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パスカル『パンセ』のキリスト教推しについて
- パスカルの『パンセ』を読んだキリスト教徒でない人の感想や批判についてまとめます。
- 『パンセ』はキリスト教色が強く、他の宗教を攻撃する点に不快感を抱く人もいます。
- 読者の宗教観や信念によって、『パンセ』の評価は分かれるかもしれません。
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質問者が選んだベストアンサー
パスカルの「パンセ」はキリスト教の神義論とか弁神論といわれる本で、キリスト教の神の信仰を擁護するために書かれたものです。 宗教改革後のフランスのカトリックはジュスイット派とか、ヤンセン派などに別れ、パスカルはそのヤンセン派に属しました。 ジュスイット派はデカルトが有名です。 たしかジュスイット派はイグナチウス・ロヨラによって結成されたイエズス会、その同僚にフランシスコ・ザビエルがいますが、その流れにあるものだと思います。 ジュスイット派は合理的、オプティミズムが特色とすれば、ヤンセン派は神秘的、ペシミズムを特色とします。 「パンセ」の前半は人間がいかに悲惨であるか、いかに小さなものでしかないか、そのことを繰り返し、繰り返し、述べています。 人間が悲惨であれば悲惨であるほど、また人間が小さな存在であればあるほど、神の偉大さが際立ちます。 日本人から見て、いちばん面白い部分が、その前半にあり、後半はもっぱら神の偉大さ、神の無限であること、完全であることの論証に費やされており、その神を信仰すれば人間はその悲惨さから、小ささから解放されて、救われる、と言っているので、神の信仰のない日本人からするとシラケるところです。 なーんだ、これはキリスト教の信仰を勧めるパンフレットか、宣伝のためか、と思ってしまいます。 私も昔、「パンセ」をよく読みましたが、読んだのは前半だけ、後半は無視でした。 たぶん、私に限らず、あなたも、そしてほとんどの日本人は前半しか読まないと思います。 キリスト教の神なんかには関心がないから。 むしろ、古代ローマのストア派のペシミズムと同じようなことを言った無神論者のモンテーニュの方に日本人は共感を持つと思います。 たぶん、パスカルはヤンセン派の考えを代表して、ジュスイット派のデカルトの合理主義、オプティミズムを攻撃するために「パンセ」を書いたのだと思います。 それともう一つ、モンテーニュのストア主義、無神論に対して反論するために。 それと、これはボルケナウの「封建的世界像から、市民的世界像へ」という思想史で述べているようにパスカルが、封建制から近代の市民社会と資本制社会に移行する、その分岐点にあって、市民的世界観に基づく人間観を作ったことです。 孤独、孤立、自我中心、共同体が失われただ神ひとりとつながっている、地縁・血縁が失われる、人間と人間の絆が失われる、人間は宇宙の孤児である、人間は宇宙と比べれば小さな存在に過ぎないが、考えるということでは宇宙よりも偉大である、人間は自然を支配し、自然を改造できる、・・・・・・・そのような近代の人間観を作るうえでパスカルは貢献しました。 パスカルが意図しなかったものだけど、パスカルがそれを作りました。 私たちがパスカルの「パンセ」を読んで、日本人であるにもかかわらず、その前半を読んで感銘を受け、共感するのはパスカルが、近代の人間観を提示しているからです。
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- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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No.3ですが その回答は 次の質問者のコメントについて考えてみたものです。 ★★(No.2お礼欄) 近代までは、「人間はちっぽけだが考える事は偉大である」「だから考えれば自然を従わせることができる」という考え方はなかったのですね。これをパスカルが示したのですね。 ☆ (あ) 《人間は 自然の中でもっともよわい葦にしか過ぎない。けれどもそれは 考える葦である》というとき そのように捉える方向性は確かにあるのかも知れません。 (い) ただし たとえば《運命にさからい 運命をも変える》と言い出したのは――その昔のさらに昔の古代ギリシャ悲劇の時代はいざ知らず―― ルネサンス期のマキャベリだったと言われています。 (う) 孤独から自然を支配し自然を改造することへとその思いや意志が向かうというのは 短絡過ぎます。 (え) 孤独をそのまま明らかに見ることが出来ずに孤立の状態にあってそこから抜け出したいという焦燥から 生活におけるいわゆるふつうにまじめな勤勉をさらに自己目的化するかのように 勤勉主義とすること すなわちいわゆるガリ勉志向に落ち入ること このことは 歴史的にあったのかも知れないとしてもです。――それは M.ヱーバーが 一部の真実を明らかにするかたちで やりました。 (お) 《自然を従わせること》は パスカルがあやまって読まれた結果であるとしたら そのことを重ねて確認することは大事だと思われました。 (か) ヱーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』にまでかかわるとしたら パスカルにおける《キリスト教推し》ともつながっているかも知れず くどくどと述べました。
お礼
ご回答ありがとうございました。 ごめんなさい、あなたの日本語が理解力の足りない私にはとても読みづらく、よくわかりませんでした。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
No.1です。クリスチアニズムのオシエについては あまり見るべきものがないという見方が ほかの側面におけるパスカルの評価に――現在のわたしの内で 不当に――優っていました。その点で おぎないます。 ボルケナウは その著『封建的世界像から市民的世界像へ』の最終・第八章を パスカルの議論に当てているが その最後に・すなわち書物全体の最後に こう述べている。: かれ(パスカル)はその時代ではついに孤独の存在におわった。生きる とは その時代にあっては 見まいとすることであるから。そして生きる と見るとがふたたび統一されるのは 歴史主義が――哲学の分野でパスカ ルをのりこえて踏みはだれた(=ママ。《踏み出された》か)根本的には 唯一のこの前進が――弁証法をわがものとし またその弁証法によって矛 盾を脱却しうる道をさししめすときからである。そしてその道とは 思考 によって生活を解釈しなおし ないしは思考によって 生活の不満を訴え るかわり 生活そのものを変更するということである。 (F.ボルケナウ:『封建的世界像から市民的世界像へ』§8・4 水田洋,花田圭介,矢崎光圀,栗本勤,竹内良知訳 2004 p.673) パスカルについて ひとつ 言えることは かれは のちにヤンセン派の人びとと立ち場を同じくし かれらからは 自分の思想がアウグスティヌスのと同じであると 褒められもしたのであるが パスカルは 哲学から入った すなわち エピクテートスとモンテーニュとを学ぶことをとおして アウグスティヌスのならその思想と同じものを抱くに到った ゆえにパスカルは アウグスティヌスに対しては 自分の独創性を主張することができた この点である。 だから パスカルは たとえばいまの国家観の問題でも アウグスティヌスと同じ考え方をしていても ほとんど そうは言わない。しかも 両者がもし 同じ思想を持つことがあったとした場合 それは 必ずしも ボルケナウの言うように《国家は悪の生活に集団的秩序をもたらすための道具である》という論点に 要約されないであろう。付随的な一帰結にそれがあったとしても それは 問題の中心には来ない。 問題の中心は ボルケナウが次のように批評するところの一観点のほうが 有効ではないか。 パスカルはその時代ではついに孤独の存在に終わった。 しかもこれは うそである。 《その時代では》という条件をつけても うそだと言わなければならない。そして――そして―― 《実定主義国家学説》の徒としてのパスカルならば それは ほんとうであるだろう。そして――さらにそして―― わたしは パスカルは かれの人間学基礎をもってしてならば その自然法主体に――つまり 人が人であることに――孤独はないのだから 《孤独の存在に終わ》りはしなかったと言う。ここでは この限りで 国家論と人間学基礎とが みっせつにかかわりあう。 つまり 時代総体としての出発点ということになる。 わたしは 想像の世界に遊ぼうとは思わないし 抽象的な議論で終わらせたくないので まずは ひるがえるならばただちに 孤独であっても よいと言う。すなわち そして 人は 社会習慣の領域で 孤立するかも知れない。なぜなら つまり 孤立した人びとが 孤独者をも 孤立していると見るはずだ。しかし もはや かれは ひとりではない このことを 最初の〈序(その一・二・三)〉の議論を受けて 言い 明らかにすることにつとめよう。 わたしは わたしひとりであるゆえに ひとりではない と言ったのだ。自然法主体の主観動態は 少なくとも論理的に こうであるほかない。そして――まだ論証していないのだが―― これが 社会経験の生活領域でも 出発が開始され(そしてこのとき むろん なんらかの法治社会として 人定法が持たれていて いっこうに 構わないわけだが) ゆきわたっていくならば つまりもう一度繰り返すと 自然法主体の主観動態が 社会習慣の領域でも ゆきわたった動きを見せるなら 大地は すこやかである。ひとりであって ひとりではないからである。 わたしは 神話を説く趣味はないから これを これだけで 主要な議論としたい。論理的な証明をおこなおうとすることさえ それが成功しても なんらかの神話をつくり勝ちなのである。ボルケナウに反を唱えた すなわち かれの到達点としての新しい生活態度はこれを受容し 他方で その生活態度の観点から言って ボルケナウが パスカルは 《孤独の存在に終わる》ひとりの人間としてのみ その時代では 実践し生きたと見ることに反を唱えること これだけで まずは じゅうぶんだと考えたい。 わたしは独りであると言うとすれば そのように誰もが同じく言うことになるのだから 孤独はつねに孤独関係としてある。つまりは 孤立ではない。 そのつてでは こう言おう。孤独の人パスカルの主観動態がゆきわたった世界は その大地(つまり社会習慣)が すこやかであると。パスカルの手は じつにうつくしいと。(これは ただし 形容だけのことばである。)
お礼
ご回答ありがとうございます。 ごめんなさい、私の理解力が足りないため、何をおっしゃっているのかよくわかりませんでした。
- 畑 茂夫(@Flareon)
- ベストアンサー率28% (459/1605)
まさかと思うが、受験戦争時代の高校で習う事を大学に入学できても知らないわけないよな。 思想や哲学は、立脚する自らの立場を、自らの神への見解や、人間の本質に関する定義として語る伝統があった。 その起点から初めて、さらに宗教を掘り下げるのは特に違和感が無い。 科学(自然科学)が文明の最先端の思想である現代と違って、宗教がその役目を担っていた古代に発祥したのが哲学という学問だ。 神学と未分化のまま哲学する事は、よくあることだし、筆者の性格であり、読者との相性だ。 君はその点に素朴疑問をうまく自分の言葉で語った点について、君自身自分の考える事を哲学出来ているよ。 君の感じる反感も、君自身の神への見解に由来する。 神学と未分化なのだよ。
お礼
ご回答ありがとうございます。 私は自分の思いを言葉で表現したということで、哲学している、ということでしょうか? ありがとうございます。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
こんにちは。 1. パスカルの味方をしてみます。 2. 『パンセ』は それほどおもしろいとは思いませんでした。丸木橋のかかった橋をはさんで向こうからも人がやってくる。だが こちらは独りのところを あちらはお伴の人びとを従えている。だとしたら 雇用を図って社会に貢献している。ここは こちらが折れよう 相手を先に通そうと決めるという話は おぼえています。 3. いま問題は 抹香臭い説教のような話の前に 信仰についての議論があったと思います。要するに 神を信じるをえらぶかどうかは 賭けのようなものだと。これは いわゆる組織宗教とは一線を画しているとは考えます。神を信じたくない場合には 信じないをえらべばよいと言っているのだからです。 4. その上で あくまでシュウキョウとしての: ★ キリスト教推しが「超うざく」感じられました。 ☆ という話題がつらなっている。 5. つまりは こういうことです。もし神を信じないをえらんだ場合には――と言っても 細かく言えば・そしてとどのつまりはそれは 《信じないと信じた または 無い神を信じた》ことに論理上は成るのですが―― この神を信じるをえらんだ場合の《信仰の広告宣伝》とけっきょく同じような《無神論の顕揚》なるキャンペーンが 反対側では おこなわれることもあるわけです。 6. そういうふうに両極を見て捉えて 中道にわたしたちは留まればよいのではないか。それだけのことではないか。 7. たしかブレーズくんの場合には その姪でしたかが 目が見えなかったところ信仰によって直ったという体験があるので――その因果関係は 分からないながら・また分からないからこそ オシエとしてのではなく心にやどる神( Dieu au coeur )として―― イエス・キリストないし聖書の味方をしたのではないかとも思われます。 8. 《反面教師》として捉えればよいのではないでしょうか。ピレネーの山々を越えれば また別のナラハシがあるかも知れないので。
お礼
ご回答ありがとうございます。 1~3、5~6はすんなり理解できました。
お礼
ご回答ありがとうございます。 『パンセ』が書かれた意図がよくわかりました。初めて知ったことも多くあり、ありがとうございます。 >私も昔、「パンセ」をよく読みましたが、読んだのは前半だけ、後半は無視でした。 たぶん、私に限らず、あなたも、そしてほとんどの日本人は前半しか読まないと思います。 そうなのですね。私だけではないようで、安心しました。 近代までは、「人間はちっぽけだが考える事は偉大である」「だから考えれば自然を従わせることができる」という考え方はなかったのですね。これをパスカルが示したのですね。 勉強になりました。