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親子関係
カテゴリーが合っているかどうか分からないのですが。 本能とは非理性的で感情的なものですよね。 そこで疑問です。 人間の親子関係というのは少なからず歪みますよね。 (歪むのが当たり前なんだから別に今の親子関係に不満をもっているとかそういうことではありません) それは感情によるものでありますよね。 しかしながら動物の親子関係(親子関係といって良いのか分かりませんが)は 歪んでいませんよね。 一例ですが弱いものにひいきしたり強いからといって贔屓もしませんよね。 これはどうしてなんだろうと考えてみると それは本能からそうするのですよね。 そうすることになんの意味がないという本能が働いているのですよね。 そう考えると動物の方が人間よりもよっぽど理知的であると思えてならないのですが。 このまま考えると 感情=本能 感情≠本能 となってしまうのですが。 どうしてでしょうか? 後者の本能とは生物学上の「本能」という意味だからでしょうか? この質問を思いついたのはテレビで 殺されそうになった親子の猿が子供をかばっているのを 見たからです。 人間から見れば親子愛の部類なのでしょうが どう考えても親子愛からの行動だとは思えない。 自分の種を残したいという本能ですよね。 そう考えると生命の危険であると感じ取っているにもかかわらず 最後まで理性的な考え方が出来ると言い換えられるのかなと思ったからです。 何か誤謬があることは漠然と感じるのですが それがどこだか分からないので指摘していただけないでしょうか?
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本能と理性を対立する概念として見ていることが、話をややこしく見せている 原因ではないでしょうか。 「人間は理性を持っている」のが生物学的(あるいは脳神経学的)な事実だと すれば、理性を持つことも本能の一部になります。 そうすると、本能←→理性という図式が成り立たなくなります。 また、本能通りに行動してさえいれば必ず適切な行動だけが導かれるはず、 というのも実は事実ではありません。 感情=本能 感情≠本能 といった結論が出てしまった原因は、 (生存等に役立つ)感情=本能 (生存等に役立たない)感情≠本能 のはず、 と考えてしまっているからではないでしょうか。 >後者の本能とは生物学上の「本能」という意味だからでしょうか? むしろ、前者を生物学上の本能と考えるべきではないでしょうか。 完全なイコールではないものの、感情すべてが(生得的という意味での) 本能に含まれると思われます。 よく、「人間だけが本能に反した行動をする」などといわれるときの「本能」 は、非常にナイーブな(日常的な)意味で使われていることばだと思います。 だから、そういう明確な定義のできないようなことばでこのような問題を 論じることは難しいのでしょう。 他の方へのお礼を読ませて頂いて思ったことですが、 あとは、「理性」の意味が曖昧なことも原因ではないかと思います。 >贔屓は理性的でないから起こるのだと思います。 というのを読んで、よくわかりませんでした。 「理性的」というのに、度合いを考えていませんか? 社会的な保身を考える程度の理性的より、そんなこと意味がないからやらない、 と考えるほうがより理性的、というふうに。 たとえば、贔屓、つまり「自分が好きな人を有利に扱うようにしたいから そうする」という考えはどうして理性的でないのですか? 自分の利益(それが単にいい気分がするとかいったものでも)に合うように 行動するという点で、十分理性的(あるいは合理的)だと思ってしまうのですが。 また、動物についてですが、サルのはなしでこういうのもあります。 サルは子供を持つと発情期でなくなります。子供はボスザルの子供です。 そこでボス交代が起こったとき、新しいボスの子供をもうけるためには、 発情期にならなければなりません。だから(かどうか正確なところは サルに聞くわけにいかないのでわかりませんが)、 母ザルは前のボスの子である自分の子供を殺す(または新たなボスザルが 自分のでない子供を殺し、母ザルはそれを止めない)ということがある のだそうです。 また、同じくサルの話ですが、ボスザルにこびたりする行動はよく見られるそう ですから、 >弱いものにひいきしたり強いからといって贔屓もしませんよね。 これも本当にそうかどうかはわかりません。 (こういう話については参考URLの本にあります) なんだかいろいろ書いててまとまりがなくなってきて申し訳ないですが、 感情からくる役に立たない行動も本能の一部でありうる、ということです。 生得的な機能が必ず今の固体保存に役立つとは限らないです。 自然そのままのものが正しくふるまい、そのほうがより善良に見える、 あるいは動物のほうが優れて見える、というのは根強い感覚ですが、 近年の詳細な調査でそうでもないということがわかってきている部分も あるそうです。 的外れなことを言ってしまっているかもしれませんが、参考になれば 幸いです。
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誤謬を指摘せよ、とのことですので 可能性として感じる部分を指摘します。 >しかしながら動物の親子関係は歪んでいませんよね。 そうなのかな? >感情的な判断で特別扱いをしないですよね。 そうなのかな? >それは本能からそうするのですよね。 そうなのかな? >そうすることになんの意味がないという >本能が働いているのですよね。 そうなのかな? 私には他の動物の本能的な思考あるいは価値判断 といったものが分かりません。 あるいは。 人間が感情的な判断で特別扱いするのは 本能とはかけ離れたコトなのか? 他の動物はしないのか? 分かりません。 それどころか、他の人間の思考など読めません。 自分の思考ですら、よく正確に把握できません。 人間-動物の2項対立もよく分かりません。 weaselさんの期待する回答の方向性とは 違うんじゃないか?という不安がありますが 何か誤謬があるとすれば ここにある主張は自己文化中心主義的な見方じゃないか?と思います。 全ての他者/他物が自分と同じ考え方・モノの見方をしているという前提で 現象を判断することです。 そういう考え方/モノの見方は違うんじゃないかと言い出したのは 文化相対主義者、あるいは構造主義者といった人たちだと思います。 思考、価値観、善悪の判定、判断の優劣などなどは 人種や時代、社会背景その他が変われば変わってしまう。 人間には人間特有のロジックがあるのであれば 猿には猿特有のロジックがあるのではないか? そのどっちが絶対的に正しいか?は判断出来ない。 そういった主張です。 もうひとつ、人間の本能と自我の境界線も 私にはよく分かりません。 フロイト-ラカンあたりがいろいろ言っているのは 一部読んだことがあるのですが 他にもいろいろあるでしょうし・・・ 人間以外の動物の本能や自我というのは 私には全然知識がありません。 例えば、猿と犬の本能的行為は同じなんですかね? 何か、ヒントにでもなればいいのですが・・・
お礼
何だか本当に見当はずれな質問をしたと いまさらながらに思っています。 確かに私の考えの中に 自然の一部に人間がいるという意識はないと感じます。 動物がすごいと思うことも 親子愛を感じるということも勝手な想像ですね。 回答ありがとうございました。
- Matsuri1982
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こんにちは。哲学のカテゴリに回答するのは初めてなのですが、解答欄に注意書きが出るんですね^^; 動物の親子関係は歪んでいない、弱いものに贔屓したり強いものに贔屓したりしないとありますが、贔屓しないぶん本当にシビアな行動をとることもあります。つい先日もテレビで、猛禽類の母鳥が弱ったわが子にとどめを刺して、その肉をついばんで他の子に分け与えると言う場面を見ました。確かに贔屓ではなく、要らない物を最大限のメリットがある形で切り捨てただけだと思いますが、人間の親子でこんな事をやったら、歪んでいない親子関係といえるんでしょうか(雛が死んだことを知らず、毎日餌を運ぶ母鳥の映像も見たことがあります。鳥もいろいろですね)。 また、贔屓することに意味がないという本能が働いている、とありますが、それは違うと思います。贔屓することに意味が有るか無いかを動物が考えているのだとしたら、それは本能ではなく理性で考えているのと言うことになるのではないでしょうか。贔屓をすることに意味が無いことを知っているから贔屓をしないのではなく、贔屓をする本能を持ち合わせていない(あるいは、贔屓よりも優先される本能を持っている)ことで冷徹にメリットを拾い、種を維持してきたと見るべきでしょう。過酷な生存競争とは無縁で育ったペット動物なんかは、ちゃんと贔屓というか、メリットの無い派閥を形成したりしますよ。メリットを追及しなくても生き残れる環境ならば、多少のデメリットがあっても気に入ったものに肩入れしたりできるでしょう。逆に人間だって、贔屓する余裕の無い環境で育ったなら贔屓なんてしないのかもしれません。 動物のほうが人間よりも理知的というのも、基準がちょっとわかりません。今存在している動物と言うのは、生まれ持った肉体や本能が生存に適していて、自然淘汰に生き残った種族と言うことですよね。ということは多少なりとも理論的に優れていると言わざるを得ない能力を持っていると言うことです。しかしそれが理知的であるということには繋がりません。彼らは知性でそれを体得したのではなく、進化の過程で備わったのですから。理知的というのは、本能だけでは対処できない事柄に向かったときの行動で評するべきではないでしょうか。そうなると、実際本当に人間よりも野生の獣が優れていたりするかもしれませんが。 猿の親子の話は面白いですね。私は親子愛なんじゃないかと思いますが。種を維持するために子供を守るというのは、ある程度は正しいと思います。しかし猿には他の子供もきっといるわけで、その子達に親が必要だとしたら、今危機に陥ってる一匹を見捨ててでもその子達のもとに帰ったほうが種のためです。もし若い親でまだ子供が一匹しかいないというのなら、若い自分が次々と子供を生めば済むことですし。コミュニティを形成する動物は、単独のメリットデメリットの選択よりも、刹那的なメリットを超えたコミュニティの結びつきの力で、コミュニティ全体でメリットを獲得し、生存競争を勝ち残ってきたのでしょうね。 最後に言える事は、人間社会における理性と言うのは、人間社会に適合するためのルールを守る性質であり、理論的な思考力とは全く別次元のものです。人間以外の動物に対して、人間でいう理性的な行動を取ったからといって、それが賢いなどとは決して言えません。人間と言う生き物を社会から切り離して論じることに意味はありませんが、かといって獣を人間社会の基準で論じても意味がありません。なので人間と獣の対比って難しいんですよね。 そして恐らくこれは生物学のカテゴリのお話ですね^^;
お礼
動物が理性的であるというのは間違いですね。 私は動物の方が優れているといいたかったのだと思います。 私の疑問に対する答えをもらえたと思います。 しかし細かな所で 私の考えとずれているという意味で書かせてもらいます。 (言いたい事は分かるんですよ) 例にあげられたものですが 私は歪んでないと思いますよ。 法律的な意味や道徳的な意味では間違っていると思いますが 親子関係が歪んでいるとは思えません。。 人間のように自分が苦しいから殺すわけではありませんからね。 子供が死んだのに気づかないというのは 死んだと確認するものがないからであって 知能が足りないということだけだと思います。 贔屓という書き方はよくないですね。 感情的な判断で特別扱いをしないという意味です。 メリットのない派閥を形成するとかかれていますが メリットがないのに派閥を形成するわけはありません。 生き残るのに得であるから派閥を形成するのです。 もちろん日常生活の中での人間の派閥争いは 無駄だと思いますよ。 そんなことをしなくても生きていけるのですから。 ただ優越感のためでしょう。 あくまで贔屓は理性的でないから起こるのだと思います。 (動物が理性的という意味ではないです) 猿の親子の話の詳細を付け加えると 猿が人里へやってきて 農作物を荒らすなどの被害にあったために わな(籠の中に閉じ込めるもの)にかかった猿(親1匹子二匹)を銃殺しようとしたときに 籠の中の角に親ざるが小猿を集めその前に 銃弾から小猿を守るように身を盾にしていたというものです。 言いたい事はおそらく人間のせいでこうなったにもかかわらず人間によって殺されるということを言いたかったのだと思います。 なんか最初から最後まで勝手何だなぁと思いました。 (別に銃殺した人のことを言ってるわけではありません) 後最後に聞きたいのですが 人間を社会から切り離して考えるというのは どういうことを指すのですか? 繰り返しますが 大変参考になりました。 回答ありがとうございました。
- Accept
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> 何か誤謬があることは漠然と感じるのですが うーん。 本能は生まれつき持っているものでそこに理性や感情が入り込む余地があるとは思えないのですよ。 理性や感情は後天的に取得していくものでしょう。 ですから 非理性的である/感情的である などは考えずにいた方がよいのではないでしょうか。 誤謬があるのではと感じる部分はここではないでしょうかねえ。
お礼
そうかもしれませんね。 ありがとうございました。
お礼
言葉の意味というものを私の中にきちんと定義づけが出来ていないから このようなわけのわからない質問になったのだと思います。 49億年地球が出来てからたっているわけですけど。 そのうちの7000万年が人間が存在してきた期間(これから伸びつづけるのでしょうが)で たった200年足らずで大方地球を壊したことを考えれば とっても人間の方が優れているとは思えないです。 (元の環境に戻す事が出来るならやっと0に出来ると思いますが) 力(知能)があるのにもかかわらず やたらめったら方向性も定めず力を使いつづけた事は とても賢明なこととは思えません。 しかし方向性が定められつつある、 今まさに転換期のかもしれませんね。 火を使い始めてから150万年 力を使いこなすには短い期間なのかもしれませんね。