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無神論かつ人生について考えた方へ質問

あまりの人生の虚しさに悲しくなって恐怖して何か神様を信じたいとは思わないのですか? その虚しさを背負ってまで神を信じたくない理由とは何でしょうか? 上の文の前提 回答者は人生の意味について深く考えた方。 回答者がパスカルのパンセを読んでいること。

みんなの回答

回答No.8

神の名のもとに虐殺を正当化したり、政治や経済を思い通りに進めようとする悪しき連中と距離を置きたいと思うちょります。 「あまりの人生の虚しさ」ってところが違うんでしょうな。 他人様が定義した神なぞ信じないし、そんな神を信じている人を遠ざけてきましたが、人生は極めて充実しておりますよ。 やがて終わりが来るのが悲しゅうて、悲しゅうて、、、。

314h
質問者

お礼

そう、その終わりが来る故に人生にとても深い虚しさを覚えてしまうということなんですよ。。。 ご回答ありがとうございました。

回答No.7

 こんにちは。  無神論は 神を《無い神》として表現しただけのことです。    それを忘れて むなしくなる場合というのは 神を抱いていても それを頭の中の観念の神とする場合に むなしくなる場合とおよそ等しいと思われます。  なぜなら どちらも 人間の感性や理性といった限りある能力とその努力ですべて思うように成るのだと考え違いをしているからです。  観念の神によって 何ごとも成すように成ると思い込んでいたわけでしょうし 無い神というじつは そのときには無神論という 観念の神によって 何ごともすべては人間の知るところとなると思い込んでいるということでしょう。  神は そして 無い神は 人間の精神ではなく 観念でもない。また おしえでもない。  パスカルの賭けは 有る神および無い神のいづれかに賭けると読み直したほうが よいでしょう。

314h
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。

314h
質問者

補足

無い神という表現がよくわからないですね。。。普通に神が居る居ないと何か違いがあるのですか? 出来ればもう少しわかりやすく新しい言葉を定義せずにお願いします。

回答No.6

先験的な価値を前提とするから虚しくなるのです。 確かに「全てのものは無機質な物体の運動である」と 思うと虚しい気がするが、そうした物質も全て自分の認識 において生じるものだと考えれば、意識の“所在なさ”は なくなる。 「自分(意識)の外に物質的環境があり、意識はその結果、 二次的に生じたものである」と考えると、その『外』に第一 原因が必要となり、また外的に従うべき権威や他律的 価値があるべきだと考えたくなる。 全ての存在は、量子的な不確定性=確率波動性に基づき、 無限に重ねると存在確率の山が平らになり、無と等しくなります。 この「絶対無=不確定性無限」において、その無限の闇に、 認識体の仮定断面の運動を想定すれば、相対的に無の風は 光になり、認識体はその光(量子相互作用パターン)の向うに、 自己の補完(相補的不確定性)としての宇宙を認識するのです。 自分(潜在的認識可能性=感受表面=現在)から、過去(経験= 時間的流れ=自我仮説)と未来(予測=空間的広がり=時空仮説) が相補的(不確定性原理)に対発生していると考える時、神も 不要で虚しくもない=自由(自らによりて)自在(自ら在る)。

314h
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。

314h
質問者

補足

物質だと思う虚しさではないんですよ。伝わりづらく申しわけない。 人生の終わりに待ち構えている無限の無にたいして人生が虚しく感じるわけです。 世界自体に虚しさを覚えているわけではなくむしろ世界(人生)だけをとってみればいいものだと思っていますよ。

回答No.5

人間ですから 生きていれば色々な事があるのが人生ですが 質問者様の二大前提は過去に既に終了致しました しかし 私は無神論者ですが この状態でも尚且つ神を信じないのには 理由なんかはありません 神は存在しないから信じる事が出来ないという全く単純な根拠です 貴方の言う 人生が虚しければ神を信じるのが当然と言う論拠が理解出来ません 私はどちらかと言うと ショーペンハウエル派では無く ヘーゲル派ですので 人生は楽しいものとの前提が性にあっています 礼賛派ですから厭世派の考え方は ただ単に会わないと考えているだけです 勿論私は運命論者です 運命の元に人生を投げ出さず 運命の元に人生を果敢に生きて行こうとするものです

314h
質問者

お礼

人生自体はいいものにもなると思っているのですがその後に待ち構えている無限の無と対比して怖くて虚しくなりませんかということです。 そうだとすれば正しい宗教を探そうとしてしまうのではないかと考えたのです。 それを知ってもなお虚しくないのであれば羨ましいものですね。私は虚しさを感じずにはいられません。 ご回答ありがとうございました。

noname#177363
noname#177363
回答No.4

20代の頃、つらいことがあって、できることなら出家して、山奥に庵でもあめたら…なんて思ったこともあります。でも、それってただの現実逃避でしかないと、すぐに気づきました。 >その虚しさを背負ってまで神を信じたくない理由とは何でしょうか? 「その虚しさ」って、「人生の虚しさ」ということですか? 考えようによっちゃ、人生虚しいことだらけです。でもそういう虚しさを感じるから、他人とのつながりや、自分が努力したことの結果に喜びや幸せも見いだせるというものです。虚しさや苦しみ、悩みをどう乗り越えるかが大切なのであって、そういうものがない人生の方が、人間として薄っぺらに感じます。 私は、別に神仏などにしがみつかなくても、人生の虚しさを一生背負っていく覚悟は、とうの昔にできています。 「神を信じたくない」と、能動的に思ってるわけではありません。でも、信じる気にもなりません。 聖書でしたっけ?「信じる者は救われる」というフレーズは。それでいいと思います。 世の中には胡散臭いものも含めて、星の数ほど宗教があります。どの宗教を信じるかは、人それぞれ、その人の自由です。ということは信じないのも自由ですよね。 「信じる」ということは自然発生的なもので、多くの無神論者は「信じたくない」わけではないと思います。 ちなみに私は歴史(特に西洋史)が好きなので、宗教のことは多くの日本人よりは少しは知っていると思います。元々宗教に帰依したことはありませんが、歴史の一ファクターとして考察し続けてるうちに、どんどん特定の宗教を信じる気になれなくなりました。 あと、パスカルは読んだことがないですが、一時ルソーに傾倒したので、その影響もあるかもしれません(少しですけどね)。

314h
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。

314h
質問者

補足

人生自体の虚しさと言うよりも死後の無限の時間の無を前にした時に人生の儚さと虚しさです。人生自体はいいものにも悪いものにもなると思っています。 無神論は神を積極的に否定するんですよね?無宗教と違いますよ。 確かに宗教者の振る舞いはどの宗教にしろろくなものでないですね。 ただそれは人間が本来悪いものであるから引き起こされるのであって、宗教自体はいいものである可能性もあると見ています。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.3

”あまりの人生の虚しさに悲しくなって恐怖して”   ↑ 悲しくもないし、恐怖もしません。 深く考えれば、必ず人生をむなしく思う、 なんてことはありません。 深く考えて、人生はいいなあ、と思うこと だってありますよ。 質問者さんは人間を特別な存在だと思い込んでいる のではないですか。 人間が特別な存在だとする科学的根拠など ありませんし、進化論はむしろ人間の特別性に 否定的です。 人間は動物です。 他の動物と同じに、ただ生き、ただ死ぬだけです。 考える葦は人間だけじゃありません。 猿でも考えることは報告されています。 人間は特別じゃないんですから、人間だけの神様 なんておかしくないですか。 ”神様を信じたいとは思わないのですか?”   ↑ あんな矛盾ばかりのおとぎ話を信じる、という のが理解できません。 頭がおかしいとしか思えません。 ”虚しさを背負ってまで神を信じたくない理由とは何でしょうか?”   ↑ 信じたくない、ではなく信じられない、あほらしいと いうことです。 信じている人は、どこかで思考を切断した人だと 思っています。 そもそもむなしいと思っていませんし。 秋がもの悲しくなったのは、そういう詩が 中国で創られた以後だと言われています。 人生がむなしくなったのは、パスカル以後かも 知れませんな。

314h
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。

314h
質問者

補足

あなたはパスカルを読んだのですよね? 人生とその後に来る無を一緒に考えても素晴らしいと思いますか? 私も部分的には矛盾があることは知っていますが、パスカルやキルケゴールといった精神的に素晴らしい、賢いと呼ばれた方が信じているのが不思議でならないのですよ。 私は常に自分より賢い存在がいると思っているのでそれらを信じる価値はもしかしたらあるのかなと思ったわけです。 秋の詩はただ個人が感じたことを書いているだけなのに対して、パスカルはっ死後の無限の無という無神論であれば事実で有ろうことに基づいて人間がかんじるであろうこと書いているので全く別だと思いますよ。

  • lv4u
  • ベストアンサー率27% (1862/6715)
回答No.2

>>回答者は人生の意味について深く考えた方。  回答者がパスカルのパンセを読んでいること。 人生を深く考えて、結論を出そうとすれば、妻と子供を捨て、親を捨て、王子である身分を捨てて、国を後に修行の旅に出て、答えを探そうとしたシッタルダのようになってしまう可能性があります。あるいは、滝壺に飛び込んで自殺するとか。 なので、大多数の人は、危ないことに近づかないのと同様に、深く考えませんよ。

314h
質問者

お礼

そうなんですかね。。。 ご回答ありがとうございました。

  • yasuto07
  • ベストアンサー率12% (1344/10625)
回答No.1

どっちでも良いのでは?。 虚しさを背負って、、、、皆普通に暮らしているし、 今日事故、病気で死なない限り、アシタガクルだけの話でしょう。 難しく考えすぎだよ、力を抜きなよ。

314h
質問者

お礼

普通に暮らし続けられるなら問題ないのですがいつか終わりが来ますからそれを想像すると深い虚しさを感じるのですよ。 ご回答ありがとうございました。

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