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戊辰戦争で大した数の戦死者が出てない訳は?
幕末という激動の時代にあった戦いにしては倒幕、幕府両陣営で1万人も戦死していないのは何故でしょうか?西南戦争よりも戦死者がいないのは現代の若者の感覚では謎でしかないです。 公式発表にはないですがロシア軍のウクライナ侵攻の方がもっと戦死者は多いと思います。 どうして戦死者1万も出ずに戊辰戦争は終わる事が出来たのですか?江戸が戦火に飲まれなくても、それを差し引いても1万も戦死していない。不思議です。
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- nururian
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洋式軍隊への編成にお金がかかりすぎるので、どこの藩でも小規模編成に留まったこと。 当時の銃の命中精度が非常に悪く、密集隊形で近距離でバンバン撃ち合ってもあまり当たらないこと。 などです。
- gunsin
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内乱をさせない為に、徳川慶喜は蟄居・謹慎しました。 武家の棟梁が身を引いているので、徳川の家臣団は、挙兵する事が 出来ません。 会津藩討伐を打ち出した、朝廷の理不尽な処置に、会津藩は、城明け 渡しを拒否して、籠城を決めました。 その事に、奥羽の諸藩は、会津藩に義、在りとして、挙兵したのが、 戊辰戦争戦争で、激しく戦ったのは、長岡藩と酒田藩と当事者の 会津藩です、他の藩は戦闘が始まって、次々と脱落しました。 会津藩も降伏し開城しましたので、戦死者が少ないのでしょう。 百年以上経過した今でも、長州と薩摩は、許さじ!と思っている 会津若松市の市民に、少なからず居ます。 西南戦争は、維新政府の政策に不満を持った、死を覚悟して武士が 起こした、反乱なので、政府側は徹底的に潰しに掛かります。 京都守護職として、天皇と京都を守り、天皇から感謝されたのに、 朝敵とされた会津藩と不満分子の武士が起こしたのでは、同じ反乱 でも違うのです。
- もこ猫ミクにゃん(@miku-chi)
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4です。 補足失礼します。 戊辰戦争の参加人数が少ない理由は刀剣は一般庶民が手軽に扱えるものではないからです。 庶民は普通刀なんて買えませんし。 銃器も訓練が必要ですけど、西南戦争の頃には軍備がある程度整った上での戦争ですから。 意外と戊辰戦争は戦争に至る期間が短いのですよね。 黒船が来るまでは一揆などはありましたが、ほとんど平和で、武士さえもあまり刀の扱いに慣れていなかったとか。 西南戦争は幕末の戦いから訓練をし続けたみたいなものですからね。
- もこ猫ミクにゃん(@miku-chi)
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まず、幕府軍の参加人数が不明瞭であること。 基本寄せ集めですから。 その寄せ集めでも特定の地域を除いて、一般人は参加していませんし、巻き込まれた人の数は入れていないかと。 ひょっとしたらWikipediaに書いてある数とは桁が違うかもしれません。 あと武器の違いもあるかと。 西南戦争は大砲や銃器が中心でしたが、戊辰戦争の幕府軍は刀剣が中心です。 威力が全く異なります。 ウクライナ侵攻は空爆が中心の攻撃です。 そこで核爆弾など出してきたら、即万単位の死者数が出ますね。
- eroero4649
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>何故こうも幕末の戦闘はスケールが小さいのでしょうか? どっちもお金を持っていませんでしたからね。鳥羽伏見の戦いの後、薩長軍は江戸に向けて進撃することになりますが、そこで重大な問題になったのが戦費の調達でした。江戸に行くお金が足りなかったのです。 あまりにお金がないので、なんと徳川家に借金をすることが真剣に議論されたほどでした。今ならロシア軍がウクライナ政府に借金を申し込むようなもんで、そんなのあり得ないのにそんなことを話さなきゃいけないくらいのお金のなさです。 一方の徳川家(江戸幕府)ですが、江戸城無血開城後、薩長軍は江戸城の金庫蔵に殺到しました。理由は前述のようにお金がなかったからです。江戸城の小判をせしめて自分たちの戦費に充てようとしたのです。ところが金蔵はカラッポ。激怒した薩長兵は刀を持って勝海舟のところに押しかけて、カネをどこに隠しやがった、黙っているなら只じゃすまねえとやりました。しかし修羅場慣れしている勝海舟は少しも騒がず「そんな金があったなら、最初からお前らには負けねえよ」と笑い飛ばしたそうです。 特に旧幕府軍なんてなるともう他に行き場がない人たちの集まりです。負けは確定していますしね。逃げられる場所がある人はとっくにどさくさ紛れに逃げちゃうんですよ。新撰組も鳥羽伏見の戦いに参戦していたのですが、確か戦死者は3名とかそんなもんじゃなかったかな。だけど退却するときに潰走状態になってパニックになり大混乱になったんです。それで、隊士はみんなどさくさのうちに逃げちゃったのです。写真もない時代、服装さえ捨ててしまえばどこの誰かも分かりません。 ちなみに戦国時代の合戦では、勝った方は足軽の数が増えるんですよ・笑。いつの間にか負けた側の足軽が勝った側に混じってるんです。合戦が終わるとお給料がもらえますからね。 戦死者の数が極端に少ないのは、士気が低いからです。そこまでみんな必死になって戦ってないんですよ。 だってそもそも一般兵士にはこれといった大義がある戦いじゃないですもん。ただのお殿様同士のトラブルです。遠くからバンバン撃ち合ってるだけです。 上野戦争でこんな話が残ってるんですよ。彰義隊の指揮官の天野八郎が自ら部下を連れて「我に続け、突撃!」とやったらしいんですよ。で、振り返ったら誰もいなかったそうです・笑。実はこの天野八郎自身もこんなコントみたいなことやっても別に敵に撃たれて死んでないのです。だからそんなにすごい突撃をしたわけじゃないと思います。絶対に死ぬ距離には近づいていない。でも、そんなへっぴり腰の突撃にも彰義隊士はついてこなかったのです。上野戦争は激しい銃撃・砲撃戦が終日続いたのですが、夕方になると東側から逃亡兵が相次ぎ、彰義隊は崩壊します。新政府軍の参謀大村益次郎は上野山を包囲していましたが、わざと東側を空けておいたのです。孫子の兵法書が説く「囲む師は欠く」というやつですね。
1コメのphoxyだ。 補足した方が良いと判断したから2回目の投稿をしています。 邪魔だと思ったら削除してください。 1コメの「諸説あるけど数十名〜数百名の戦いだったから」ってのは、 戊辰戦争全体ではなくて各地の小さい戦いの事を言っています。 戊辰戦争に参加した人自体はそれよりずっと多いです。
戊辰戦争って大きな戦争だと思われがちだけど、 本当は参加者とか結構少ないんだよね。 諸説あるけど数十名〜数百名の戦いだったから、 両者が全滅しても十万までは行かないと思うよ。 勿論、激しい激戦区もあったけどその場所自体が少なかったから。 というか、戊辰戦争は「殺し合う」というよりも 「抵抗」とか「自己防衛」的な意識が強かったてのもあるね。
補足
回答ありがとうございます。 どうして参加者が少なかったのでしょうか? 自分はそこから分かっていません。 あの天下分け目の関ヶ原の戦いだって何万もの武士が戦いました。 幕末という如何にも天下を決する時に何千人とかの小競り合いが各地で起こった事に疑問しか残りません。 何故こうも幕末の戦闘はスケールが小さいのでしょうか?