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哲学における“霊”の仮説

(1) “霊”は既成の自然法則に適っていないから、その実在について論理・仮説立てはできないと言えますか。 (2) また、“霊”は定義が定まらないので、その実在について論考するに値しないと言えますか。

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回答No.4

 こんにちは。  (1):“霊”は既成の自然法則に適っていないから、その実在について論理・仮説立てはできないと言えますか。  ☆ 《既成の自然法則に適っていない》ので それは単純に《この経験世界を超えたもの》となります。つまりは それは《有るか無いかが分からない》のですから そのように《非経験の場ないしハタラキ》として《想定する》ことになります。  (2):また、“霊”は定義が定まらないので、その実在について論考するに値しないと言えますか。  ☆ いいえ。上に想定したところから その限りで きちんと定義しておけます。  想定上 《非経験・絶対・無限》の領域を言うわけです。つまり《神》であり――それを《無い神》と言ってもよく―― それは《人間の能力にとって分かるか分からないかが分からないもの》です。  次は たましい・こころと並べて 定義したものです。  A たましい:   (1) 身体組織としての感性    (2) こころ    (3) 霊  B こころ:   (1) 感覚を意識し 認識すること。また 認識した内容。    (2) いっさいの認識をもとにして 自己および他者あるいは世界に相い対するとき人間存在に生じるはたらき。       これは 好悪の感情や喜怒哀楽の気持ちであったり こころ差し(志)であったり あるいは要するに 《わたし》という意識そのものであったりする。   (3) さらには たましいが霊としても捉えられる場合と同じこころがある。       これは 肉(つまりこの場合 精神および身体を言う)をあたかも超えて伸び広がるかに思われるところがある。→《信じる》  C 信じる(信仰):    非経験〔についての〕思考のこと。経験思考に非ざること。    または 表象しえぬものをわざわざ思うこと。ただしその表象し得ぬものをも 言葉などその代理によって表象すると主張することがある。    あるいは 絶対とわれとの関係。→《絶対》  D 絶対:    そういう想定である。経験的な相対世界を超えたところと規定し想定する。思考を超えている。  《考える》を超えるこころのはたらきは 《信じる》と呼ばれる。  それは 有神論と無神論とに分かれる。どちらも 互いに同等である。信仰であり その形態が 有神と無神とで分かれるのみ。つまり《神がある》と言うのも《神がない》と言うのも ともに《信じる》の領域を捉えて言おうとしている。なぜなら 《絶対者》は表象しえぬゆえ。  E 肉:   (1)身体    (2)身体および精神 すなわち 経験的な存在の全体  F 精神:    こころのこと。特にこころの(2)のはたらきとして 基本的に 記憶・知解・意志の三つの行為能力を言う。   ( a ) 記憶行為:     精神の秩序。感性内容を意識し記憶する。意識内容を知解行為が加工したものをも記憶する。     その組織・その過程。     先験的に 存在じたい もしくは その自然本性じたいの秩序を司ると思われる。   ( b ) 知解行為:     記憶組織という宝庫から ものごとを捉えて認識し さらにあらたな整合性をもった認識内容につくる。   ( c ) 意志(愛):     大きく広く 直接的にせよ間接的にせよ 記憶および知解を行為するときに すでにそれらを促すように発動していると思われる。     知解行為の結果から取捨選択しその内容を みづからの意志(おもむくところ)として判断し決定する。実行にも及ぶ。   G 三一性( trinity ):    これら記憶・知解および意志の三能力行為は 経験的・時間的な行為を成し 他者のそれらと 社会的な関係をむすぶ。    このとき 時間的な隔たりを持って 三行為はけっきょくのところ 一体性を有すると考えられる。    社会形態(一般に国家)にあっては順番に 司法・立法および行政という役割にそれぞれ相当する。  H 三位一体( Trinity ):    これは 《絶対》という表象しえぬものを 人間のことばという代理物で 仮りに表象し仮りに表現しようとしたもの。    ・記憶能力が 父なる神。光のたとえとして 光源。    ・そこから生まれる知解行為が 子なる神。光の発耀。    ・それら両者から発出するかのような意志行為が 聖霊なる神。光の持つ明・暖。    絶対の領域では とうぜんながら 三つのものは 一体である。    三つのそれぞれの個は全体と 全体は各個と 各個は各個と それぞれ等しい。無限の半分も無限であり 三分の一もやはり無限である。  I 霊:    《絶対》ないし《絶対者》のこと。  J 《イエスはキリストである》:    霊なる神が 肉(精神および身体)になった。という物語。  K 人間:    このキリスト・イエスつまり 《かみでありひとである存在》に似る存在者である。    それは 霊なる神を分有するというかたちだとされる。    《絶対》によってあたかも指先でのように触れられている。あたかもこころの明けまた伸びとして窓が開かれている。これを《分有する》という。  L 《人間は神の似像(にすがた)である》:    三位一体なる神のはなはだ不類似にしていくらかは類似する三一性をそなえた人間をいう。    この人間は 神にかたどって造られたと表現された。    一定の社会形態(国家)も 三権の分立かつ協業というかたちで一種の三一性を有し 似姿の様相を呈している。      M 生命:     これは 以上のすべてを言うものか?

jjojoe
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その他の回答 (4)

noname#155457
noname#155457
回答No.5

唯物論を支持する限りその通りだと思います。 哲学ではこの世の存在について二つの考え方があります。 (1)人間は微生物から進化して人間になった。(一般的・科学的)これを唯物論といいます。 この考えに立つと死後はありません。無になります。 ロボットの電源を切ったのと同じです。死後の世界はありません。死後の世界がなければ霊の世界もありません。 (2)この世界は幻の世界である。(宗教・仏教・キリスト教)これを唯神論といいます。 この考えに立つと死後はあります。そこはこの人間の世界の幻が覚めた世界です。それを霊界といいます。もちろん霊たちが住んでいます。

jjojoe
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  • alterd1953
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回答No.3

 論考する価値は充分にあると思います。 特に「霊」という概念が何故生まれたか 非常に興味があります。  何か発見されたら是非教えてください。 因みに原初の人間が「雷」「地震」「台風」 「日食」等に接して「神」の概念を作り出したのは 想像に難くありません。

jjojoe
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  • shift-2007
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回答No.2

心という実在がないものをよりどころにして日々考察しているのだから、対象物の実在など哲学にとってはあまり意味はないでしょう。 実在がなくても神について考え、実在がなくても愛について考えることは通常業務です。

jjojoe
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回答No.1

(1)霊の存在を既成の自然法則に則って証明は出来ないが、    霊の存在が既成の自然法則に反するとまでは言えない。    従って、その実在について論理・仮説立ては、想像の    産物としていくらでも打ち出す事が出来る。 (2)「この定義とすれば」という前提の下に、興味ある人は    論考すれば良い。論考するに値するか否かは単なる    価値観の違いだから、それを問題にする意味は無い。  

jjojoe
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