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命は他の誰のものでもありません、自分のものです
当り前だよね。
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そうです。 で、他に何か? ついでに言っておきます。 だから自分を粗末にしてはいけないのです。 自己愛って大切なのです。 回答にならなかったらゴメンナサイ。
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人生はマラソンの様な物。この説には私も賛成です。良い例えだと思います。 しかし、このマラソンはコースもその長さも決まりがありません。もちろん自分以外の『マラソンの主催者』など存在しません。 『棄権』を判断するのは『主催者』です。 他の質問の回答にも書いた通り、ここでもあなたは他人のマラソンの主催者の様な発想でものを言っておられる。『上から目線』です。 まずこの上から目線で発想する癖を直さなければ多くの人の同意を得るのは難しいでしょう。(少数のあなたと同じ上から目線の人の同意は得られると思いますが) ちなみにマラソンを自ら止めるのはコース離脱(棄権)のような可愛らしいものでは有りません。 生きる為に必要な呼吸や鼓動を自らの手で止める行為は、あなたの仰るマラソンに例えるなら走るのを止めて自らの足を切断するという事に等しい。 発想の端緒(人生をマラソンに例えた事)は結構ですが、その先の想像力は貧困と言われても止むを得ないでしょう。
- sumikawa5
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命は自分のものというのは半分あたっています。 生まれてきたのは当たり前ではありません。 1世代前の親を考えてください。 父親と母親が出会う確率、あなたが生まれる確率は限りなくゼロに近い。 1回の性交でさえ数億分の1の確率です。 2世代前からあなたが生まれた確率はさらに累乗されます。 人類はたった一人の女性からわかれたそうです。 それだけ「あなた」が今の世(日本)に生まれる確率はゼロに近いということです。
お礼
>命は自分のものというのは半分あたっています。 残りの半分は? >人類はたった一人の女性からわかれたそうです。 正しくは人類はたった一人の女性からわかれたのではなく、猿の未熟児からわかれたゆーのが現代の定説みたいです。
亡くなってしまった方に対しては『ハート』で構いませんが、今現に生きている人が同じ事を自分にも言って欲しいと思っているのなら、単なる『甘え』だと思います。 私は22歳で発症した『原因不明・治療法無し・進行性』の病気の為に再来月入院・手術の予定です。 この病気の為に人には言えない苦労も無かった訳では有りませんが、それと『人生を悲観して死ぬ事』は全くの別物です。 亡くなった方に対して生前のご苦労を悼み、ご冥福をお祈りする気持ちは変わりませんが、それを『病死』と言われれば『それは絶対違うよ』と申し上げます。
お礼
人生はマラソンのよーなものです。 完走する人もいれば、途中棄権する人もいる。 コンディションが良ければ完走できるけど、コンディションが悪ければ完走できないこともある。 そんなふーに考えればえーんでないの。
私はあなたの体があなたの物では無いと言った事は一度も有りません。そうでしょう。 あなたの体はあなたのものです。 但し、『生きる』と言う事は酸素や水分の摂取にしろ、食べる事や排泄にしろ、自分の体の外部との接触無くしては出来ません。 だから命を縮める事(自殺)は出来ても、命を延ばす事は出来ないのです。分かりますか? あなたは他の回答者に対して『生命の尊厳』と言った意味の事を答えておられるようですが、『命はあなただけの物では無い(だから自殺などしてはいけない)』と説くのと、『命はあなたのものですから、生きようと死のうと好きにして下さい』と言うのはどちらが命の尊厳について、それを尊重した言葉でしょうか? あなた自身が言おうとしている事に矛盾が有るし、論理が破綻している様に思いますが。 ちなみに別の質問で自殺は病死であると仰って居る様ですが、自殺はあくまで自殺であり病死では有りません。 今までに多くの人が病気と戦って亡くなって居りますが、彼らは最後まで戦ってきました。途中で放棄して自殺した人から『これも病死ですよね』と言われて『はい。そうです』と答えがもらえると思っているのでしょうか? 最後の最後の瞬間まで生きる為に全力を振り絞って戦った人を侮辱する発言だと思いませんか?
お礼
>今までに多くの人が病気と戦って亡くなって居りますが、彼らは最後まで戦ってきました。途中で放棄して自殺した人から『これも病死ですよね』と言われて『はい。そうです』と答えがもらえると思っているのでしょうか? あなたに一つ訊きます。 この世で一番大切なものはなんですか。 ハートですよ、ハート。 ハートがなければ世の中楽しくありませんよ。 どのよーな形にしろ死んでいった者はハートをもって葬るべきです。 病気が苦しくて命を断ったのであれば病死でよろしい。 何の問題もありません。
- hekiyu
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”当り前だよね” ↑ 当たり前ではありません。 例えば、キリスト教では人間は神が創ったのですから 神以外の人間が勝手に、命を処分してはいけない、 ということになっています。 勿論、自分も処分できません。 自分が創ったのでは無いからです。 だから、キリスト教では自殺は罪とされているのです。 現在の日本でも、当たり前とはされておりません。 自殺そのものは犯罪とはされいませんが、 自殺に関与することは犯罪とされています。 これは、自分が処分することが違法であることを 前提としています。 違法ではあるが、刑罰で罰するほどの違法ではない ということです。 当たり前であれば、本人の真意に基づく自殺に 誰がどう関与しようが自由なはずだからです。 また、我が国では臓器売買も禁じられています。 これは、我が身体といえども、100%自分のものではない ということを示しています。 100%自分のものなら、売ろうが、捨てようが 自由なはずだからです。 生命は、親から与えられ、親を中心としたいろいろな人 によって育てられ成長します。 そういう人達のお陰で、今の自分が存在する訳です。 だから、命は自分だけのものではないのです。 親を始めとする、皆のものでもあるのです。
お礼
>生命は、親から与えられ、親を中心としたいろいろな人 によって育てられ成長します。 だから命は親のものでもあるなどとゆー考えはあまり主張せんほーがよいと思う。 事実、最近親が子を虐待死させる事件が数多いのは命は自分のものであるなどとゆー勝手な発想が根底にあるからではないのかな。
命が自分のものでない事と、他の物が自分の物で有るかどうかの間に因果関係が有るでしょうか。 命が自分のもので有るか無いかに関わらず、他の物が自分の物で有る事は『所有』と言う法的概念が存在する事から『命の帰属』とは無関係であると言えるでしょう。 『命』が自分の物では無いならば、『所有と言う概念』が存在し得ない理由があるでしょうか。 私がるる述べているのは、『自分の思い通りにならない寿命と言うものをもつ「命」が、自分のものであると言える理由は何なのか』と言う事です。 ちなみに、同様の定義を私が仮にしようと思えば、『命は誰のものでもない。もちろん自分のものでもない』となるでしょう。 『誰のものでもない』ものが『自分のもの』では有り得ないと思うからです。 『地球は誰のものでもない。自分のものです』と言う文章を見ておかしいと思うのは、『誰のものでもないならあなたのものでもないでしょ?』と思うからです。 ご質問の表題がおかしいのが分かって頂けましたか?
お礼
>命は誰のものでもない。もちろん自分のものでもない。 このよーな考えによると、生きている本人が生きたいと願っても、生きることは許されなくなるね。 命は生きている本人のものではないのだから。 殺人とか大量殺戮とか戦争とか自由に行えることになるね。 だんだんと畜生の世界に近づいていること感じないのか。
『地球が永遠でない』事は、『自分の命が自分のもの』と言う理由にはならないと思いますが。 私が回答したのは『なぜ自分のものと言えるか考えてみてはどうですか?理由がないでしょう』と言う事です。 『あたりまえの話』をしているのではありません。『なぜあたりまえと思い込んでしまうのか?その事に理由はあるか』と言う事です。 分かりませんか?
お礼
では訊きます。 自分の命が自分のものでないとなると、自分のものとは何なのか。 自分のものなど存在しないゆーことかな。 そーゆー結論になるのかな。
『生き物である限り無限に生き続けることはできません』 その通りです。だからその『自分の思うとおりにならないもの』が『自分のもの』と言える理由が有るか考えて見て下さいと申し上げている。 餌をまけばスズメは食べに来てくれますが、そのスズメは自分の物では無い。『命』も同じで、自分の思い通りにならないけれども自分のものだと言える理由は何かと言う事です。 『あたりまえ』が、本当に『あたりまえ』なのか、それが『あたりまえ』である理由は何なのかを考えるのが哲学的思考です。 『あたりまえでしょ』で済ますのは哲学とは言えないのではないでしょうか。
お礼
>だからその『自分の思うとおりにならないもの』が『自分のもの』と言える理由が有るか考えて見て下さいと申し上げている。 この世の中で完全に自分の思い通りになるものなんてないよ。 例えば自分で家を建てれば自分の所有物になるけど地震で倒壊すれば一巻の終わりですよ。 そもそもこの地球だって永遠ではありません。 論理的にゆーてその考え少しおかしいとは思わんか。
- toshipee
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哲学の真理の探究にも、納得するのは所詮「気持ち」その許せる度は育てられ方、人生の満足度によって「大きく」違うのは、ここの哲学と言いつつ自分の気持ちを変えられない多くのヒトによって明白。哲学は誰もがたどり着けるなら、真理はもうたどり着いてるハズ。それができないから、宗教がある。
お礼
>それができないから、宗教がある。 これについて宗教は何一つ答えを持っていません。 今の宗教は皆死んでます。
単なる悪意の無い雑談としてなら許容範囲だと思います。反論の様な事を言うつもりは有りませんが、もし哲学的考察として仰っているのなら、まずNGです。 命と言うのは『誰それのもの』として『所有出来るもの』なのかと言うのが一つ目。 自殺等によって自ら縮める事は出来ますが、自分の意思で延ばす事は出来ませんが、それでも『自分のもの』と言える理由は何なのかと言うのが二つ目。 『当たり前』と言うのは、何に照らして『当たり前』なのかの説明が可能なのかと言うのが三つ目。 突っ込みどころ満載と言ったところです(あくまで哲学として議論されているのならと言う条件付きですが)。 ちなみに理由を明示せずに個の価値観によって『当たり前』と断じるのは、『宗教』であって『哲学』では有りませんので、そう言う意味でしたら、ご質問のカテゴリは『哲学』では無くて『宗教』を選ばれた方が良かったかも知れません。
お礼
>命と言うのは『誰それのもの』として『所有出来るもの』なのかと言うのが一つ目。 仮に命は誰のものでもないとしたとき、そんな中で果たして文明は成立つのか。 >自殺等によって自ら縮める事は出来ますが 生きるか死ぬかは本人が決めること。 他の誰が決めることではありません。 >自分の意思で延ばす事は出来ませんが、それでも『自分のもの』と言える理由は何なのか もちろん生き物である限り無限に生き続けることはできません。 当り前でしょ。
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お礼
>で、他に何か? 他には何もありません。 命の所有者は他のだれでもない、自分であるゆーこと、それだけです。