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無神論とは何か?無神論者に質問します。
- 無神論とは、神の存在を否定する立場を指します。
- 佛教は無神論と似ており、物事を釈尊の教えに従って見る考え方です。
- 無神論者は、今現在が重要であり、死や物質の価値を否定する傾向があります。
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>1 今現在が良ければよい 今現在が悪ければだめだ。 >2 老病死は無価値で無意味なもの 生老病死は四苦としての意味がある。 >3 死ねば物質と捉える 生きていても物質であるが、なにか? >4 損得 役に立つか立たないないか 科学的に判断する 損得 役に立つか立たないないか 経済的に判断します。 >5 死ねば最終的には諦めていく 生きているうちに諦念しなくちゃ。 >6 仏教では0(ゼロ)無もいのちの根本と見ますが、無は無意味無価値なものと捉える 無は無意味とちゃいますよ。
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- hekiyu
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本来の仏教に、神はいません。 神に頼れないから、人間が修行して悟りを開こう というのが仏教です。 それはともかく、ワタシは無神論者です。 客観的事実として、あんな都合の良い矛盾だらけの 神など存在しない、と考えているからです。 神が存在するのは、人間の脳の中だけです、つまり 概念です。 しかし、そんなワタシでも宗教の有用性は 認めます。 1,善悪を教えるのは宗教です。 道徳教育では道徳は教えることが出来ません。 新渡戸稲造の武士道にあります。 「お国では、宗教教育をしていないと訊きましたが 本当ですか?」 「本当です」 「おお! それでどうやって、子供達に道徳を 教えることが出来るのでしょうか」 2,神の存在は食物連鎖の頂点に立つ人間を謙虚にします。 3,死の恐怖を緩和出来ます。 4,人間に宗教的感情が失われたら、家族の遺体も 生ゴミと化すでしょう。 そんな世界は背筋が凍ります。
- drum_KT
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私は無神論者です。文章のどの部分が質問なのかはっきりしないのですが、思うところを少し書きます。 無神論者ではありますが、宗教の教えを否定するものではありません。実際、父母の死に接した際に寺の住職に伺った話などは、そのまま信じはしませんが(例えば、成仏という概念など)、死んだ者に思いを馳せ、自分の心を慰め、感謝の心を持って日常を取り戻していく過程として非常にありがたかったです。こういった部分や、あるいは、道徳や規律の根拠として、信じている神がそう言っているからという理由づけは、人間の知恵としてあってもよいと思います。 葬儀や○日法要というような儀式についても同様です。与えられたスケジュールにしたがって忙しく儀式をこなすということが、身内を失ったショックを緩和して自分を立ち直らせる効果があったと実感していますので。これらのことをある意味強制してくれる寺などの存在がなければ、自力で立ち直っていくことが難しい人も多いのではないかと思います。 ただ、宗教は時に、宗派間の争いの種にもなります。そこが人間の浅はかなところだと思いますし、自分自身が無神論者でいる理由でもあります。 ということで、死はけして無価値なものとは思いません。少なくとも、身内や親しい者の心に深い動揺を生み、彼らが自分のあり様を見直す契機になることは間違いないと思います。また、私の場合、亡くなった両親や友人のことを突然ふと思い出すことがあり、そのことでその時々の悩みや迷いの答えが見つかって助けられたりなど、死んだ者の影響を間違いなく受けています。ただ、それを私は宗教とは結びつけて考えないというだけの話です。
- koosaka
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仏教には、神がいない代わり、仏(ほとけ)がいます。 そしてキリスト教の「GOD」は中国・日本でいう神とは違います。 神は中国語であり、日本語です。 西欧には、当然ですが、「神」という言葉はありません。 そのGODを19世紀の初め、キリシタン宣教師モリソンが「聖書」を中国語に翻訳するときに、「上帝」と訳すべきか、「神」と訳すべきか迷いました。 「上帝」と訳すと、中国の皇帝を「天子」と言っていたので、その「天子」の上にあるものと考えられて弾圧されるかもしれないし、神と訳すと、すでに中国語に神という言葉があり、ひじょうに紛らわしい。 そして迷いに迷って、仕方なく、神と訳しました。 中国で神というと、西方かなたの蓬莱山にいる仙人のことを意味し、また儒教では古代の伝説の帝王を「聖人」とか「神」と言っていました。 また、日本では「八百万の神々」といって、それは自然神を意味しました。 川や、山や、岩や、樹木などを神と言っていました。 以上のことを考えると仏教は無神論に似ているけど、「無仏論」ではないと思います。 しかも、西欧では、「無神論」ではなく、「無GOD論」だと思います。 なぜって、神という言葉はすでに申し上げましたように中国語・日本語だからです。 そしてあなたは「仏教は元来葬儀とは関係ありませんでした・・・・・」と言っていますが、日本では元来仏教は葬儀として入ってきました。 葬式仏教として。 古代の日本では、人が死ぬと死体を野山に捨てに行き、「鳥葬」といって、鳥などに食べさせていました。 でも、それだと死者に祟られるような気がして、心配だったので、中国から仏教を導入し、僧侶にお経をあげてもらうと死者の魂を鎮めてくれ、生者に祟ることがない、それで安心して寝られると思われたのです。 このように日本仏教は「葬式仏教」として始まったのです。 そして江戸時代に徳川幕府はキリシタン禁教令を出し、農民・町民をキリスト教に走らないように「檀家制度」を作りました。 それまでは、家族のものはそれぞれ別の宗教を信じていましたが、「檀家制度」を作ることによって、一つの家族とその末裔は、すべて一つの宗教・宗派に属すことになりました。 ところが、戦後「家制度」が崩壊し、個人個人が別々に墓を作ることが始まりました。 欧米と同じように。 そして私は日本人ですから、西欧の神を信仰しておらず、また仏教の「仏」も信仰しておらず、日本の自然神を信じておりますので、その立場から、あなたの質問に回答しようと思います。 (1)今、現在が良ければいいとは思っていません。 ・・・・・・日本の固有信仰である「祖先崇拝」を信じていますので、先祖と子孫を気にかけています。 (2)老病死を無価値で無意味とは思っていません。 ・・・・・この命は先祖から授かったもの、子孫に残して行く義務がありますから、無価値・無意味と言ったら、罰が当たります。 (3)死ねば自然に帰る、と思っています。物質とは捉えていません。 (4)損得とか、科学的に判断していません。 (5)死ねば最終的に諦めたりしません。自然に帰り、祖先に会えると思っていますから。特に亡くなった両親に。 (6)仏教のように無は無価値とは考えません。 死んだからと言って、無にはならないし、自然に帰り、自然として生き続けると思っていますから。
- tzd78886
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生も死もすべては物質の流れにすぎません。私の体を構成している原子の何一つとして生まれた時と同じものは無いし、そういう視点に立ってみれば生まれた時の私、小学生の時の私、10年前の私と今の私は同一人物ではありません。入れ替わりが少しずつ行われているために記憶や顔かたちが受け継がれているだけです。 何千年も生きると言われる木もありますが、芯の方はもはや生命活動はしていません。表面の方に引き継がれているのです。 こういう考えを宗教と呼ぶのかどうかの判断はあなたにお任せします。
無神論では無く「無宗派」です 「神は我が心に有り」です
- MuntiBBA001
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無神論の人の大半は、興味がないということなのではないかと思います。 もし神がいたとしても、 おそらくどうでもいいことだと思いま。(私はそう思っています。) 死ぬまで生きるだけ。そう思って毎日過ごしていると思います。 終わった先がどうなるかなど考えることもありません。
- nekosuke16
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言葉足らずで、追記します。 よって、生かされているという前提に立った上で、「神仏を尊び、神仏を頼まず」という武蔵の言葉を支持しますね。
- nekosuke16
- ベストアンサー率24% (903/3668)
宮本武蔵の言葉に「我、神仏を尊び、神仏を頼まず」というものがあります。 地球上に生命が誕生し、やがて、進化の過程で、霊長類の中からヒトが誕生する。 しかし、こうした説は、キリスト教を初めとする一神教にある全知全能の神こそが世界の創造主であるという教義自体を根底から否定した。 仏教の本質は、宗教というよりも、自らの修行をもって解脱を体得するという実践哲学に近いものであり、そこには、本来、神など存在しない。 私は、無神論者ではありますが、そもそも、神の存在を認めないというよりも、人間も地球上に誕生した生き物の一種でしかないという考え方ですかね。 この世に生まれ、そして、死ぬ。 ただ、それだけのことですね。