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祈る?拝む?手を合わせる?神仏への思いとは?
- 祈りや拝み、手を合わせる行為は、神仏に対して思いを伝える方法の一つです。自分や家族の無事や健康、商売繁盛、他人の幸福など、さまざまな目的で行われます。
- 祈りや拝み、手を合わせることで、人は神仏とのつながりを感じ、自然や崇高な存在に対する敬意や感謝の気持ちを表現することもあります。
- いくつかの目的がある中で、真摯に神仏に対して祈る人もいます。彼らは目的やご利益にこだわることなく、純粋な気持ちで神仏に対する思いを伝えるのです。
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(6)「何事か、何者かはわからないが、自然に」そういう崇高な気持ちになる… 基本的にこうした感覚はあります。ただし、祈りの対象はあくまでも現実に見ることのできない 偶像ですから、何者かの詮索は意味がないのです。 祈り拝む行為そのものによって、自分の心の中に生じる満足感や充足感を得たり、あるいは結論 を見つけられたりする、それが大切なのです。 また、祈り拝む対象は、何者かしっかり分かっている今は故人となった身内も含みます。 (4)日頃無事でいられることに対しての感謝の意味をこめて… まず最初はこの感覚が生じます。 (1)自分や家族の無事や健康のため… さらには、願いごととして、まず家内安全が優先されます。 (2)商売繁盛やご利益など今後の積極的な発展のため… もちろん、主人の事業の無事安泰と発展も祈りの中に含まれます。 (3)他人の健康や幸福のため 病気の友達があれば快癒を願い、不幸に見舞われた人には慰めを乞い、 幸せになった者には、彼らに成り代わって感謝の言葉をささげます。 (5)上記のような目的(ご利益)のためではなく、純粋に神仏に対して祈るためですか? とりたてて目的も願いごとも無く、ただ(4)の気持ちとともに祈りをささげる、とても気持ちの 良い習慣だと思います。 (7)神仏と自分が一体になり、そのふところに抱かれることを願うためですか? ただの俗物ゆえに、そこまでの帰依までは到達できそうにありません。
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- michael-m
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無事といわず、感謝する事に尽きるでしょう。 今あることを感謝し、感謝できる事に感謝する。
お礼
michael-mさんも、前の質問に引き続き回答頂き有難うございました。 神仏や宗教に対して同じような考えをお持ちのあなたも、「祈り」の基本は「感謝」だということですね。 「祈る人」の念頭には、健康や繁栄などご利益・・・という「目的」がちらついていることが多いとは思いますが、本来の「信仰者」の姿としては、やはり「感謝」をすることから始めるのが基本だという姿勢には、大いに共感するところです。
- tododesu
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(4)かな。 お釈迦様は、 生きとし生けるもののすべてが安楽で 平穏で 幸福でありますように。 いかなる生命 生物でも 動物であれ 植物であれ 長いものも 大きなものも 中くらいなものも 短いものも 微細なものも 少し大きなものも また今ここにいて目に見えるものも 見えないものも 遠くにいるものも 近くにいるものも すでに生まれたものも これから生まれるものも 一切の生きとし生けるものが幸福でありますように。 ・・・と祈るのが良いよ・・・とおっしゃってますけど、長いから自分ではやってないです。 とりあえず感謝の気持ちだけ送って・・・あとは(祈らなくても)見えない存在がたぶん助けてくれるだろう・・と思ってますね。
お礼
お釈迦様の世界は、人間ばかりかすべての生き物も含めた平穏な世界であり、争いを好まず、物事が落ち着くべきところに自然に落ち着くように仕組まれた平穏な世界をイメージさせますね。 私は偶々カトリックの洗礼を受けていますが、仏教的世界にも大変共感を持っています。 ≪祈り≫と言うと、何か願い事をするというイメージが強いかもしれませんが、先ず≪感謝≫が基本だということには大いに共感します。
お礼
ご丁寧に全部に言及頂いて、大変有難うございました。 Nannetteさんも気が付かれたかと思いますが、この質問は、私の前質問 飛行機に乗る時って、ウンを天に任せるしかない? http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7986989.html の中の質問項目の一つ 「2.無事を祈って神頼みとかしますか?」 から派生したものです。 どうも、私が日頃感じる所によると、日本語の「祈る」という言葉に対するイメージを多くの日本人は体現していないように感じられたので、この質問を出しました。手紙の文章で「ご無事/ご健康をお祈りします。」などと形式的に使われていますが、多くの日本人は、「神仏に祈る」ということをどこまで、実体験として行っているのでしょうか? 私自身、多くの日本人の神仏や宗教に対する考え方が欧米人と異なり、特定の宗教を持たず、漠然と神仏(ならびにそれに準じる超自然的存在や先祖や大自然)に崇敬の念を持っていることは理解しているつもりですが・・・。 前置きが長くなりましたが、挙げて頂いたように、夫々の項目に対するコメントは的確であり、私も大方賛同致します。 どの要素もそれぞれ必要な要素であり、その根底には「神に対する信頼とお任せ」の気持ちがあると思います。 その意味で、私の個人的な考えを言うと(7)が究極の理想形であり、おっしゃるようになかなか難しい面もあるかもしれませんが、気持ちとしてはここを目指したいと思っています。 少なくても、自他の健康や幸福、ご利益を祈るという段階で満足するのではなく、先ず「崇敬」や「感謝」の気持ちから始まり、「信頼」や「一体感」を感じられるのが本当の「信仰」の姿ではないでしょうか? そして一番大切なのは、キリスト教で言う「隣人愛」、仏教で言う所の「慈悲」が、実生活の中で実践できていることなのだろうと思います。