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いつかは死ぬのに生きている理由は何ですか?
私は人間が寿命まで生きようとするのは動物的な本能で死ぬことを恐がるためだと思います。 幸せになるために生きていると考えた場合、人間だけにそのような理由が与えられることは不自然だと思います。 なぜならこのように考えると他の生物が生きている理由が分からなくなってしまいます。 いつかは死ぬのに生きている理由は全ての生物が共通である方が自然であると思います。 幸せになるために生きているなどの理由は全て生まれてから付け加えられた理由だと思います。 まとめると人間が生きる意味は本能で死ぬことを恐がるからという理由だけであり、他の理由は本当の生きる理由ではないと私は思います。 この意見についてみなさんはどう思いますか?
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- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 生きたいからです。 ほかの動物は そうは思わないでしょう。
- t310syuri
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お礼、ありがとうございます。他の人も回答してたけど、あくまであなたとの対話の中での結論を言えば、究極、生物がなぜ、生きているのか。その理由は、「死んでいないから、生きている」んじゃない?生きている理由でしょ?あくまであなたとの対話の中での結論や導かれる答えに過ぎないけれどね。哲学にも何にもならないじゃない。とにかく、視野や活動の幅を広げれば、あなた自身に何かしらの思考の変化があるかもよ?あくまで、「かも、しれない」けれどね。あなたが今の考えや思いに固執し続けるのであれば、あなた自身が何と出会い、何と触れ合っても、同じ所に留まるなり、ぐるぐるとそこを旋回するだけだと思うよ。そう思うけれどね…。あなた、まだ若いでしょ?何か10代かそこらかのような…そんな気がするんだけど…。違ったらごめんなさいね。おなか空いたからごはん食べるね。私がこれを、この思いと行動とを、今後一切、放棄すると決意したら、私は死ぬでしょうね、助けてくれる人もいなくなれば。参考になりました?哲学じゃなくて、福祉の勉強してみたら?哲学は、極める気ないなら(沢山の知識や知恵や教養を得て、人や自分自身の糧になったり役に立つようになりたいとか、そういう思いや考えではないのなら)、衣・食・住の満たされた、もしくは自分の意思でそれを選ばなかったり放棄した人間の、怠慢や娯楽や道楽みたいなものよ。哲学でごはん食べていくの?私は哲学者ではないからこんな風に思うし、言ってしまうけれど。哲学についてとても熱心に勉強して、教養のある本当の知識人もいるでしょうから、そんな人に出会えると、あなたにとってはいいんじゃない?これ以上はあなたの質問に対して、私の能力では回答出来ないかも。
お礼
回答ありがとうございます。 恥かしながら22歳です。確かに私は自分の考えに固執してしまう部分があると思います。これから努力して改善していきたいと思います。 ご指摘ありがとうございます。
- parts
- ベストアンサー率62% (6366/10151)
自然ですか? まず、人のように高度に知能を持つと思われる種は、地球上ではホモサピエンスと、クジラやイルカなどの海獣ぐらいだとされています。人の場合は、多くの考えを大脳の新皮質で行い高度な理性や知性を持っているのです。だから、理想を追い求めることも、知能を用いて住処を開拓することも、戦争に残虐な兵器を用いることも、人の「糧」としての家畜を育てることも出来るのです。 それが、知能です。 この知能は、原人が人に進化する過程で徐々に発達させてきたものであり、それが最初から備わっていたのではないのです。尚、人を死して埋葬する文化も、人に進化する過程で生まれたものです。 そう考えると人が、生きる理由を考えるようになったのは、最初からかそれとも、そうではないかという考え方に繋がりませんか? 生きている理由は、死んでいないか、死なないから生きているのです。 ただ、生き物の多くは、死を判断できない場合が多いです。即ち、これは死んでいるという判断を脈で計って調べたりできないため、眠っているまたは、油断しているといった見た目での判断に限っているのです。まあ、流石に腐ったりすれば、それは生き物として判断することはできないでしょうが、それを死んだものの果てと見ているかどうかは、種によっては判断できない可能性もあるのです。 そういう視点で見ると、そもそも理由が必要なのは、人だけまたは人に近い知能を持った物だけではないかという根本にたどり着きます。 死は怖い物だから死を選ばないのかというと、それも曖昧になります。 何故なら、死は必ずしも生き物の中で人と同じ定義が備わっているわけではありません。食われるのは、恐れてもそれ=死ではないかもしれないのです。 生き物の多くの恐れは、死ではなくむしろ痛みではないのかと思うのです。 質問者様は、もし明日死ぬとしましょう。その時に、痛み抜いて死ぬのと、眠るように死ぬのであれば、どちらが理想的だと思いますか?それが、根本にある死の恐怖です。怪我や病気をして徐々に、弱って死ぬ方法は、痛みという苦痛を招くため、生き地獄になります。多くの生き物には痛覚がありますから、その苦痛を避けるために、死から逃れているように見えるのです。 人の場合は、その先に死という概念が生まれたことで、先の死も恐れます。 その違いではないでしょうか? 尚、人は高度な知能を持ったことで、人とあえなくなる悲しみや苦しみも抱くようになりました。 即ち、死んだらあえないといった考え方や、忘れられてしまうという苦悩も伴うようになったのです。 高度な知能は、そういう未来に対するビジョンや理想、過去に対する思い出なども備えるようになりますから、その結果、死ぬまでに自分がやりたいこと、やるべきことを幸せとして、体現することが生きることと考えるようになったという考え方もできます。 いかがでしょうか? 理由などないと思った方が、本来は自然です。進化の過程で理由付けをし始めたから、結果的に人は理由を求めるようになった。ただ、生きている物の多くは、最後が死であるとは思っていない。そういう考え方も出来るのです。
お礼
回答ありがとうございます。 特に生物の多くは最後が死であるとは思っていないという部分は自分の考えを深めるのに大変参考になりました。
6です。丁寧にお礼をありがとうございました。 >ただ動物が自分よりも強い動物と遭遇した場合、死を恐れて本能的に逃げると思います。人間も死に直面した時、できるだけ生きようとすると思います。 だから食べるために生きているとは言えないような気がします。 自分より強い動物から逃げることが、死が怖いからの理由ではありません。 逃げた後に、自分より弱い動物や食糧をまた食べるために逃げているのです。 そこで死んでしまっては、次に食糧が食べられなくなります。 赤ん坊には「不味い物や食べにくい物を食べれば、死なないために吐きだす」本能はありますが、「死ぬのが怖い」の本能はありません。 赤ん坊は、「人間はいつかは死ぬ」という事を知りません。 もしもこれが本能だと証明するのであれば、死を防ぐ行動や行為が反射として出なければいけません。 しかし、人間でも動物でも赤ん坊は、生まれてすぐに母親の乳を吸おうという反射をみせますが、首を絞められても抵抗もせず、刃物を見せても手を出してそれを凶器とは思わない、いわば無反射です。 反射なら、「反射として、自分より強い敵から逃げようとするではないか」と思われるかもしれませんね。 反射的に逃げる事ができる動物や人間は、逃げる事を学習して初めて逃げられるようになる、後付けの学習した結果として得られた意思であり、本能ではないのです。 学習である証拠は、例え強い敵が相手であっても、「なつく」という行動があります。人間がトラやヘビと生活しているのが良い例です。 しかし、どうしても食糧がなくなれば、人間はトラでもヘビでも食べますし、逆にトラやヘビも人間を食べます。 食糧がなくなれば、人間でも動物でも、「逃げずに戦う」「相手を食べる」を選択します。 これこそが、「生きる為の本能」であり、「生きている理由」です。
お礼
回答ありがとうございます。 特に死を恐れるのは本能ではないという意見に非常に納得しました。
- 雪中庵(@psytex)
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死は、生の対置概念ではなく、「より良い生」とは、「より有効に 死ぬ事」であり得るのです。 人類の細胞も、DNAの最後に回数券のようなくり返し配列が (50回ほど)あり、一回細胞分裂するごとにくり返しが1つ減って、 なくなるとそれ以上細胞分裂できず、新陳代謝できずに老化して 自ら死ぬようになっています。 生物は、有性生殖以前の「突然変異による多様化と、その 淘汰による選択」という人まかせで遅い進化に対して、交配 する事で、遺伝子の配列をシャッフルして多様性を生み、また 交配のための種内の競争による選択という、すばやい進化を 可能にしたのです。 そこにおいて、世代交代しなければ個体数が増える一方なので、 自ら寿命を制限しているのです。 細胞分裂で増えるゾウリムシ(単細胞生物)は、有性生殖 など必要ないようですが、実は時おり、他の細胞とくっついて 遺伝子を交換する、「接合」を行います。 もし接合をせずに、細胞分裂だけしていると、百数十回ほど 分裂したところでそれ以上分裂できなくなり、死んでしまいます。 接合をすると、また若返って、百数十回分裂できます。 それほど「遺伝子の交配」というのは、進化に有効なのです =長生きは退化。 死は世代交代を意味し、その有性生殖において愛は生じ、 親や子供は存在するのです。 人は往々にして不死に幻想を抱きますが、人も愛さず、 子供もいない、そんな社会が魅力的には思えません。 逆に愛があれば、自己の肉体の限界を超えて、意志 (=精神的充足)は広がります。 生と死は対置概念ではなく、「より良く死ぬ事が、より良く生きる事」なのです。
お礼
回答ありがとうございます。 特に寿命の部分の考え方は非常に勉強になりました。
- alterd1953
- ベストアンサー率20% (239/1173)
私は楽しいことが一杯あるから生きてます。
お礼
回答ありがとうございます。 ではつまらない人生を送っている人はなぜ生き続けているのでしょうか? もしよろしければ教えてください。
- バグース(@bagus3)
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#5のbagus3です 人は生きる理由がないと死を選ぶというのは 間違いです。 生きることに理由や意味が見いだせなくても 生きがいがなくても、みんな生きています。 死ぬのを怖れる本能などというのは存在しません。 動物は死を怖れません。 それどころか、人間には本能はありません。 本能がないから、赤ん坊は煙草や金属を飲み込んで 事故になります。他の動物の子供にはないことです。 赤ん坊は本能がなくて白紙状態なので狼に育てられると オオカミ少年になります。子犬は人間が育てても犬になれます。 本能がなくなって、代わりに自我を持ちました。 自我がなくなるのが怖いから死を怖れるのです。
お礼
回答ありがとうございます。 確かに生きている理由が分からなくても生きている人はたくさんいると思います。 しかし、もし本当に生きている理由が無ければ人間も動物も半分ぐらいは自殺していてもおかしくないと思います。 しかし、自殺をするのは人間だけであり、そしてその数も割合で考えると決して多くありません。 だから私は人間や動物は本能的に死を恐れ生きているのではないかと考えるようになりました。 また人間に本能がないということも理解ができません。 睡眠や食事などは本能ではないのでしょうか? そして人間が特別だと考えることは人間の傲慢ではないのでしょうか? もしよろしければbagus3の意見を教えて下さい。
- t310syuri
- ベストアンサー率9% (4/43)
幸せになるために生きる事は人間にだけ許された特権でもなんでもないよ。人間以外の動物も幸せに生きたいと願っているし、煩悩もあるよ。それに手を差し伸べる人間なんかもいるでしょ。もっと幅広く、世の中や世界を勉強してみたら?
お礼
回答ありがとうございます。 おっしゃる通り私は無知なのでこれから勉強していきたいと思います。 確かに全ての動物にお腹が減ったなどの煩悩があるかもしれません。 ただそのことが人間や動物が生きている理由には繋がらないと思います。 もしよろしければ意見を教えてください。
- t310syuri
- ベストアンサー率9% (4/43)
おいしいものが食べたい、大便がしたい、小便がしたい、好きな人と一緒にいたい、眠りたい、遊びたい、安心したい、従えたい、統率したい、やっつけたい、触りたい、触られたくない、使いたい、使われたい、尊重されたい、必要としたい、必要とされたい、いい思いしたい、もっといい思いがしたい、波風立てず、今のままがいい、…どれも、欲、煩悩じゃない?動物だってそのくらいの知能を持つ生き物が沢山沢山いるでしょ?ナマコの知能はいかほどか知らないけど…。人間には高度な教養や知性などが求められるけど。なまじ知能の高い動物だから。自殺願望は地球上の動物の中でも、人間にしかないらしいよ。あなたの質問の答えになっているか分からないけど。子孫を残す事は、本能なのかもね。人間は別だけど。子どもが欲しくない人もいるでしょ?
お礼
回答ありがとうございます。 確かに全ての動物に欲求はあるのではないかと思います。 人間も3大欲求の一つが性欲であることから子孫を残すことは本能なのではないでしょうか? そしてt310syuriは人間が生きる理由は欲や煩悩のために生きていると考えてよろしいのでしょうか?
- mmky
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「幸せになるために生きていると考えた場合、人間だけにそのような理由が与えられることは不自然だと思います。なぜならこのように考えると他の生物が生きている理由が分からなくなってしまいます。 だから、人間が生きる意味は本能で死ぬことを恐がるからという理由だけであり、他の理由は本当の生きる理由ではないと私は思います。」ということですね。 ○この説明だとその通りですね。 でも前提に間違いがあるのですね。「幸せになるために生きていると考えた場合」が間違いなのですね。一般にそう言われていますから、常識となっていると思いますが、その常識をまず疑って見ることですね。 生まれて来る前のことはみんな忘れていると思いますが、事実は、生まれて来る前の方がみんな幸せだったんですよ。生きるための苦労も無いし、勉強する苦労や働く苦労、嫌な人と付き合わなければならない苦労、わけのわからない話を聞く苦労、病気になる苦労、老いる苦労、死ぬ苦労、こんな苦労は生まれて来てから味わうことですね。 人間に限らず動物は皆同じですね。植物だって程度の差はあれ同じでしょうね。 こんなふうな見方をすると、「幸せになるために生きている」という考えは単なる「あほう」の考えのように思えてくるでしょう。さて、どちらが正しいかなんですが、知恵者、つまり哲学者の回答は、死の恐怖のために生きているのではなく苦労を承知だから、人生は短いというように捉えるのですね。 こんな苦労ばかりの人生が永遠に続くといやですからね。まあ、人生80年いいとこですね。昔はもっと短かったですから、老いの苦労はもっと短かったですね。 人生は苦労の連続ですが、それが良い経験になるからこそ、楽しい苦労知らずの世界からわざわざ苦労を背負いに生まれてきたというのが、本当のところなんですよ。 だから、生まれながらに病気とか、身体的理由で苦労する人は、本当は立派な心の持ち主であることが多いんですね。 こんなこと全部忘れている人ばかりですから、あなたの指摘のように死の恐怖の本能で生きてもいいんですけどね。結果は苦労していろんな経験を積むことになるわけですからね。死んで持って帰れるのは経験知だけですからね。人生は学校みたいなものですね。いやでも楽しくても、いじめてもいじめられても勉強はしなければ先に進まないし、されど入学と卒業は必ずあるということですね。
お礼
こんな長文で回答をして下さり本当にありがとうございます。 ただちょっとスピリチュアルな世界で理解できない部分があります。 苦労して経験を積むために生きているとしたら、常に自分にとって厳しい道を選択するのではないでしょうか? しかし人間は楽な方に流れて行ってしまいます。 また死んで経験値を持って帰るという表現もよく分かりません。 mmkyは死んだあとどうなると考えているのですか? もしよろしければ回答お願いします。
お礼
回答ありがとうございます。 別に生きたいと思ってない人が生き続けている理由は何なんでしょうか? そしてbragelonneは人間だけが特別だと考えているのですか? もしよろしければ回答お願いします。