• 締切済み

なぜ南无阿彌陀佛が真宗大谷派のご本尊ではないのか?

真宗大谷派のウェッブ・サイトを見ますと 宗旨 本尊 阿弥陀如来 正依の経典 仏説無量寿経(大経)、仏説観無量寿経(観経)、仏説阿弥陀経(小経) 宗祖 親鸞聖人 のように記載されています。 ご「本尊」が「阿弥陀如来」となっておりますが、なぜ、「このわたし」の口から出ている「南无阿彌陀佛」という音声の羅列、ナムアミダブツ(ナンマンダブ等)ではないのでしょうか?この質問は、木像さまか、ご絵像さまか、名号本尊か、という、質問ではまったくありませんので念のため。そうではなくて、なぜ「ことばになってくだされた佛さま」こそが、ご本尊ではないのだろうか?という疑問です。単に音声の羅列だけになってくだされたことにより、音声のみの存在、名だけの存在になってくだされたことにより、娑婆世間で用らいて(はたらいて)やまないものに、なっておられるように思います。(一如→釈尊→ことば)→聞く→ことば→聞く→ことば→聞く→ことば…… という相続を考えましても、ことばが、相続されているわけです。ことばが、担い手の骨の髄に刻み込まれ、相続されていることにより永遠化が実際になされているわけです。すると、ただことばだけの存在になられたことにより、真に、ほんとうに、佛さまになられた、と、思われるのですが…。 なお、カテゴリは、よく、わからなかったので、候補として、現れたものから選択しましたので、不適切なのかもしれませんが、ご容赦ください。

みんなの回答

  • pigunosuke
  • ベストアンサー率19% (1063/5529)
回答No.3

そもそも宗教は 信じてくれる人(信者)がいなければ成り立ちません より多くの信者を獲得する為に偶像が有るのではないか? と言っております 溺れる人がワラにすがると言いますが 目で見えない仏様にすがるよりも 目で見えるワラにすがりたくなるですよ

otherwind
質問者

お礼

有り難うございます。まったく、仰る通りで、ですから、知覚できる南無阿彌陀佛ではなくて、「いろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず。ことばもたえたり。」である、阿彌陀如来が、ご本尊と、記載、記述、されているのが、疑問です。

noname#224207
noname#224207
回答No.2

ご質問の趣旨がよく理解できません。 尚、当方は浄土真宗の門徒ではありませんので誤解無きようにお願いします。 南無阿弥陀仏(南无阿彌陀佛)という称名と阿弥陀如来という仏を別の仏とお考えでしょうか。 つまりご質問にある「ことばになってくだされた佛さま」と阿弥陀仏という仏様は別の仏様とおかんがえでしょうか。 南無(南无)というのはナマス(namas)あるいはナモー(namo)という古代インド語を漢字表記したもので、ご依頼しますあるいは帰依しますという意志を表す言葉です。 つまり南無阿弥陀仏というのは阿弥陀仏に帰依します。ということを言い表しています。 仏様は日常的には姿が見えませんので、仏様に帰依するのに当たり、仏様の姿を思い浮かべる方法として観想念仏、称名念仏という二つの方法があります。 観想念仏というのは、仏様の姿を刻んだ像を見つめることによって心の中に仏様を思い描く方法です。 称名念仏というのは、仏様の名前を唱えることによって、仏様を思い描く方法です。 仏様を思い描くということは、同時にその教えも思い描くことになります。 つまり「ことばになってくだされた佛さま」というのは阿弥陀様ではありませんでしょうか。 「ことばが、担い手の骨の髄に刻み込まれ、相続されていることにより永遠化が実際になされているわけです。」 とありますが、観想によって同じように引き継がれていくようになるのではありませんでしょうか。 文章で書かれるのは難しいかと思いますが、違うと感じられた「感じ」を今一度補足説明をお願いします。

otherwind
質問者

お礼

有り難うございます。 いま、言われて分かりましたが(当初、質問時には、わたしにわかっていなかった)、言われてみますと、用語だけの質問になりますね。なぜ、 宗旨 本尊 阿弥陀如来 正依の経典 仏説無量寿経(大経)、仏説観無量寿経(観経)、仏説阿弥陀経(小経) 宗祖 親鸞聖人 と「記載」されていて 宗旨 本尊 南无阿彌陀佛 正依の経典 仏説無量寿経(大経)、仏説観無量寿経(観経)、仏説阿弥陀経(小経) 宗祖 親鸞聖人 という「記載」、「記述」、「書き方」ではないのか?という疑問、であったのだな、と思いました。

otherwind
質問者

補足

【補足】非常に細か~いことに疑問ありということになりますね。いやあ、京都の東本願寺に電話して聞いたらいかがでしょうか…??というような…。もっとも、しばらく、この質問はオープンにしておきます。

  • pigunosuke
  • ベストアンサー率19% (1063/5529)
回答No.1

拝む対象が目で見えた方が、拝みやすいからではないですか? 判り難い物より、判り易い物の方に流れるのは普通の事です 仏教の祖、仏陀は苦行を積んで悟りを開いたみたいですが 今の世の仏教徒で、 悟りを開く為に苦行を積んでいる人がどれだけ居るのでしょうかね?

otherwind
質問者

お礼

有り難うございました。ナムアミダブツという自分の口から出ている音声は、知覚可能ですが、阿弥陀如来は、すがたかたちはないですね。

otherwind
質問者

補足

【補足】この質問は、木像さま、ご絵像さま、名号本尊、にかかわる質問ではありません。そうではなくて、なにゆえ、知覚不可能な阿弥陀如来がご本尊とされ、ナムアミダブツというコトバ(←知覚可能)がご本尊ではないのだろうか…という質問です。

関連するQ&A