を肯定しますが <<< とも関連します。 西洋哲学の変遷からすれば 「絶対的な真・善・美」の追求は可能か、意味があるのか、そもそも「絶対的な真・善・美」はあるのか? といった観点から思索が進められ、西洋科学では、「絶対的な真」があるという概念から、全宇宙・時空・量子力学のあらゆるものすべてを統一した理論で記述しようとする試みが為されています。 一方、西洋哲学では、「絶対的な」ものとして捉えることができないということに対して限界が指摘され、19世紀を中心に様々な思想が生み出され、今もなお変化しています。 たとえば、下記を参照願います。 19世紀の哲学 http://ja.wikipedia.org/wiki/19%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%81%AE%E5%93%B2%E5%AD%A6 その後、20世紀に入り、たとえばレヴィ=ストロース http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%B4%E3%82%A3%EF%BC%9D%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%B9 が、構造主義 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A7%8B%E9%80%A0%E4%B8%BB%E7%BE%A9 といった考えを打ち立てています。ここにおいては、まさに先ほど例示した「関連性」が非常に大きな意味を持ってきています。 したがって、単純に >>> 西洋哲学では、いわゆる哲学が「真・善・美」の追求と言われるように「美」を肯定しますが <<< とはならないです。(敢えて言うなら19世紀初頭までの考え方になるでしょう) 西洋哲学は、その後、 一部でポスト構造主義と呼ばれる動きなど、さまざまに変化しているようです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%82%B9%E3%83%88%E6%A7%8B%E9%80%A0%E4%B8%BB%E7%BE%A9 ※ポスト構造主義として有名なデリダも亡くなられていますし、今後、更なる変化があるかもしれません。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%AA%E3%83%80
お礼
ここまで何回も思索のための情報を提供していただきましてご好意に感謝いたしております。私もまだ学ばねばと痛感いたしております。まだまだ私はひよっこですね。No.12をベストアンサーとさせていただきます。質問を締め切り、私なりに学び、噛みくだみ、本当の知識(知恵)といたしたく思っております。
- ga111
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美の対象によるでしょう。 花、絵画と性的なものを、一度に論じることは不適切と考えます。明らかに、本来の仏教は性的なものに否定的です。 たとえば、私は禅僧の日常習慣は美しいと思います。この「美」は、「煩悩」としては否定されるものではないでしょう。
お礼
回答ありがとうございます。禅僧が作務をして、庭を掃除して、ごみひとつないお寺で、紅葉や楓の赤や黄色の秋の美しさを愛でる。そんな季節になりそうですね。性的煩悩も消えるかも。しかし、日本の古墳からは、玉で出来た首飾り。遠くはなれたエジプトの遺跡からも現在にも通用するのでないかという、珊瑚の首飾りなどが、出土します。そのようなものは希少価値で富の象徴かもしれませんが、大昔から洋の東西を問わず、美しい物として人間が認識しファッションとして使った。そのような美しいもので、着飾るファッションというものは、例えば孔雀の雄のような性的アピールを人間はしているのでしょうかね。しかし、日本には、四季という季節があり、移りゆく自然を眺めるという美意識は独特か?
極シンプルに考える習慣がありますので、難しいご質問の回答としては参考にもならないかもしれませんが、 私は、東西の宗教には生殖に対する嫌悪が根底にあって、仏教も例外ではないと思うものです。仏教のみによらず多く宗教者は婚姻をしません。女は穢れたものだというのが共通のかんがえになっています。人間として完璧になればそれで子孫を残す必要はないということだろうと思います。 この原因としては昔から性は社会において面倒な問題を多々抱えていたということからの簡便な解決法だったのだと思います。 哲学と仏教を比べるのがそもそもミスマッチではないかと思うのですがどうでしょうか。 仏教哲学は不案内ですが、基本的にそうであれば美に対してたいした突込みは出来ないはずです。 哲学のほうが正確に世界を見ていると私は思っています。 美意識というのは生命力の一環です。生物が生きて、子孫を残していくための本能的なものが関わっていると思います。所有欲だってある意味正当なものです。宗教に惑わされてはならないと思います。 見当違いの回答だったかもしれません。
お礼
回答ありがとうございます。こちらも難しくて泥沼に足をつっこんだ状態です(苦笑)。確かに金銭がなければ、衣食住が現在の社会では出来ませんから、所得欲も追求と所有には欠かせないし、結婚して子どもを産むのも追求と所有と思います。しかしゲーテは「真に私の所有といえるのは、自由に自分の心から流れ出る思想と、自分に好意を持つ運命が底の底まで味わわせてくれる幸福な刹那刹那だ」と言ったそうです。ゲーテほどの能力があるとは思いませんが、皆さんの回答から泥沼から這い上がるきっかけが欲しいです。嘘か本当かわかりませんが、ニュートンはリンゴが落ちた時、ひらめき、湯川博士は庭の木に雷が落ちた時、中性子論をひらめいたそうです。わたしもひらめきが欲しいですが、そんなひらめきがおきるためには、もっと下積みをしないとだめですね。だれか、この投稿を見てひらめいた人はいますか?
- raiden787
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再回答させていただきますね。 美というものはあくまで人間が頭の中で作り出した観念に過ぎないわけです。さらに言えば快楽を司る神経メカニズムが特定の刺激に対して反応している化学反応です。 美なる存在がこの世に存在しているのではなく、心の中で外部の刺激に対して生じた反応のうち、特定のものを美しいとか醜いなどと分類しそれらの反応を抽象化して美という観念を作り出しているにすぎません。 ゆえに感性が変化すれば美を生み出す脳内のメカニズムも変化するので、以前は美しいと感じていたものが醜いと感じるようになったり、その逆も起こります。 道端に落ちている犬の糞と磨かれたダイヤモンド、どちらが絶対的に美しいと言い切れるでしょうか?多くの人はダイヤモンドと答えるでしょうが、それはただ人間の多くがそう反応する神経系を持っているだけに過ぎません。 つまり、美を感じるとはこの世に無数に存在する現象の一つにすぎず、特別なものではないということです。 ただしこれは美を否定している訳ではありません。ただあるがままに貴方にとって美とは何かを追求すれば、美に対してどういうスタンスを取るかは貴方の自由になるということです。 美を通じて幸福になれるならいいですが美を求めるあまり苦しんだり美を失って活力を減じるなら貴方にとって美とはただの麻薬でしかありません。 堅苦しい文章になりましたが、重要なことは執着しない、すなわち気楽でいることです。 美はただの心の化学反応だと言いましたが、これは逆に言えば心のありようしだいで万物に美を見いだせるということです。それこそ、犬の糞にだって。 美という確固たるものは存在しない。だからこそ何だって美となりうる。 美への執着を捨てるとはそういうことです。無論、美を無理に見いだす必要もありません。美しいと感じられないものは感じられないんだから仕方がないと笑い飛ばす。矛盾してるようですがこれもまた自由であるということです。 このように真言宗系の僧侶の方に般若心経を通じて仏教のことを学んだ私は解釈しています。 あくまで私個人の考え方ですので仏教全般に通じるかは分かりませんが思索を深める一助になればと思います。
お礼
再投稿ありがとうございます。ネット辞書のウィキペディアの美学を検索していただければいいのですが、日本の侘び寂びなどの美意識はまだ明確な定義がされていない。とありまして、日本の文化がはぐくんだ美意識とはと考えてました。例えば、昔の武士が死に場所を求めて闘ったり、名誉のために切腹を望む。太平洋戦争で特攻などという愚かな行為に発展しましたが、例えば、現在も年を取った人が、若い人に、身分を譲るなどの、引き際を考えるなど、これは日本独自の文化が生んだ美しさで、西洋的な美意識の考え方では説明がつかないのですかね?この日本の美意識の文化には明治以前の西洋文明を取り込む前の、仏教的な考え方が取り込まれているのでないのではと思い、ありがとうポイント(私はまだ60ポイント)がすごい方々のご意見聞くべき投稿いたしました。回答は非常に参考になりました。ありがとうございます。ベストアンサーをもらうために私ももっと勉強しなくては。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 ブディズムが美しさについてどう言っているのか 残念ながら分かりません。 真善美についての仮説を述べて それを問いつつ その中身とブディズムとを照らし合わせていただければよいと思いました。 《真・善・美》は 真偽・善悪・美醜というように相対的な概念としては とうぜん経験事象に属しますが 《真理・至高の善・絶対美》と仮りに表わして言おうとするところは すでにこの因果関係から成る経験世界を超えています。そういうふうに想定されると言えば想定される概念です。(なぜなら 《絶対》という言葉をじんるいは持ってしまっているからです)。 この想定から派生する言わば物語として 真善美は語られるものと考えます。虚構であると言われても仕方のない概念です。 けっきょく《真理》から善も美も現われると考えます。真理と《わたし》との関係から 真実および善悪や美醜が――あくまで《主観》において主観として――現われる。こう見ます。 真理と《わたし》の関係は 仮りに経験的なこととして捉えるなら それは《ひらめき》においてであろうと見ます。 とするなら 善悪観も美醜の感覚も このヒラメキに付随して生じるものであろう。こういう仮説です。 ○ 世界におけるヒラメキの位置づけ:ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理 ~~~~ (――または ロゴスの階層――) (――または 《非思考の庭》と《思考の緑野》とのあいだに何があるか――) スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神 ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________ インスピレーション=ロゴス(β):異言 :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ インスピレーション=ロゴス(γ):預言 :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化 :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい? ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考〔の緑野〕:経験合理性に もとづこうとする論理 * ~~~~~~~~~~~ ・ロゴス:ことば ・スピリトゥス:霊。聖霊 ・クレド( credo = I believe. 我れは信じる) ・異言(シャリバリ):意味の分からないことば ・預言:解釈。経験思考で分かるように表現する。 〔もともと 予言= pro-phetia(予‐言)として成ったことば〕 ・ラチオ( ratio ):理性 〔 = reason 。《 re-or =思う・考える・数える》から〕 ~~~~~~~~~~~~~~ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち 次のふたつのロゴスのあいだに ヒラメキは起こります。 ・ スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神 ・ インスピレーション=ロゴス(β):異言 :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ 《スピリトゥス=ロゴス(α):神》が 《真理》です。人間には分かりません。非経験の場としてそれが想定されるというかたちであり 仮りにこの《神》という言葉があるかぎりで人がこれを心に受け容れたとするとき そこには《非思考の庭》が成ります。という説明で 《信じる》という人間の――これは経験的な――行為を捉えるわけです。 わが心なる非思考の庭に――あたかも真理がその指先でわれらが心の窓にそうっと触れているかのように感じたとき―― ヒラメキが成ります。 ここに《真理》があたかも見られたというような体験が生じます。《あたかも》です。 おそらく――いくら《主観》の問題だと言っても―― 善にしても美にしてもけっきょくこの真理の直感から離れてあるとは思えない。 ぎゃくに言えば もし善悪観や美醜観が この真理感覚としてのヒラメキから離れて成り立つとすれば それは 人の自由意志の――その主観自由において――成せるわざであろうと見ます。こちらの主観自由は けっきょくその中身が人びとの間で個々ばらばらというものだと見られます。 人びとの間に何がしか善や美として共通のものがあるとしたならそれは 真理体験としてのヒラメキに属す内容のものだと考えられます。(ひとつの例示は 《生きる ないし 生命》という基礎的な内容ではないかと考えます)。 このように捉えるなら たとえば ★ ~~~~~ しかし、「美しい」ものを見ると所有したくなります。 いわゆる執着心と言えるでしょうか。 ~~~~~~~ ☆ なる経験事態については ふたつの見方が出来るのではないか? ひとつは ヒラメキから離れた(または ヒラメキをまちがって感じてしまった)場合の美醜感覚によって美しいと見えた場合です。それは 真理とのマ(間)が違っているのなら 勘違いの美しさなのでしょう。つまり 《執着心》につながります。 それでも もうひとつに もし――主観の問題なのですが―― 真理感覚としてのヒラメキによるとするなら それは いわゆる運命の美の体験とでも言うような事態なのではないでしょうか? ブディズムが この仮説にちなんで見た場合 どう言うか。尋ねてみたいものです。
お礼
私が曖昧に使っていた、「真・善・美」を、相対を超えた、絶対的な「真・善・美」とまとめてくれてありがとうございます。概念的にはプラトンのイデアというものになるのでしょうか。独創的なお考えも参考になります。今回の私の質問の「美」という概念をかなり広義に曖昧に使っているので、もう少し絞らないといけないかもしれませんが、ウィキペディアに書かれている「美」ということを、このような、場所を借りて、回答者の方々と噛み砕ければ良いと思い投稿しました。絶対的美は、天国や極楽浄土しかなくこの世にはないですかね。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
美を形成する大きな要因である色彩ですが、物理的には 「色」などというものは存在しません。 電磁波の、連続的な波長の変化に過ぎないのです。 「赤は青の反対」などという根拠は、どこにもありません。 その「波長の連続的変化」という一次元に、五感の相関した 多次元の経験の蓄積による特定の波長に対する条件反射 的な(その波長に伴う経験の)印象が付加される事で、 “多彩”さは生じているのです。 赤の印象を分析すると、火や血、肉、花などの異なる原因 による長波長を伴う現象の経験(温かい、危険、食欲など)が、 青には、水や空といった短波長を伴う現象の経験(冷たい、 爽やか、静寂など)が、潜在している事が分かるでしょう。 この「総和機能」において、人生における快適な経験の総和 における、視覚的刺激パターンが「美」です。 それゆえに、成長期で好奇心旺盛な(しかし経験の蓄積の 少ない)子供の頃は、ケバい色や動くものを好むし、世界 各地で美的センスは異なってくるのです(砂漠地域では青や 緑が好まれ、空白恐怖と呼ばれるほど装飾で埋め尽くす、 といった)。
お礼
世界中を旅されたpsytexさんの貴重なご意見ありがとうございます。確かに人間が見える連続した波長の虹を7色とするのは、固定観念ですね。「生」や「滅」。「浄」や「垢」。「増」と「減」も連続するものの一点と考えると線引きは難しく、「空(単独で自立した主体はない)」のかもしれません。しかし、「美」というものは、私には、人間がなぜだか分からないけど、執着する特別な「概念」のような気がします。女性はいつまでも美しく若くありたいのが、本音ではないでしょうか。男も同じ(外見だけでなく内面も)ですね。美を感じるのは感性とよく言いますが、これは、人間が生まれながらに持っているものか?後から経験として身につくものか?大人になるにつれて、理性(思考して判断する力)がつくと、だんだん感性というものは失われて来てしまう感じがしますが、やはり私は年老いても、美しいものは美しいと感じる力を持ち続けて、美に触れることで元気をもらいたいです。
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
東洋的な仏教的な考えでは、いわゆる「煩悩」として「美」は否定されるのでしょうか? 回答をお待ちしております。 ○「山川草木悉有仏性」、「一切衆生悉有仏性」ですから、全ての良きものが「仏性」に含まれるというのが仏教の教えです。 仏性とは「真、善、美、正義、進歩、調和、創造など」すべてが含まれるのですね。個人個人はその仏性を顕現している存在ということです。 仏教哲学では個々の切り売りではなく本質を見抜いているのですよ。 悪や醜、裏切り、嫉妬、欲望などは仏性に反するものとして存在しているのですね。これを総称して煩悩といいます。 仏性を顕現するために仏性に反するもの、煩悩が存在し、それを退けるというのが仏教修行、いわんや日常生活の意味ですね。 仏性を通じて見る美は例えようもない美しいものですね。美については、仏性と美で探してみてください。
お礼
ありがとうございます。仏教の世界観がわかりやすく、ベストアンサー候補です。仏教には他力本願という言葉がありますが、人間は仏様や神様という超越したものに身をゆだねて、あるがままの自分を受け入れてもらうというのが、正解かもしれません。しかし、私はどうも理屈で考えてしまうところがあります。もう少し他の人のご意見も伺いたいので、しばらくお待ちください。このように人の意見を聞くのは他力本願でしょうか?
- raiden787
- ベストアンサー率37% (179/473)
美を否定しているのではなく執着するなということではないでしょうか。 貴方の感じる美しい所作や男の美学というものもが他人も美しいと感じるとは限りません。
お礼
回答ありがとうございます。お答えのように確かに、万人が共通する「普遍的な美」というものを考えることは難しいことかも知れません。しかし、例えば芸能界の人やスポーツ選手など、男性が、ある男性の生き様に惚れる。女性がある女性の生き様に惚れるということはあると思います。そういう人は、あるポリシー(美学)を持っていて、そのため、多くの人がその人の魅力に引き付けられる。「美」を追求(執着)した結果の「徳」と言えるかもしれません。難しくなってきたので、ここでいったんお礼を打ち切ります。再投稿お待ちしています。
興味ある話題ですが 芸術には疎いので、仏教芸術の疑問を。 ゴータマも出家したので髪を剃っているはずなんですが 禿頭の釈迦像を見たことがありません。 ゴータマを禿頭にすると問題があるんでしょうか? ここからいえることは仏教芸術は リアリズムの追求ではない。 ということでしょうか。
お礼
なるほど。このような素朴な疑問から、結論に結びつける回答も役に立ちます。しかし、リアリズムを現実世界と訳すと、現実世界の中でどのようにすれば、生き苦しくなるのか追求するのが、宗教だと思います。生きることには困難が伴いますが、現実世界での自分の立場から逃避して、あの世で幸せになろうという救済方法はどのようなものか?現実世界での処世術も仏教にはあると考えてますがどうですか?
補足
急いでお礼を書いたので書き間違えですが、現実世界において、「生き苦しくなる」ではなく、「生き苦しくなくなる」です。
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お礼
k-iinenさんの知識の深さには感服いたします。凝り固まった私の頭をほぐしてくれてくださる回答ありがとうございます。日本の代表する哲学者、西田幾多朗が「善の研究」なる著書をすでに出してしまったので、「美の研究」というのは独創的では?と思っておりました(笑)。日本人の美意識が定義されていないというのが、本当なら、そこに鉱脈があります。地下のその鉱脈から、鉱石を取り出すことも哲学者の仕事、それをたたき台に論争して、精製するのも哲学者の仕事と思っております。哲学はお金にはなりませんが、学ぶためには図書館に行けば本が山のようにあるので、お金もかかりません。k-iinenさん、その知識を生かして「美の研究」なる本は書けそうですか?書いたら私が精製しますよ。いつの話しになるのかわかりませんが、死ぬまで学び続けます。またご教授ください。