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日本の戦時末期の大学生
「わだつみのこえ」などを観ると、 第二次大戦末期の1943年(昭和18年)の学徒出陣によって入隊した大学生は、 試験を受けて少尉などにすぐ任官していたようですが、 当時の東京帝国大・早稲田・明治などの大学生は、 現在以上にエリートやインテリの色合いが強かったのでしょうか?
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後期高齢者です。 旧軍隊、特に陸軍には農村の次男坊、三男坊など長男以外は飯が只で食えると言うだけで志願入隊をしたものが多く居ました。赤紙が来る前にです。 陸軍幼年学校を卒業して下士官から士官へと進むエリートは(外国でもそう)順次少尉を手始めに出世していきます。 只、戦争末期になってくると兵を統率する士官が戦死などで減り、統率者が逼迫し、大学在学中でも赤紙で引っ張り出されたり、自主卒業後(中途で)入隊の道を選んだり半ば強制的に入隊させられその時点で少尉待遇であったのは現実です。 何年も教育訓練できるような状態ではありません。それは小説の世界です。 昔の中学校(今の高校、高等専門学校など)の技術科を卒業したとしても、最初は二等兵から。 但し赤紙で引っ張られた一般の兵隊とは異なり、そう云った技術系の学校卒業者は私の知っている限りでは1年か2年で下士官(最高は曹長まで)になるのが普通でした。 従兄弟は現在90歳、鈴鹿の航空隊で(電気通信の専門学校:中学校を出て)技術教官をしていました。 同期に入った大学卒業生などは入隊ご少尉待遇のまま直ぐに出撃命令でガダルカナルへ行き生き残ったのは2名のみ。(昭和22年に偶然街で従兄弟が部下に会って判ったそうです) 戦争後期になると士官は不足します。 零戦が次々打ち落とされたのは撃墜に告ぐ撃墜で操縦士に戦争初期の教官クラスのベテランが戦死して居なくなった為です。 鈴鹿にもすでに航空機はありませんでした。 戦争後期には大学卒業或いは在学中の大学生でも入隊即少尉待遇でした。 一般のベテラン兵隊は馬鹿にしてましたけれどね。 そのベテラン連中も海外へ行き軍隊に残った青二才は数えるほど。 まあ何時の時代でも辛抱できず脱走兵になる輩も結構居ました。 当時の憲兵大尉のIさんに聞いた話では軍でも把握しきれていなかったとの事。 (ある脱走兵事件があって私と家族が生き残ったのは偶然が重なった僥倖からです) 私の知っているのは航空隊のみですが、従兄弟に聞いている限りでは他の陸軍も同じだろうとの事。(海軍は異質だったかも。坊主頭ではなく下士官などは長髪だった) 旧軍隊も学歴社会でした。 その伝承からか、昭和30年初期、私が大学卒業時、自衛隊から各大学への勧誘は非常に多く、説明時の条件は入隊と同時に三尉(少尉)待遇に任命、教育訓練後、3ヶ月も経てば部下は50名つけますとの説明。 従兄弟から聞いていた大学卒で入隊すればすぐ尉官と云うのは戦後も続いていたわけですね。 当然就職が出来難い時代でしたから何人かは自衛隊へ行きました。 行った連中は職業的に全うして退官していますが既に黄泉の国へ旅立った奴も。 帝国陸海軍時、大学の研究室に残されたのは帝国大学系のごく一部の技術系学生のみです。 余計ですが聞けわだつみの声は作り事(うそ)の世界ですから信頼しないように。
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- 川原 文月(@bungetsu)
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こんにちは。 私の叔父(大正6年生まれ・すでに没)から聞いた話です。 叔父は横浜高等商業学校(現・横浜国立大学)に在学していましたが、昭和12年7月7日に支那事変が勃発し、4年生になったばかりだったのですが、学校にも何人かの「召集令状」が届き、叔父にも召集令状が届きました。そして、繰り上げ卒業となりました。 叔父は、学校でもトップクラスだったため、学校長と出身地である新潟県の県知事の推薦状が軍部に送られました。 叔父は、中尉に任官し中支へ向かったそうです。 輸送船では、士官は畳のしいた部屋で、士官以下はゴザをしいた大部屋。食事も士官専用食堂があったそうです。 中支へ渡ってからは、軍内部で主に兵士たちの私信の検閲などを担当したそうです。 そして、3年後には大尉に昇格し、仕事は同じく私信の検閲等で前線にでることはなかったそうです。 昭和21年に帰還しました。 >>当時の東京帝国大・早稲田・明治などの大学生は、現在以上にエリートやインテリの色合いが強かったのでしょうか? やはり、帝国大学や早稲田、明治などの現在大学になっている学校の卒業生は、それなりの士官に任用されたようです。
- damerimen
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背景をさらっと書きます。 学徒出陣とはなんだったのか?についてです。学徒は民間産業へ知識階級を提供し、産業力の水準を底上げするために用意された特別な学生を差しました。当然兵役免除です兵隊になるのが嫌で必死に勉強して、入学後は割と遊んでた口です。民間ではエリートに違いありませんが、軍では士官学校を恩賜組で卒業した者が大将に、ビリで卒業した者は運が良くて少将と明確に学歴で決まっていました。 では学徒は?長くて半年程度の兵教育を受け、見習い士官候補生として部隊付きになります。この場合、先任下士官の伍長などのほうが偉く、見習期間が終了するか、野戦任官で少尉に任官されても、士官教育は受けていませんから使い捨てです。軍内部ではエリート視されませんでした
- blackhill
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質問歴を拝見すると、質問者は戦前の学歴社会に関心がおありのようですが、現代の枠組みで過去の出来事を理解するのは無理ではないかと思われます。 たとえば、戦前のエリートは、基本的には旧制高校で養成されたといわれています。したがって、大学卒とひとくくりすることには疑問があります。 こうした問題は、専門家の見解を聞くのが先でしょう。必見文献として、取りあえず以下の3冊を紹介します。 高田里恵子『学歴・階級・軍隊』中公新書 2008年 竹内洋『学歴貴族の栄光と挫折』日本の近代12 中央公論新社 1999年 同『教養主義の没落』中公新書 2003年
- shin1417
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>現在以上にエリートやインテリの色合いが強かったのでしょうか? 現在以上なんて生ぬるい物ではありません、『別世界』と言っていいくらいですよ。 だって、「学士様」って呼ばれてたんですよ。 ○○大学の学生じゃなくて、○○大学の学士様って、世間一般の人達からは呼ばれてたのです。 あの時代、義務教育は小学校までです。 そして、その上の中学校に進学するのは20%程度なのです。(地域差が有りますが) ですから、中卒でも高学歴扱いされたのです。 さらにその上に高校があり、大学はさらにその上ですから。 大学まで進学できたのは、全体の2,3%に過ぎません。 地方のド田舎なんかにいったら、大学に進学する人間が出てくるのは何年に一人です。 現在のように「大学全入時代」とは、全然違うのです。
- pem42391
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エリート、インテリという表現が曖昧なものであるので、ストレートな回答が難しい質問ですね。ただし、一般論として大学生は今よりも希少でしたから相対的に今よりエリートであったのは確実です。 当時は受験産業なんてものはありません、偏差値なんてモノサシで学校を比較することもありませんでした。だから何をもって大学を評価するかも今とは違うでしょう。入学の難易度にしても入学試験のシステムなどが違いますから一概にはいえません。ただ、歴史がもっとも古く高級官僚出身校としての意義もあることから、東京帝国大学は頭ひとつ飛び抜けて評価が高かっただろうとはいえます。その他の大学については、「偏差値が高いから」「就職に有利だから」などという理由で評価されるものではなかったので、校風や在籍する教授などによっての評価も大きかったようです。 知名度というものも世間一般の評価の要素としては大きいですね。昭和初期の日本でいちばん人気があったスポーツは、東京六大学野球でした。プロ野球よりはるかに人気があったという著述はよく目にします。六大学野球はラジオでも新聞でも、あるいはニュース映画でも国民に伝えられたようですから、6校の知名度は抜群であったと思います。地方の帝国大学などその近所に住んでいる人なら知っていても、全国区の知名度で差がつけられると私は考えます。有名な学校なら優秀な者が集めやすいというのは事実で、だからこそ現在の高校などでも野球部を強化して甲子園で名を広めようとするのです。 学部・学科について。理工系の学生が徴兵を猶予されたのは、そうした学部のほうがエリートだからでは、もちろんありません。「あいつらはそのまま勉強させておいたほうが役に立つ可能性がある」というドライな理由からです。技術力は国力に“短期的”に直結する、だから産業に必要な機械であるとか、極端なところでは兵器の開発であるとかに便利だから学校に残しただけです。昔の大学は純粋に知を追求する性格が今より強いところでした。多くの若者がすでに働いているのに、同じ年齢でも金に困らない家の息子が人生だの理想の社会・経済構造だの、あーだこーだ思い悩むのはまさにインテリです。文学とか哲学とか、“直接”には社会の利益に結びつかないものに頭を使うのは高尚なことで、「就職に不利」だとか卑しい評価をする今よりはエリートであったでしょう。 それから > 試験を受けて少尉などにすぐ任官 「すぐ」というのはやや言い過ぎですね。陸軍の甲種幹部候補生は軍隊に入って少尉になるまで2年近くかかります、海軍については詳しくないのですが、手元にある阿川弘之の『雲の墓標』をパラパラとめくってみても、水兵として入団した海軍予備学生が少尉になるまで1年かかっています。ま、正規の現役少尉になるコースと比べればずっと短期間なのは確かですけれど・・・
- mekuriya
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まあエリートはエリートですわな。例えば、早稲田大学は1936年のベルリン・オリンピックのサッカー日本代表に半分の選手を送り出していました。当時はJリーグも社会人サッカーも何も無くて大学のクラブが国内のトップだったのです。早稲田に限らず東京六大学はベルリン五輪に結構、選手を送り出しましたね。阪神淡路大震災の時の総理大臣の村山富市がその頃明治大学生で、学徒出陣したのですね。 そんな風に、東京六大学はそれぞれ異なる分野で活躍するエリートやインテリを輩出し、特色を出していたといえるのではないでしょうか。現在より大学進学率が低いですから。
いいえ、旧7帝大だけです。それも理系は徴兵免除に近い待遇だったと思います。
お礼
経験に基づいたお話ありがとうございました。