• 締切済み

無神論かつ人生について考えた方へ質問

あまりの人生の虚しさに悲しくなって恐怖して何か神様を信じたいとは思わないのですか? その虚しさを背負ってまで神を信じたくない理由とは何でしょうか? 上の文の前提 回答者は人生の意味について深く考えた方。 回答者がパスカルのパンセを読んでいること。

みんなの回答

  • masa2211
  • ベストアンサー率43% (178/411)
回答No.18

パンセを読んでいること...って、パスカルの賭けのこと? (神とは、一神教の神とする。また、キリスト教の神とアラーの神は同一なのは確定しているので、細かい教義の違いは関係ないとする。) 第一の反論。 一神教の神を信じていたところ、多神教の神(ゼウス、オーディン、シバ、アマテラス....)が現れたらどうする? 無神を信じているよりショックは大きい(無限大に大きい)。 第2の反論。以下、神とは、ヤーべ=エホバ=アラーに限定し、ゼウスやオーディンは神ではないものとする。 (第一の反論を封殺するにはこの条件が必須。) 神を信じれば救われる、と言うことの意味は、 A.神を信じているテロリスト(現実世界の、イスラムなどのテロリストはここに該当。) B.神を信じていないが、世のため人のために活動した人(たとえば、仏陀、孔子) C.生まれてすぐ(おおむね、1年以内?)に死んだ人。 のうち、Aだけが助かることを意味する。(信仰と実践とどちらが優先するか、ということです。) 私は、第2の反論は致命傷と見ます。 第2の反論の別の言い方をすれば.... 神を信じるということは、神に対し正しいことであれば、残りの人間大勢と意見が違ってもかまわず突き進む、ということ。それが間違ってる、という意見が封殺されます。 神は、一般人に対し何もメッセージを出さないことに注意。時々、神のメッセージを解釈できる人がいますが、 そういう人は「預言者」と言い、歴史上最後に現れた預言者はキリストかモハメッドか....どの道、現在では誰もいません。 すなわち、テロリストが悪だ、と決め付けることはできない。神は何も言及していない。 ナチスが悪なのか正しいのか、これまた神は何も言っていない。 ですから、神を信じたほうが、かえって空しい.... ゆえに、個人の人生が空しいとしても、やっぱり神(の存在)を信じることができない。

314h
質問者

お礼

パスカルの賭けのみではなくパンセ全体を読んでいることを前提としています。 だからといってパスカルを元にした考えでなくても結構です。 私は無宗教ですが、キリスト教以外は全て人間の手のみによるもので、ありえないと想定しています。(キリストの復活が根拠) おこったら確かにショックでしょうが今までの死後の約束による幸福の気分が相殺されるだけで期待値は十分だと思っています。 キリスト教以外はよくわからないのでここではキリスト教に限定します。 神を信じているテロリストなどは神の言葉を自分のために曲解して行なっているのではないかと思っていますので、結局は地獄行きなんじゃないかと思っています。ですからキリスト教が正しいとすれば救われる人はひとにぎりだと思っています。 Bに関して言います。 例えば神をプログラマ、人をプログラムだとします。 その場合にプログラムがプログラマの心に逆らって自己実現!と叫んで何か他のプログラムにとっていいことを成し遂げようとしたらそれはプログラマにとってよくない事だと思いませんか? Cに関してはなんとも言えませんね。 魂が宿るとするのを受精卵からか、4歳からか、、、それは神の考え次第なんじゃないかと思っています。 神を通して書かれた書物というのは人間の手を渡ってきているので信頼に足らないということですね。 確かにそれは引っかかりますね。(私個人は細部は変わっても根本的部分は変わってないんじゃないかと思っていますが) 消去法的に信じないを選んでいるのですか。なるほど。 でもそういうことになると無神論ではなく無宗教ですね。

  • jill1207
  • ベストアンサー率28% (103/357)
回答No.17

無神論を掲げています。 他の皆さんの文を読むと、これでいいのかと思いますが 科学者でもないので、勝手な事を医者から聞いて解釈した事を書きますから 興味があれば読んでください。 一度、膵臓を患い死にかけましたが、ある日、無神論者に出逢い、結婚の馬鹿馬鹿しさ、 葬儀の馬鹿馬鹿ししさに感銘を受けました。 私は無神論に賛成ですし、検体を計画しています。しかし、このまま科学が進みその必要性はなくなり、 死んだら、もう一度おんなじ自分の体を用意し、記憶を移植する方法が35年後にはできる可能性があるらしい。 ま。その時は貧富の差、人間性の価値によってできる人とできない人が出るのは必須。 また地球上の人口もそのころには1/13になるらしい。 私はそのころには私はこの世にいない可能性が高いからカンケーないけど。 お金だけは用意しといたほうがいいかな? パスカルについては考える葦、という本を学生時代に書写した経験があるが 何かに依存してもその根拠がない限り仕方がないと、言っているに違いないと思った。 本台に。。。 死ぬとどうなるか、タンパク質が腐敗に進み、身体の中のバクテリアがそこに住めなくなるので 外に移動し始め、すべての体内の生物が腐敗に向かう。 ヘルペスなどは、身体の中にストレスがいっぱいになるとその身体から出ようとするバクテリアの反応らしい。 脳の身体制御装置が停止する寸前に、人は空中離脱のような錯覚のような夢想状態に陥る。 (臨床結果済み) ですから、神様のところに行くとか地獄に落ちるとかは論外。 夢も脳の化学反応によって行われて、その人が見たいものが魅せられてる可能性が高いそうだ。 人間はDNAのもとミトコンドリアの制御によって生きていて、酸素が身体に行き渡らなければ 死にます。 ですから、気持ちよく酸素を取り入れ活動的に精神も朗らかに(理由はなくても)良い呼吸方法をして 良い食生活をして、毎日を自分の体がいききするような考え方で、好きな事を仕事にして生きればいいです。 人間はロボットのように心臓が何回拍をを打つか決まって生まれてくるらしい(研究過程中)。 だが、化学反応(ストレス、病原菌、けが、事故、自殺)によってそれを全うできるかどうかは定かでない。 しかし、人は祝詞をあげようが神様にすがろうが、ちゃんと朝起きて、やるべき事をやって、遊んで笑って泣いて しっかり眠れば、いいのだ(寿命は延ばすことはできない) すべて、脳内ホルモンが制御してるのですから、沢山酸素を吸って元気に生きればいい事で 考えすぎるのはよくないとありますが、考えたいときは結論が出るまで考えて研究して、 考えたくないときは考えなくてもいいのではないかと思います。 だからと言って時事項に疎くなる必要はなく、最先端を生きれば楽しいですねえ。 いろんな事を考えたいときは真剣に追求し、人から何と言われようが好きな道を選べばいいと思います。 毎日自分が気分がいいように。周りも大切にしながら、温厚な日々を繰り返し、楽しむことが大切だと思います。 悲しい時は悲しめばいいし、楽しい時は楽しいし、人間は朝と夜、潮の満ち引き、高揚と沈着、すべて白と黒 UP、DOWNを繰り返し、年をとるとその拍が弱くなり、大した事でも怒らないし、喜ばなくなる。 結果、私的には神様は依存の対象である。依存をなくせば科学的根拠のもとに物事に期待せず 平穏な日々を手に入れる事ができる。いつか死ぬのだから。。。今を大切に。すべてもとは塵である。 本当の事が一般的にわかるまで、あと一歩。夢のような理想論(宗教)(神様)は想像の産物だと解るのはいつかな?

314h
質問者

お礼

非唯物論的の天国地獄のような考えに対し、唯物論で批判するのは土俵違いだと思いますよ。 仮に科学が全てだとして人生でいくら幸せでも有限の時間のわけですよね。死後に無限の無に放り込まれると思ったら全てが虚しく感じませんか? 人のために生きようとしあわせになろうと死の前には無に等しいのですから。 超全的なものを扱っていて人間が有限にしかとどまれないために神の否定は不可能だと思いますけどね。 ご回答ありがとうございました。

回答No.16

 ★ 人生のむなしさ  ☆ を知っても知らないふりをするのは それは あたまに観念の神をじゅうぶんに抱いているからでしょう。  昔から 梵我一如と言います。  宇宙の主宰者ブラフマン(梵)と《われ》なるアートマン(我)とが 一体であることを目指すという或る種の理念にして きわめてひどく脳細胞にこびりつくその理念の自然科学による明証性なる観念 これが 梵我一如だと思い込んでいる。  それが 実現できたとしても せいぜいが 動物の《宇宙との一体感》としての至福どまりだと分からない。  動物はすでにその生涯をこの《至福》の中に生きている。何も考えてなどいない。すでに それ以外の生はあり得ない。どうもこの無為の姿にあこがれているのではないだろうか。  それゆえ むなしさをも紛らわしている。こういうわけです。  いつまでも 繭の中の蚕でいたい。さなぎのままでいたい。蛸壺の中で暮らしていたい。この鎖国状態が まぼろしの至福なのではないだろうか。

回答No.15

#6の者です。 >物質だと思う虚しさではないんですよ。伝わりづらく申しわけない。 >人生の終わりに待ち構えている無限の無にたいして人生が虚しく感じるわけです。 その2つは、同源です。 即物主義において自己は肉体に限定され、その有限性が 絶対的な障壁となる訳で。 世界は迷いの中に生まれ、愛によって完結します。 宇宙(認識)とは、無の潜在としての認識可能性の“断面” の移動=自我仮説に対する、相補的な時空仮説として 生じています。 そこでは、宇宙の膨張=不確定性(h)の収束という異なる 本質=異なる認識可能性を一つの軸(時系列化)にするとこ ろに時間性は依拠しており、過去の自分も、空間的広がりに おける他人も同じです。 宇宙は、別の認識可能性を自己同一視するという、ある種の 精神異常として発生し、実は他人も共通であるという愛に 向かう事で補完されると言えます。 「自己」を宇宙全体だと理解するという事は、自己存在の補完 =自己が存在するための必要として環境を認識する事であり、 そこにおける認識可能性の射影としての他人~自己の社会生 命性(助け合いとしての社会)へとながる愛(他我化)において、 自己の肉体的有限性を超えて、意志は拡張され、その他人へ の信頼の限りにおいて自己の生の有限性を超えて、予め達成 されるであろう喜びを感じられるのです(充足の無限への拡張)。 それに対し現代人は、お金や出世といった(自己チューな意識 のまま社会化するための)馬車馬の目の前のニンジンによって 他律的に生かされ、自ら自己存在の本質に根ざした生による 深い喜びに目をそむけているのです。

314h
質問者

お礼

すみません。 文章と単語が難しすぎて理解が追いつきません。 ただいくら有限の人生の中でいくら信頼の度合いによってこれから無限に達成されるであろう喜びを感じたとしても死に直面した一瞬をとってみた場合虚しく感じませんか。 私はいくら深い喜びが人生の中にあったとしても死んで終わるそんな人生に虚しく感じてしまいます。 現代人の多くの人の生き方は確かに浅い喜びのみを生きる糧にしていてよくないと思います。

314h
質問者

補足

書き忘れ ご回答ありがとうございました。

回答No.14

人間の不安や、恐怖の実態がない場合での『恐怖感が湧き上がる場合では』人間の頭の中で、恐怖を作っています。 そういう疾患と呼ばれているものには、幾つかの形が在りますが、その形や症状と呼ばれているものは、かなり違う形になっていますが、原因は一つです。 或は『人生の意味を見失って、失望する場合も同じです。或は苦悩すると言う場合も、解決できないと思われる疑問を抱く場合も同じ原因が在ります。 こういう疑問や悩みの解消を、昔は『宗教が担っていたと考えられますが、今の宗教者や、今の宗教にはその力が消え失せているように見受けられます。』その結果が『世界中での宗教離れや、精神科医の繁盛振りです。』 答えが出ない問題と考えられているものには、自律神経失調症や、過敏性腸症候群や、難治性の心身症が在ります。これ等は人間の身体機能と言う意味が在ります。『人間の身体機能に付いての障害』と言う意味になります。『自分の身体の機能を疑う』と言う原因から発症しています。 答えが出ない問題と考えられているものには、その他にも『神経症』が在ります。是には『人間の行為する事や、行為に付いての障害です。』つまり自分の行動に疑いを差し挟むと言うという原因から発症していることが挙げられます。 答えが出ない問題と考えられているものには、その他にも『心に付いての』問題が在ります。それは自分の心の在り方に疑いを差し挟む事が原因となっています。 答えが出ない問題と言う意味には、問題点の原因が特定出来ないという『問題』の事です。 これ等の原因が特定出来た暁には『少しは問題解決の糸口が、少しは見えて来るかも知れません。』 と言う事から、その問題点を書き連ねて見ますので、参考になるなら有りがたい事です。 これ等の問題点の根底には『疑う心』が隠されています。その疑う心の根底には『人生に対する疑いと、不安が隠されています。』更にその根底には『生と死』や『永遠と有限』と言う矛盾するものの対立が存在しています。 つまり人間は『人間の心の矛盾』を疑ったり、悩んだり、苦悩していると言う意味になります。その原因が分かる事によって、少しは解決に向けて進む事が出来るのではないかと思い書いています。 人間の悩み、苦しむ原因は『脳の機能分化によって生じています。』この事を端的に指摘しているものに『聖書』が在ります。人間が知恵が付いた事によって『天国から追放された。』と云う事です。 人間に知恵が付く頃と言えば『思春期頃からです。』この頃から悩みが始まります。この事を如実に語っているものが『中二病』と言われる現象です。是は脳の機能分化がほぼ完成した頃を意味します。 脳の機能分化に関する化学的な記述が在りますので載せてみます。ウイキペデアからです。 ”ロジャースペリー 分離脳 ノーベル賞受賞者 受賞年:1981年 受賞部門:ノーベル生理学・医学賞 受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究 ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した” この事実が関係しています。つまり心の矛盾とは『右脳に存在する意識』VS『左脳に存在する意識』が矛盾を起こしている事が原因です。 具体的な書き方をする前に、左脳の機能と右脳の機能を書いて、その機能の違いを明確にしておきたいと思います。 左脳の意識は『自我意識です。』顕在意識といわれている意識です。普通では『心』と解釈されている意識です。この機能は『分別する事』がその機能です。物事を明快に割り切って計算する機能です。この機能の特徴は、この割り切って出てきた答え『言葉』を持っている機能です。言葉を持っている意味は『有限』と言う限定された世界を良く理解出来ているという意味が在ります。 割り切れる事を専門の機能にしている脳の機能とは、逆の言い方をするならば、『割り切れない事や、ものには歯が立たない』と言う意味が在ります。分別する心には『永遠や無限』と言う割り切れない事柄を理解したり、認識したり、把握する機能がないという意味になります。』 右脳の機能は『人間の命を維持する機能から成り立っています。』言葉を替えて云うなら『命を働かせる機能』と言う意味です。蜘蛛がその種としての巣を張る事を『学校に行かなくとも、生まれる前から知っている機能です。』 ツバメがツバメとして生きる事を『生まれる前から知っている機能です。』 全ての植物が、或は全ての命在るものが、その遺伝子からの情報を読み解いて、その種独自に生き抜く事を『既に知っている機能です。』 人間としての働きを既に『生まれる前から備えている機能』が右脳の機能です。この機能が『脳の機能分化によって』無意識の底に隠れてしまう現象が『失楽園』と言う現象を招いています。 自我意識が何も身体の機能を疑わなくとも、全てが備わっているにも拘らず、自分の身体機能に疑いを差し挟む場合を『自律神経失調症や、過敏性腸症候群や、難治性の心身症』を引き起こしています。 自我意識が何も自分自身の行動に対しての機能を疑わなくとも、全てが備わっているにも拘らず、『自分自身の行動に疑いを差し挟む場合を』神経症と言っています。 自我意識が何も自身の心の機能を疑わなくとも、全てが備わっているにも拘らず、『自身の心の健康に疑いを差し挟む場合』を心を病む、と言っています。 深刻な悩みを抱えている場合も同じですし、人生そのものに疑いを持つ場合も同じです。『自分は何者で、何処から来て、何処に行くのか?』と言う疑問も全て同じです。 自分の心の矛盾を抱えている事を意味します。 解決する事が出来ないような問題とする必要は在りません。その解決方法は『心の矛盾の解消です。』それが悟りです。 右脳の意識は『誰にでも存在している意識です。』脳の機能障害によって『右脳の意識を体現している動画が在りますので載せてておきます。参考にして下さい。 尚『禅問答』は自我意識では歯が立たないように出来ています。是は脳の機能の話です。『禅問答』が分かる時、右脳の意識が出てきて『全ての問題を解決してくれます。』それが人生における救いです。 魂の救済です。右脳の意識は『仏』で出来ています。一切衆生悉有仏性とは、命あるものには『全て備わっている働き』と言う意味になります。 URL:http://www.youtube.com/watch?v=ldSoKfFYKqM

314h
質問者

お礼

ざっくり言うと虚しく感じるから問題なのではなく虚しく感じることが問題ということですか。 しかし一つ疑問が残るのですが悟りを開いたと言われる人が宗教を開くことはありますよね? 解消するには結局神のような存在を認めるしかなくなるということじゃないんですか?

  • wiz0621
  • ベストアンサー率42% (182/430)
回答No.13

パンセはパスカルがまとめた物ではないが故に、 その思考の時期にずれがあるでしょうし、 編者(あるいは翻訳者)によっては、 異なる考え方も内包しているかと思います。 質問者さんのおっしゃる"パスカルの賭け"(死後の考慮)は 有名ですねー。 ただ、無神論者としては、 そもそも、信じるだけで死後の生活を得られるのだから コストが生じない、という"パスカルの賭け"が 生きている間の時間を対価として支払っていることを意図的に無視し、 そしてその対価を受け取っているのが、他ならぬ人間 であることこそが、(仮に対価を受け取る人間に悪意があろうと無かろうと) それが極めて悪辣な行為であると指摘せざるをえないのです。 当世風に言い換えれば、必ず儲かるから投資しろ、というのと 必ず死後の世界があるから祈りの時間や布施を払え、というのは まったく同列である、ということなんです。 無神論というのは、無制限に個人的な祈りを踏みにじる 加虐趣味と思われるかもしれませんが、 実際は宗教の創始者(すなわち人間)の意図の有無に関わらず 人間の制度によって悪意が介入した形跡を確認していく学問であり、 同時に、宗教が守ろうとする『死後』の前に、確実に存在している、 『生きている世界』を守る人間の自己防衛でもあるわけです。 では死後の世界に対する恐怖、というものはいかに考えられるか。 それもパンセから導くとすると・・・・ やはり有名な"考える葦"は無神論者の私でも 綺麗な文章だなぁと思うんです。 人間は一本の葦である。自然の中で最も弱い。しかし人間は考える葦である。 人を押しつぶすには武装などいらない。ただの蒸気、つまり一滴の水だけでも 彼を殺すには充分なのだ。だが人はそれら(モノ)よりも尊い。 人間は自分が死ぬこと、宇宙が自分よりも偉大であることを知っているから である。その一方で宇宙はなんの意思も持っていない。 我々のあるべき姿はすべて想いの中にある。 我々を立ち上がらせるのは、まさにそこから来るものであって 我々が満たすすべを持たない時間や空間からではない。 故に、想う事を忘れずに。そこに全ての原理がある。 宇宙(時間や空間)を神と読み替えることは 有神論者のみなさんでも得心がいくものかと思うんですが、 いかがでしょうか。 ですが、そこに存在する一種の矛盾について気付くことができれば、 それこそが無神論の深遠なる世界の入り口であるのです。 価値を比較したときに、より価値があるのは、どちらであるか。 仮に死後があろうと無かろうと、私はその思考にこそ価値があると思うのです。

314h
質問者

お礼

パスカルは真実の神を信じることによって得られるであろうリターンを無限大と考えていると思うのでそれに比べたら生きている間に払うコストなど0に等しくないか?ということだと思うんです。 またパスカルの考えでは神に従って生きることは大体の人間において質を上げると考えていたのではないでしょうか。思考を促すので。 考える葦の文章に関してですが神とよみかえることはできません。 なぜならパスカルにとって神は慈悲深い方であり、他のものに言い換えることはできないと思うからです。 また彼は別の章で神なしにはそれらも全て虚しいと語っているはずです。 神を抜きにした場合彼にとって思考が最高という文章だと思います。 ですからそこに矛盾も存在しないと感じます。 私も人生に終わりがなければ思考こそ最高の価値を持つものだと思います。

回答No.12

 No.10です。  わたしの回答は 無神論者も 神を信じていると見るというものです。  信じたくないというのは そのあとで有神論かまたは無神論をえらぶ前の段階にあると見ます。それだけだという回答です。  一生信じたくないと言わばだだをこね続けたという場合もありましょうね。そして それだけだという見方です。  信じたくない理由は何か?  ひとつに 宗教つまり組織宗教とそこにおける教義〔のおしつけ〕がいやなのでしょう。  あるいは 生命をとうとぶはずのその宗教が ころしあいをおこない続けているといった実情もありましょう。  つまりは 宗教は 個人の信仰とはまったく別の社会現象であり 個人にとっても信仰とは別の心的現象です。なぜなら すでに触れましたが 教祖や教義やあるいは教団は 神ではないのに あたかも神であるかのように至上命令として個人に覆いかぶせられるからです。  でもそのくらいは 誰でも分かるはずです。ですから 信じたくないというのは 宗教とそのいくつかの組織が世の中にはびこっているからだと言っても 実際には個人として自分の内面においては 何かを信じているというのが ほんとうであろうという回答を寄せました。  つまりは 無神論の場合も 神を 無い神として じつは信じているのだという見方です。  この経験世界を超えた場というのは 必然的に人間にとって想定されて来るからです。  想定されたその非経験の領域に対して人は 否応なく 向き合う。そこで 有る神か無い神かどちらかとして 神を信じる。このように信仰が持たれている。と見ては いかがでしょう。

314h
質問者

お礼

神でない人が神の言葉と称して神であるかのように話すのがおかしいということですか。 ああ!ちょっと納得が行きましたよ。わかりやすい解説ありがとうございます。 結局超自然的なものは理解しえないので無神論者もいないと信じているに過ぎないということですね。 そういう観点で見れば確かに誰もが信じていますね。 ただそうであったとしても結局虚しさの問題は神を信じていない場合には残るんじゃないですか? また、パスカルの賭けから言っても信じたほうがいい気がするのですが。 あえて無宗教ではなく無神論を選ぶ心境が気になりますね。

314h
質問者

補足

書きわすれ ご回答ありがとうございました。

回答No.11

申し上げた様に 私自身は運命論者です そして 死の中にこそ人生の生の部分が集約されていると考える者です 死の中にこそ生の意味があるのだと考えます 以前私は(一年ほど前ですが)自宅の階段から転げ落ちたらしく 気がつくと血だらけでうつ伏せに倒れていました その時に思ったのです 死とは感覚の最終断末の事だと あのまま気がつかなければそれは 死 を意味しますものね 不意に気がついて ああーーこけたんだ と思いました 私はこんな死に方ならば大歓迎だと思いました 仏教では目で見たものさえ 感覚の産物といいます モノが無い以上 感覚が全てですが 私は気絶している間ずっと感覚の放浪者ではありませんでした 静かな静寂に包まれていたからです とても不思議な感覚でしたが 甘美でもありました 又 お目にか掛かりたく存じます

314h
質問者

お礼

そのような考え方もあるのですか。 死後の未知の世界に大して怖くないと感じられるのであればそういう生き方もいいのかもしれませんね。 新たな考えを示して下さりありがとうございました。

回答No.10

 ★(No.7補足欄)~~~~   無い神という表現がよくわからないですね。。。普通に神が居る居ないと何か違いがあるのですか? 出来ればもう少しわかりやすく新しい言葉を定義せずにお願いします。  ~~~~~~~~~  ☆ 神が居る居ない あるいはつまり 神が有る無い これは 神については 定まりません。この経験世界を超えているからです。  経験世界の範囲におさまるということは 有るか無いかのどちらかで表現し得ますし します。ですが この世界を超えた場では 人間の言葉としての有ると言っても無いと言っても 定まりません。ですから 仮りに或る人びとは《神はある》と言ったり また別の人びとは《神は無い》と言ったりします。どちらも 《神》のことをそう言っているのです。  人間の目では見えず心の目にも見えず 科学の目によっても見えません 神は。その神が あるか無いか 人間には決められません。だから 仮りに 有神論と無神論とのうち好きなほうをえらぶということです。  どちらも対等であり えらぶことは自由です。つまり どちらも 互いに同等です。  無神論は 無い神を信じている。あるいは 神は無いと信じている。あるいは 神を信じないというかたちで 神を神として位置づけている。ということです。    神は 人間の精神ではありません。経験世界を超えているのですから。したがって 観念でもありません。教義でもありません。教祖が神であるということもありません。

314h
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。

314h
質問者

補足

こんばんは 確かに存在の定義というものができませんね。 それと申し訳ないのですがやはり私の能力では貴方の文章を読解するまでには至らないようです。 いくつか端的に意見を述べさせて頂きますが、時間の無駄と思われた場合は補足への回答はしていただかなくて結構です。 無神論、有神論についてたくさん書いていただきありがたいのですが、それで結局神様を信じたくないない理由とは何でしょうか? 有る神、無い神の賭けとしても信じる方の期待値のほうが大きいとは思いますが。。。 また私が虚しさを感じる根源と考えている部分は死後の無限の無の時間によるものです。 パスカルを読んでいるという前提で話したのでみな同じような思いかと思いましたが定義すべきでしたね。

回答No.9

無神論者は、信仰心ゼロと言うよりも、既存の宗教の信仰心が全く無いだけであって、宗教心に関しては、「自分なりの信仰心」を持っている場合が多い気がします。 その「信仰心」とは、自分なりの神の存在の信仰だったり、科学や倫理と言う理屈の存在を絶対視していたりと、人それぞれ大きく異なります。 科学と信仰は全く違うように思えますが、科学的根拠を絶対視している人は、科学と言う名の信仰心を持っているに等しいと私は考えています。 そして、「神を信じない」 と言う思想は、神を信じきる行為に等しく強い意志がある気がします。 (どうでも良いと考えている人は、信じる信じない以前に無関心なだけ。) それはもはや、無神論というよりも「我流の無神教」に等しい信仰心だと思います。 そういう人は強い拘りを持っていますので、ピンチになっても神にすがったりはしません。それが彼らのアイデンティティでもあるからです。

314h
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。

314h
質問者

補足

無神論は無宗教と違い積極的に神がいないと主張する人達のことですよ。 それと宗教とは人間や自然の力を超えたことを扱う観念のことですよ。 ですから前半の部分は文章的に矛盾していると思います。 信じない人はどうしてパスカルの言う深い虚しさを抱えてまで宗教を信じないこと固執するのかということを聞いているのです。

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