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美しさについて

素朴な疑問です。 私は、花を見ると「美しい」と感動し、元気がでます。 美術館に行って、絵画を観ても「美しい」と感動し、元気がでます。 私は男性ですが、内面・外面含め、女性に対しても同じ心の動きかもしれません。 しかし、「美しい」ものを見ると所有したくなります。 いわゆる執着心と言えるでしょうか。 西洋哲学では、いわゆる哲学が「真・善・美」の追求と言われるように「美」を肯定しますが、 東洋的な仏教的な考えでは、いわゆる「煩悩」として「美」は否定されるのでしょうか? 回答をお待ちしております。

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回答No.12

No.3 です。 少し勘違いをされておられるようです。 >>> No.3 お礼欄 詳しい回答ありがとうございます。サイトの提供は、本当に助かります。私は仏教についての知識はかじった程度です。「空」というのは、「無分別智」であり、西洋哲学でいう「真・善・美」という「概念」の追求というのは、幻想に過ぎない(戯論)と考えてよろしいのでしょうか?もし「美」という概念をあえて考えると、五うん(「色」「受」「想」「行」「識」)の「色」に属するのか、六境の「色」に属するのでしょうか?お釈迦様は「感覚は信じてはいけない」とおっしゃたようですが、「美」は感覚によって「受」されるものでしょうか?西洋的な考えの私は「美」や「善」の「識」の積み重ねが、人間的成長に関わると感じてますが、どうでしょうか? <<< まず、私自身も「仏教についての知識はかじった程度」でしかありません。仏教徒ではなく、専門分野からすれば、西洋科学系に属しています。かといって、キリスト教徒でもありませんし、イスラム教徒でもありません。 また、 >>> 西洋哲学でいう「真・善・美」という「概念」の追求というのは、幻想に過ぎない(戯論) <<< は、的を外しています。 それら「真・善・美」は単独で存在するものではなく、「○○にとっての」という結びつきが必要なものです。そうして、対象もまた必要です。すなわち「○○にとっての●●に対する真」であり、「○○にとっての●●に対する善」であり、「○○にとっての●●に対する美」です。 「真・善・美」そのものを、他から切り離しては何も言えないはずです。 そういった「全体・総体」として捉えるとき、すなわち、概念として切り離されたものを扱うのではなく、たとえば「文脈や日常生活内での関連性として、切り離せないものだと認識せざるをえない」と、一歩横にずれて、(あるいは、別の次元に立脚して)考えるということが、哲学の分野では良く行われる(行われていた)ようです。 >>> お釈迦様は「感覚は信じてはいけない」とおっしゃたようですが <<< 出典はどこでしょうか? 私の文章をみて、そう思われたのなら、それは勘違いです。 まず、「○○は無」という言葉ですが、この「無」を「消失」や「消滅」のように読み取るのは誤読になります。 以下、順を追っていきます。 まず「空」ですが、「空っぽ」という意味ではありません。 英語で言うところの「space」に相当しますが、何かで充満していても「space」です。 たとえば、宇宙空間(cosmo space)は星やガスや電磁波(宇宙背景放射)で満たされています。 「○○は無」といったとき「消え去る・無くなる」のではなく、「変化する」が正しい解釈に近いです。 「空」の内部において「●●という実体」(色・物質)が「○○」に変化し「空」全体を占めるようになったと考えてもいいでしょう。 般若心経で言えば、 「是故空中 無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色聲香味觸法」 の前文は 「是諸法空相。不生不滅。不垢不淨不增不減。」 です。 「生ぜず、滅せず、垢つかず、浄からず、増さず、減ぜず」 です。 色々な物が混在して、それぞれが区別できる状態(色)から、それぞれの境界が消え去って混ざり合い、空間内部に均等に混ざったときを、例えば「空」とするわけです。 その内部での変化であって、「全体」としての量が増えたり減ったりするわけではないということです。(不生不滅。不垢不淨も同じことです。全体の一部のみを切り離して考えると生じたり滅したり、汚れたり綺麗になったりしますが、「全体」としてみると、変化しないのと同じです) 「感覚」についても同じことです。たとえば「全体」の内部で「生まれ来て、死に行く」わけですから、生きている間の「感覚」というものは、「全体」の内部では「変化する」わけです。個人にとっては「生じ・滅する」わけです。しかしながら、「今・ここ」という概念を離れて時間の進行から離れて考えたときの話(色即是空)です。そういった「考え方・見方もできるよね」ということを理解した後、「いま・ここ」という立脚点に立ち戻る(空即是色)ということが必要だということです。 西洋的な科学・哲学の視点からみると、東洋的な考えは時として誤解されるようです。 特に仏教の「空」は「虚無」と間違えられたことがあったということです。 その当たりについては、下記を参照願います。 http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0878.html 第八百七十八夜【0878】03年10月28日 Seigow's Book OS / PIER ロジェ=ポル・ドロワ 『虚無の信仰』 2002 トランスビュー Roger-Pol Droit : Le Culte du Neant 1997 島田裕巳・田桐正彦 訳

amenhotep2000
質問者

お礼

k-iinenさんの知識の深さには感服いたします。凝り固まった私の頭をほぐしてくれてくださる回答ありがとうございます。日本の代表する哲学者、西田幾多朗が「善の研究」なる著書をすでに出してしまったので、「美の研究」というのは独創的では?と思っておりました(笑)。日本人の美意識が定義されていないというのが、本当なら、そこに鉱脈があります。地下のその鉱脈から、鉱石を取り出すことも哲学者の仕事、それをたたき台に論争して、精製するのも哲学者の仕事と思っております。哲学はお金にはなりませんが、学ぶためには図書館に行けば本が山のようにあるので、お金もかかりません。k-iinenさん、その知識を生かして「美の研究」なる本は書けそうですか?書いたら私が精製しますよ。いつの話しになるのかわかりませんが、死ぬまで学び続けます。またご教授ください。

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回答No.3

仏教美術、特に曼荼羅のような世界は、仏教における美の追究の一側面でしょうね。 さて、 仏像はどうして必要なのでしょうか? 教典はどうして必要なのでしょうか? 賛美歌はどうして必要なのでしょうか? 教会内に飾られる宗教画やステンドグラスはどうして必要なのでしょうか? そうして、 どうして「悟りを開きたい」とか、「帰依したい」と思うのでしょうか? 。。。 究極の「真・善・美」という「もの」は「もの」としては実在し得ません。 「言葉・行為・絵画等」を介在して、その向こう側に「思いを馳せようと」するときに、あるかのごとく思えるもの(形而上学的存在)なわけです。ブッダは、形而上学的存在については「あるのでもなく・ないのでもない」とされたそうです。 しかしながら、「真理」を求めようとする心が最初にあるからこそ、哲学や仏教や宗教というものに興味を持ち、論理的な思索を中心に考える場合に哲学(広義の哲学で、諸科学を含む)へと向かい、形而上学的存在を「信じて」しまったときに宗教へと向かい、形而上学的存在の有無に関わらない「何か」を追い求めようとして仏教の本質へと向かおうと思う人もいるわけです。多くの仏教は「何か」=「空」(≠「無」)としています。 さて、「美を感じ取ることのできる心」ですが、一見、仏教的な教えでは、煩悩と同様に、そういった心を否定しているかのようです。 般若心経でも 「是故空中 無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色聲香味觸法」 (この故に、空の中には、色もなく、受も想も行も識もなく、眼も耳も鼻も舌も身も意もなく、色も声も香も味も触も法もなし。) すなわち、「空」の中には、物質的存在はなく、感覚や表象や意志・行動や意識もなく、物質的な感覚器官を通して得られた認識(美的感覚を含む)や認識対象(美しい絵画等)もない。 と記しています。 ※詳細は「三科、五蘊、十二処、十八界」等で検索してください  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%A7%91  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%98%8A しかしながら、一方で、「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色」としており、上述の「ない」という概念全般を含む「空」というものが、実のところ、「色」(ある)そのものだと述べているわけです。 般若心経では、上記記述の順が逆になっていますが、本質は、そういうことを意味しているでしょう。 一端、「無」として否定することで余計な煩悩を払い去り、「空」という概念を見据え、さらに「色」という現実世界と「空」とが表裏一体で切り離せない関係であることを述べているのでしょう。 単純に「美」を「否定」しているわけではないということです。 ※般若心経については http://ja.wikisource.org/wiki/%E6%91%A9%E8%A8%B6%E8%88%AC%E8%8B%A5%E6%B3%A2%E7%BE%85%E8%9C%9C%E5%A4%9A%E5%BF%83%E7%B5%8C http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%AC%E8%8B%A5%E5%BF%83%E7%B5%8C 等を参照してください。

amenhotep2000
質問者

お礼

詳しい回答ありがとうございます。サイトの提供は、本当に助かります。私は仏教についての知識はかじった程度です。「空」というのは、「無分別智」であり、西洋哲学でいう「真・善・美」という「概念」の追求というのは、幻想に過ぎない(戯論)と考えてよろしいのでしょうか?もし「美」という概念をあえて考えると、五うん(「色」「受」「想」「行」「識」)の「色」に属するのか、六境の「色」に属するのでしょうか?お釈迦様は「感覚は信じてはいけない」とおっしゃたようですが、「美」は感覚によって「受」されるものでしょうか?西洋的な考えの私は「美」や「善」の「識」の積み重ねが、人間的成長に関わると感じてますが、どうでしょうか?

  • yuimakozi
  • ベストアンサー率22% (25/110)
回答No.2

仏教では、「美}そのものが否定されるというよりも、「美」を感じてしまう人間の心が否定されるのです。 貴方のおっしゃるように、美しい花を見て感動し元気が出たり、美しい女性をみて感動したりと「美」は、一見肯定的にとらえられます。  しかし、その美し花をもう一度見ようと出かけて行ったら、もう散ってしまっていたら残念に思いますよね。 また、美しい女性に嫌いだと言われたり、他の男と仲良くしているのを見たら、悲しさや怒り、嫉妬というような苦しみを感じることでしょう。  一方幸運にもその美女のハートを射止めて自分の物にできたとしても、やがて年老い、その美しさも醜さへ変り果ててしまいます。  人が、「美しい}と感じるのは、そのものに捕われているからです。執着しているからです。美しいうものだけではなく、全てのものには、実体などなく「空」であるという事を理解していないからです。 「諸行無常」=全てのものは変化している。永遠なものなどない。  「諸法無我」=全てのものには、実体がない。 仏教では、執着から解放される事が悟りへの道だと教えています。

amenhotep2000
質問者

お礼

回答感謝いたしております。確かに、「美」に対し「醜」という対立概念を作ると、例えば人が容姿という外面に関し執着し、「醜」と感じればコンプレックスが起こり、そのような人間が勝手に作った物差し的な概念はなく、すべては「空」としたほうが、生きやすいのかもしれません。しかし、人間の内面的な成長(心とか精神の成長)を考えると、例えば、日本人の、おもてなしの心からくる、女性の「美しい」所作だとか、男の「美学」などという言葉で表される「美」を追求するのは、有益のようにも感じます。男の美学(例えば散り際は美しく)などとという哲学を追及するのは、やはり自己中心的な執着心にすぎないのでしょうか?ありがとうございました。

  • bgm38489
  • ベストアンサー率29% (633/2168)
回答No.1

煩悩は、否定されるとはかぎりませんよ。 人間は所詮、煩悩から逃れられぬというところに観念し、煩悩をあるがままの姿として捉え、そこに悟りを見出だそうとする煩悩即菩提の考えが、次第に大乗仏教の中で大きな思想的位置を占めるようになった。 とは以下サイトより。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%85%A9%E6%82%A9 美は、煩悩ではないでしょう。上記サイトにもありますが、煩悩とは、我執(自己中心の考え方)から生じるもので、美に対し、素直に感動することは、煩悩ではない。ま、独り占めしたくなるのは、煩悩といえるでしょうがね。

amenhotep2000
質問者

お礼

仏教入門者にもわかる、わかりやすい回答ありがとうございます。 しかし、美しい女性(容姿という外見だけでなく、内面も含め)と出会えば、結婚して独り占めしたくなりますよ(笑)。女性も男に対して同じだと思います。 しかし、それが確かに自己中心的であると、束縛や嫉妬という感情(煩悩?)がおこると思います。 ドメスティク・バイオレンス(家庭内暴力)の問題など No.3さんから、より詳しいお薦めのサイトを、提供していただいてますが、 この中を探しても「美」という文字は見当たりませんね。 仏教では「愛」は煩悩であるとされるようですが、キリスト教の真理である、隣人に対する「無償の愛」は「慈悲」とされるようです。 仏教において「美」という概念や、それに変わる言葉はないのでしょうか? 回答ありがとうございました。