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決断の時、そこにあるもの

決断の条件とは最善という確率である。 しかし、それらの条件が見出せても、尚、決断できない場合もある。 一つの最善が全てにおける最善とは限らない・・・という事と 想定外の事態への不安を払拭できない・・・事による。 それらを乗り越えてこそ決断は下される。 最善なる方法と、それがもたらす結果を信じてこそ決断は下される。 決断の時、そこにあるものは 一握りの最善と、一握りの信念である。 批判を怖れぬ最善と、批判を怖れぬ信念である。 違いますか?

みんなの回答

回答No.6

「最善という確率」というのは、もう少し分析が必要です。 確実性の高い選択肢だとメリットは小さく、メリットの大きい 選択肢は確率が低いというのは競馬の馬券でも同じ事。 「最善」の実現確率が、他の確率と変らなければ、誰も 迷う事はありません。 決断とは、「コツコツ小さく確実に稼ぐ」か「一か八か大き く稼ぐ」かであって、そこに必要なのは勇気や信念より、 それぞれの確率の不確定要因を最小限におさえる、 より多くの情報収集とより精密な分析の上での話しです。

noname#156094
質問者

お礼

ありがとうございます。 >「最善という確率」というのは、もう少し分析が必要です。   ・・・・・   それぞれの確率の不確定要因を最小限におさえる、   より多くの情報収集とより精密な分析の上での話しです。 確定要素と不確定要素の両面においての検討が必要である、という事ですね。 これは当然の事だと思います。 不確定要素が確定要素を上回る選択肢は最善とは言えない 決断するに値しない、ということになるのでしょう。 この事は確かな理だと思います。 しかし、この事が当てはまらない場合もあるのではないでしょうか。 たとえば 人が生きてゆく、という事に当てはめてみれば 大部分が不確定要素のように思えます。 そこには、一か八かというような決断をしなければならない時があるのではないでしょうか。 いわゆる賭けに出るとか、勝負に出るというものです。 この場合は、もはや最善を伴わない愚かな決断と言えるかもしれません。 愚かな決断の明暗のない人生もない・・・そんな感じもします。 正しい決断のみが決断ではない・・・そんな感じもします。 そこには、信念というよりも、不安を断ち切る勇気があるように思います。 勇気だけの愚かな決断 したくはないですが、しなければならない時もある、あったような気がします。

  • miko-desi
  • ベストアンサー率19% (69/352)
回答No.5

ゲームおんちな私もシンプルなオセロゲームだけは好きです。 序盤~中盤の最善手は自分の手をできるだけ確保して、相手を手詰まりに持っていくこと。 だから一見したコイン?の多さが優劣と関係ない、持てるコインの意味が重要で。 けど人間は白か黒か、裏か表かだけじゃない。 意味も優位とか有用性だけじゃない。 水に例えると、水そのものは至って「ありふれている」という特徴しかない。 裏も表もない、未練を残し居座ろうとすることもない。 何とどんな条件下で出会うか混ざるかで最善になったり最悪になったり。 「信念」は決断というよりそれを捨てれば特徴をなくす、 なくさないための意地みたいなものではないでしょうか。

noname#156094
質問者

お礼

最善も信念も、その時だけのもの ゲームにたとえれば、勝負の終わった盤上には何も残らない すべては薄っぺらなものに過ぎない・・・ 薄っぺらな白と黒の裏表に過ぎない そう仰りたいのでしょうか。 できうる限りの最善の一手 それは中々打てるものではないようです。 打てそうで打てないのが本当でしょう。 簡単そうに見える決断の裏側にある意志の強さを信念と呼ぶのならば 外面へのこだわりである意地とは違うように思います。 意地の一手と信念の一手では違うと思います。 こだわりだけでは真の決断は出来ない 人の評価にのみ拘っていては決断は出来ない そんなふうに思います。

  • gadovoa
  • ベストアンサー率28% (835/2909)
回答No.4

>決断の条件とは最善という確率である。 この大前提が間違っていると思います。 秋葉でトラックへ突っ込み人を殺そうと思った時の少年の決断は 最善なのでしょうか? 決断の条件は信念ではないでしょうか。

noname#156094
質問者

お礼

ありがとうございます。 条件、という言葉は 案件を律する条文という意味だと思われます。 そこには感情の類を排除した決まり事、という意味も含まれているのではないでしょうか。 信念とは、必須ではあるけれども条件ではないと思われます。

noname#194996
noname#194996
回答No.3

>決断の時、そこにあるものは 一握りの最善と、一握りの信念である。 違いますね。 最大多数の善と、失敗を無視する勇気です。 一握りの最善とは何でしょうか。最善とは最善であって一つしかないものです。オールオアナッシング。1でなかったら0しか残っていません。そういうものです。 のだそうりは原発再稼働に最大の善を見たのでしょう。再稼働による失敗はあえて思いから外したのです。そこに彼の匹夫の勇を見る人もいます。

noname#156094
質問者

お礼

ありがとうございます。 よりリアルに決断の内容を解釈しようとする事はいいと思います。 私は少し情に訴えたきれいな言葉でまとめ過ぎたのかもしれません。 一握り、とは正に簡潔であるもの、という意味を含んでいます。 簡潔なる最善、簡潔なる信念 と読み直してくださってもいいのでしょう。 簡潔であればこそ決断しうるものなのかもしれません。 簡潔に至るまでは・・・大変だと思います。 永田町の生徒会も大変です。 どぜうくん頑張ってください。 この頃そう思うようになりました。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.2

男は負けると判っていても、戦わねば ならぬときがある。 善悪正否に関わらず決断する、てことも あるでしょう。 人は死ぬべきときに死ぬべきである。

noname#156094
質問者

お礼

ありがとうございます。 侍ですね。 義に死す美しさですか 義を貫くという、命と引き換えに手に入れる決断の美しさです。 ・・・・・ 四十七士の墓を見て何を感じますか 私は小さなため息でした。 靖国の遺影に何を感じますか 迷いつつ純粋であったという悲しみでした。 義は美しく、時に悲しく、虚しいものです。 自らが決断した義であればまだしも 大義という決断を受け入れて散っていった人の命は、あまりにも悲しいものではないでしょうか。 お答えは、自らが立てた義における信念を表している そのように頂きました。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.1

違いますか? ○ 質問なのか、同意をもとめているのかわかりませんが。回答としてはその通りですね。 個人は最善をもとに、為政者は最大多数の最大幸福をもとにに決断しなければならない。ということですね。 決断の際の心得は、信念と同時に結果は天命に任すということですね。 例えば、私が総理でしたら原発の再稼働は責任をもって実行します。例え、100万人の反対デモがあっても国民の未来のために再稼働しますね。そういうことですね。

noname#156094
質問者

お礼

ありがとうございます。 決断とは、そこに関わってくる人の数によって違うように思います。 個人一人の決断に比べれば、多くの人を背負った決断は大変に重いものです。 個人と公人の判断の範囲の違いによるのでしょう。 共通しているように見えるのは いかに最善であっても、批判に晒されない決断は無い 不安を伴わない決断は無い という事です。 そして これを乗り越える信念を手に入れなければ、決断も出来ないはずです。 最善という仮定への信念・・・強い信念 永田町のどぜうさんの信念も どうとて、どうして、中々いいじゃありませんか。

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