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フリージャーナリストと他の職種の命の比較
- フリージャーナリストと他の職種の命の報道量の違いについて考えます。
- シリアでの犠牲者と比較して、フリージャーナリストの命の価値が高く見える背景を考えます。
- 命の価値はニューズバリューだけでなく、他の要素も考慮すべきであると結論づけます。
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質問者が選んだベストアンサー
シリアでのフリージャーナリスト死亡については 以下の質問も参考にしてみてください。 山本美香氏の報道について http://okwave.jp/qa/q7658835.html 現実問題として、日本と中東イスラム世界の心理的距離は非常に遠いので、 ニュース的に差があるのは仕方ないかと思います。 理念としては、人間は平等であり、その死の扱いも平等であるべきだが、 実際には人間は自分に近い人の死は実感できるけど、遠い人の死を実感するのは難しい。 自分>家族>親戚>職場の同僚>地域社会>日本人>外国人(欧米・東アジア)>外国人(その他の地域) これくらいの差はあると思います。
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- mmky
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追伸: >なんら価値が変わらないのに業界の身内に関するものだけは盛大に取り上げるのがマスメディアの本性なんですかね。 ○良き事例を挙げておきましょう。かってテレビの有名女性キャスターが声高々に「人の命は地球より重い。」と、のたまわっていました。これはおそらく「私達報道の価値は地球より重い。」と言いたかったんだと思います。その直後に九州、普賢岳に溶岩ドームができたのですね。地球より重い(偉い)報道陣ですから、何をさておいても駆けつけて報道合戦を始めたのですね。偉いのですから周りの迷惑顧みずですね。 それを見ていた普賢岳がお怒りになったのかどうか知りませんが、大火砕流が発生します。結果は跡形もなく報道陣は消えてしまいました。巻き添えになった消防団の方々やタクシーの運転手さんはいい迷惑ですね。 それ以降、「人の命は地球より重い。」は聞かれなくなりました。 こんなことがあったことさえ、後から来た報道関係者は知らない人も多いでしょうね。 同じことの繰り返しですね。でもその反作用はいつも大きいのですね。メデイアについてはそのように見ています。
お礼
有難うございます。
- mesenfants
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この種の報道があると、いつも思い出すのは、 社会評論家の故上坂冬子のリアリスティックな寸言です。 もうだいぶまえの事件で、人名など細部はすべて失念しています。 たしかイラク戦争のころか、日本政府の関係者(たぶん外務省)が、現地の人の救助活動の指揮をとっていて、 タクシー乗車中に爆殺か銃殺された事件です。 あのときも大変な報道ぶりでした。 政府要人が現地へすっとんでいき、なくなった人を確認していたと記憶します。 そこで上坂先生の鋭い指摘がとびました。 いわく、 そのその役人は、なくなった日本人を見に行くまえに、同時に亡くなった現地のタクシーの遺族にお悔やみを言ったのかと。 日本人の安否より現地の名もない庶民の命のほうが数倍尊いということを行動として示すことはできなかったのか。 イラク人を救助する活動をしていたのが建前であるとき、イラク人タクシードライバーより日本人政府役人のほうが命の値段が高いのかと現地の人に問われたら、外務省はなんと返答をするつもりなのかと。 今度の事件で、カメラ(ウー)マンの周囲に高額の金で雇われた(その金はけっきょく日本の大衆の興味を満たすことでまかなわれる)現地の貧しい案内人もたぶん犠牲になっているだろう。 こちらを報道するのが、この事件でのジャーナリストらしいおとしまえの付け方ではないか。 英雄扱いなどしていては、死んだ女性がうかばれまいに。 今度の報道ぶりは、命の値の差など以前に、ただ愚かしいだけで、ガキタレのお別れイベントの報道(?)と何らく変わりはありません。 質問者さまの質問はレトリカルなものとみなし(でなければただの愚問)、以上をもって返答にかえます。
お礼
有難うございます。 数多くの殺人事件があるなかで、自社の記者が殺された事件だけは10年経っても15年たっても報道しつづける某左翼系新聞社と同じ構図ですね。
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
社会的な生物としての人の命の価値は同一なのか大きく差があるのか、お考えをご教示ください ○同じですよ。なんら変わりません。どんなに報道されようが死後、善悪の天秤にかかるのは同じですから。 メデイアが自前味噌で、俳優やジャーナリストの死を過剰に報道するのは、彼らの倫理概念の低さ、および守備範囲の狭さだけですから、とはいえどの団体も五十歩百歩ですね。 メデイアの偏向加減はよくわかっているでしょ。中国や韓国のデモは毎日流してますけど、日本のデモやましてや放送局に対するデモも一切ださないですよね。これと似ていますね。偏向しているということは守備範囲、つまり思考範囲が極端に狭いのですね。こんな集団に放送免許を与えていること自体が問題ですね。それも政治の問題ではありますが主権在民ですので、つまるところ国民の資質の問題に帰着してしまいますね。
お礼
ありがとうございます。 なんら価値が変わらないのに業界の身内に関するものだけは盛大に取り上げるのがマスメディアの本性なんですかね。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
日本国内では、政府の無策によって、年間3万人もの人が自殺して いますが(政府の無策の証拠にバブル崩壊以前は1万人台だった)、 それが大問題になった事はありません(交通事故で年間1万人も “殺され”たり)。 ニュースになるかならないかは、その命の重さによってではなく、 話題性(日常的ではない)によって決まるのは、普段のニュースの 取り上げ方によっても自明です(政策の如何ではなく、誰が誰を 叩いたとかいう政争ゲームを取り上げる=ワイドショー政治)。 ちなみに、個人的には私の協力隊の隊員番号4千番台で、当時の 殉職人数は40人をこえていて(事務局の発表は帰国してから死ん だ人を入れないので少な目)、死亡率1%(若い人が2年間行って) の組織に居て、途上国の治安の悪さでしょっちゅう殉職してるのを 目にしてきたので、『1人殺されたぐらいで何を騒いでいるんだろう』 というのが実感です。 根源的に命の重さは同じでも、仕事をするという事は、死ぬリスクを 許容する=自らその「重さ」を軽くする事なのです。
お礼
わかりやすい回答ありがとうござます。 『1人殺されたぐらいで何を騒いでいるんだろう』は同感です。
- ukiyotonbo
- ベストアンサー率11% (91/788)
>社会的な生物としての人の命の価値は同一なのか大きく差があるのか 情報量で命の価値を判断しているのはあなたですよ。 ニュースバリューがどうあれ、社会的な生物としての人の命の価値判断をしているのは、ジャーナリストでもなければ、哲学者でも、物理学者でも、大工さんでもありません。あなたです。 様々なことが起こっていると報道されている総体としての社会という幻想はあなたの中にこそあるのであって、あなたの外側に実態としての社会など存在しないのですよ。 したがって、あなたが好きなように価値判断していいことなのです。 一方、ひとり一人が、TV、新聞、ラジオ、ネットを介して音声や写真や動画で得られた情報で社会を作り上げていて、その大部分がジャーナリストによるものですね。ジャーナリストというのは、ある意味、各自の社会形成のプロデューサーでもあるわけで、ジャーナリストはそれを自覚している人種なのですよ。つまり、何を誰に如何に伝えるのかというだけで各自の社会に大きな影響を与え得るという特権を手にしているということです。そして、その反射こそがそのジャーナリスト自身の社会からの直接的反応であっておそらく強い快感なんでしょう。 だからこそ多くのジャーナリストにとって、同業のジャーナリストやカメラマンの他殺は、そのポジションを確保する上でも、大いに採り上げる「価値」ある情報として報道したがるでしょうね。
お礼
回答ありがとうござます。 >情報量で命の価値を判断しているのはあなたですよ。 その通りです。 「報道対象の価値と、その情報量には正の相関関係があるはず」という仮説から、今回の報道量に疑問を持ったがために質問しました。
- foosun
- ベストアンサー率12% (13/104)
別に価値があるから報道されてるわけじゃない 話のネタになるから報道されるのさ
お礼
ありがとうございます。 報道もお笑いも同じで、視聴率や発行部数(=事業の収益)の為に選択されているのでしょうかね。
- hekiyu
- ベストアンサー率32% (7193/21843)
”社会的な生物としての人の命の価値は同一なのか大きく差があるのか” ↑ これは人によって異なると思われます。 木造さんだって、家族の命と他人の命とでは価値が異なると 感じるでしょう。 それと同じだと思います。 報道機関にとっては、報道関係に従事する人間の命の価値は 他の価値よりも重いのです。 問題は、公平な報道をすることを建前としている報道機関が それで良いのか、ということです。
お礼
回答ありがとうございます。 >報道機関にとっては、報道関係に従事する人間の命の価値は他の価値よりも重いのです。 同意します。報道関係者は、人命の価値に差をつけいていると思います。 警察が警察官の命を一般人の命よりも重視するのと同じですね。
- TANUHACHI
- ベストアンサー率31% (791/2549)
深夜に再びの回答です。♯7の方が国連やユニセフといった政治組織による声明を根拠としてジャーナリスト個人に対する肉体的および生命の危機の問題と話されていましたが、僕は別の側面から考えて再回答いたします。「国境なき記者団」(フランス語名のRSF、英語名でのRWB)とのNGOがあります。 文字どおり言論の自由(または報道の自由)の擁護を目的として「ジャーナリスト」によって設立された非政府組織です。彼らは拘禁されたジャーナリストの救出、死亡した場合は家族の支援、各国のメディア規制の動きへの監視・警告活動を行うとの趣旨に即して「第四の権力」として政治を監視する。だから時として当局側からは目障りな輩との扱いを受けることも数少なくありません。けれども近代社会で最も大切であるべき「言葉の自由」に箍がはめられたならば、それは同時に「言葉の死」をも意味するに等しい。画家が絵画を、音楽家が音楽作品を媒介としてメッセージを発するように、ジャーナリストにとっての唯一の武器はやはり「言葉」でしかないと思われます。 実際に国連やその他の国際機関が介入する形で紛争解決に至ったケースがどのくらいあるかと考えるならば、ベトナム戦争でも国連は機能せず、また湾岸戦争でも多国籍軍を送ったものの火種は残り、それが新たな形で再燃したのがアフガン・イラク戦争だったことも明らかで、膨大な犠牲を伴って一先ずの終結を迎えたのはつい先日のことでした、それも「タイム・スケジュールどおりの計画」とやらによるアメリカの一方的な撤退で、後に残されたバクダッドの市街地は今でも自爆テロ行為が絶えないとの現実に直面し続ける日々が続いている。 そうした光景を見るにつけ感じることは、統制された擬似報道とジャーナリズムの間にある温度差ではなかろうかとの煩悶です。 シリアの銃撃に斃れた女性ジャーナリストはこれまでもアフガンをはじめイラクなどの文字どおり最前線での取材活動に従事してきた人物でもある。2004年にイラクで人道支援活動に従事していた三人の日本人がゲリラに拘束されたことに対して、浴びせられた当時の言葉は「自己責任」として非難する向きが多かったことも記憶に新しいが、こうした情報発信はアメリカ在住の日本人やらネット右翼に特徴的に観られる現象でもある。 彼らがイラクに行った理由も知らず、彼らがイラクで活動していた背景も知らず、自らを安全な高見に置いて観察し評論するだけで、しかも一人では発言することもできないほどの臆病者でもある。だから一人で多くのIDを使い分け、さも同調者が数多くいるように振る舞うことでの自己満足を得ることしかできなかった。 「あの場所に私を待ってくれている人がいる限り、私は何度でもあの場所へ行く」、こうした人道支援活動に従事する人達を陰から支えるのもジャーナリストとしての使命の一つであることも確かです。そこには名誉や野心もありません。あるとすれば「真実を知りたい人に真実を伝える仕事に従事する者が当たり前の仕事をした結果」だけなのですから。
お礼
再度の投稿ありがとうございます。 言論の自由を守る為に戦う人と、シリア在住の非戦闘員では、命の価値が異なるのでしょうか。
英語のウェブサイトで恐縮なのですが、 http://www.un.org/News/Press/docs/2006/sc8929.doc.htm 2006年に、紛争地域で取材するジャーナリストに対する攻撃を批難する旨、国連セキュリティ・カウンセルで全会一致で決議されました。ユネスコでも、同じような採択がありました。 これは、報道の自由を尊重すると共に、紛争地域に入り込んで、その実態を知らなければ、その地域に住んでいる人々を無益な暴力から守ることができない、との考えから派生したものです。 紛争地でのジャーナリストの死が大きく扱われるのは、UNやユネスコの警告に反する、あるいは報道の自由を踏みにじる事件だからですが、報道関係者の内輪のことだからかも、と感じることもあります。 日本人女性ジャーナリストの日本での報道がどのようなものなのか、無知な私ですが、紛争地域を取材するには、現地の人たちとの繫がりと支援が必要で、そうでなくては、生きて帰ってくるのは、ほぼ絶望的です。 ニュースを聞いて、お亡くなりになったジャーナリストの方に、それだけの下準備があったかどうか、疑問に感じました。その辺り、教えていただけると、大変嬉しいと思います。 拙い日本語で、失礼しました。判らないところがあったら補足なさってください。 (追加)大工さんや、お笑いタレントが紛争地にいる、ということは、外務省の警告を無視してそこにいるということなので、危険は承知のうえ、ということになります。お仕事でいる場合にも、ジャーナリストとは、少し趣が違うと思います。
お礼
ありがとうございます。
- TANUHACHI
- ベストアンサー率31% (791/2549)
この御題ですが、要件から「フリー」を外したらどうなるかとの問も同時に成り立つと考えますので、少しお付き合いをお願い致します。 「フリージャーナリスト」と「ジャーナリスト」では「どこが異なりどこが同じか」との問題に際して寄せられる答にも幾つかのカテゴリーがありえるでしょう。これは「ジャーナリスト」をどの様な「職業に従事する人と認識するか」との問に派生する問題です。 (1)クオリティ・ペーパーとしての報道活動に従事する者。 (2)興味本位の雑誌などイエロー・ジャーナリズムに記事や写真を売ることを生業とする者。 極論すればこの二つに区別されることは従来から指摘もされています。そして一部には「○○新聞(元々は○業○済新聞の略称)」などの「私見を報道の一部と見なして社説を論ずる」向きもあるなど、かなりの幅があることも確かです。 もしこの両者の間に何処で線引きをするかといえば、「事実を伝える」と「事実を評価する」の違いでしかないと僕は考えます。こうした意見には必ず反論が寄せられることも確かで、それでも敢えて「ジャーナリズム本来の姿形のありかた」に視線を向けるなら、僕は「事実を伝える」以外にジャーナリズムの仕事はないのではないかとある種の青臭い書生論に与せざるをえません。 戦前の桐生悠々政次や菊竹六鼓、そして戦後のむのたけじ、西山太吉、児玉隆也、筑紫哲也といった先人達、更にはエドワード・マローやディヴィット・ハルバースタムそしてボブ・ウッドワードピーター・アーネットは何よりも「事実」に拘泥し、その事実を包み隠さず白日の下に曝す手法を選び、その「解釈」はメディアの向こう側にいる読者や視聴者に委ねたことだけは共通しています。そのためにこれらの人物が唯一手にしたのは「言葉」という武器だけでしかなかった。確かに「武器としての言葉」の響きからは「煽る」とのイメージが浮かぶことも確かです。けれど「武器としての言葉」がその真価を発揮するのは「事実を告発し得た時」のみに限られもします。ですからジャーナリストにとってはそれが「唯一絶対の切り札」でありまさしく「伝家の宝刀」であるといっても過言ではないでしょう。 「お笑いタレント」にもジャーナリストに共通する「これだけは譲ることができない部分」は絶対にあると思う。仕事としては馬鹿げたことを「演じてはいる」けれど、彼らも「プロの芸人」であるならば、素人と一線を画するだけの「何か」があって、それは「プロの芸人であろうとする意地」ではないのか?と僕は勝手に考えてもいます。 例え身内に不幸があっても、舞台や高座があったなら迷わずそちらを選ばざるを得ない。本当ならば病院に駆けつけて親族の側にいてやりたいけれど、自分がプロの芸人ならば自分を待っているお客様のために舞台に穴を空けることは決して「許されるべき」行為ではない、との誇りにもちかい自負の念が無意識の間に働いているとも思われます。 話は横道に逸れてしまいましたが、土煙や白煙が上がっている下には幾つもの生命があり、それぞれの数だけの物語もある。その「言葉」を伝えることがプロとしての自分達の仕事ならば、それを果たす以外に仕事はない。もしこの一枚の写真が生命や物語を紡ぐことになっても、それは仕事に対する「評価がもたらした結果」であり、自分という存在とは無関係である、と考えていると僕は考えます。 こうしたことからフリーランスであるか組織に所属しているかの分別よりも、僕は「その人物が仕事に携わる者としてプロであるかどうか」が判断の分かれ目であるとの結論を持ってもいます。 以前は「大学名の枠に囚われ」学問領域としての活性化に停滞の観られた時期もありましたが、少なくとも一部(東大本郷の五味グループ)を除いて、歴史学の分野では「その分野の研究動向に関心がある者」だけを唯一の参画要件として、研究のアクティブ化に往年の勢いが戻りつつもあります。プロの人達が何時しか忘れていた「初心」をアマチュアは忘れずに持っていたり、プロでは気の付かない「発想」が時として突破口を開いたりなどの事例に出会ったことも数知れません。 新聞の訃報欄に名前が載るかどうかよりも、一人のかけがえのない人物を喪ったことの意味が大切であると僕は感じます。有名な会社の経営者が他界した時には新聞で告知が為されます。葬儀の場に脚を運ぶ人も「故人と個人的な関係のある人」と「会社として付き合いのあった人」に分かれます。会社ならば「次の経営者を選ぶ必要」があって、その人が選ばれた後では「この前までそこに居た人」は次第に人の記憶から遠離ってもいきます。 一方「プロの仕事人」としての仕事を遺した人は何時までも人の記憶の中に生き続ける。組織が大きくなればなるほど生身の人としての形からは離れていく時間も早い、皮肉な現象ともいえるでしょう。 フリーで腕良い大工さんに建ててもらった家が住み心地の良い空間だったら、そこに住み暮らす人にとってその建物は生涯忘れられない贈り物であり、大工さんは忘れることの出来ない人ともなる。 一つの歴史事象をめぐり、数や規模によって「あれは捏造だ」や「事実だ」との評価が分かれる問題もあります。こうした大人げない遣り取りを見聞するにつけ、「それによって生命が失われたり負傷した」との事実が捨象化されてしまうことが僕は空恐ろしいと思う。一人の生命も百人の生命も、それだけで世の中に存在していたわけではなく、その背後にはその人が関わってきた人の数だけの哀しみもあるはずです。こんなことを考えながら、中島みゆきの『永久欠番』を聴いています。取り留めのない話になってしまい申し訳ありません。
お礼
長文のご回答ありがとうございます。 そのフリー・ジャーナリストが立派な仕事をしたのなら、同業者として、彼女の仕事(映像)を再放映するなどしてもよかろうに、そんなことをする同業者はおらずに、ただ事件性が高いとばかりの報道に終始しているように見受けられました。ですから「プロの仕事として高く評価」しているようには思えませんでした。
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お礼
URL有難うございます。 テレビ放映会社や新聞出版会社の編集長にとっては非常に近い存在だったのですね。 自分に近い存在を大きく報道するってのは、やはり、メディアが社会の公器ではないという証拠の一つですね。